心臓のゆくえ
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空は、鉛色の重圧に押し潰されていた。
午後から降り始めた雨は、夕刻を過ぎる頃には容赦のない氷の粒へと変わり、石造りの調査兵団本部を白く煙らせている。
ナマエは、中庭に続く回廊の隅で足を止めた。
雨音に混じって、わずかな衣擦れの音が聞こえる。
視線の先、雨に打たれるまま微動だにせず立つ男がいた。
エルヴィンは傘も差さず、雨避けの外套さえ羽織らぬまま、灰色の空を仰いでいた。その肩には冷たい水滴が無数に弾け、金色の髪は地肌に張り付いている。
「団長。……こんな雨の中にいては、体が冷え切ってしまいます。執務室へ戻りましょう」
ナマエは自分の肩が濡れるのも構わず、彼のもとへ歩み寄った。差し出した傘は、彼に届く前に風に煽られる。
エルヴィンはゆっくりと視線を下ろした。その瞳は、降り注ぐ雨よりも冷たく、透き通っている。いつも彼が纏っている完璧な指揮官という鎧が、雨によって洗い流されたかのような、剥き出しの静寂がそこにあった。
「……ナマエか」
「はい。顔色が良くありません。戻って、乾いた服に着替えてください」
「必要ない。この程度の冷たさは、麻痺した感覚を呼び戻すのに丁度いい」
エルヴィンの声は、雨の壁に遮られて低く響く。
ナマエは傘を握る手に力を込めた。リヴァイから聞いた言葉が、胸の奥で棘のように刺さっている。「悪魔と心中するのと同じだ」という、あの忠告。
「リヴァイ兵長から聞きました。貴方が、自分を人間だと思っていないという話を。……特定の誰かを愛するつもりなど、毛頭ないということも」
ナマエの声は、微かに震えていた。それは寒さのせいか、それとも彼に触れたいと願う心の拒絶反応か。
エルヴィンはフッと、自嘲気味に口角を上げた。その笑みはあまりにも儚く、そしてあまりにも残酷だった。
「リヴァイは、余計なことを。……だが、事実だ」
彼は一歩、ナマエへと踏み出した。
雨の飛沫が二人の間を埋める。至近距離で見上げる彼の瞳には、慈しみのかけらもなかった。あるのは、無限に広がる地獄のような責任感と、消えない渇望だけだ。
「私はいつ死ぬかわからない。明日には巨人の腹の中かもしれないし、部下の屍の上に立っているかもしれない。そんな男に、誰かを幸せにする資格があると思うか。……私には、特定の誰かを愛する余裕など、一分一秒たりとも残されてはいないのだ」
一言一句が、ナマエの心臓に氷の釘を打ち込んでいく。
彼は自分の幸福を、最初から計算式に入れていない。彼の人生という盤面には、人類の勝利と、彼が追い求める真実以外の駒は存在しないのだ。そこにナマエという女性の居場所は、一点の隙間もなかった。
「……それでも。それでも、私は貴方の側にいたいです」
ナマエは顔を上げ、彼の胸元を掴もうとして、その手を止めた。濡れた軍服の感触さえ、今は遠い。
「貴方が自分を幸せにしないと言うなら、私がそれを補います。貴方が特定の誰かを愛せないと言うなら、私が一方的に愛するだけで構いません。……私の存在が、貴方の邪魔にならない場所でいい。ただ、その背中を守らせてください」
それは、誇り高い一人の兵士としての、そして一人の女としての、悲痛なまでの嘆願だった。
しかし、エルヴィンは彼女の手を優しく払うことさえしなかった。彼はただ、無機質な眼差しで彼女を見下ろし、宣告した。
「それは、君の勝手だ。だが、私は君に何も返さない。君がどれほど身を削ろうと、私の心は動かない。……それでも、この地獄に付き合うというのか」
「……はい。それが、私の選んだ道です」
ナマエの瞳から溢れたのは、雨だったのか、涙だったのか。エルヴィンはそれ以上何も言わず、彼女の横を通り過ぎていった。
濡れた石畳を打つ彼の足音が、遠ざかっていく。
残されたナマエは、激しさを増す雨の中で立ち尽くした。体温は奪われ、指先は感覚を失っていく。けれど、胸の奥に宿った熱だけは、氷の誓いとともに鋭く尖り続けていた。
彼が愛してくれないのなら、せめて彼の一部として死ねればいい。彼が幸せを拒むなら、私は彼の苦悩を共有する影になればいい。
「……寒い、ね」
誰に届くこともない独り言が、冷たい風にさらわれていった。ナマエの心の中に、巨大な不発弾が埋まった瞬間だった。
数日後の夜。
調査兵団兵舎の端、ナマエの自室には、消え入りそうな蝋燭の火が一つだけ揺れている。
机の上には、数冊の手帳と、長年使い込まれた私物が整然と並べられていた。ナマエはそれらを一つずつ手に取り、指先で感触を確かめ、そして静かに麻袋へと収めていく。その手つきは、明日、人生最大の賭けに出る者の準備というよりは、自らの葬儀を前にした死者の身辺整理のようだった。
「……これだけ、か」
独り言が、冷たい壁に跳ね返る。
最後に残ったのは、表紙の擦り切れた一冊の小さな手帳だった。
訓練兵時代から今日に至るまで、決して人には見せず、肌身離さず持ち歩いてきた彼女の聖域。そこには、エルヴィンという男を追い続けた、血を吐くような恋の記録が刻まれている。
ナマエは震える指で、その頁を捲った。
『今日、彼と目が合った。ただの兵士としての検分だと分かっていても、鼓動がうるさい』
『また、一蹴された。私情を挟むなと。……それでも、彼の瞳に宿る孤独を、私はどうしても放っておけない』
書き連ねられた言葉の数々は、どれもがナマエという一人の女性の、剥き出しの悲鳴だった。
明日、彼女は最後のアタックを仕掛ける。
もし、これでも彼が自分を見てくれないのなら。もし、一人の女としての自分を彼が拒絶するのなら。その時は、もうこの心に価値はない。
だからこそ、これは彼女にとっての遺書だった。
ナマエはペンを握り直し、空白の最終頁に、これまで決して口に出せなかった想いを、溢れ出すままに書き込み始めた。
「エルヴィン団長。私は明日、貴方にすべてを伝えます。
兵士としてではなく、貴方を愛する一人の人間として。
もし貴方が受け入れてくれるなら、私はこの世で一番幸せな女になります。
けれど、もし。もし貴方が私を拒むなら……。
私は、貴方の隣に立つために、この熱を、この震えを、すべて灰にして埋める。
貴方の望む完璧な『駒』になる。……だから。
好きです。
好き。
世界で一番、貴方を愛している。
愛しています。……さようなら、昨日までの私」
文字が、溢れた涙で僅かに滲む。
何度も、何度も書き連ねた好きという言葉。
それは彼女が女性として、一人の人間として、この残酷な世界に踏み止まるための、最後の手綱だった。
夜が更ける。
ナマエは手帳を抱きしめたまま、冷たい床で眠りについた。
それが、彼女が恋するナマエとして過ごした、最期の純粋な夜となった。
翌朝。
冷たい朝露が窓を濡らす頃、ナマエは音もなく目を覚ました。
その瞳からは、昨夜の湿った熱が、潮が引くように消え去っていた。
彼女は無言で起き上がると、昨夜書き上げたばかりの手帳を手に取った。
彼女は瓶に入った真っ黒なインクを取り出すと、筆を浸し、迷いのない動作で頁を塗り潰し始めた。
『好き』。
その二文字を、上から真っ黒な太線で消していく。
『愛している』。
その言葉を、一滴の光も通さないほどに、深く、重く、インクで埋めていく。
頁を捲るたびに、彼女のこれまでの日々が、彼女の情緒が、そして彼女の女としての愛が、漆黒の闇の中へと葬られていく。
(……もし、今日断られたら。この黒い頁が、私の新しい中身になる)
最後の頁まで、彼女は一点の躊躇もなく塗り潰し続けた。
やがて、手帳のすべての文字が黒い塊へと変わった。
それはもはや日記ではなく、彼女という個人の墓標のように見えた。
「……完了」
ナマエは、真っ黒に染まった手帳を机の引き出しの奥へと押し込んだ。
鏡の中に映るのは、完璧に整えられた身なりをした、温度のない兵士だった。
ベルトを締め直し、マントを羽織る。
これから向かうのは、愛を請うための告白ではない。
受け入れられなければ自分を完全に破壊し、彼の一部として殉ずるための、最後の手続きだ。
朝日を浴びる彼女の背中には、もう、人としての揺らぎさえも差していないように見えた。
午後から降り始めた雨は、夕刻を過ぎる頃には容赦のない氷の粒へと変わり、石造りの調査兵団本部を白く煙らせている。
ナマエは、中庭に続く回廊の隅で足を止めた。
雨音に混じって、わずかな衣擦れの音が聞こえる。
視線の先、雨に打たれるまま微動だにせず立つ男がいた。
エルヴィンは傘も差さず、雨避けの外套さえ羽織らぬまま、灰色の空を仰いでいた。その肩には冷たい水滴が無数に弾け、金色の髪は地肌に張り付いている。
「団長。……こんな雨の中にいては、体が冷え切ってしまいます。執務室へ戻りましょう」
ナマエは自分の肩が濡れるのも構わず、彼のもとへ歩み寄った。差し出した傘は、彼に届く前に風に煽られる。
エルヴィンはゆっくりと視線を下ろした。その瞳は、降り注ぐ雨よりも冷たく、透き通っている。いつも彼が纏っている完璧な指揮官という鎧が、雨によって洗い流されたかのような、剥き出しの静寂がそこにあった。
「……ナマエか」
「はい。顔色が良くありません。戻って、乾いた服に着替えてください」
「必要ない。この程度の冷たさは、麻痺した感覚を呼び戻すのに丁度いい」
エルヴィンの声は、雨の壁に遮られて低く響く。
ナマエは傘を握る手に力を込めた。リヴァイから聞いた言葉が、胸の奥で棘のように刺さっている。「悪魔と心中するのと同じだ」という、あの忠告。
「リヴァイ兵長から聞きました。貴方が、自分を人間だと思っていないという話を。……特定の誰かを愛するつもりなど、毛頭ないということも」
ナマエの声は、微かに震えていた。それは寒さのせいか、それとも彼に触れたいと願う心の拒絶反応か。
エルヴィンはフッと、自嘲気味に口角を上げた。その笑みはあまりにも儚く、そしてあまりにも残酷だった。
「リヴァイは、余計なことを。……だが、事実だ」
彼は一歩、ナマエへと踏み出した。
雨の飛沫が二人の間を埋める。至近距離で見上げる彼の瞳には、慈しみのかけらもなかった。あるのは、無限に広がる地獄のような責任感と、消えない渇望だけだ。
「私はいつ死ぬかわからない。明日には巨人の腹の中かもしれないし、部下の屍の上に立っているかもしれない。そんな男に、誰かを幸せにする資格があると思うか。……私には、特定の誰かを愛する余裕など、一分一秒たりとも残されてはいないのだ」
一言一句が、ナマエの心臓に氷の釘を打ち込んでいく。
彼は自分の幸福を、最初から計算式に入れていない。彼の人生という盤面には、人類の勝利と、彼が追い求める真実以外の駒は存在しないのだ。そこにナマエという女性の居場所は、一点の隙間もなかった。
「……それでも。それでも、私は貴方の側にいたいです」
ナマエは顔を上げ、彼の胸元を掴もうとして、その手を止めた。濡れた軍服の感触さえ、今は遠い。
「貴方が自分を幸せにしないと言うなら、私がそれを補います。貴方が特定の誰かを愛せないと言うなら、私が一方的に愛するだけで構いません。……私の存在が、貴方の邪魔にならない場所でいい。ただ、その背中を守らせてください」
それは、誇り高い一人の兵士としての、そして一人の女としての、悲痛なまでの嘆願だった。
しかし、エルヴィンは彼女の手を優しく払うことさえしなかった。彼はただ、無機質な眼差しで彼女を見下ろし、宣告した。
「それは、君の勝手だ。だが、私は君に何も返さない。君がどれほど身を削ろうと、私の心は動かない。……それでも、この地獄に付き合うというのか」
「……はい。それが、私の選んだ道です」
ナマエの瞳から溢れたのは、雨だったのか、涙だったのか。エルヴィンはそれ以上何も言わず、彼女の横を通り過ぎていった。
濡れた石畳を打つ彼の足音が、遠ざかっていく。
残されたナマエは、激しさを増す雨の中で立ち尽くした。体温は奪われ、指先は感覚を失っていく。けれど、胸の奥に宿った熱だけは、氷の誓いとともに鋭く尖り続けていた。
彼が愛してくれないのなら、せめて彼の一部として死ねればいい。彼が幸せを拒むなら、私は彼の苦悩を共有する影になればいい。
「……寒い、ね」
誰に届くこともない独り言が、冷たい風にさらわれていった。ナマエの心の中に、巨大な不発弾が埋まった瞬間だった。
数日後の夜。
調査兵団兵舎の端、ナマエの自室には、消え入りそうな蝋燭の火が一つだけ揺れている。
机の上には、数冊の手帳と、長年使い込まれた私物が整然と並べられていた。ナマエはそれらを一つずつ手に取り、指先で感触を確かめ、そして静かに麻袋へと収めていく。その手つきは、明日、人生最大の賭けに出る者の準備というよりは、自らの葬儀を前にした死者の身辺整理のようだった。
「……これだけ、か」
独り言が、冷たい壁に跳ね返る。
最後に残ったのは、表紙の擦り切れた一冊の小さな手帳だった。
訓練兵時代から今日に至るまで、決して人には見せず、肌身離さず持ち歩いてきた彼女の聖域。そこには、エルヴィンという男を追い続けた、血を吐くような恋の記録が刻まれている。
ナマエは震える指で、その頁を捲った。
『今日、彼と目が合った。ただの兵士としての検分だと分かっていても、鼓動がうるさい』
『また、一蹴された。私情を挟むなと。……それでも、彼の瞳に宿る孤独を、私はどうしても放っておけない』
書き連ねられた言葉の数々は、どれもがナマエという一人の女性の、剥き出しの悲鳴だった。
明日、彼女は最後のアタックを仕掛ける。
もし、これでも彼が自分を見てくれないのなら。もし、一人の女としての自分を彼が拒絶するのなら。その時は、もうこの心に価値はない。
だからこそ、これは彼女にとっての遺書だった。
ナマエはペンを握り直し、空白の最終頁に、これまで決して口に出せなかった想いを、溢れ出すままに書き込み始めた。
「エルヴィン団長。私は明日、貴方にすべてを伝えます。
兵士としてではなく、貴方を愛する一人の人間として。
もし貴方が受け入れてくれるなら、私はこの世で一番幸せな女になります。
けれど、もし。もし貴方が私を拒むなら……。
私は、貴方の隣に立つために、この熱を、この震えを、すべて灰にして埋める。
貴方の望む完璧な『駒』になる。……だから。
好きです。
好き。
世界で一番、貴方を愛している。
愛しています。……さようなら、昨日までの私」
文字が、溢れた涙で僅かに滲む。
何度も、何度も書き連ねた好きという言葉。
それは彼女が女性として、一人の人間として、この残酷な世界に踏み止まるための、最後の手綱だった。
夜が更ける。
ナマエは手帳を抱きしめたまま、冷たい床で眠りについた。
それが、彼女が恋するナマエとして過ごした、最期の純粋な夜となった。
翌朝。
冷たい朝露が窓を濡らす頃、ナマエは音もなく目を覚ました。
その瞳からは、昨夜の湿った熱が、潮が引くように消え去っていた。
彼女は無言で起き上がると、昨夜書き上げたばかりの手帳を手に取った。
彼女は瓶に入った真っ黒なインクを取り出すと、筆を浸し、迷いのない動作で頁を塗り潰し始めた。
『好き』。
その二文字を、上から真っ黒な太線で消していく。
『愛している』。
その言葉を、一滴の光も通さないほどに、深く、重く、インクで埋めていく。
頁を捲るたびに、彼女のこれまでの日々が、彼女の情緒が、そして彼女の女としての愛が、漆黒の闇の中へと葬られていく。
(……もし、今日断られたら。この黒い頁が、私の新しい中身になる)
最後の頁まで、彼女は一点の躊躇もなく塗り潰し続けた。
やがて、手帳のすべての文字が黒い塊へと変わった。
それはもはや日記ではなく、彼女という個人の墓標のように見えた。
「……完了」
ナマエは、真っ黒に染まった手帳を机の引き出しの奥へと押し込んだ。
鏡の中に映るのは、完璧に整えられた身なりをした、温度のない兵士だった。
ベルトを締め直し、マントを羽織る。
これから向かうのは、愛を請うための告白ではない。
受け入れられなければ自分を完全に破壊し、彼の一部として殉ずるための、最後の手続きだ。
朝日を浴びる彼女の背中には、もう、人としての揺らぎさえも差していないように見えた。
