推しの心臓、我が家の1LDKにあり
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窓の外では、細かな粉雪が街の灯りに照らされ、音もなく夜の闇に吸い込まれていた。 室内は、床暖房の柔らかな熱と、ナマエが淹れたアッサムティーの甘い香りに満ちている。
独立後の事業が軌道に乗り、社会的地位も手に入れたエルヴィンだったが、彼の心の中には、ずっと手付かずのまま残されている空白があった。それは、リビングの本棚に並ぶ背表紙であり、テレビの向こう側に封じ込められた、彼自身の「前世」という名の地獄だ。
「……ナマエ」
ソファに隣り合って座り、仕事の資料に目を通していたエルヴィンが、静かに口を開いた。 その声はいつもより低く、どこか覚悟を決めたような響きを含んでいた。
「……あれを、見せてほしい。最後まで」
ナマエの手が止まる。彼が何を指しているのか、説明は不要だった。 これまで彼は、本棚の漫画や動画配信サイトの画面から、無意識に、あるいは意図的に目を逸らしてきた。自分という存在が「物語」であることを認めつつも、その結末——自らの凄惨な死と、あとに残した者たちの運命——を直視する勇気は、英雄と呼ばれた彼をもってしても、なかなか持てずにいたのだ。
「……本当に、いいの? 辛かったら、いつでも止めていいんだよ」
「ああ。避けては通れない道だ。私が今、ここで君と生きていることの意味を……。それを知るために、私は私自身の最期を見届ける必要がある」
ナマエは震える手でリモコンを操作した。 やがて、画面の中には、かつてのエルヴィンがいた世界が映し出される。
最初は、客観的だった。 若かりし日の自分。厳しい規律。壁の中の閉塞感。
「……こんな顔をしていたな。常に何かを疑い、何かに飢えていた」
彼は、画面の中の自分を有能な駒を見るような目で見つめていた。
だが、物語が進むにつれ、彼の口数は減っていった。 次々と死んでいく部下たち。理不尽な選択。彼が下した決断によって、幾千もの命が露のように消えていく。そのたびに、ソファに置かれたエルヴィンの大きな拳が、白くなるほど強く握りしめられた。
そして—— シガンシナ区、獣の巨人との死闘。 画面の中の彼は、地下室という個人の夢」捨て、新兵たちと共に死の雨の中へと突撃する。
『兵士よ、怒れ! 兵士よ、叫べ! 兵士よ、戦え!』
咆哮と共に、礫に貫かれ、馬から転落する姿。ナマエは隣に座る彼の肩が、目に見えて震え始めたのに気づいた。
やがて、物語は彼の「死」を描き出す。 屋上で、リヴァイが注射器を手にし、アルミンを救うことを選ぶ。 安らかな眠りについた、アニメの中のエルヴィン・スミス。
画面が暗転し、エンディングの曲が流れ始めた。 室内を支配したのは、あまりに重苦しく、それでいて清冽な静寂だった。
「……私は」
エルヴィンの声が、掠れている。
「……私は、こんなにも多くの命を。……私の、たった一つの、子供じみた夢の代償に……」
言葉が続かない。 碧い瞳から、一筋の涙が頬を伝い、彼のスーツの膝の上に落ちた。 嗚咽はない。ただ、堰を切ったように、涙だけが止まらない。 それは、かつて「団長」という鎧を着ていた時には決して流すことが許されなかった、一人の男としての、あまりに純粋な慟哭だった。
「……私は、死ぬことでしか、自分の罪を贖えなかった。死ぬことでしか、彼らへの誠実さを証明できなかった。……なのに、なぜ私は、今ここで息をしている?」
彼は顔を覆い、深く、震える呼吸を繰り返した。
「なぜ私だけが、こんな温かい部屋で、君のような愛しい人に寄り添われ、幸福を享受しているんだ……。これは、裏切りではないのか……?」
ナマエは、何も言わず、彼の大きな体を横から抱きしめた。 彼の体は、凍えるように冷たくなっていた。 ナマエは自分の体温をすべて分け与えるように、彼の胸に顔を押し当て、力強く呟いた。
「裏切りじゃないよ。……エルヴィン。あなたが死ぬことで証明したものは、ちゃんとあの世界に残ってる。……でも、ここは違う世界なの。あなたが英雄として死ぬ必要のない、ただのエルヴィンとして生きていい世界なんだよ」
ナマエは、彼の涙を指先でそっと拭った。
「誰もあなたを責めない。……もし誰かが責めるなら、私がその罪を一緒に背負う。あなたが死んで欲しかったと願う人がいるなら、私が、あなたが生きていてくれて嬉しいって、一生叫び続けるから」
エルヴィンは、ナマエの瞳の中に宿る、揺るぎない愛の炎を見つめた。 彼女は「物語」の読者でありながら、その結末を拒絶し、目の前にいる「生身の彼」を選んでくれた。 その事実が、彼の凍りついた魂を、ゆっくりと解かしていく。
「……ナマエ。君は、救いだな」
エルヴィンは、初めて自分から彼女に深く寄りかかった。
「……俺は、もう進まなくていいんだな。誰の先頭にも立たず、誰の命も背負わず。ただ、君という一人の女性のために、今日を生き、明日を待つ。……それが許されるのだな」
「うん。……ずっと、そう言ってほしかった」
エルヴィンは、ナマエの手を取り、その掌に深く口づけをした。 そして、決心したように、彼女の唇を求めた。
今までのどのキスよりも、熱く、切実で、そして深い慈愛に満ちたもの。 それは、過去の自分への決別であり、この現代社会でナマエと共に生きるという、彼の人生で最も「私的」な契約だった。
「……愛している、ナマエ。……俺の人生は、君に捧げる」
彼は、彼女を抱き上げ、寝室へと向かった。 開かれたドアの向こう側には、冷たい戦場も、巨人の影もない。 ただ、二人が積み重ねてきた、温かな愛の続きが待っている。
その夜、エルヴィンは初めて、自らの意志で幸福になることを自分に許した。 シーツの下で重なり合う肌の熱、混じり合う吐息。 それらすべてが、彼がもたらしたどの勝利よりも鮮やかに、彼が「生きている」ことを証明していた。
暗闇の中、エルヴィンはナマエを腕の中に閉じ込め、静かに眠りについた。 もう、夢の中に死者たちが現れることはない。 隣で眠る最愛の人の寝息こそが、彼にとっての新しい、唯一の真実なのだから。
独立後の事業が軌道に乗り、社会的地位も手に入れたエルヴィンだったが、彼の心の中には、ずっと手付かずのまま残されている空白があった。それは、リビングの本棚に並ぶ背表紙であり、テレビの向こう側に封じ込められた、彼自身の「前世」という名の地獄だ。
「……ナマエ」
ソファに隣り合って座り、仕事の資料に目を通していたエルヴィンが、静かに口を開いた。 その声はいつもより低く、どこか覚悟を決めたような響きを含んでいた。
「……あれを、見せてほしい。最後まで」
ナマエの手が止まる。彼が何を指しているのか、説明は不要だった。 これまで彼は、本棚の漫画や動画配信サイトの画面から、無意識に、あるいは意図的に目を逸らしてきた。自分という存在が「物語」であることを認めつつも、その結末——自らの凄惨な死と、あとに残した者たちの運命——を直視する勇気は、英雄と呼ばれた彼をもってしても、なかなか持てずにいたのだ。
「……本当に、いいの? 辛かったら、いつでも止めていいんだよ」
「ああ。避けては通れない道だ。私が今、ここで君と生きていることの意味を……。それを知るために、私は私自身の最期を見届ける必要がある」
ナマエは震える手でリモコンを操作した。 やがて、画面の中には、かつてのエルヴィンがいた世界が映し出される。
最初は、客観的だった。 若かりし日の自分。厳しい規律。壁の中の閉塞感。
「……こんな顔をしていたな。常に何かを疑い、何かに飢えていた」
彼は、画面の中の自分を有能な駒を見るような目で見つめていた。
だが、物語が進むにつれ、彼の口数は減っていった。 次々と死んでいく部下たち。理不尽な選択。彼が下した決断によって、幾千もの命が露のように消えていく。そのたびに、ソファに置かれたエルヴィンの大きな拳が、白くなるほど強く握りしめられた。
そして—— シガンシナ区、獣の巨人との死闘。 画面の中の彼は、地下室という個人の夢」捨て、新兵たちと共に死の雨の中へと突撃する。
『兵士よ、怒れ! 兵士よ、叫べ! 兵士よ、戦え!』
咆哮と共に、礫に貫かれ、馬から転落する姿。ナマエは隣に座る彼の肩が、目に見えて震え始めたのに気づいた。
やがて、物語は彼の「死」を描き出す。 屋上で、リヴァイが注射器を手にし、アルミンを救うことを選ぶ。 安らかな眠りについた、アニメの中のエルヴィン・スミス。
画面が暗転し、エンディングの曲が流れ始めた。 室内を支配したのは、あまりに重苦しく、それでいて清冽な静寂だった。
「……私は」
エルヴィンの声が、掠れている。
「……私は、こんなにも多くの命を。……私の、たった一つの、子供じみた夢の代償に……」
言葉が続かない。 碧い瞳から、一筋の涙が頬を伝い、彼のスーツの膝の上に落ちた。 嗚咽はない。ただ、堰を切ったように、涙だけが止まらない。 それは、かつて「団長」という鎧を着ていた時には決して流すことが許されなかった、一人の男としての、あまりに純粋な慟哭だった。
「……私は、死ぬことでしか、自分の罪を贖えなかった。死ぬことでしか、彼らへの誠実さを証明できなかった。……なのに、なぜ私は、今ここで息をしている?」
彼は顔を覆い、深く、震える呼吸を繰り返した。
「なぜ私だけが、こんな温かい部屋で、君のような愛しい人に寄り添われ、幸福を享受しているんだ……。これは、裏切りではないのか……?」
ナマエは、何も言わず、彼の大きな体を横から抱きしめた。 彼の体は、凍えるように冷たくなっていた。 ナマエは自分の体温をすべて分け与えるように、彼の胸に顔を押し当て、力強く呟いた。
「裏切りじゃないよ。……エルヴィン。あなたが死ぬことで証明したものは、ちゃんとあの世界に残ってる。……でも、ここは違う世界なの。あなたが英雄として死ぬ必要のない、ただのエルヴィンとして生きていい世界なんだよ」
ナマエは、彼の涙を指先でそっと拭った。
「誰もあなたを責めない。……もし誰かが責めるなら、私がその罪を一緒に背負う。あなたが死んで欲しかったと願う人がいるなら、私が、あなたが生きていてくれて嬉しいって、一生叫び続けるから」
エルヴィンは、ナマエの瞳の中に宿る、揺るぎない愛の炎を見つめた。 彼女は「物語」の読者でありながら、その結末を拒絶し、目の前にいる「生身の彼」を選んでくれた。 その事実が、彼の凍りついた魂を、ゆっくりと解かしていく。
「……ナマエ。君は、救いだな」
エルヴィンは、初めて自分から彼女に深く寄りかかった。
「……俺は、もう進まなくていいんだな。誰の先頭にも立たず、誰の命も背負わず。ただ、君という一人の女性のために、今日を生き、明日を待つ。……それが許されるのだな」
「うん。……ずっと、そう言ってほしかった」
エルヴィンは、ナマエの手を取り、その掌に深く口づけをした。 そして、決心したように、彼女の唇を求めた。
今までのどのキスよりも、熱く、切実で、そして深い慈愛に満ちたもの。 それは、過去の自分への決別であり、この現代社会でナマエと共に生きるという、彼の人生で最も「私的」な契約だった。
「……愛している、ナマエ。……俺の人生は、君に捧げる」
彼は、彼女を抱き上げ、寝室へと向かった。 開かれたドアの向こう側には、冷たい戦場も、巨人の影もない。 ただ、二人が積み重ねてきた、温かな愛の続きが待っている。
その夜、エルヴィンは初めて、自らの意志で幸福になることを自分に許した。 シーツの下で重なり合う肌の熱、混じり合う吐息。 それらすべてが、彼がもたらしたどの勝利よりも鮮やかに、彼が「生きている」ことを証明していた。
暗闇の中、エルヴィンはナマエを腕の中に閉じ込め、静かに眠りについた。 もう、夢の中に死者たちが現れることはない。 隣で眠る最愛の人の寝息こそが、彼にとっての新しい、唯一の真実なのだから。
