心臓のゆくえ
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一ヶ月後。
壁外調査への出発を三日後に控え、調査兵団本部は嵐の前の静けさを孕んだ喧騒の中にあった。
石造りの回廊には、軍靴が床を叩く硬い音と、馬の嘶き、そして立体機動装置のワイヤーを点検する鋭い金属音が反響している。兵士たちの顔には、生還への不安と、それを塗り潰すための使命感が入り混じり、独特の重圧が立ち込めていた。
ナマエは、中庭に面した風通しの良い作業場で、個人用ブレードの刃を研いでいた。
砥石と鋼が擦れ合う音。飛び散る火花。彼女の視線は、極限まで研ぎ澄まされた刃の曲線にのみ注がれている。
「……ねえ、聞いた? また憲兵団が『優秀な手駒』を探しているって話」
ふいに、数メートル先で馬具の点検をしていた後輩の女性兵士たちが、声を潜めて話し始めた。
本来、調査兵団と憲兵団は水と油のような関係だ。命を懸けて壁外を駆ける者たちにとって、内地の安寧に胡座をかく憲兵は、軽蔑の対象でしかない。
だが、今回流れてきた噂は、少し毛色が違っていた。
「上層部が本気で腐敗を正そうとしているらしいよ。それで、内地に潜む犯罪者を一掃するために、実力のある若手を引き抜こうとしているって」
「どうせ名ばかりの選考でしょ? でも……憲兵団にも、一人だけ『本物』がいるって噂だけど」
ナマエの耳に、その本物という言葉が、不意に滑り込んだ。手を止めず、彼女は無意識にその会話の続きを拾う。
「ユリウス副官。確か、名門の家柄なのに叩き上げで、今の地位を築いた人。……仕事は完璧で、立ち振る舞いも貴族みたいに優雅。おまけに、内地中の令嬢が放っておかないくらい、見栄えも良いんだって」
「砂漠のオアシス、みたいな人か。そんな人が憲兵団にいるなんて、信じられない」
ユリウス。
ナマエはその名前を、戦略上の情報の一つとして脳内の端に記録した。けれど、今のナマエにとって、その男はどこまでも遠い世界の住人に過ぎなかった。
(……憲兵団の、若き逸材。私には、縁のない話)
ナマエはブレードを光にかざし、刃毀れがないことを確認した。彼女が求めているのは、内地の安寧ではない。
返り血で汚れた深緑の外套、そして、その前を行く絶望的なまでに大きな背中。
エルヴィンという、泥にまみれた孤独な団長の隣こそが、彼女にとって唯一の戦場であり、生きる意義なのだ。
「――ナマエ班長。準備は進んでいるか」
背後から、低く、威厳に満ちた声が響く。
振り返らなくてもわかる。心臓を直接震わせるような、その響き。
ナマエは素早く立ち上がり、完璧な姿勢で敬礼を捧げた。
「団長。……はい。装備の調整はすべて完了しました。いつでも出撃可能です」
エルヴィンは、ナマエの磨き上げられたブレードを一瞥し、小さく頷いた。その視線には、先ほど兵士たちが話していたユリウスという男が持つ、貴族のような優雅さは一切ない。あるのは、ただ一人の有能な駒への信頼と、冷徹なまでの期待だけだ。
「……そうか。期待している」
エルヴィンはそれだけを残し、長い影を引いて立ち去っていった。ナマエは、その背中が完全に視界から消えるまで、敬礼を解かなかった。
内地の光も、完璧な貴公子の噂も、彼女の心臓に届くことはない。
エルヴィンの背中を追い、地獄へと突き進むその足取りに、迷いは一滴も混ざっていなかった。
……その決意が、いつか自分自身の意志で、内地のユリウスという光に手を伸ばすことになるとは、今の彼女は知る由もなかった。
――壁外調査、二日目の夜。
調査兵団の一行は、巨大な樹の森の入り口にある古びた廃墟に、一時的な拠点を構えていた。
外では冷たい夜風が吹き荒れ、巨人の徘徊を知らせる地響きが遠くで時折鳴り響く。兵士たちの多くは、極限の緊張から解放された束の間の眠りに落ちていたが、本部の即席指揮所には、まだ淡いランプの光が灯っていた。
「……明日の日の出とともに、第六班を先行させます。私はその三キロ後方を追従、煙弾の視認性を確保。……これでよろしいでしょうか」
ナマエは、古い木机に広げられた地図を指し示しながら、淀みのない声で言った。
彼女の指先は、数時間の行軍と巨人の迎撃を経た後とは思えないほど、正確に地図上の重要地点をなぞっている。丁寧な言葉遣いの中に、一切の疲労を感じさせないその姿は、理想的な兵士そのものだった。
向かい側に立つエルヴィンは、腕を組み、沈黙したまま地図を見つめていた。ランプの炎がチリチリと音を立てて揺れ、二人の影を石壁に長く、歪に映し出す。
「……団長?」
返り事がないことを不審に思い、ナマエが言葉を重ねようとした、その時だった。
エルヴィンの思考が、ふっと作戦の盤面から離れた。
至近距離で見る、ナマエの横顔。
寒さのせいで微かに赤くなった耳たぶ、結い上げた髪から零れ落ちた一筋の毛先。そして、どれほど過酷な状況下にあっても、決して揺らぐことのないその澄んだ瞳。
彼女は、自分を愛していると言った。
命を、心臓を、そのすべてを自分のために使い潰せと乞うた。
そんな狂気にも似た情熱を抱えながら、今、彼女は完璧な駒として自分の隣に立っている。その矛盾が、エルヴィンの胸の奥底に、名付けようのない重い楔を打ち込んだ。
(……私は、彼女をどこへ連れて行くつもりなのか)
地獄の先。真実の果て。
そこには、彼女を幸せにする光など一筋も差し込まない。
エルヴィンは無意識のうちに、地図を追うのをやめ、彼女の横顔を、じっと見つめていた。
その眼差しは、指揮官が部下を検分する冷徹なものではなく、零れ落ちそうな何かを必死に押し留めるような、ひどく危うい熱を孕んでいた。
数秒、あるいは数十秒。
部屋を支配した、あまりにも長い沈黙。
「…………団長?」
ナマエが地図から視線を上げ、不思議そうにエルヴィンを見上げる。その瞬間、エルヴィンは弾かれたように視線を地図へと戻した。彼の瞳からは、先ほどの熱は一瞬で消え去り、再び理性が覆い被さる。
「……なんでもない。少し、地形の起伏を確認していただけだ」
即座に返された言葉は、驚くほど平坦で、拒絶の色を帯びていた。
ナマエは、彼がほんの一瞬、自分に言葉にできない眼差しを向けていたことに、全く気づいていない。
「そうですか。……無理をなさらないでください。貴方が倒れては、この作戦自体が無に帰します。……指示があれば、私がすべて代行します」
ナマエは再び地図に目を落とし、次の地点の解説を始める。彼女は、彼が自分を見ていたという事実さえ、想像もしていない。
彼にとっての自分は、どこまでいっても機能であり駒であると、彼女自身が一番強く信じ込んでいるからだ。
エルヴィンは、ペンを握る右手に、僅かに力を込めた。
「……あぁ。わかっている。……続けなさい、ナマエ班長」
声は落ち着きを取り戻していたが、彼の中で一度爆ぜた焦燥は、煤となって心臓の隅に積もっていく。
ランプの火が消える間際、エルヴィンは一度だけ、彼女の影が重なっている自分の手元を、苦そうに見つめた。
二人の間には、壁外の闇よりも深い、越えられない断絶が横たわっていた。
――壁外調査、五日目。
巨大な樹の影が、絶望のように大地を這っていた。
陣形は崩れ、至る所で信煙弾の赤が空を汚している。
ナマエの視界は、飛び散った返り血と土埃で混濁していた。立体機動のガスは残り僅か。馬とはぐれ、巨人の群れに囲まれたこの状況は、兵士にとって死と同義だ。
背後から迫る、十五メートル級の巨人の足音。地響きが鼓膜を震わせ、内臓を揺らす。
ナマエは折れかけた刃を握り直し、最後の一撃を放つべく跳躍した。だが、疲労した足首が悲鳴を上げ、狙いが僅かに逸れる。
「……ここまで、かな」
空中で体勢を崩したナマエの眼前に、巨大な掌が迫る。
死を覚悟した瞬間、視界を鮮烈な緑が横切った。
凄まじい旋回速度。肉を削ぐ鋭い音。
次の瞬間、ナマエの体は強い衝撃と共に、屈強な腕の中に引き寄せられていた。
肺が潰れるかと思うほどの力で抱きしめられ、そのまま地面へと着地する。鼻腔を突いたのは、鉄の臭いと、使い古された革の香り、そして――エルヴィンの体温だった。
「…………っ」
ナマエは目を見開いたまま、自分を抱く男の顔を見上げた。
エルヴィンの表情は、恐ろしいほどに無機質だった。先ほどまで巨人の首を撥ねていたとは思えないほど、その瞳は沈着で、まるで深い淵を覗き込んでいるかのような暗さを湛えている。
「……団長、」
「立つんだ、ナマエ。ガスを補充しろ」
エルヴィンは彼女を地面に下ろすと、すぐさま背を向けた。一度もその安否を問うことなく、震える肩に手を置くこともない。彼の目は、すでに次の標的と、崩壊しかけている陣形の再構築に向けられていた。
「助けていただいたこと、感謝します」
ナマエが声を絞り出すと、エルヴィンは止まることなく、冷徹な声を投げ捨てた。
「部下を助けるのは当然の義務だ。勘違いはするな、ナマエ班長。君を救ったのは、君がまだ人類にとって『使える兵士』だからだ。それ以上の意味を、私の行動に見出すな」
その言葉は、巨人の爪牙よりも深くナマエの心を切り裂いた。
彼は悪魔だ。
兵士を死地へ送り込み、必要とあらば自分さえも地獄へ投げ込む男。彼の抱擁は、慈しみではなく、戦い続けるための修復に過ぎないのだ。
「……了解しました。兵士としての役割、完遂します」
ナマエは奥歯を噛み締め、補充したガスを噴射して再び戦場へと飛び込んだ。視界が熱いのは、流れた血のせいだ。そう自分に言い聞かせて。
翌日、帰還した兵団本部の回廊。
心身ともに疲弊し、壁に寄りかかって休息を取っていたナマエの前に、一人の男が影を落とした。
「おい……酷いツラだな」
リヴァイだった。
人類最強の兵士は、鋭い眼光でナマエを射抜き、短く息をつく。
「やめておけ、ナマエ。あいつを追いかけるのは」
唐突な忠告に、ナマエは顔を上げた。
「……兵長。それは、団長に迷惑をかけるな、という意味でしょうか」
「いや。お前が、お前でなくなる前に辞めろと言っている」
リヴァイは腕を組み、窓の外のどんよりとした空を見つめた。
「エルヴィンはな、すでに自分を人間だと思っていない。あいつが愛しているのは、壁の向こう側にある真実だけだ。そのためなら、自分の心臓も、お前の献身も、すべてを等しく灰にする。……あいつに恋をするのは、悪魔と心中するのと同じだぞ」
悪魔との、心中。
リヴァイの言葉は、これまでのエルヴィンの拒絶以上に、残酷な真実を突きつけていた。エルヴィンが恋愛を遠ざけるのは、余裕がないからではない。自分の命を、魂を、最初から人類の勝利という祭壇に捧げ尽くしているからなのだ。
ナマエの指先が、微かに震えた。
彼が背負う使命の重さを、改めて突きつけられ、めまいがするような絶望が襲う。
「……分かっています。彼は、特定の誰かを幸せにするような人ではありません」
ナマエは、自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「でも、兵長。誰にも見せない彼の『夢』を、彼と一緒に地獄まで運ぶ誰かが必要なんです。それが私であればいい。……それだけなんです」
その声には、震えながらも消えない炎が宿っていた。
リヴァイは、ナマエのその横顔をしばし黙って見つめた後、「勝手にしろ」と吐き捨てて立ち去った。
一人残された回廊で、ナマエは自分の胸に手を当てた。
昨日の、戦場でのエルヴィンの腕の感触が、まだ肌に残っている。氷のように冷たく、けれど確かに生きていた、悪魔の抱擁。
「私は……、まだ、止まれない……」
独り言は、石造りの壁に吸い込まれて消えた。
彼女の抱える想いは、もはや恋という名前では収まりきらない、猛毒のような執着へと変質し始めていた。
壁外調査への出発を三日後に控え、調査兵団本部は嵐の前の静けさを孕んだ喧騒の中にあった。
石造りの回廊には、軍靴が床を叩く硬い音と、馬の嘶き、そして立体機動装置のワイヤーを点検する鋭い金属音が反響している。兵士たちの顔には、生還への不安と、それを塗り潰すための使命感が入り混じり、独特の重圧が立ち込めていた。
ナマエは、中庭に面した風通しの良い作業場で、個人用ブレードの刃を研いでいた。
砥石と鋼が擦れ合う音。飛び散る火花。彼女の視線は、極限まで研ぎ澄まされた刃の曲線にのみ注がれている。
「……ねえ、聞いた? また憲兵団が『優秀な手駒』を探しているって話」
ふいに、数メートル先で馬具の点検をしていた後輩の女性兵士たちが、声を潜めて話し始めた。
本来、調査兵団と憲兵団は水と油のような関係だ。命を懸けて壁外を駆ける者たちにとって、内地の安寧に胡座をかく憲兵は、軽蔑の対象でしかない。
だが、今回流れてきた噂は、少し毛色が違っていた。
「上層部が本気で腐敗を正そうとしているらしいよ。それで、内地に潜む犯罪者を一掃するために、実力のある若手を引き抜こうとしているって」
「どうせ名ばかりの選考でしょ? でも……憲兵団にも、一人だけ『本物』がいるって噂だけど」
ナマエの耳に、その本物という言葉が、不意に滑り込んだ。手を止めず、彼女は無意識にその会話の続きを拾う。
「ユリウス副官。確か、名門の家柄なのに叩き上げで、今の地位を築いた人。……仕事は完璧で、立ち振る舞いも貴族みたいに優雅。おまけに、内地中の令嬢が放っておかないくらい、見栄えも良いんだって」
「砂漠のオアシス、みたいな人か。そんな人が憲兵団にいるなんて、信じられない」
ユリウス。
ナマエはその名前を、戦略上の情報の一つとして脳内の端に記録した。けれど、今のナマエにとって、その男はどこまでも遠い世界の住人に過ぎなかった。
(……憲兵団の、若き逸材。私には、縁のない話)
ナマエはブレードを光にかざし、刃毀れがないことを確認した。彼女が求めているのは、内地の安寧ではない。
返り血で汚れた深緑の外套、そして、その前を行く絶望的なまでに大きな背中。
エルヴィンという、泥にまみれた孤独な団長の隣こそが、彼女にとって唯一の戦場であり、生きる意義なのだ。
「――ナマエ班長。準備は進んでいるか」
背後から、低く、威厳に満ちた声が響く。
振り返らなくてもわかる。心臓を直接震わせるような、その響き。
ナマエは素早く立ち上がり、完璧な姿勢で敬礼を捧げた。
「団長。……はい。装備の調整はすべて完了しました。いつでも出撃可能です」
エルヴィンは、ナマエの磨き上げられたブレードを一瞥し、小さく頷いた。その視線には、先ほど兵士たちが話していたユリウスという男が持つ、貴族のような優雅さは一切ない。あるのは、ただ一人の有能な駒への信頼と、冷徹なまでの期待だけだ。
「……そうか。期待している」
エルヴィンはそれだけを残し、長い影を引いて立ち去っていった。ナマエは、その背中が完全に視界から消えるまで、敬礼を解かなかった。
内地の光も、完璧な貴公子の噂も、彼女の心臓に届くことはない。
エルヴィンの背中を追い、地獄へと突き進むその足取りに、迷いは一滴も混ざっていなかった。
……その決意が、いつか自分自身の意志で、内地のユリウスという光に手を伸ばすことになるとは、今の彼女は知る由もなかった。
――壁外調査、二日目の夜。
調査兵団の一行は、巨大な樹の森の入り口にある古びた廃墟に、一時的な拠点を構えていた。
外では冷たい夜風が吹き荒れ、巨人の徘徊を知らせる地響きが遠くで時折鳴り響く。兵士たちの多くは、極限の緊張から解放された束の間の眠りに落ちていたが、本部の即席指揮所には、まだ淡いランプの光が灯っていた。
「……明日の日の出とともに、第六班を先行させます。私はその三キロ後方を追従、煙弾の視認性を確保。……これでよろしいでしょうか」
ナマエは、古い木机に広げられた地図を指し示しながら、淀みのない声で言った。
彼女の指先は、数時間の行軍と巨人の迎撃を経た後とは思えないほど、正確に地図上の重要地点をなぞっている。丁寧な言葉遣いの中に、一切の疲労を感じさせないその姿は、理想的な兵士そのものだった。
向かい側に立つエルヴィンは、腕を組み、沈黙したまま地図を見つめていた。ランプの炎がチリチリと音を立てて揺れ、二人の影を石壁に長く、歪に映し出す。
「……団長?」
返り事がないことを不審に思い、ナマエが言葉を重ねようとした、その時だった。
エルヴィンの思考が、ふっと作戦の盤面から離れた。
至近距離で見る、ナマエの横顔。
寒さのせいで微かに赤くなった耳たぶ、結い上げた髪から零れ落ちた一筋の毛先。そして、どれほど過酷な状況下にあっても、決して揺らぐことのないその澄んだ瞳。
彼女は、自分を愛していると言った。
命を、心臓を、そのすべてを自分のために使い潰せと乞うた。
そんな狂気にも似た情熱を抱えながら、今、彼女は完璧な駒として自分の隣に立っている。その矛盾が、エルヴィンの胸の奥底に、名付けようのない重い楔を打ち込んだ。
(……私は、彼女をどこへ連れて行くつもりなのか)
地獄の先。真実の果て。
そこには、彼女を幸せにする光など一筋も差し込まない。
エルヴィンは無意識のうちに、地図を追うのをやめ、彼女の横顔を、じっと見つめていた。
その眼差しは、指揮官が部下を検分する冷徹なものではなく、零れ落ちそうな何かを必死に押し留めるような、ひどく危うい熱を孕んでいた。
数秒、あるいは数十秒。
部屋を支配した、あまりにも長い沈黙。
「…………団長?」
ナマエが地図から視線を上げ、不思議そうにエルヴィンを見上げる。その瞬間、エルヴィンは弾かれたように視線を地図へと戻した。彼の瞳からは、先ほどの熱は一瞬で消え去り、再び理性が覆い被さる。
「……なんでもない。少し、地形の起伏を確認していただけだ」
即座に返された言葉は、驚くほど平坦で、拒絶の色を帯びていた。
ナマエは、彼がほんの一瞬、自分に言葉にできない眼差しを向けていたことに、全く気づいていない。
「そうですか。……無理をなさらないでください。貴方が倒れては、この作戦自体が無に帰します。……指示があれば、私がすべて代行します」
ナマエは再び地図に目を落とし、次の地点の解説を始める。彼女は、彼が自分を見ていたという事実さえ、想像もしていない。
彼にとっての自分は、どこまでいっても機能であり駒であると、彼女自身が一番強く信じ込んでいるからだ。
エルヴィンは、ペンを握る右手に、僅かに力を込めた。
「……あぁ。わかっている。……続けなさい、ナマエ班長」
声は落ち着きを取り戻していたが、彼の中で一度爆ぜた焦燥は、煤となって心臓の隅に積もっていく。
ランプの火が消える間際、エルヴィンは一度だけ、彼女の影が重なっている自分の手元を、苦そうに見つめた。
二人の間には、壁外の闇よりも深い、越えられない断絶が横たわっていた。
――壁外調査、五日目。
巨大な樹の影が、絶望のように大地を這っていた。
陣形は崩れ、至る所で信煙弾の赤が空を汚している。
ナマエの視界は、飛び散った返り血と土埃で混濁していた。立体機動のガスは残り僅か。馬とはぐれ、巨人の群れに囲まれたこの状況は、兵士にとって死と同義だ。
背後から迫る、十五メートル級の巨人の足音。地響きが鼓膜を震わせ、内臓を揺らす。
ナマエは折れかけた刃を握り直し、最後の一撃を放つべく跳躍した。だが、疲労した足首が悲鳴を上げ、狙いが僅かに逸れる。
「……ここまで、かな」
空中で体勢を崩したナマエの眼前に、巨大な掌が迫る。
死を覚悟した瞬間、視界を鮮烈な緑が横切った。
凄まじい旋回速度。肉を削ぐ鋭い音。
次の瞬間、ナマエの体は強い衝撃と共に、屈強な腕の中に引き寄せられていた。
肺が潰れるかと思うほどの力で抱きしめられ、そのまま地面へと着地する。鼻腔を突いたのは、鉄の臭いと、使い古された革の香り、そして――エルヴィンの体温だった。
「…………っ」
ナマエは目を見開いたまま、自分を抱く男の顔を見上げた。
エルヴィンの表情は、恐ろしいほどに無機質だった。先ほどまで巨人の首を撥ねていたとは思えないほど、その瞳は沈着で、まるで深い淵を覗き込んでいるかのような暗さを湛えている。
「……団長、」
「立つんだ、ナマエ。ガスを補充しろ」
エルヴィンは彼女を地面に下ろすと、すぐさま背を向けた。一度もその安否を問うことなく、震える肩に手を置くこともない。彼の目は、すでに次の標的と、崩壊しかけている陣形の再構築に向けられていた。
「助けていただいたこと、感謝します」
ナマエが声を絞り出すと、エルヴィンは止まることなく、冷徹な声を投げ捨てた。
「部下を助けるのは当然の義務だ。勘違いはするな、ナマエ班長。君を救ったのは、君がまだ人類にとって『使える兵士』だからだ。それ以上の意味を、私の行動に見出すな」
その言葉は、巨人の爪牙よりも深くナマエの心を切り裂いた。
彼は悪魔だ。
兵士を死地へ送り込み、必要とあらば自分さえも地獄へ投げ込む男。彼の抱擁は、慈しみではなく、戦い続けるための修復に過ぎないのだ。
「……了解しました。兵士としての役割、完遂します」
ナマエは奥歯を噛み締め、補充したガスを噴射して再び戦場へと飛び込んだ。視界が熱いのは、流れた血のせいだ。そう自分に言い聞かせて。
翌日、帰還した兵団本部の回廊。
心身ともに疲弊し、壁に寄りかかって休息を取っていたナマエの前に、一人の男が影を落とした。
「おい……酷いツラだな」
リヴァイだった。
人類最強の兵士は、鋭い眼光でナマエを射抜き、短く息をつく。
「やめておけ、ナマエ。あいつを追いかけるのは」
唐突な忠告に、ナマエは顔を上げた。
「……兵長。それは、団長に迷惑をかけるな、という意味でしょうか」
「いや。お前が、お前でなくなる前に辞めろと言っている」
リヴァイは腕を組み、窓の外のどんよりとした空を見つめた。
「エルヴィンはな、すでに自分を人間だと思っていない。あいつが愛しているのは、壁の向こう側にある真実だけだ。そのためなら、自分の心臓も、お前の献身も、すべてを等しく灰にする。……あいつに恋をするのは、悪魔と心中するのと同じだぞ」
悪魔との、心中。
リヴァイの言葉は、これまでのエルヴィンの拒絶以上に、残酷な真実を突きつけていた。エルヴィンが恋愛を遠ざけるのは、余裕がないからではない。自分の命を、魂を、最初から人類の勝利という祭壇に捧げ尽くしているからなのだ。
ナマエの指先が、微かに震えた。
彼が背負う使命の重さを、改めて突きつけられ、めまいがするような絶望が襲う。
「……分かっています。彼は、特定の誰かを幸せにするような人ではありません」
ナマエは、自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「でも、兵長。誰にも見せない彼の『夢』を、彼と一緒に地獄まで運ぶ誰かが必要なんです。それが私であればいい。……それだけなんです」
その声には、震えながらも消えない炎が宿っていた。
リヴァイは、ナマエのその横顔をしばし黙って見つめた後、「勝手にしろ」と吐き捨てて立ち去った。
一人残された回廊で、ナマエは自分の胸に手を当てた。
昨日の、戦場でのエルヴィンの腕の感触が、まだ肌に残っている。氷のように冷たく、けれど確かに生きていた、悪魔の抱擁。
「私は……、まだ、止まれない……」
独り言は、石造りの壁に吸い込まれて消えた。
彼女の抱える想いは、もはや恋という名前では収まりきらない、猛毒のような執着へと変質し始めていた。
