その少女、飛翔につき座学不能
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その日の午後は、異様なほどに空気が重く澱んでいた。
訓練場の端、木々が落とす長い影の中で、エルヴィンは静かにその光景を見下ろしていた。
視線の先にいるのは、一人の若い男性兵士と、彼に向き合うナマエの姿だ。
ナマエは実技において、新兵の中では群を抜いた実力を持っている。今日は非番の兵士たちに、立体機動の細かな制動技術を教えているようだった。
風に踊る彼女の髪。教える際に、どうしても近くなる身体の距離。男性兵士が、彼女の教えに感銘を受けたのか、親しげに彼女の肩に手を置いた。ナマエは嫌がる様子もなく、むしろ達成感に満ちた晴れやかな笑顔を彼に向けている。
「……っ」
エルヴィンの胸の奥で、鋭い硝子の破片が突き刺さったような、不快な痛みが走った。
それは、彼がこれまで戦場で味わってきた恐怖とも、喪失感とも違う、もっと泥臭く、形を成さない焦燥だった。
自分の知らない彼女の笑顔。自分以外の男に向けられる、あの無防備な信頼。
エルヴィンは無意識のうちに、手すりを握る手に力を込めていた。
(……私は、何を苛立っている。彼女は優秀な兵士として、仲間に技術を伝えているだけだ)
理性では分かっていた。だが、沸き上がる熱い衝動を抑え込むことができない。
彼女は、夜の団長室で私だけに見せる、あの不器用で、一生懸命な姿だけをしていればいい。あの真っ赤な顔も、戸惑う瞳も、他の誰にも見せたくない。
その夜、団長室を訪れたナマエを待っていたのは、机の上に積み上げられた異常なまでの資料の山だった。
「……団長? これ、全部……やるんですか」
ナマエは目を丸くして、山積みの羊皮紙と数冊の厚い参考書を見上げた。エルヴィンは、感情を一切排した鋼のポーカーフェイスで、淡々と告げる。
「ああ。次のテストまで時間がない。これまでのペースでは、平均点突破は難しいと判断した。今夜から、これら全てを網羅してもらう。……終わるまでは、部屋に帰ることは許さない」
「……っ、了解しました。頑張ります」
ナマエは少しだけ肩を落としたが、すぐに強い意志を瞳に宿して椅子に座った。
エルヴィンの心に、微かな罪悪感が過ぎる。これは教育ではない。ただの独占欲の変形だ。彼女を自分から離れさせないための、卑怯な宿題だった。
けれど、ペンを走らせる彼女のうなじを見つめていると、その醜い欲望さえも心地よい陶酔へと変わっていくのを感じた。
数時間が経過し、夜はさらに深まっていく。
ナマエの疲労は限界に達していたが、彼女は約束の本を取り出し、エルヴィンの前にそっと置いた。
「団長。これ、読み終わりました」
エルヴィンの手が、本の上に重なる。
室内の温度が、わずかに上がったような気がした。ランプの芯が小さく爆ぜ、二人の影が壁の上で大きく揺れる。
「……どうだった」
「……難しかったです。でも、最後に主人公が選んだ道が、なんだか団長に似ているなって思いました。己の信念に従って、一番辛い道を選んで歩いていくところが」
ナマエの声は、掠れていて、けれど熱を帯びていた。
彼女はまっすぐにエルヴィンを見つめる。その瞳には、昼間に他の男に向けていた笑顔とは違う、深く、湿り気を帯びた情愛が宿っていた。
「私は……。団長が選ぶ道なら、どこまででもついていきたいって、本を読みながらずっと思ってました。それがどれほど辛い場所でも、あなたの隣にいられるなら、私は怖くないです」
「……ナマエ」
エルヴィンの理性が、音を立てて崩れ去った。
彼は立ち上がり、机を回り込んで、彼女の小さな肩を包み込むように抱き寄せた。
ナマエの体から漂う、微かな汗と、夜の冷気。そして、彼が貸した本と同じ、古い紙の香り。
「団長……?」
「……すまない。私は、君が思っているほど高潔な人間ではないようだ」
エルヴィンは、彼女に回した手に力を込める。
昼間の嫉妬も、この無理な宿題も、全ては彼女を自分だけのものにしたいという、一人の男としての傲慢さゆえだ。
ナマエは驚いたように息を呑んだが、すぐに彼の肩に頭を預けた。
「……団長の手、すごく温かいです。……落ち着く」
その囁きが、エルヴィンの胸を締め付ける。
今夜、二人の間に流れる空気は、これまでの教育を完全に超えていた。
窓の外では、月が静かに地上を照らしている。
だが、この部屋の中にだけは、誰にも暴かれることのない、濃密で甘やかな夜が降り積もっていた。
数日後。
団長室は、朝からどこか浮き足立ったような、透明な緊張感に包まれていた。
掲示板に張り出された座学の試験結果。そこには、下位の常連だったはずのナマエの名前が、平均点の境界線を鮮やかに飛び越え、中段やや上の位置に刻まれていた。
ナマエは報告書を握りしめ、いつもの重厚な扉の前に立っていた。心臓の音が耳の奥でうるさいほどに鳴り響いている。何度も深呼吸を繰り返し、震える指先で木目を叩いた。
「入れ」
中から響いたのは、聞き慣れた、けれど今はどこか特別な響きを持つ低い声。
ナマエが入室すると、エルヴィンは窓を背にして立っていた。逆光の中に浮かび上がる彼のシルエットは、相変わらず圧倒的な威厳を放っている。けれど、彼がこちらを振り返った瞬間、その碧眼に宿った柔らかな光に、ナマエの膝が微かに震えた。
「報告に来ました、団長。……平均点、超えました!」
ナマエは机の上に、証拠である採点済みの答案用紙を置いた。そこには、エルヴィンが夜通し教え込んだ知識が、不器用ながらも必死に綴られている。
エルヴィンはゆっくりと歩み寄り、その紙面に指を滑らせた。
「……よくやった。君の努力が、ようやく形になったな。……いや、私の教え方が良かったのかもしれないが」
冗談めかして言った彼の口角が僅かに上がる。彼は答案用紙から目を上げ、ナマエを真っ直ぐに見つめた。
「さて、約束だったな。……ご褒美は何かな? 君の望みなら、何でも叶えよう」
ナマエの喉が、こくりと鳴った。
彼女は拳を握りしめ、逃げ出したくなるような羞恥心を、彼への想いで無理やりねじ伏せた。
「……私は」
一歩、彼の方へ踏み出す。
「……団長のことが、好きです。……ただの尊敬じゃない。一人の男性として。思いが届かないのは理解しています……だから、せめて、抱きしめてほしいです。今、この場所で」
言い終えると同時に、ナマエの顔は火を吹くほどに赤く染まった。
しばらくの間、沈黙が部屋を支配した。エルヴィンの表情が、驚きに、そして深い情熱へと、ゆっくりと移り変わっていく。
「抱きしめるだけで……いいのか?」
エルヴィンの声が、今まで聞いたこともないほど甘く、掠れていた。
彼は大きな手でナマエの腰を引き寄せ、彼女の体を木製の机の上に座らせた。冷たい木の質感と、彼の指先から伝わる灼熱のような熱。その対比に、ナマエは吐息を漏らす。
「私はもっと、別のものを期待していたのだが」
逃げ場を塞ぐように、エルヴィンが両手を机につく。彼の顔が、鼻先が触れ合うほどの距離まで近づいた。
長い睫毛の隙間から覗く、獲物を狙う猛禽のような、それでいて愛おしくてたまらないというような熱い視線。ナマエは逃げ場を失い、彼の肩を掴んで縋るしかなかった。
「……っ、団長……」
「ここでは、エルヴィンと呼びなさい」
命じるような、乞うような囁き。
次の瞬間、彼の唇がナマエの唇を塞いだ。
それは、これまで彼が見せてきた慎重さや理性を、全て焼き尽くすような深い口づけだった。舌が絡み合い、互いの呼気が熱を奪い合う。ナマエの鼻腔は彼の香りで満たされ、頭の中が真っ白に溶けていく。
彼の大きな手がナマエの頬を包み込み、親指が彼女の唇をなぞった。
「……まだ、理解が足りない部分があるようだな」
唇を離し、額を合わせたまま、エルヴィンが低く笑った。その瞳には、隠しようのない独占欲と、悦びが溢れている。
「今夜は私の部屋へ来なさい。教科書もペンもいらない……朝までかけて、君に特別な補習をしてあげよう」
「……エルヴィン団長、それって……」
「もう、離す気はないよ」
エルヴィンは再び、彼女に深い口づけを落とした。
窓の外では、夕闇が全てを包み込もうとしている。
けれど、二人の物語は、ここから本当の意味で始まろうとしていた。
厳しい戦場の中でも、この熱だけは、誰にも奪わせない。
ナマエは、自分を抱きしめる彼の背中に腕を回し、幸せな予感に満ちた涙を、そっと彼の制服に滲ませた。
その夜。
深い夜の静寂が、調査兵団の本部を厚いベールのように包み込んでいる。
かつては知識を詰め込むための戦場だった大きな木製机の上には、今や開かれたテキストも、握りしめられたペンもない。代わりにそこにあるのは、重なり合う二人の体温と、乱れた呼吸だけだった。
「……覚悟はできているか」
エルヴィンの低い、地鳴りのような声がナマエの耳元で弾ける。
彼の大きな手が、ナマエの細い腰をしっかりと抱き寄せ、逃げ場を塞ぐように彼女を机の端に追い詰めていた。ナマエは彼の広い肩に腕を回し、指先をその硬い筋肉に食い込ませる。
「……はい。でも、こんな補習の内容、どの参考書にも書いていなかった」
ナマエは熱を帯びた瞳で彼を見上げ、不敵に、けれど潤んだ声で言い返した。
彼は満足げに喉を鳴らし、彼女の首筋に熱い唇を押し当てた。
「そうだな。これは私と君、二人だけの特別な領域だ。他人に教えるつもりはないし、君にも……他の誰かに見せることは許さない」
エルヴィンの唇が、彼女の脈打つ場所に触れる。
吸い付くような感触と、彼が放つ落ち着いた香りが、ナマエの思考をさらに白く染め上げていく。
彼は大きな掌でナマエの頬を包み込み、ゆっくりと顔を上げた。ランプの橙色の光が、彼の金色の髪を輝かせ、蒼い瞳を深海のような神秘的な色彩で彩っている。
「ナマエ……。君の目は、戦場での飛翔の時と同じように、今は私だけを捉えている。それが堪らなく嬉しい」
「……団長は、ずるいです。そんな風に見つめられたら、私、逃げ道なんて最初からなかったと思います」
ナマエは震える指先で、彼の整った唇をなぞった。
エルヴィンはその指を甘噛みし、そのまま彼女の唇を深く、奪い去るように塞いだ。
重なり合う唇からは、互いの唾液が混じり合う湿った音が漏れ、静かな部屋に官能的な反響を呼ぶ。舌が絡み合い、肺の中の酸素が熱に変換されていく。
エルヴィンの手が、彼女の制服のボタンを一つ、また一つと丁寧に解いていく。
露出した白い肌に、夜の空気が触れて微かに粟立つ。しかし、すぐに彼の大きな手がその上を滑り、灼熱のような体温を上書きしていった。
「……勉強は、嫌いか?」
口づけの合間、彼が意地悪な響きを含んで問いかける。
ナマエは彼の首に深く顔を埋め、その硬い胸板に自分を押し付けながら、熱い吐息を零した。
「……大嫌いでした。文字を見るだけで眠くなるし、自分には無縁なものだと思ってた。……でも、団長が教えてくれることなら、どんなに難しくても、どんなに苦しくても……もっと知りたい。」
「いい心がけだ、ナマエ。ならば、夜が明けるまでじっくりと教え込もう。君のその身体が、私の熱を二度と忘れないように」
エルヴィンは彼女を抱き上げ、机の上の書類を無造作に床へと払い落とした。
散らばる羊皮紙の音は、二人の情事の序曲に過ぎない。
彼は彼女をゆっくりと横たえ、その上に覆い被さる。
重厚な石造りの部屋に、甘く切ない、そして力強い命の鼓動が重なり合っていく。
かつては座学ができない新兵だった少女は、今や調査兵団の団長を、その愛だけで屈服させる唯一の存在となっていた。
窓の外の月が沈み、東の空が白み始めるまで、二人の補習は終わることなく続いていった。
訓練場の端、木々が落とす長い影の中で、エルヴィンは静かにその光景を見下ろしていた。
視線の先にいるのは、一人の若い男性兵士と、彼に向き合うナマエの姿だ。
ナマエは実技において、新兵の中では群を抜いた実力を持っている。今日は非番の兵士たちに、立体機動の細かな制動技術を教えているようだった。
風に踊る彼女の髪。教える際に、どうしても近くなる身体の距離。男性兵士が、彼女の教えに感銘を受けたのか、親しげに彼女の肩に手を置いた。ナマエは嫌がる様子もなく、むしろ達成感に満ちた晴れやかな笑顔を彼に向けている。
「……っ」
エルヴィンの胸の奥で、鋭い硝子の破片が突き刺さったような、不快な痛みが走った。
それは、彼がこれまで戦場で味わってきた恐怖とも、喪失感とも違う、もっと泥臭く、形を成さない焦燥だった。
自分の知らない彼女の笑顔。自分以外の男に向けられる、あの無防備な信頼。
エルヴィンは無意識のうちに、手すりを握る手に力を込めていた。
(……私は、何を苛立っている。彼女は優秀な兵士として、仲間に技術を伝えているだけだ)
理性では分かっていた。だが、沸き上がる熱い衝動を抑え込むことができない。
彼女は、夜の団長室で私だけに見せる、あの不器用で、一生懸命な姿だけをしていればいい。あの真っ赤な顔も、戸惑う瞳も、他の誰にも見せたくない。
その夜、団長室を訪れたナマエを待っていたのは、机の上に積み上げられた異常なまでの資料の山だった。
「……団長? これ、全部……やるんですか」
ナマエは目を丸くして、山積みの羊皮紙と数冊の厚い参考書を見上げた。エルヴィンは、感情を一切排した鋼のポーカーフェイスで、淡々と告げる。
「ああ。次のテストまで時間がない。これまでのペースでは、平均点突破は難しいと判断した。今夜から、これら全てを網羅してもらう。……終わるまでは、部屋に帰ることは許さない」
「……っ、了解しました。頑張ります」
ナマエは少しだけ肩を落としたが、すぐに強い意志を瞳に宿して椅子に座った。
エルヴィンの心に、微かな罪悪感が過ぎる。これは教育ではない。ただの独占欲の変形だ。彼女を自分から離れさせないための、卑怯な宿題だった。
けれど、ペンを走らせる彼女のうなじを見つめていると、その醜い欲望さえも心地よい陶酔へと変わっていくのを感じた。
数時間が経過し、夜はさらに深まっていく。
ナマエの疲労は限界に達していたが、彼女は約束の本を取り出し、エルヴィンの前にそっと置いた。
「団長。これ、読み終わりました」
エルヴィンの手が、本の上に重なる。
室内の温度が、わずかに上がったような気がした。ランプの芯が小さく爆ぜ、二人の影が壁の上で大きく揺れる。
「……どうだった」
「……難しかったです。でも、最後に主人公が選んだ道が、なんだか団長に似ているなって思いました。己の信念に従って、一番辛い道を選んで歩いていくところが」
ナマエの声は、掠れていて、けれど熱を帯びていた。
彼女はまっすぐにエルヴィンを見つめる。その瞳には、昼間に他の男に向けていた笑顔とは違う、深く、湿り気を帯びた情愛が宿っていた。
「私は……。団長が選ぶ道なら、どこまででもついていきたいって、本を読みながらずっと思ってました。それがどれほど辛い場所でも、あなたの隣にいられるなら、私は怖くないです」
「……ナマエ」
エルヴィンの理性が、音を立てて崩れ去った。
彼は立ち上がり、机を回り込んで、彼女の小さな肩を包み込むように抱き寄せた。
ナマエの体から漂う、微かな汗と、夜の冷気。そして、彼が貸した本と同じ、古い紙の香り。
「団長……?」
「……すまない。私は、君が思っているほど高潔な人間ではないようだ」
エルヴィンは、彼女に回した手に力を込める。
昼間の嫉妬も、この無理な宿題も、全ては彼女を自分だけのものにしたいという、一人の男としての傲慢さゆえだ。
ナマエは驚いたように息を呑んだが、すぐに彼の肩に頭を預けた。
「……団長の手、すごく温かいです。……落ち着く」
その囁きが、エルヴィンの胸を締め付ける。
今夜、二人の間に流れる空気は、これまでの教育を完全に超えていた。
窓の外では、月が静かに地上を照らしている。
だが、この部屋の中にだけは、誰にも暴かれることのない、濃密で甘やかな夜が降り積もっていた。
数日後。
団長室は、朝からどこか浮き足立ったような、透明な緊張感に包まれていた。
掲示板に張り出された座学の試験結果。そこには、下位の常連だったはずのナマエの名前が、平均点の境界線を鮮やかに飛び越え、中段やや上の位置に刻まれていた。
ナマエは報告書を握りしめ、いつもの重厚な扉の前に立っていた。心臓の音が耳の奥でうるさいほどに鳴り響いている。何度も深呼吸を繰り返し、震える指先で木目を叩いた。
「入れ」
中から響いたのは、聞き慣れた、けれど今はどこか特別な響きを持つ低い声。
ナマエが入室すると、エルヴィンは窓を背にして立っていた。逆光の中に浮かび上がる彼のシルエットは、相変わらず圧倒的な威厳を放っている。けれど、彼がこちらを振り返った瞬間、その碧眼に宿った柔らかな光に、ナマエの膝が微かに震えた。
「報告に来ました、団長。……平均点、超えました!」
ナマエは机の上に、証拠である採点済みの答案用紙を置いた。そこには、エルヴィンが夜通し教え込んだ知識が、不器用ながらも必死に綴られている。
エルヴィンはゆっくりと歩み寄り、その紙面に指を滑らせた。
「……よくやった。君の努力が、ようやく形になったな。……いや、私の教え方が良かったのかもしれないが」
冗談めかして言った彼の口角が僅かに上がる。彼は答案用紙から目を上げ、ナマエを真っ直ぐに見つめた。
「さて、約束だったな。……ご褒美は何かな? 君の望みなら、何でも叶えよう」
ナマエの喉が、こくりと鳴った。
彼女は拳を握りしめ、逃げ出したくなるような羞恥心を、彼への想いで無理やりねじ伏せた。
「……私は」
一歩、彼の方へ踏み出す。
「……団長のことが、好きです。……ただの尊敬じゃない。一人の男性として。思いが届かないのは理解しています……だから、せめて、抱きしめてほしいです。今、この場所で」
言い終えると同時に、ナマエの顔は火を吹くほどに赤く染まった。
しばらくの間、沈黙が部屋を支配した。エルヴィンの表情が、驚きに、そして深い情熱へと、ゆっくりと移り変わっていく。
「抱きしめるだけで……いいのか?」
エルヴィンの声が、今まで聞いたこともないほど甘く、掠れていた。
彼は大きな手でナマエの腰を引き寄せ、彼女の体を木製の机の上に座らせた。冷たい木の質感と、彼の指先から伝わる灼熱のような熱。その対比に、ナマエは吐息を漏らす。
「私はもっと、別のものを期待していたのだが」
逃げ場を塞ぐように、エルヴィンが両手を机につく。彼の顔が、鼻先が触れ合うほどの距離まで近づいた。
長い睫毛の隙間から覗く、獲物を狙う猛禽のような、それでいて愛おしくてたまらないというような熱い視線。ナマエは逃げ場を失い、彼の肩を掴んで縋るしかなかった。
「……っ、団長……」
「ここでは、エルヴィンと呼びなさい」
命じるような、乞うような囁き。
次の瞬間、彼の唇がナマエの唇を塞いだ。
それは、これまで彼が見せてきた慎重さや理性を、全て焼き尽くすような深い口づけだった。舌が絡み合い、互いの呼気が熱を奪い合う。ナマエの鼻腔は彼の香りで満たされ、頭の中が真っ白に溶けていく。
彼の大きな手がナマエの頬を包み込み、親指が彼女の唇をなぞった。
「……まだ、理解が足りない部分があるようだな」
唇を離し、額を合わせたまま、エルヴィンが低く笑った。その瞳には、隠しようのない独占欲と、悦びが溢れている。
「今夜は私の部屋へ来なさい。教科書もペンもいらない……朝までかけて、君に特別な補習をしてあげよう」
「……エルヴィン団長、それって……」
「もう、離す気はないよ」
エルヴィンは再び、彼女に深い口づけを落とした。
窓の外では、夕闇が全てを包み込もうとしている。
けれど、二人の物語は、ここから本当の意味で始まろうとしていた。
厳しい戦場の中でも、この熱だけは、誰にも奪わせない。
ナマエは、自分を抱きしめる彼の背中に腕を回し、幸せな予感に満ちた涙を、そっと彼の制服に滲ませた。
その夜。
深い夜の静寂が、調査兵団の本部を厚いベールのように包み込んでいる。
かつては知識を詰め込むための戦場だった大きな木製机の上には、今や開かれたテキストも、握りしめられたペンもない。代わりにそこにあるのは、重なり合う二人の体温と、乱れた呼吸だけだった。
「……覚悟はできているか」
エルヴィンの低い、地鳴りのような声がナマエの耳元で弾ける。
彼の大きな手が、ナマエの細い腰をしっかりと抱き寄せ、逃げ場を塞ぐように彼女を机の端に追い詰めていた。ナマエは彼の広い肩に腕を回し、指先をその硬い筋肉に食い込ませる。
「……はい。でも、こんな補習の内容、どの参考書にも書いていなかった」
ナマエは熱を帯びた瞳で彼を見上げ、不敵に、けれど潤んだ声で言い返した。
彼は満足げに喉を鳴らし、彼女の首筋に熱い唇を押し当てた。
「そうだな。これは私と君、二人だけの特別な領域だ。他人に教えるつもりはないし、君にも……他の誰かに見せることは許さない」
エルヴィンの唇が、彼女の脈打つ場所に触れる。
吸い付くような感触と、彼が放つ落ち着いた香りが、ナマエの思考をさらに白く染め上げていく。
彼は大きな掌でナマエの頬を包み込み、ゆっくりと顔を上げた。ランプの橙色の光が、彼の金色の髪を輝かせ、蒼い瞳を深海のような神秘的な色彩で彩っている。
「ナマエ……。君の目は、戦場での飛翔の時と同じように、今は私だけを捉えている。それが堪らなく嬉しい」
「……団長は、ずるいです。そんな風に見つめられたら、私、逃げ道なんて最初からなかったと思います」
ナマエは震える指先で、彼の整った唇をなぞった。
エルヴィンはその指を甘噛みし、そのまま彼女の唇を深く、奪い去るように塞いだ。
重なり合う唇からは、互いの唾液が混じり合う湿った音が漏れ、静かな部屋に官能的な反響を呼ぶ。舌が絡み合い、肺の中の酸素が熱に変換されていく。
エルヴィンの手が、彼女の制服のボタンを一つ、また一つと丁寧に解いていく。
露出した白い肌に、夜の空気が触れて微かに粟立つ。しかし、すぐに彼の大きな手がその上を滑り、灼熱のような体温を上書きしていった。
「……勉強は、嫌いか?」
口づけの合間、彼が意地悪な響きを含んで問いかける。
ナマエは彼の首に深く顔を埋め、その硬い胸板に自分を押し付けながら、熱い吐息を零した。
「……大嫌いでした。文字を見るだけで眠くなるし、自分には無縁なものだと思ってた。……でも、団長が教えてくれることなら、どんなに難しくても、どんなに苦しくても……もっと知りたい。」
「いい心がけだ、ナマエ。ならば、夜が明けるまでじっくりと教え込もう。君のその身体が、私の熱を二度と忘れないように」
エルヴィンは彼女を抱き上げ、机の上の書類を無造作に床へと払い落とした。
散らばる羊皮紙の音は、二人の情事の序曲に過ぎない。
彼は彼女をゆっくりと横たえ、その上に覆い被さる。
重厚な石造りの部屋に、甘く切ない、そして力強い命の鼓動が重なり合っていく。
かつては座学ができない新兵だった少女は、今や調査兵団の団長を、その愛だけで屈服させる唯一の存在となっていた。
窓の外の月が沈み、東の空が白み始めるまで、二人の補習は終わることなく続いていった。
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