心臓のゆくえ
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空の機嫌を伺う余裕など、内地の生活には必要ないと思っていた。
憲兵団としての任務――物資横領の疑いがある商人の追跡――の帰り道、不意に空が泣き出した。それはかつて調査兵団の本部で浴びた、肌を刺すような氷の雨ではない。温かな体温を孕んだ、街の色彩を優しく滲ませるような、初夏の雨だった。
「ひどい雨になってきた。ナマエ、あそこの軒先で雨宿りをしよう」
ユリウスが彼女の手を引き、古い石造りの教会の軒下へと滑り込む。
薄暗い空間に、雨音だけが激しく反響していた。肩が触れ合うほどの距離。ナマエは一歩引こうとしたが、ユリウスの腕がそれを優しく、けれど拒むことを許さない強さで押し留めた。
「逃げなくていい。……今は、任務中じゃない。ただの雨宿りだよ」
ユリウスの声は、湿った空気の中に心地よく溶けていく。ナマエは黙って、ベールのようになった雨の向こう側を見つめていた。
かつての彼女なら、この雨の中でもエルヴィンの姿を探していただろう。彼が濡れていないか、冷えていないか、そのことばかりを案じ、自分の体温など二の次にして。
けれど、今の彼女の隣にいるのは、彼女を兵士としてではなく、守るべき対象として見つめる別の男だった。
「……君は、たまにとても遠い目をしてる。誰にも踏み込めない、深い場所へ行っているような」
ユリウスが静かに問いかける。
彼は、ナマエが抱えている巨大な喪失に気づいているはずだった。調査兵団から移籍してきた経緯、その瞳の奥に張り付いた死の色。けれど、彼は決してその理由を問おうとはしなかった。
「僕に、話さなくてもいい。君が何を失くして、誰に傷つけられたのか。……僕は、ただ君が今ここにいて、僕と雨を見ているという事実だけで十分なんだ」
その言葉は、エルヴィンがかつて突き放した「君に割く時間は一秒もない」という宣告への、遅れて届いた報いのようにナマエの胸に染みた。
エルヴィンは、奪う人だった。
ユリウスは、与える人だ。
ナマエは、自分の手が微かに震えていることに気づいた。それは恐怖ではなく、あまりにも長い間、拒絶という飢えの中にいた心が、差し出された糧に戸惑っている証だった。
「……ユリウスは、どうしてそんなに優しいの?私には、何もお返しできるものがないのに」
ナマエの声は、雨音に混じって頼りなく響く。言葉の中に、隠しきれない感情の綻びが混ざる。
「お返しなんていらないよ。……強いて言うなら、君の笑顔かなあ。君が笑うと、なんだか僕まで楽になるんだ。……あ、今の顔、少しだけ柔らかくなったね」
ユリウスがナマエの頬に、指先で触れた。
その感触は、驚くほど温かかった。
エルヴィンへの愛は、鋭い刃を飲み込むような痛みだった。けれど、ユリウスの隣にあるこの感情は、柔らかな真綿に包まれて沈んでいくような、穏やかな沈没だった。
(……埋めてしまっても、いいのかな)
ナマエは心の中で、自分自身に問いかける。
エルヴィンという名の不発弾を。彼のために磨き上げた自分の時間を。報われることのなかった、あの地獄のような恋を。墓標も立てず、花も供えず、この雨と一緒に地面の底へ、二度と掘り返せないように。
「……雨、止まないね」
「止まなくていいよ。……このまま、二人で閉じ込められてしまいたいくらい」
ユリウスの冗談めかした言葉に、ナマエは初めて、小さな――本当に小さな、けれど確かな笑みを浮かべた。
その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて崩れ、同時に新しい何かが芽吹いた。
それはまだ愛と呼ぶには淡く、けれど彼女の心臓のゆくえを狂わせるには十分な揺らぎだった。
それから数日後。
内地の酒場で、調査兵団の輸送兵たちが噂話をしていた。
「……おい、聞いたか? あの調査兵団から移籍した『冷徹な女班長』の話」
「あぁ、憲兵団のユリウスって男と、かなり仲睦まじくやってるらしいじゃないか。街で見かけた奴が言ってたぜ。あんな幸せそうな顔、調査兵団にいた頃には一度も見せなかったってな」
その噂は、風に乗り、埃っぽい馬車に揺られ、やがて巨大な壁を越えていった。
かつて彼女が「心臓を捧げる」と誓った、あの男の耳に届くのも、時間の問題だった。
―――
王都の午後は、窓から差し込む柔らかな陽光に満たされていた。
憲兵団本部の執務室は、常に整頓され、高級なインクの香りと、誰かが淹れた茶の微かな残り香が漂っている。調査兵団の、あの埃っぽく、血の匂いがどこからか漂ってくるような緊迫感とは無縁の、凪のような時間が流れていた。
「――ナマエ。あまり根を詰めすぎるな。この案件は急ぎではないから、少し手を休めるといい」
書類の山から顔を上げたナイルが、穏やかな声で言った。彼は憲兵団師団長という重職にありながら、部下であるナマエに対して、一度も高圧的な態度を取ったことはなかった。
それどころか、彼女が調査兵団で負った心の傷を察しているかのように、常に一歩引いた場所から見守るような優しさを見せている。
「ありがとうございます、ナイル師団長。ですが、区切りが良いところまで終わらせてしまいます。……その方が、後でゆっくりと茶をいただけますから」
ナマエはペンを止めず、淡々と、けれど柔らかな響きで答えた。エルヴィンの前では私語さえ許されないような緊張感があったが、ナイルの前では、こうした些細な会話を交わすことが許されていた。
拒絶されない。その事実が、彼女の磨り減った心を少しずつ、薄紙を剥ぐように癒していく。
「ふむ、君のそういう生真面目さは美徳だが……。おい、ユリウス。君からも何か言ってやってくれ」
ナイルが苦笑しながら、隣のデスクで作業をしていた男に話を振った。ユリウスは待っていましたとばかりに顔を上げ、眩しいほどの笑みをナマエに向けた。
「師団長の言う通りだよ、ナマエ。ちょうど、内地で評判の菓子が手に入ったんだ。僕と一緒に、少しだけ休憩しよう」
ユリウスは椅子を立ち、慣れた手つきで茶の準備を始めた。彼の動きには一切の無駄がなく、それでいて貴族的な優雅さが漂っている。彼はナマエのデスクの端に、小さな、美しく飾られた菓子の皿を置いた。
「ナッツの入った焼き菓子だよ……頑張りすぎる君には、甘いものが必要だと思って」
ユリウスの言葉は、いつも驚くほど真っ直ぐにナマエの心へと届く。彼は彼女を精密な機械としてではなく、今この場所で共に働く一人の女性として、慈しむように扱っていた。
「……ありがとう、ユリウス。お言葉に甘えます」
ナマエはペンを置き、ユリウスが淹れた茶を一口含んだ。温かな液体が喉を通り、胃の腑に落ちていく。その温かさに、彼女の肩からふっと力が抜けた。
「……ここでは、時間がゆっくりと流れているような気がします。……不思議ですね」
ナマエがポツリと漏らした言葉に、ナイルが目を細めた。
「それが本来の時間の流れだ、ナマエ。……壁の外で戦うだけが人生ではない。こうして穏やかに茶を飲み、明日もまた同じように笑えること。……それこそが、守るべき価値のある日常だと、俺は思っている」
ナイルの言葉には、エルヴィンのような人類の勝利という壮大な理想はなかった。けれど、一人の男として、父親として、目の前の平穏を愛する温度があった。
拒絶されないこと。
人間として、そこにいることを肯定されること。
ナマエは、自分を囲む二人の男の視線の中に、かつて求めて止まなかった居場所を見つけ始めていた。
エルヴィンの背中を追っていた頃、彼女の視界は常に彼の影に覆われていた。けれど今、彼女の瞳には、内地の柔らかな陽だまりと、自分を案じてくれる人々の、穏やかな色が映っている。
「……はい。とても、美味しいです」
ナマエは小さく、けれど確かな笑みを浮かべた。
その笑みに、わずかな感情の揺れが混ざる。それは、失恋の埋葬を終えようとしている彼女の、再生への小さな一歩だった。
陽だまりのような執務室。
そこで交わされる他愛もない会話と、温かな茶の香り。
ナマエの心臓は、この時、確かに別の場所へとそのゆくえを移し始めていた。
この安寧が、やがてあの狂おしいまでの執着に塗り潰されることになるとは、今の彼女には想像することさえできなかった。
憲兵団としての任務――物資横領の疑いがある商人の追跡――の帰り道、不意に空が泣き出した。それはかつて調査兵団の本部で浴びた、肌を刺すような氷の雨ではない。温かな体温を孕んだ、街の色彩を優しく滲ませるような、初夏の雨だった。
「ひどい雨になってきた。ナマエ、あそこの軒先で雨宿りをしよう」
ユリウスが彼女の手を引き、古い石造りの教会の軒下へと滑り込む。
薄暗い空間に、雨音だけが激しく反響していた。肩が触れ合うほどの距離。ナマエは一歩引こうとしたが、ユリウスの腕がそれを優しく、けれど拒むことを許さない強さで押し留めた。
「逃げなくていい。……今は、任務中じゃない。ただの雨宿りだよ」
ユリウスの声は、湿った空気の中に心地よく溶けていく。ナマエは黙って、ベールのようになった雨の向こう側を見つめていた。
かつての彼女なら、この雨の中でもエルヴィンの姿を探していただろう。彼が濡れていないか、冷えていないか、そのことばかりを案じ、自分の体温など二の次にして。
けれど、今の彼女の隣にいるのは、彼女を兵士としてではなく、守るべき対象として見つめる別の男だった。
「……君は、たまにとても遠い目をしてる。誰にも踏み込めない、深い場所へ行っているような」
ユリウスが静かに問いかける。
彼は、ナマエが抱えている巨大な喪失に気づいているはずだった。調査兵団から移籍してきた経緯、その瞳の奥に張り付いた死の色。けれど、彼は決してその理由を問おうとはしなかった。
「僕に、話さなくてもいい。君が何を失くして、誰に傷つけられたのか。……僕は、ただ君が今ここにいて、僕と雨を見ているという事実だけで十分なんだ」
その言葉は、エルヴィンがかつて突き放した「君に割く時間は一秒もない」という宣告への、遅れて届いた報いのようにナマエの胸に染みた。
エルヴィンは、奪う人だった。
ユリウスは、与える人だ。
ナマエは、自分の手が微かに震えていることに気づいた。それは恐怖ではなく、あまりにも長い間、拒絶という飢えの中にいた心が、差し出された糧に戸惑っている証だった。
「……ユリウスは、どうしてそんなに優しいの?私には、何もお返しできるものがないのに」
ナマエの声は、雨音に混じって頼りなく響く。言葉の中に、隠しきれない感情の綻びが混ざる。
「お返しなんていらないよ。……強いて言うなら、君の笑顔かなあ。君が笑うと、なんだか僕まで楽になるんだ。……あ、今の顔、少しだけ柔らかくなったね」
ユリウスがナマエの頬に、指先で触れた。
その感触は、驚くほど温かかった。
エルヴィンへの愛は、鋭い刃を飲み込むような痛みだった。けれど、ユリウスの隣にあるこの感情は、柔らかな真綿に包まれて沈んでいくような、穏やかな沈没だった。
(……埋めてしまっても、いいのかな)
ナマエは心の中で、自分自身に問いかける。
エルヴィンという名の不発弾を。彼のために磨き上げた自分の時間を。報われることのなかった、あの地獄のような恋を。墓標も立てず、花も供えず、この雨と一緒に地面の底へ、二度と掘り返せないように。
「……雨、止まないね」
「止まなくていいよ。……このまま、二人で閉じ込められてしまいたいくらい」
ユリウスの冗談めかした言葉に、ナマエは初めて、小さな――本当に小さな、けれど確かな笑みを浮かべた。
その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて崩れ、同時に新しい何かが芽吹いた。
それはまだ愛と呼ぶには淡く、けれど彼女の心臓のゆくえを狂わせるには十分な揺らぎだった。
それから数日後。
内地の酒場で、調査兵団の輸送兵たちが噂話をしていた。
「……おい、聞いたか? あの調査兵団から移籍した『冷徹な女班長』の話」
「あぁ、憲兵団のユリウスって男と、かなり仲睦まじくやってるらしいじゃないか。街で見かけた奴が言ってたぜ。あんな幸せそうな顔、調査兵団にいた頃には一度も見せなかったってな」
その噂は、風に乗り、埃っぽい馬車に揺られ、やがて巨大な壁を越えていった。
かつて彼女が「心臓を捧げる」と誓った、あの男の耳に届くのも、時間の問題だった。
―――
王都の午後は、窓から差し込む柔らかな陽光に満たされていた。
憲兵団本部の執務室は、常に整頓され、高級なインクの香りと、誰かが淹れた茶の微かな残り香が漂っている。調査兵団の、あの埃っぽく、血の匂いがどこからか漂ってくるような緊迫感とは無縁の、凪のような時間が流れていた。
「――ナマエ。あまり根を詰めすぎるな。この案件は急ぎではないから、少し手を休めるといい」
書類の山から顔を上げたナイルが、穏やかな声で言った。彼は憲兵団師団長という重職にありながら、部下であるナマエに対して、一度も高圧的な態度を取ったことはなかった。
それどころか、彼女が調査兵団で負った心の傷を察しているかのように、常に一歩引いた場所から見守るような優しさを見せている。
「ありがとうございます、ナイル師団長。ですが、区切りが良いところまで終わらせてしまいます。……その方が、後でゆっくりと茶をいただけますから」
ナマエはペンを止めず、淡々と、けれど柔らかな響きで答えた。エルヴィンの前では私語さえ許されないような緊張感があったが、ナイルの前では、こうした些細な会話を交わすことが許されていた。
拒絶されない。その事実が、彼女の磨り減った心を少しずつ、薄紙を剥ぐように癒していく。
「ふむ、君のそういう生真面目さは美徳だが……。おい、ユリウス。君からも何か言ってやってくれ」
ナイルが苦笑しながら、隣のデスクで作業をしていた男に話を振った。ユリウスは待っていましたとばかりに顔を上げ、眩しいほどの笑みをナマエに向けた。
「師団長の言う通りだよ、ナマエ。ちょうど、内地で評判の菓子が手に入ったんだ。僕と一緒に、少しだけ休憩しよう」
ユリウスは椅子を立ち、慣れた手つきで茶の準備を始めた。彼の動きには一切の無駄がなく、それでいて貴族的な優雅さが漂っている。彼はナマエのデスクの端に、小さな、美しく飾られた菓子の皿を置いた。
「ナッツの入った焼き菓子だよ……頑張りすぎる君には、甘いものが必要だと思って」
ユリウスの言葉は、いつも驚くほど真っ直ぐにナマエの心へと届く。彼は彼女を精密な機械としてではなく、今この場所で共に働く一人の女性として、慈しむように扱っていた。
「……ありがとう、ユリウス。お言葉に甘えます」
ナマエはペンを置き、ユリウスが淹れた茶を一口含んだ。温かな液体が喉を通り、胃の腑に落ちていく。その温かさに、彼女の肩からふっと力が抜けた。
「……ここでは、時間がゆっくりと流れているような気がします。……不思議ですね」
ナマエがポツリと漏らした言葉に、ナイルが目を細めた。
「それが本来の時間の流れだ、ナマエ。……壁の外で戦うだけが人生ではない。こうして穏やかに茶を飲み、明日もまた同じように笑えること。……それこそが、守るべき価値のある日常だと、俺は思っている」
ナイルの言葉には、エルヴィンのような人類の勝利という壮大な理想はなかった。けれど、一人の男として、父親として、目の前の平穏を愛する温度があった。
拒絶されないこと。
人間として、そこにいることを肯定されること。
ナマエは、自分を囲む二人の男の視線の中に、かつて求めて止まなかった居場所を見つけ始めていた。
エルヴィンの背中を追っていた頃、彼女の視界は常に彼の影に覆われていた。けれど今、彼女の瞳には、内地の柔らかな陽だまりと、自分を案じてくれる人々の、穏やかな色が映っている。
「……はい。とても、美味しいです」
ナマエは小さく、けれど確かな笑みを浮かべた。
その笑みに、わずかな感情の揺れが混ざる。それは、失恋の埋葬を終えようとしている彼女の、再生への小さな一歩だった。
陽だまりのような執務室。
そこで交わされる他愛もない会話と、温かな茶の香り。
ナマエの心臓は、この時、確かに別の場所へとそのゆくえを移し始めていた。
この安寧が、やがてあの狂おしいまでの執着に塗り潰されることになるとは、今の彼女には想像することさえできなかった。
