心臓のゆくえ
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内地の夜は、どこまでも過剰だった。
石造りの街並みを彩るガス灯の光。酒場から漏れ聞こえる笑い声。調査兵団の夜が、明日への恐怖を押し殺すための静寂であるならば、ここでの夜は、今日という日を謳歌するための祝祭だった。
憲兵団の制服を纏ったナマエは、ユリウスに促されるまま、街の喧騒から少し離れた落ち着いた店へと足を踏み入れた。磨かれた木製のテーブル。柔らかなクッション。運ばれてきたのは、調査兵団では見たこともないような繊細な装飾が施された料理と、深い赤を湛えた葡萄酒だった。
「……こんな贅沢。私のような兵士には、分不相応な気がします……」
ナマエは椅子に深く腰掛けることをせず、背筋を伸ばしたまま、丁寧な言葉を紡いだ。
彼女の指先は、まだどこかで立体機動のトリガーを探しているかのように、無意識に固く結ばれている。
「分不相応なんてことはないよ。君は誰よりも働き、誰よりも成果を出している。これは正当な対価だ。……僕が君をここに連れてきたかっただけなんだから」
ユリウスは向かい合わせの席で、優雅な手つきでグラスを傾けた。ユリウスの言葉には、相手との壁を取り払い、懐に滑り込むような、柔らかい親密さが宿っている。
「ナマエ。君は、いつも自分を追い込みすぎている。憲兵団に来てからも、君の目はまだ戦場にあるようだ」
「……任務ですから。完璧にこなすのが、私の役割。それ以外に、価値はありません」
ナマエの瞳には、かつてエルヴィンに拒まれ、封印された冷たい熱がまだ燻っている。
彼女にとって、自分を極限まで追い詰めることは、彼を失った穴を埋めるための唯一の手段だった。
「僕には、君が自分を罰しているように見えるよ」
ユリウスは静かに、けれど逃げ場を塞ぐような真剣な眼差しで、彼女を見つめた。
「無理をしなくていいんだ、ナマエ。ここでは、君は一人の有能な兵士である前に、一人の女性なんだよ。……僕にとっては、ね」
一人の、女性。
エルヴィンが、彼女に決して与えなかった名前。
エルヴィンは彼女を部下として、駒として、有害な感情を持つ者として扱った。彼は彼女から女としての属性を剥ぎ取り、ただの刃であることを強いた。
けれど、目の前の男は、彼女の強さも、弱さも、すべてを包み込むように女性として肯定しようとしている。
「女性、として……」
ナマエの喉の奥から、乾いた響きが漏れた。
ユリウスは、テーブル越しにそっと彼女の手に自分の手を重ねた。エルヴィンの手のような武骨な硬さはない。けれど、そこには確かな体温があった。
「そうだよ。戦う必要のない場所で、誰かのために身を削る必要もない。ただ、君が君として、ここで笑っていてくれればいい。……僕が、君にそれを教えたいんだ」
それは、弱っているナマエの心に染み渡る、優しい毒だった。エルヴィンの隣に立つために、彼女は自分という人間を殺し続けてきた。その果てに辿り着いた孤独な荒野で、この男は「無理をしなくていい」と甘い囁きをくれる。
「……ユリウスさん。私は、どうすればいいのか。……少し、わからなくなりました……っ」
ナマエは目を伏せ、重ねられたユリウスの手を振り払うことができなかった。
その夜、ナマエは初めて、エルヴィンのいない世界で、小さな微笑みを浮かべた。
それは、かつてのような情熱ではなく、安寧という名の諦念に近いものだったのかもしれない。
「ナマエ、僕たちは出会って間もないけど、年齢も近いし、憲兵団の仲間として親交を深めたいと思ってるんだ。よければ敬語をやめてくれると、とても嬉しいよ。……あと僕のことは、呼び捨てでいいよ」
「……わかった。……ユリウス。今夜のお茶は、とてもあたたかいね」
情緒を込めたその声は、夜の帳に静かに溶けていった。
―――
憲兵団本部の廊下を歩く彼女の姿は、いつ見ても見惚れるほどに無機質だった。
背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、軍靴の音は一定のリズムを刻む。周囲の憲兵たちが、酒や賄賂の話で弛んだ空気を漂わせている中で、ナマエだけが、磨き上げられた冷たい刃物のような鋭さを放っていた。
(……調査兵団、か)
僕は、自分の執務室の窓から、訓練場を横切る彼女の背中を眺めていた。
あそこから来た連中は、多かれ少なかれ壊れている。だが、彼女の壊れ方は特異だった。何かに絶望しているのではない。自分という人間を、自らの意志で徹底的に抹消しているように見えるのだ。
その日の深夜、僕は資料の確認のために資料室へ向かった。
扉の隙間から漏れる細い光。そこには、まだ机に向かっているナマエの姿があった。
「……まだ、仕事をしていたのか。あまり根を詰めると、明日の任務に響くよ」
僕の声に、彼女は音もなく顔を上げた。驚きも、困惑もない。ただ、深く静かな瞳が僕を射抜く。
「ユリウス。……ごめん。この資料の整理が済むまで、終わらせるつもり」
ナマエには相手を拒絶するような硬い壁がある。彼女の無機質な語り口こそが、彼女が自分を守るための鎧なのだと、僕は直感していた。
「少し休もう。……僕が茶を淹れてきたんだ。一口だけでいい、付き合ってくれないかな」
僕は彼女の返事も待たず、湯気の立つカップを机に置いた。ナマエは僅かに眉を寄せたが、やがて小さく息を吐き、ペンを置いた。
「……ありがとう。頂きます」
彼女がカップを手に取り、一口啜った、その時だった。
ふ、と。
彼女の視線が、机の片隅に置かれた、古びた地図の断片に止まった。それは内地のものではない。壁外調査で使われる、等高線と巨人の出現地点が細かく書き込まれた、血の跡が染み付いた地図。
その瞬間、彼女の顔から精密機械の仮面が剥がれ落ちた。
震える指先。
潤みを帯びた瞳。
それは、恋い焦がれる人を想う乙女の顔でも、死を恐れる兵士の顔でもなかった。
自分を捨て、自分を拒絶した地獄そのものを、今なお狂おしいほどに愛惜している――殉教者の顔だった。
(……あぁ、そうか。君は)
僕の心臓が、不意に大きく跳ねた。
完璧だと思っていた彫像の、たった一箇所のひび割れ。そこから溢れ出したのは、あまりにも深すぎて、内地で安穏と生きてきた僕には到底理解できないほどの、昏い情念だった。
誰かに、これほどまでに、自分を破壊するほどに想われる男が、この世界のどこかにいる。
その事実に対する猛烈な嫉妬と、同時に、そのひび割れを僕の手で埋めてあげたいという、傲慢なまでの独占欲が、僕の中で鎌首をもたげた。
「……ナマエ」
僕は、無意識に彼女の名前を呼んでいた。
彼女はハッとして、すぐに元の無表情に戻った。けれど、一度見てしまったものは、もう消せない。
「……何?」
「……いや。……その茶、冷めないうちに飲んで。君は、もう少し自分を大切にするべきだ。」
僕の言葉に、ナマエは不思議そうに小首を傾げた。
まだ、彼女は気づいていない。
彼女の孤独に、彼女の欠落に、一人の男が魅了されてしまったことに。
「……ありがとう……自分を大切に、か。……努力してみる」
彼女は再び、無機質な壁を築き始めた。
けれど、僕は確信していた。
いつかその壁を壊し、彼女を地獄から引き摺り出してみせる。彼女に、この内地の穏やかな光の下で、一人の女性として笑う喜びを教えてみせる。
それが、僕という男の、静かな恋の始まりだった。
石造りの街並みを彩るガス灯の光。酒場から漏れ聞こえる笑い声。調査兵団の夜が、明日への恐怖を押し殺すための静寂であるならば、ここでの夜は、今日という日を謳歌するための祝祭だった。
憲兵団の制服を纏ったナマエは、ユリウスに促されるまま、街の喧騒から少し離れた落ち着いた店へと足を踏み入れた。磨かれた木製のテーブル。柔らかなクッション。運ばれてきたのは、調査兵団では見たこともないような繊細な装飾が施された料理と、深い赤を湛えた葡萄酒だった。
「……こんな贅沢。私のような兵士には、分不相応な気がします……」
ナマエは椅子に深く腰掛けることをせず、背筋を伸ばしたまま、丁寧な言葉を紡いだ。
彼女の指先は、まだどこかで立体機動のトリガーを探しているかのように、無意識に固く結ばれている。
「分不相応なんてことはないよ。君は誰よりも働き、誰よりも成果を出している。これは正当な対価だ。……僕が君をここに連れてきたかっただけなんだから」
ユリウスは向かい合わせの席で、優雅な手つきでグラスを傾けた。ユリウスの言葉には、相手との壁を取り払い、懐に滑り込むような、柔らかい親密さが宿っている。
「ナマエ。君は、いつも自分を追い込みすぎている。憲兵団に来てからも、君の目はまだ戦場にあるようだ」
「……任務ですから。完璧にこなすのが、私の役割。それ以外に、価値はありません」
ナマエの瞳には、かつてエルヴィンに拒まれ、封印された冷たい熱がまだ燻っている。
彼女にとって、自分を極限まで追い詰めることは、彼を失った穴を埋めるための唯一の手段だった。
「僕には、君が自分を罰しているように見えるよ」
ユリウスは静かに、けれど逃げ場を塞ぐような真剣な眼差しで、彼女を見つめた。
「無理をしなくていいんだ、ナマエ。ここでは、君は一人の有能な兵士である前に、一人の女性なんだよ。……僕にとっては、ね」
一人の、女性。
エルヴィンが、彼女に決して与えなかった名前。
エルヴィンは彼女を部下として、駒として、有害な感情を持つ者として扱った。彼は彼女から女としての属性を剥ぎ取り、ただの刃であることを強いた。
けれど、目の前の男は、彼女の強さも、弱さも、すべてを包み込むように女性として肯定しようとしている。
「女性、として……」
ナマエの喉の奥から、乾いた響きが漏れた。
ユリウスは、テーブル越しにそっと彼女の手に自分の手を重ねた。エルヴィンの手のような武骨な硬さはない。けれど、そこには確かな体温があった。
「そうだよ。戦う必要のない場所で、誰かのために身を削る必要もない。ただ、君が君として、ここで笑っていてくれればいい。……僕が、君にそれを教えたいんだ」
それは、弱っているナマエの心に染み渡る、優しい毒だった。エルヴィンの隣に立つために、彼女は自分という人間を殺し続けてきた。その果てに辿り着いた孤独な荒野で、この男は「無理をしなくていい」と甘い囁きをくれる。
「……ユリウスさん。私は、どうすればいいのか。……少し、わからなくなりました……っ」
ナマエは目を伏せ、重ねられたユリウスの手を振り払うことができなかった。
その夜、ナマエは初めて、エルヴィンのいない世界で、小さな微笑みを浮かべた。
それは、かつてのような情熱ではなく、安寧という名の諦念に近いものだったのかもしれない。
「ナマエ、僕たちは出会って間もないけど、年齢も近いし、憲兵団の仲間として親交を深めたいと思ってるんだ。よければ敬語をやめてくれると、とても嬉しいよ。……あと僕のことは、呼び捨てでいいよ」
「……わかった。……ユリウス。今夜のお茶は、とてもあたたかいね」
情緒を込めたその声は、夜の帳に静かに溶けていった。
―――
憲兵団本部の廊下を歩く彼女の姿は、いつ見ても見惚れるほどに無機質だった。
背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、軍靴の音は一定のリズムを刻む。周囲の憲兵たちが、酒や賄賂の話で弛んだ空気を漂わせている中で、ナマエだけが、磨き上げられた冷たい刃物のような鋭さを放っていた。
(……調査兵団、か)
僕は、自分の執務室の窓から、訓練場を横切る彼女の背中を眺めていた。
あそこから来た連中は、多かれ少なかれ壊れている。だが、彼女の壊れ方は特異だった。何かに絶望しているのではない。自分という人間を、自らの意志で徹底的に抹消しているように見えるのだ。
その日の深夜、僕は資料の確認のために資料室へ向かった。
扉の隙間から漏れる細い光。そこには、まだ机に向かっているナマエの姿があった。
「……まだ、仕事をしていたのか。あまり根を詰めると、明日の任務に響くよ」
僕の声に、彼女は音もなく顔を上げた。驚きも、困惑もない。ただ、深く静かな瞳が僕を射抜く。
「ユリウス。……ごめん。この資料の整理が済むまで、終わらせるつもり」
ナマエには相手を拒絶するような硬い壁がある。彼女の無機質な語り口こそが、彼女が自分を守るための鎧なのだと、僕は直感していた。
「少し休もう。……僕が茶を淹れてきたんだ。一口だけでいい、付き合ってくれないかな」
僕は彼女の返事も待たず、湯気の立つカップを机に置いた。ナマエは僅かに眉を寄せたが、やがて小さく息を吐き、ペンを置いた。
「……ありがとう。頂きます」
彼女がカップを手に取り、一口啜った、その時だった。
ふ、と。
彼女の視線が、机の片隅に置かれた、古びた地図の断片に止まった。それは内地のものではない。壁外調査で使われる、等高線と巨人の出現地点が細かく書き込まれた、血の跡が染み付いた地図。
その瞬間、彼女の顔から精密機械の仮面が剥がれ落ちた。
震える指先。
潤みを帯びた瞳。
それは、恋い焦がれる人を想う乙女の顔でも、死を恐れる兵士の顔でもなかった。
自分を捨て、自分を拒絶した地獄そのものを、今なお狂おしいほどに愛惜している――殉教者の顔だった。
(……あぁ、そうか。君は)
僕の心臓が、不意に大きく跳ねた。
完璧だと思っていた彫像の、たった一箇所のひび割れ。そこから溢れ出したのは、あまりにも深すぎて、内地で安穏と生きてきた僕には到底理解できないほどの、昏い情念だった。
誰かに、これほどまでに、自分を破壊するほどに想われる男が、この世界のどこかにいる。
その事実に対する猛烈な嫉妬と、同時に、そのひび割れを僕の手で埋めてあげたいという、傲慢なまでの独占欲が、僕の中で鎌首をもたげた。
「……ナマエ」
僕は、無意識に彼女の名前を呼んでいた。
彼女はハッとして、すぐに元の無表情に戻った。けれど、一度見てしまったものは、もう消せない。
「……何?」
「……いや。……その茶、冷めないうちに飲んで。君は、もう少し自分を大切にするべきだ。」
僕の言葉に、ナマエは不思議そうに小首を傾げた。
まだ、彼女は気づいていない。
彼女の孤独に、彼女の欠落に、一人の男が魅了されてしまったことに。
「……ありがとう……自分を大切に、か。……努力してみる」
彼女は再び、無機質な壁を築き始めた。
けれど、僕は確信していた。
いつかその壁を壊し、彼女を地獄から引き摺り出してみせる。彼女に、この内地の穏やかな光の下で、一人の女性として笑う喜びを教えてみせる。
それが、僕という男の、静かな恋の始まりだった。
