推しの心臓、我が家の1LDKにあり
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視界の端々を埋め尽くすのは、暴力的なまでの「白」だった。
鼻腔を突くのは、かつて戦場で嗅いだ死の腐臭でも、馬たちの汗の匂いでも、あるいは火薬の燻りでもない。それは、鼻の奥がツンとするほどに無機質で、刺すように鋭い薬品の香りだった。
(……ああ、そうか)
エルヴィン・スミスは、ゆっくりと、重い瞼を持ち上げた。 最後に見た光景は、降り注ぐ礫の雨と、部下たちの絶叫、そして自分を貫いた衝撃だったはずだ。死の間際、自分を突き動かしていたのは、地下室への執着と、それ以上に重い「罪」の感覚だった。
死んだのだと、疑わなかった。 地獄へ堕ちるか、あるいは何も存在しない無に帰すか。そのどちらかだと思っていた。
だが、耳に届くのは、規則的な電子音だ。 「ピッ……ピッ……」と、心臓の鼓動をなぞるように刻まれるその音は、あまりに穏やかで、この世のものとは思えないほど静謐だった。
(天国……にしては、静かすぎるな)
そう自嘲気味に思考を巡らせ、彼は自分の体に意識を向けた。 ひどく体が重い。全身を鉛の拘束具で固定されているような感覚だ。だが、不思議と痛みはない。ただ、言いようのない違和感だけが、指の先から伝わってくる。
ふと、彼は右側に視線を投げた。 そこにあるはずのない感覚――失ったはずの右腕が、白いシーツの上に横たわっていた。
「…………っ」
息が止まる。 震える左手を動かし、彼は恐る恐るその「右腕」に触れた。 温かい。皮下を流れる血液の拍動が、指先を通じて確かに伝わってくる。幻肢痛ではない。そこには肉があり、骨があり、そして繋がっている。
彼は目を見開き、天井を見上げた。 そこには木漏れ日も、空を覆う壁もない。ただ、滑らかな石膏の白が広がっているだけだ。 涙が出るような安堵ではない。それは、自分の運命が、自分の知らぬところで書き換えられてしまったことへの、静かな、そして深い困惑だった。
「私は……死に損ねたのか」
掠れた声が、喉の奥から漏れ出した。 その時、部屋のドアが音もなく滑るように開いた。
「――お目覚めですか。意識が戻ってよかった」
入ってきたのは、青い薄手の服を纏った若い男だった。 髪は清潔そうに整えられ、手には薄い板状の機械を持っている。男の顔には、医者特有の冷静さと、それとは相反するような、微かな動揺が浮かんでいた。
エルヴィンは反射的に、鋭い眼光を男に向けた。 その視線に、男は一瞬だけ息を呑んだようだったが、すぐに表情を改めて歩み寄ってきた。
「体調はどうですか? ここは病院です。あなたは三日前、路上で倒れているところを保護されました。外傷はほとんどなかったのですが、極度の衰弱と……まあ、色々と不可解な点が多くてね」
男はそう言いながら、手元の機械に何かを書き込んでいる。 エルヴィンは沈黙を守った。病院。路上。保護。聞き慣れぬ単語はないが、男の纏う雰囲気も、この部屋にある調度品も、彼の知る「人類の領域」のそれとは、あまりにかけ離れている。
「……君は、誰だ」
絞り出すようなエルヴィンの問いに、男はわずかに微笑んだ。
「失礼。自己紹介が遅れました。僕はミョウジオトウト。あなたの担当医です」
オトウト。聞き慣れない響きの名だ。 エルヴィンは思考の海を泳ぐ。ここはどこだ。ウォール・マリアの内部か? それとも、壁の外の世界なのか。巨人は?リヴァイやハンジ、生き残った部下たちはどうなった。
「ここは……どこだ。シガンシナ区か?」
「……しがんしな?」
オトウトは眉をひそめ、不思議そうな顔をした。
「いえ、ここは日本。神奈川県内の総合病院です。あなたの言っている地名には心当たりがありません。……質問を変えましょう」
オトウトは、エルヴィンの碧い瞳を真っ直ぐに見据えた。 その瞳には、医者としての知性と、何か個人的な確信を確かめようとする熱が含まれている。
「お名前を、教えていただけますか?」
エルヴィンは、一瞬だけ躊躇した。 偽名を名乗るべきか。だが、この状況で嘘を吐くメリットはない。彼は、自分自身のアイデンティティを確認するように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「エルヴィン・スミスだ。……調査兵団、第13代団長を務めている」
その瞬間、オトウトの持っていたペンが、カチリと音を立てて止まった。 彼の表情から、一瞬にして余裕が消える。驚愕。戦慄。そして、どこか信じられないものを見るような、形容しがたい感情がその顔を支配した。
「……エルヴィン、スミス。調査兵団の、団長……?」
オトウトはカルテにその名を書き込みながら、心の中で激しく毒突いた
(嘘だろ……。外見が似ているどころじゃない。名前までそのままだ。金髪、碧眼、190センチ近くはあるであろう体格。そして、この威圧感……)
オトウトには、ある心当たりがあった。 否、心当たりどころではない。彼の姉、ミョウジナマエが、病的なまでに熱中している物語の登場人物。その英雄と、目の前の男があまりに一致しすぎている。
「……オトウト先生。何か問題があるか?」
エルヴィンが不審げに問いかける。オトウトは慌てて首を振った。
「いえ……。ただ、少し驚いただけです。非常に珍しいお名前だったので」
オトウトは努めて平穏を装ったが、背中には嫌な汗が流れていた。 身元不明。所持品はボロボロの緑色のマントと、奇妙な革の装置。そして、歴史上存在しないはずの軍の肩書き。
(これは僕の手に負える案件じゃない……。でも、もし彼が「本物」だとしたら。姉貴が知ったら、間違いなく発狂するな)
オトウトは、静かに横たわるエルヴィンの右腕を見つめた。 原作では失われていたはずの腕。それがここにあるということは、彼は死の間際からこちら側へ零れ落ちてきたのだろうか。
「エルヴィンさん。あなたの身元について、少し調べさせてもらいましたが……現在のところ、あなたのデータは、この国のどこにも存在しません」
「データ、だと?」
「ええ。戸籍も、保険証も、あなたがこの世界で生きてきた証拠が、何ひとつないんです」
オトウトの言葉に、エルヴィンは深く溜息をついた。 予感はしていた。ここが壁の内側ではないことは、この部屋の清潔さと静寂だけで十分に理解できる。ここは、彼が夢にまで見た「世界の真実」に近い場所なのか、あるいは……。
「……私は、死に損ねたのだな。それも、ひどく遠い場所で」
エルヴィンの独白に、オトウトは胸を締め付けられるような感覚を覚えた。その声には、生への執着よりも、役割を終えられなかったことへの、深い倦怠と孤独が滲んでいたからだ。
「……とりあえず、今日はゆっくり休んでください。体力の回復が最優先です。身元の件については、僕のほうで信頼できる人間……いえ、適任者に相談してみます」
オトウトはそう告げて、逃げるように病室を後にした。
廊下に出た瞬間、オトウトは壁に背を預け、大きく息を吐き出した。 震える手でスマートフォンを取り出し、連絡先をスクロールする。 指が止まったのは、幼い頃から自分を振り回し、けれど誰よりも情に厚い、自慢の姉の名前だった。
「……もしもし、姉貴? ああ、オトウトだ。……驚くなよ。今すぐ、僕の病院に来てほしい。……え? 仕事中? そんなの放り出していいから。……いや、違う。急患じゃない」
オトウトは、病室の扉を振り返った。 そこには今、歴史の荒波に揉まれ、すべてを捧げた英雄が、ただ一人の男として、現代の無機質なベッドに横たわっている。
「……お前の『推し』が、生きて、そこに寝てるんだよ」
電話の向こうで、絶句するような気配が伝わってきた。
病室の中。エルヴィンは、再び一人になった空間で、窓の外を眺めた。そこには、彼がかつて見たこともないほど高い建物が立ち並び、空を飛ぶ鉄の塊が銀色の尾を引いている。
死に損ねた代償として与えられた、あまりに静かな第二の人生。 彼は、窓ガラスに映る、五体満足な己の姿を、どこか他人のものを見るような目で見つめ続けていた。
その静寂を破るように、遠くで救急車のサイレンが鳴り響く。 それが、新しい世界の産声であることに、彼はまだ気づいていなかった。
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