心臓のゆくえ
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
調査兵団本部におけるナマエの評価は、わずか一ヶ月足らずで劇的な変貌を遂げていた。
かつての彼女は、エルヴィンという太陽を追いかける、ひたむきで熱烈な一人の女性だった。その熱量は周囲を呆れさせ、同時にどこか安心させる人間味に満ちていた。
だが、今の彼女を形容する言葉は、ただ一つ。
精密機械だ。
訓練場の土煙の中、ナマエの体躯が弾丸のように跳ねる。
対人格闘訓練。相手は筋骨隆々とした古参の兵士だが、ナマエの動きには一切の躊躇がない。相手の重心の崩れを、瞬きの合間に見抜き、最短距離で頸動脈へと手刀を叩き込む。
無駄な力みはない。怒りも、高揚もない。
ただ、標的を無力化するという目的だけを最適化した、残酷なまでの合理性がそこにあった。
「……そこまで」
審判の役を務めていた兵士の声が、震えていた。
ナマエは即座に動きを止め、倒れ込んだ相手を助け起こすこともなく、ただ一礼してその場を去る。その瞳は、磨き上げられた硝子玉のように冷たく、何も映していない。
「また、記録更新ですね。ナマエ班長」
歩み寄った部下たちの言葉にも、彼女は微かに首を傾げるだけだった。
「効率を求めた結果です。当然の推移。……次の訓練へ」
その声には、かつての柔らかさは微塵も残っていない。感情を通わせるための隙間が、一ミリも存在しなかった。
同時刻、団長執務室。
エルヴィンの机の上には、一束の報告書が置かれていた。それは直近の兵員査定と、模擬戦の結果をまとめたものだ。
エルヴィンの視線が、ある一点で止まる。
『ナマエ班長:座学、対人、立体機動。全項目において歴代最高値を記録。特筆すべきは戦術眼の急伸。自己の生存を考慮に入れない冷徹な判断力は、もはや恐怖を感じさせる域にある』
「……見ての通りだ、エルヴィン」
ソファに深く腰掛けたリヴァイが、不機嫌そうに言った。
「あいつは、お前の『有能な駒』になった。感情を殺し、私情を捨て、ただ巨人を殺すためだけの刃にな。……満足か」
エルヴィンは答えない。
彼は無言のまま、報告書に記されたナマエの成績を見つめていた。
そこにある数字は、彼女がどれほど過酷に自分を追い込み、どれほどの何かを削り落としてきたかを物語っている。かつて、夜の執務室で温かな茶を差し出し、雨の中で「愛している」と縋った女性の面影は、この書類のどこにも存在しなかった。
「……彼女は、私の指示に従った。別の道を探せ、と言った私の言葉を、彼女なりに咀嚼した結果がこれだ」
エルヴィンの声は、凪いだ海のように平坦だった。
だが、その手の中で、報告書の端が僅かに折れ曲がる。
「フン、そうだな。あいつはもう、お前の顔色を窺うこともしねえ。廊下ですれ違っても、完璧な敬礼をして通り過ぎるだけだ。まるで、最初からそこに誰もいないかのように」
リヴァイが立ち上がり、部屋を出ようとして足を止める。
「……お前が望んだことだ、エルヴィン。だがな、あいつのあの目は……死んでる奴より、ずっとタチが悪いぜ」
扉が閉まり、執務室に沈黙が戻る。
エルヴィンは椅子に深く背を預け、窓の外を見つめた。
夕闇の中、一人で黙々とブレードを研いでいるナマエの姿が遠くに見える。彼女は一度も、こちらを見上げない。
かつて、彼は彼女の視線を有害だと撥ねつけた。
向けられる無垢な情熱が、自分の理性を狂わせることを恐れたからだ。
だが、いざその視線が完全に消え失せてみると、胸の奥底に生じた空白の正体が、彼には分からなかった。
感情を殺した目で。
彼は彼女の数字を、その研ぎ澄まされた背中を、いつまでも網膜に焼き付けていた。
「……あぁ、そうだ。これでいい」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉が、空虚に響く。
彼女は覚醒した。
それは、彼が求めた理想の兵士の誕生であり。
同時に、彼が唯一、自分を人間として繋ぎ止めていた細い糸を、自らの手で断ち切った瞬間でもあった。
二人の間の距離は、もはや物理的なものではなかった。
同じ場所にいながら、決して交わらない。平行線のまま、地獄へと突き進む二つの魂がそこにはあった。
数日後。
調査兵団の本部を包む空気は、以前にも増して張り詰めている。それは差し迫った壁外調査の予感だけでなく、一人の兵士が放つ、人を寄せ付けぬほどに鋭利な気配のせいでもあった。
ナマエは、訓練場の片隅で個人用の装備を点検していた。ブレードの刃毀れ、ガスの残量、立体機動装置のワイヤーの巻取り速度。すべてを数値で把握し、完璧な状態に調整する。その指先に迷いはなく、かつての彼女が持っていた、どこか人間らしい揺らぎは一切排除されていた。
「失礼する。ナマエ班長」
背後からかけられた声に振り返ると、そこには見慣れぬ制服を纏った男が立っていた。背中には自由の翼ではなく、権威の象徴である一角獣。憲兵団の幹部だった。
「私に何のご用でしょうか。……今は、整備中なんですが」
「単刀直入に言おう。君を、我が憲兵団へ引き抜きたい。これはスカウトではなく、特例の移籍打診だ」
男は、ナマエの目元の冷たさに一瞬気圧されながらも、一枚の書面を差し出した。
そこには、内地での特権的な待遇と、彼女のこれまでの戦績を高く評価する文言が並んでいた。本来、調査兵団から憲兵団への移籍は、異例中の異例だ。
「君の最近の戦績は、内地まで届いているよ。感情を排した戦術眼、無駄のない格闘。腐敗した空気の多い我が兵団において、君のような『純粋な刃』を欲している。……どうかな。死と隣り合わせの地獄を抜け、王の側近としてその腕を振るう気はないか?」
ナマエは書面に目を落とした。
かつての彼女であれば、鼻で笑って断っていただろう。「エルヴィン団長のいない場所など、私にとっては虚無と同じ」だと。だが今の彼女にとって、調査兵団に留まる理由の根幹――エルヴィンを支えるという目的――は、彼自身によって有害だと切り捨てられていた。
「……即答は、できないです。考える時間をください」
「よかろう。だが、返事は早めに頼む。これは上官同士でも既に話し合われていることだからな」
男が去った後、ナマエは独り、秋の高く冷たい空を仰いだ。かつて、この空の下で、彼女は彼にすべてを懸けていた。
深夜。
ナマエは、エルヴィンの執務室へと続く階段の踊り場で立ち止まった。見上げれば、最上階の一角にだけ、まだ明かりが灯っていた。
あの中には、彼がいる。
人類の未来を背負い、孤独という名の椅子に腰を下ろした、冷徹な指揮官。
かつては、あの明かりを目指して、自分を磨き、声をかけ、拒まれ続けても、その背中を追いかけた。
けれど。
ナマエは一度だけ、その執務室の窓を、長く、静かに見上げた。心の中に巨大な不発弾を抱えたまま、彼女は悟る。
ここにいて、彼の視界に有能な駒として入り続けることは、皮肉にも、彼女自身の心を摩耗させる一方だった。彼が有害だと言った私の感情は、まだ消えてはいない。ただ、深く、深く封印しているだけだ。
もし、この封印が解ければ。その時こそ、私は彼の望む兵士ではなくなってしまう。
(……なら、別の道を、探すのが正解なんだ)
ナマエは視線を落とし、迷いを断ち切るように背を向けた。
翌朝、団長執務室。
エルヴィンの前には、憲兵団からの要請書と、ナマエ本人の署名が入った移籍承諾書が並んでいた。
「……ナマエ班長。これは、君の本意か」
エルヴィンは、一度も彼女の目を見ずに問いかけた。
彼の声は驚くほどに平坦で、そこに引き止めようとする情愛も、優秀な部下を失うことへの惜別も、一切感じられなかった。
「はい。私は、憲兵団へ行きます」
ナマエの声もまた、鏡のように平坦だった。
「そうか。……君の意思を尊重する」
エルヴィンはペンを取り、淀みのない動作で承認のサインを書き込んだ。紙の上でペン先が走る音だけが、静かな部屋に響く。
「……以上だ。移籍の手続きは速やかに行われる。それまでの間、残務をこなしてくれ」
「了解しました。失礼します」
ナマエは完璧な敬礼をし、退室した。
扉が閉まるその瞬間まで、エルヴィンが顔を上げることはなかった。
一人残された部屋で、エルヴィンは、自分がサインした書類を見つめていた。
『ナマエ:憲兵団への移籍を承認する』
その文字は、彼自身の意志によって、彼女を完全に自分の圏外へと放り出したことを証明していた。
「……これでいい」
彼は呟いた。
彼女は、死と隣り合わせの調査兵団から、安全な内地へと行く。それは兵団としての損失だが、彼女という一個人の命を守るためには、もっとも合理的な選択だ。感情を殺したエルヴィンの瞳に、一瞬だけ、形容しがたい影が過る。
だが、彼はすぐにその影を振り払い、次の書類へと手を伸ばした。
自分の心臓が、わずかに冷たく凍りついたことにさえ、気づかないふりをして。
かつての彼女は、エルヴィンという太陽を追いかける、ひたむきで熱烈な一人の女性だった。その熱量は周囲を呆れさせ、同時にどこか安心させる人間味に満ちていた。
だが、今の彼女を形容する言葉は、ただ一つ。
精密機械だ。
訓練場の土煙の中、ナマエの体躯が弾丸のように跳ねる。
対人格闘訓練。相手は筋骨隆々とした古参の兵士だが、ナマエの動きには一切の躊躇がない。相手の重心の崩れを、瞬きの合間に見抜き、最短距離で頸動脈へと手刀を叩き込む。
無駄な力みはない。怒りも、高揚もない。
ただ、標的を無力化するという目的だけを最適化した、残酷なまでの合理性がそこにあった。
「……そこまで」
審判の役を務めていた兵士の声が、震えていた。
ナマエは即座に動きを止め、倒れ込んだ相手を助け起こすこともなく、ただ一礼してその場を去る。その瞳は、磨き上げられた硝子玉のように冷たく、何も映していない。
「また、記録更新ですね。ナマエ班長」
歩み寄った部下たちの言葉にも、彼女は微かに首を傾げるだけだった。
「効率を求めた結果です。当然の推移。……次の訓練へ」
その声には、かつての柔らかさは微塵も残っていない。感情を通わせるための隙間が、一ミリも存在しなかった。
同時刻、団長執務室。
エルヴィンの机の上には、一束の報告書が置かれていた。それは直近の兵員査定と、模擬戦の結果をまとめたものだ。
エルヴィンの視線が、ある一点で止まる。
『ナマエ班長:座学、対人、立体機動。全項目において歴代最高値を記録。特筆すべきは戦術眼の急伸。自己の生存を考慮に入れない冷徹な判断力は、もはや恐怖を感じさせる域にある』
「……見ての通りだ、エルヴィン」
ソファに深く腰掛けたリヴァイが、不機嫌そうに言った。
「あいつは、お前の『有能な駒』になった。感情を殺し、私情を捨て、ただ巨人を殺すためだけの刃にな。……満足か」
エルヴィンは答えない。
彼は無言のまま、報告書に記されたナマエの成績を見つめていた。
そこにある数字は、彼女がどれほど過酷に自分を追い込み、どれほどの何かを削り落としてきたかを物語っている。かつて、夜の執務室で温かな茶を差し出し、雨の中で「愛している」と縋った女性の面影は、この書類のどこにも存在しなかった。
「……彼女は、私の指示に従った。別の道を探せ、と言った私の言葉を、彼女なりに咀嚼した結果がこれだ」
エルヴィンの声は、凪いだ海のように平坦だった。
だが、その手の中で、報告書の端が僅かに折れ曲がる。
「フン、そうだな。あいつはもう、お前の顔色を窺うこともしねえ。廊下ですれ違っても、完璧な敬礼をして通り過ぎるだけだ。まるで、最初からそこに誰もいないかのように」
リヴァイが立ち上がり、部屋を出ようとして足を止める。
「……お前が望んだことだ、エルヴィン。だがな、あいつのあの目は……死んでる奴より、ずっとタチが悪いぜ」
扉が閉まり、執務室に沈黙が戻る。
エルヴィンは椅子に深く背を預け、窓の外を見つめた。
夕闇の中、一人で黙々とブレードを研いでいるナマエの姿が遠くに見える。彼女は一度も、こちらを見上げない。
かつて、彼は彼女の視線を有害だと撥ねつけた。
向けられる無垢な情熱が、自分の理性を狂わせることを恐れたからだ。
だが、いざその視線が完全に消え失せてみると、胸の奥底に生じた空白の正体が、彼には分からなかった。
感情を殺した目で。
彼は彼女の数字を、その研ぎ澄まされた背中を、いつまでも網膜に焼き付けていた。
「……あぁ、そうだ。これでいい」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉が、空虚に響く。
彼女は覚醒した。
それは、彼が求めた理想の兵士の誕生であり。
同時に、彼が唯一、自分を人間として繋ぎ止めていた細い糸を、自らの手で断ち切った瞬間でもあった。
二人の間の距離は、もはや物理的なものではなかった。
同じ場所にいながら、決して交わらない。平行線のまま、地獄へと突き進む二つの魂がそこにはあった。
数日後。
調査兵団の本部を包む空気は、以前にも増して張り詰めている。それは差し迫った壁外調査の予感だけでなく、一人の兵士が放つ、人を寄せ付けぬほどに鋭利な気配のせいでもあった。
ナマエは、訓練場の片隅で個人用の装備を点検していた。ブレードの刃毀れ、ガスの残量、立体機動装置のワイヤーの巻取り速度。すべてを数値で把握し、完璧な状態に調整する。その指先に迷いはなく、かつての彼女が持っていた、どこか人間らしい揺らぎは一切排除されていた。
「失礼する。ナマエ班長」
背後からかけられた声に振り返ると、そこには見慣れぬ制服を纏った男が立っていた。背中には自由の翼ではなく、権威の象徴である一角獣。憲兵団の幹部だった。
「私に何のご用でしょうか。……今は、整備中なんですが」
「単刀直入に言おう。君を、我が憲兵団へ引き抜きたい。これはスカウトではなく、特例の移籍打診だ」
男は、ナマエの目元の冷たさに一瞬気圧されながらも、一枚の書面を差し出した。
そこには、内地での特権的な待遇と、彼女のこれまでの戦績を高く評価する文言が並んでいた。本来、調査兵団から憲兵団への移籍は、異例中の異例だ。
「君の最近の戦績は、内地まで届いているよ。感情を排した戦術眼、無駄のない格闘。腐敗した空気の多い我が兵団において、君のような『純粋な刃』を欲している。……どうかな。死と隣り合わせの地獄を抜け、王の側近としてその腕を振るう気はないか?」
ナマエは書面に目を落とした。
かつての彼女であれば、鼻で笑って断っていただろう。「エルヴィン団長のいない場所など、私にとっては虚無と同じ」だと。だが今の彼女にとって、調査兵団に留まる理由の根幹――エルヴィンを支えるという目的――は、彼自身によって有害だと切り捨てられていた。
「……即答は、できないです。考える時間をください」
「よかろう。だが、返事は早めに頼む。これは上官同士でも既に話し合われていることだからな」
男が去った後、ナマエは独り、秋の高く冷たい空を仰いだ。かつて、この空の下で、彼女は彼にすべてを懸けていた。
深夜。
ナマエは、エルヴィンの執務室へと続く階段の踊り場で立ち止まった。見上げれば、最上階の一角にだけ、まだ明かりが灯っていた。
あの中には、彼がいる。
人類の未来を背負い、孤独という名の椅子に腰を下ろした、冷徹な指揮官。
かつては、あの明かりを目指して、自分を磨き、声をかけ、拒まれ続けても、その背中を追いかけた。
けれど。
ナマエは一度だけ、その執務室の窓を、長く、静かに見上げた。心の中に巨大な不発弾を抱えたまま、彼女は悟る。
ここにいて、彼の視界に有能な駒として入り続けることは、皮肉にも、彼女自身の心を摩耗させる一方だった。彼が有害だと言った私の感情は、まだ消えてはいない。ただ、深く、深く封印しているだけだ。
もし、この封印が解ければ。その時こそ、私は彼の望む兵士ではなくなってしまう。
(……なら、別の道を、探すのが正解なんだ)
ナマエは視線を落とし、迷いを断ち切るように背を向けた。
翌朝、団長執務室。
エルヴィンの前には、憲兵団からの要請書と、ナマエ本人の署名が入った移籍承諾書が並んでいた。
「……ナマエ班長。これは、君の本意か」
エルヴィンは、一度も彼女の目を見ずに問いかけた。
彼の声は驚くほどに平坦で、そこに引き止めようとする情愛も、優秀な部下を失うことへの惜別も、一切感じられなかった。
「はい。私は、憲兵団へ行きます」
ナマエの声もまた、鏡のように平坦だった。
「そうか。……君の意思を尊重する」
エルヴィンはペンを取り、淀みのない動作で承認のサインを書き込んだ。紙の上でペン先が走る音だけが、静かな部屋に響く。
「……以上だ。移籍の手続きは速やかに行われる。それまでの間、残務をこなしてくれ」
「了解しました。失礼します」
ナマエは完璧な敬礼をし、退室した。
扉が閉まるその瞬間まで、エルヴィンが顔を上げることはなかった。
一人残された部屋で、エルヴィンは、自分がサインした書類を見つめていた。
『ナマエ:憲兵団への移籍を承認する』
その文字は、彼自身の意志によって、彼女を完全に自分の圏外へと放り出したことを証明していた。
「……これでいい」
彼は呟いた。
彼女は、死と隣り合わせの調査兵団から、安全な内地へと行く。それは兵団としての損失だが、彼女という一個人の命を守るためには、もっとも合理的な選択だ。感情を殺したエルヴィンの瞳に、一瞬だけ、形容しがたい影が過る。
だが、彼はすぐにその影を振り払い、次の書類へと手を伸ばした。
自分の心臓が、わずかに冷たく凍りついたことにさえ、気づかないふりをして。
