推しの心臓、我が家の1LDKにあり
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冬の夜気が、高層ビルの窓ガラスを白く曇らせていた。 都心の夜景は、幾千もの宝石を散りばめたかのように眩く、その一つひとつの光の下に人々の営みがある。かつて壁の上から見下ろした、巨人の恐怖に怯える松明の灯りとは、あまりにかけ離れた飽和した豊穣。
エルヴィン・スミスは、最上階のパートナー個室で、重厚な革張りの椅子に深く身を沈めていた。 机の上には、クリスタルの盾が置かれている。そこには、入社から異例の速さでシニアパートナーへと昇進した彼の名が刻まれていた。
「……また、高い場所に来てしまったな」
独りごちた声は、空調の静かな音に吸い込まれて消えた。 昇進の報を聞いた同僚たちは、一様に驚愕し、そして羨望の眼差しを向けた。だが、彼らが彼に向ける敬意は、どこか実体のない「偶像」を拝む宗教的な熱狂に近い。
「エルヴィンがいれば、どんな難局も突破できる」
「彼は人間じゃない。勝利を呼び込む精密機械だ」
その言葉が投げかけられるたび、エルヴィンの心には冷たい影が落ちる。 かつて、彼を「英雄」と呼び、自らの命を捧げた兵士たちの顔が、都会の夜景の中に重なって見えた。ここでも私は、ただの『象徴』として消費されているのではないか。
ノックの音がし、ナマエが入ってきた。
「お疲れ様、エルヴィン。……まだ、帰れそうにない?」
彼女は、彼の秘書ではない。けれど、同じフロアで働く彼女だけは、この孤独な部屋に踏み込むことを許されていた。
「ナマエか。……ああ、少し考え事をしていた。もう、引き上げよう」
エルヴィンは立ち上がり、コートを手に取った。ナマエは、彼の碧い瞳の奥に潜む深い疲弊を見逃さなかった。誰もが「おめでとう」と喝采を送る中で、彼女だけは、彼がどれほど重い『偽りの仮面』を被り直しているかを理解していた。
帰り道、二人は言葉少なに夜の街を歩いた。 冷たい風が頬を刺すが、エルヴィンはその刺激をむしろ心地よく感じていた。物理的な痛みがなければ、自分がここに実在していることさえ疑ってしまいそうなほど、彼の精神は摩耗していたのだ。
「……今日は、お祝いだね。何が食べたい?」
ナマエが隣で明るい声を出す。
「いや、特別なものは要らない。君の作る、いつもの……そうだな、あの温かい家庭料理がいい」
「肉じゃがのこと? それともシチュー?」
「どちらでもいい。君の匂いがする、普通の食卓がいいんだ」
エルヴィンのその言葉に、ナマエは胸が締め付けられた。 世界を変える力を持つ男が、今、何よりも求めているのが「普通」であるという事実。
1LDKのドアを開けると、そこには、オフィスにはない濃密な『生活』の気配があった。ナマエはすぐにキッチンに立ち、エルヴィンのために料理を始めた。 出汁の香りが広がり、野菜を刻むリズミカルな音が響く。 エルヴィンはソファに座り、ネクタイを外し、シャツのボタンをいくつか外した。
「……エルヴィン、できたよ」
食卓に並んだのは、湯気を立てる肉じゃがと、炊きたての白いご飯、そして自家製の漬物。 エルヴィンは、箸を手に取り、一口食べた。 口の中に広がる、甘じょっぱい安心感。素材の味が、冷え切った胃の奥を優しく溶かしていく。
「……うまいな」
「よかった。昇進祝いにしては地味すぎたかなって思ったけど」
「いや……これがいい。これが、いいんだ」
エルヴィンは食事を進めるうちに、不意に、自分の手がわずかに震えていることに気づいた。 彼は箸を置き、じっと自分の右手の掌を見つめた。
「……ナマエ。私は今日、多くの人間から賞賛された。だが、彼らは私を見ているのではない。私という皮を被った『勝利のシステム』を崇めているだけだ」
「…………」
「かつての私もそうだった。団長という椅子に座るために、私は自分自身の心を殺し、ただの駒として機能しようとした。……だが、ここでは違うと思っていた。ここでは、一人の人間として、君と歩めると思っていたのに」
エルヴィンの声に、隠しきれない苦悩が滲む。
「昇進すればするほど、私は再び『個』を失い、組織の『部品』になっていく。……それが、たまらなく怖い」
ナマエは、テーブルを回って彼の隣に座った。 そして、その大きな、震える手を両手で包み込んだ。
「エルヴィン。……あなたは、部品なんかじゃない」
ナマエは、彼の碧い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「会社のみんなが何を言おうと、関係ない。私の前でスープを飲んで、『うまい』って笑うあなたは、世界でたった一人の……私の大切な、エルヴィンだよ」
ナマエは、彼の肩にそっと頭を預けた。
「ここでは、団長でいなくていい。シニアパートナーでも、英雄でもなくていい。……ただの、お腹を空かせた、ちょっと不器用な男の人でいて。私が、ずっとその場所を守るから」
その言葉は、エルヴィンの心の一番深い場所に届いた。 彼は、ナマエの温もりを感じながら、深く、長く、憑き物が落ちたような溜息をついた。
「……君は、いつも私に一番必要な言葉をくれるな」
エルヴィンはナマエを引き寄せ、その細い体を力強く、壊れ物を扱うような繊細さで抱きしめた。
「……ここに帰ると、私は、ただの人間でいられる。君が私を、エルヴィン・スミスという檻から連れ出してくれる」
彼はナマエの髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。 彼女の纏う、石鹸の香りと、少しだけ残った料理の匂い。 その普通の生活の匂いこそが、彼にとっての唯一の救いだった。
「……ナマエ。私は決めたよ」
「……なにを?」
「私はもう、誰かの用意した椅子には座らない。……独立しようと思う」
「え……独立?」
「ああ。自分の意志で、自分の守りたいもののために、この知性を使いたい。……君を、もっと近くで守れる場所を作りたいんだ」
エルヴィンの瞳に、かつての野心とは違う、静かで力強い愛の光が宿った。それは、彼が初めて自分の幸せのために下した、戦略的な決断だった。
「……支えてくれるか、ナマエ。……いや、私の隣にいてくれるか」
「当たり前でしょ。……どこまでも、ついていくよ。エルヴィン」
二人の影が、オレンジ色の街灯が差し込むリビングで重なる。 窓の外には依然として冷たい冬の夜が広がっていたが、この小さな1LDKの中だけは、春を待つような確かな熱が満ちていた。
食事の後の静寂の中で、エルヴィンは初めて、自分の成功を犠牲の代償ではなく未来への糧として受け入れることができた。 彼女が隣にいる限り、彼はもう、孤独な英雄に戻ることはない。
エルヴィン・スミスは、最上階のパートナー個室で、重厚な革張りの椅子に深く身を沈めていた。 机の上には、クリスタルの盾が置かれている。そこには、入社から異例の速さでシニアパートナーへと昇進した彼の名が刻まれていた。
「……また、高い場所に来てしまったな」
独りごちた声は、空調の静かな音に吸い込まれて消えた。 昇進の報を聞いた同僚たちは、一様に驚愕し、そして羨望の眼差しを向けた。だが、彼らが彼に向ける敬意は、どこか実体のない「偶像」を拝む宗教的な熱狂に近い。
「エルヴィンがいれば、どんな難局も突破できる」
「彼は人間じゃない。勝利を呼び込む精密機械だ」
その言葉が投げかけられるたび、エルヴィンの心には冷たい影が落ちる。 かつて、彼を「英雄」と呼び、自らの命を捧げた兵士たちの顔が、都会の夜景の中に重なって見えた。ここでも私は、ただの『象徴』として消費されているのではないか。
ノックの音がし、ナマエが入ってきた。
「お疲れ様、エルヴィン。……まだ、帰れそうにない?」
彼女は、彼の秘書ではない。けれど、同じフロアで働く彼女だけは、この孤独な部屋に踏み込むことを許されていた。
「ナマエか。……ああ、少し考え事をしていた。もう、引き上げよう」
エルヴィンは立ち上がり、コートを手に取った。ナマエは、彼の碧い瞳の奥に潜む深い疲弊を見逃さなかった。誰もが「おめでとう」と喝采を送る中で、彼女だけは、彼がどれほど重い『偽りの仮面』を被り直しているかを理解していた。
帰り道、二人は言葉少なに夜の街を歩いた。 冷たい風が頬を刺すが、エルヴィンはその刺激をむしろ心地よく感じていた。物理的な痛みがなければ、自分がここに実在していることさえ疑ってしまいそうなほど、彼の精神は摩耗していたのだ。
「……今日は、お祝いだね。何が食べたい?」
ナマエが隣で明るい声を出す。
「いや、特別なものは要らない。君の作る、いつもの……そうだな、あの温かい家庭料理がいい」
「肉じゃがのこと? それともシチュー?」
「どちらでもいい。君の匂いがする、普通の食卓がいいんだ」
エルヴィンのその言葉に、ナマエは胸が締め付けられた。 世界を変える力を持つ男が、今、何よりも求めているのが「普通」であるという事実。
1LDKのドアを開けると、そこには、オフィスにはない濃密な『生活』の気配があった。ナマエはすぐにキッチンに立ち、エルヴィンのために料理を始めた。 出汁の香りが広がり、野菜を刻むリズミカルな音が響く。 エルヴィンはソファに座り、ネクタイを外し、シャツのボタンをいくつか外した。
「……エルヴィン、できたよ」
食卓に並んだのは、湯気を立てる肉じゃがと、炊きたての白いご飯、そして自家製の漬物。 エルヴィンは、箸を手に取り、一口食べた。 口の中に広がる、甘じょっぱい安心感。素材の味が、冷え切った胃の奥を優しく溶かしていく。
「……うまいな」
「よかった。昇進祝いにしては地味すぎたかなって思ったけど」
「いや……これがいい。これが、いいんだ」
エルヴィンは食事を進めるうちに、不意に、自分の手がわずかに震えていることに気づいた。 彼は箸を置き、じっと自分の右手の掌を見つめた。
「……ナマエ。私は今日、多くの人間から賞賛された。だが、彼らは私を見ているのではない。私という皮を被った『勝利のシステム』を崇めているだけだ」
「…………」
「かつての私もそうだった。団長という椅子に座るために、私は自分自身の心を殺し、ただの駒として機能しようとした。……だが、ここでは違うと思っていた。ここでは、一人の人間として、君と歩めると思っていたのに」
エルヴィンの声に、隠しきれない苦悩が滲む。
「昇進すればするほど、私は再び『個』を失い、組織の『部品』になっていく。……それが、たまらなく怖い」
ナマエは、テーブルを回って彼の隣に座った。 そして、その大きな、震える手を両手で包み込んだ。
「エルヴィン。……あなたは、部品なんかじゃない」
ナマエは、彼の碧い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「会社のみんなが何を言おうと、関係ない。私の前でスープを飲んで、『うまい』って笑うあなたは、世界でたった一人の……私の大切な、エルヴィンだよ」
ナマエは、彼の肩にそっと頭を預けた。
「ここでは、団長でいなくていい。シニアパートナーでも、英雄でもなくていい。……ただの、お腹を空かせた、ちょっと不器用な男の人でいて。私が、ずっとその場所を守るから」
その言葉は、エルヴィンの心の一番深い場所に届いた。 彼は、ナマエの温もりを感じながら、深く、長く、憑き物が落ちたような溜息をついた。
「……君は、いつも私に一番必要な言葉をくれるな」
エルヴィンはナマエを引き寄せ、その細い体を力強く、壊れ物を扱うような繊細さで抱きしめた。
「……ここに帰ると、私は、ただの人間でいられる。君が私を、エルヴィン・スミスという檻から連れ出してくれる」
彼はナマエの髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。 彼女の纏う、石鹸の香りと、少しだけ残った料理の匂い。 その普通の生活の匂いこそが、彼にとっての唯一の救いだった。
「……ナマエ。私は決めたよ」
「……なにを?」
「私はもう、誰かの用意した椅子には座らない。……独立しようと思う」
「え……独立?」
「ああ。自分の意志で、自分の守りたいもののために、この知性を使いたい。……君を、もっと近くで守れる場所を作りたいんだ」
エルヴィンの瞳に、かつての野心とは違う、静かで力強い愛の光が宿った。それは、彼が初めて自分の幸せのために下した、戦略的な決断だった。
「……支えてくれるか、ナマエ。……いや、私の隣にいてくれるか」
「当たり前でしょ。……どこまでも、ついていくよ。エルヴィン」
二人の影が、オレンジ色の街灯が差し込むリビングで重なる。 窓の外には依然として冷たい冬の夜が広がっていたが、この小さな1LDKの中だけは、春を待つような確かな熱が満ちていた。
食事の後の静寂の中で、エルヴィンは初めて、自分の成功を犠牲の代償ではなく未来への糧として受け入れることができた。 彼女が隣にいる限り、彼はもう、孤独な英雄に戻ることはない。
