その少女、飛翔につき座学不能
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団長室の空気は、今夜も静謐な重みを湛えていた。
卓上のオイルランプが、チリチリと小さな音を立てて燃えている。その光は、エルヴィンの金色の髪を柔らかく縁取り、彼が地図を指し示す指先に、確かな温かみを与えていた。
ナマエは、隣に座るエルヴィンの横顔を、盗み見るように視線を走らせた。
彼は今、人類がこれまでに失ってきた領土と、そこにあるべき地質学的特徴について説いている。その声は、深く、低く、心地よい残響となって、ナマエの胸の奥底にまで届いていた。
「……ナマエ、聞いているか? ここを越えれば、土質は急激に粘土層を増す。馬の歩幅を調整しなければ、機動力は半減する」
「……あ、はい。聞いてます」
慌てて返事をするものの、その実、ナマエの頭の中は彼が語る戦術理論など、これっぽっちも入っていなかった。
彼女の意識は、すぐ傍にあるエルヴィンという存在そのものに、完全に支配されていたのだ。
これまでは、ただ遠い雲の上の存在だと思っていた。
人類の希望を背負う、鋼の精神を持った指揮官。冷徹で、聡明で、気高い人。
けれど、こうして二人きりで過ごす時間が増えるにつれ、ナマエの知る彼は、多層的な色味を帯び始めていた。
座学が苦手な自分に、根気強く付き合ってくれる忍耐強さ。ふとした瞬間に見せる、少年のような好奇心に満ちた瞳。
そして、たまに唇の端をわずかに吊り上げる、いたずらっぽい微笑み。
(……だめだ。集中できない)
ナマエの視線が、彼の大きな手に吸い寄せられる。
書類を押さえる、節くれだった、逞しい手。数多の巨人を屠り、部下の命を背負ってきた、傷跡の残る手。
その手が、もしも自分の頬に触れたら。もしも、その長い指先が、自分の髪を掬い上げたら。
一度芽生えた想像は、春の蔦のように瞬く間に彼女の心に絡みつき、締め付けた。
これは、単なる尊敬ではない。
一人の女性として、この男を求めているのだという、剥き出しの真実に、ナマエは打ちのめされそうになっていた。
「ナマエ」
エルヴィンの声が、少しだけ厳しさを帯びた。
彼はペンを置き、完全にこちらを向いた。その碧眼が、ナマエの動揺を射抜くように見つめている。
「ペンが止まっている。視線も、テキストではなく……私の顔にあるようだが」
「! っ……すみません、その」
ナマエは真っ赤になって顔を伏せた。心臓が早鐘を打ち、全身から汗が噴き出しそうになる。
エルヴィンは、ふっと息を吐くと、椅子の背にもたれかかった。その様子には、どこか彼女を愉しんでいるような、大人の余裕が漂っている。
「近頃、少し集中を欠いているな。せっかく実技で天才的な動きを見せても、座学でこれでは、いつまでも君を前線へ出す許可は出せないが」
「それは……困ります。私は、一刻も早く団長の役に立ちたいって思ってるので」
その真っ直ぐな言葉に、エルヴィンの瞳が微かに揺れた。彼は少しだけ身を乗り出し、ナマエの顔を覗き込むようにして言った。
「ならば、一つ提案をしよう」
「提案……ですか?」
「次の座学テストで、もし君が平均点を超えたら。……何でも一つ、君の望む『ご褒美』をあげよう」
エルヴィンの唇に、少しだけ意地悪な笑みが浮かんだ。それは、死線を潜り抜けてきた男が見せる、甘美で危険な誘惑だった。
「ご褒美、ですか……。何でも、一つ?」
「ああ。私の権限で叶えられることなら、何でもいい。特別休暇でも、新しい装備でも……あるいは、もっと個人的な願いでもな」
最後の言葉に、ナマエの心臓が大きく跳ねた。
個人的な願い。
その響きに含まれた、無数の可能性。もし、もしも合格したら。自分は彼に何を願うだろうか。
抱きしめてほしい。名前を、ただの兵士としてではなく、特別な響きで呼んでほしい。その唇に、触れてみたい――。
ナマエは両手で顔を覆いそうになるのを必死で堪え、拳を握りしめてエルヴィンを見据えた。
その瞳には、かつてないほどの決意の炎が宿っていた。
「何でも……ですね? 私、絶対に平均点取ってみせます。絶対に、団長に願いを聞いてもらいますから!」
「いい返事だ。……期待しているよ、ナマエ」
エルヴィンは、満足そうに彼女の頭をポンと叩いた。
その瞬間の接触だけで、ナマエの体温は限界を超えて上昇する。
尊敬が、恋へと完全に昇華した瞬間。
団長室に流れる空気は、これまで以上に甘く、切ない期待感に満たされていった。
その日の補習が終わる間際、ナマエは意を決したように顔を上げ、エルヴィンの視線を真っ向から受け止めた。窓の外では夜の静寂が深まり、執務室の壁に掛けられた振り子時計が、重々しく時を刻んでいる。
「……団長。お願いがあるのですが」
「なんだ。次のテストのヒントなら、もう十分に与えたはずだが」
エルヴィンは万年筆を置き、椅子の背にもたれかかった。ランプの灯火が、彼の広く逞しい胸板を黄金色に縁取っている。ナマエは膝の上で拳をぎゅっと握りしめ、言葉を紡いだ。
「団長のおすすめの本を、一冊貸してくれませんか」
エルヴィンの眉が、意外そうにわずかに跳ねた。
「……本を? 君は文字を読むと眠くなるのではなかったか」
「はい、そうです。でも、座学の練習にもなるかと思って……それに、団長がどんなものを読んでいるのか、知りたいんです」
ナマエの言葉には、装飾のない純粋な渇望が宿っていた。彼女はただ真っ直ぐに、彼という存在の深淵に触れたがっていた。
エルヴィンはしばし沈黙した後、ゆっくりと立ち上がった。壁一面を埋め尽くす書棚へ歩み寄り、背表紙を指でなぞる。古びた革の匂いと、微かな埃の香りが舞い上がる。
「これにしておこう。……少し難しいかもしれないが、君の今の理解度なら、読み解けないことはないはずだ」
彼が差し出したのは、銀色の箔押しが施された深い藍色の表紙の本だった。受け取ったナマエは、その本の重みと、彼の指先から移った微かな体温に胸を高鳴らせる。
「ありがとうございます。……あの、団長はこの本のどこが好きなんですか」
エルヴィンは、ふと足を止めた。これまで多くの部下が彼に教えを請い、命令を仰いできたが、彼自身の好みを問うた者は数えるほどしかいない。
「……そうだな。結末の不確かさが、現実の戦場に似ているからかもしれない。読み終わったら、話すとしよう」
「……はい。なんか、少し楽しみになってきました。本の内容じゃなくて、そのお話が」
ナマエはそう言い残して、逃げるように部屋を去った。扉が閉まる音の後に残ったのは、彼女が残した瑞々しい熱量と、エルヴィンの微かな当惑だけだった。
翌日の補習。
団長室の空気は、落ち着かない焦燥感に満ちていた。
ナマエの様子が明らかにおかしい。彼女は椅子の上でそわそわと身を揺らし、エルヴィンと目が合うたびに、弾かれたように視線を逸らす。
「ナマエ。ここを読んでみろ」
「は、はい……ええと、ウォール・ローゼの……あ、ええと」
ナマエの視線は空中を彷徨い、指先はテキストの角を何度も折ったり伸ばしたりしている。エルヴィンが問題を投げかけても、返ってくる答えは上の空で、思考が別の場所に飛んでいるのは明白だった。
「……集中していないな」
「し、してます! ちゃんと見てますよ」
「どこを見ているんだ。君の見ている世界では、文字が逆さまに踊っているのか?」
「えっ……?」
ナマエが慌てて手元のテキストを見ると、確かに上下が逆さまになっていた。真っ赤になった彼女は、そのまま机に突っ伏したい衝動を抑えるように、テキストを乱暴にひっくり返す。
「……顔が赤いな。熱でもあるか」
エルヴィンは椅子を引き、彼女の方へ身を乗り出した。
彼が近づくだけで、ナマエの鼻腔を彼の香りがくすぐる。洗いたての清潔な衣類と、彼が愛用する石鹸の、どこか官能的なまでに凛とした香り。
「ち、違います。熱なんて……」
「失礼する」
エルヴィンの大きな、冷んやりとした手が、ナマエの額にそっと触れた。
その瞬間、ナマエの頭の中は真っ白になり、心臓の音が鼓膜にまで響き渡った。至近距離で見つめ合う、彼の深い碧眼。長い睫毛の影。触れられている場所から、電流のような痺れが全身を駆け抜ける。
「……熱はないようだが。しかし、肌が非常に熱い。顔だけでなく、耳の先まで真っ赤だ」
エルヴィンは手を引き、少し首を傾げた。その動作には、彼女を追い詰めている自覚があるのか、それとも無意識の天然なのか判別のつかない危うさがあった。
ナマエの頬は、熟れた林檎よりもさらに深い紅色に染まっていく。
「……それは、団長のせいです……」
蚊の鳴くような、小さな呟き。
エルヴィンの耳には、その言葉がはっきりと届いていた。
(……困ったな)
エルヴィンは、机の下で密かに拳を握りしめた。
揺れる瞳。震える肩。必死に己の感情と戦っている、この年若い少女を、心の底から可愛いと思ってしまっている自分がいた。
それは、誇り高い調査兵団団長としての理性と、一人の男としての本能が、激しく火花を散らす音でもあった。
彼女の不器用な反応の一つ一つが、彼の胸の奥にある、冷え切った冬のような静寂を乱していく。
今夜の補習は、これ以上続けても意味をなさないだろう。いや、これ以上彼女のそばにいては、自分自身のブレーキが壊れてしまう。
「……今日はここまでだ、ナマエ。部屋に戻って、頭を冷やすといい」
エルヴィンの声は、いつも以上に低く、どこか切羽詰まった響きを帯びていた。
ナマエが慌てて退室した後、彼は一人、闇に沈みゆく窓の外を見つめながら、静かに、しかし深く息を吐き出した。
卓上のオイルランプが、チリチリと小さな音を立てて燃えている。その光は、エルヴィンの金色の髪を柔らかく縁取り、彼が地図を指し示す指先に、確かな温かみを与えていた。
ナマエは、隣に座るエルヴィンの横顔を、盗み見るように視線を走らせた。
彼は今、人類がこれまでに失ってきた領土と、そこにあるべき地質学的特徴について説いている。その声は、深く、低く、心地よい残響となって、ナマエの胸の奥底にまで届いていた。
「……ナマエ、聞いているか? ここを越えれば、土質は急激に粘土層を増す。馬の歩幅を調整しなければ、機動力は半減する」
「……あ、はい。聞いてます」
慌てて返事をするものの、その実、ナマエの頭の中は彼が語る戦術理論など、これっぽっちも入っていなかった。
彼女の意識は、すぐ傍にあるエルヴィンという存在そのものに、完全に支配されていたのだ。
これまでは、ただ遠い雲の上の存在だと思っていた。
人類の希望を背負う、鋼の精神を持った指揮官。冷徹で、聡明で、気高い人。
けれど、こうして二人きりで過ごす時間が増えるにつれ、ナマエの知る彼は、多層的な色味を帯び始めていた。
座学が苦手な自分に、根気強く付き合ってくれる忍耐強さ。ふとした瞬間に見せる、少年のような好奇心に満ちた瞳。
そして、たまに唇の端をわずかに吊り上げる、いたずらっぽい微笑み。
(……だめだ。集中できない)
ナマエの視線が、彼の大きな手に吸い寄せられる。
書類を押さえる、節くれだった、逞しい手。数多の巨人を屠り、部下の命を背負ってきた、傷跡の残る手。
その手が、もしも自分の頬に触れたら。もしも、その長い指先が、自分の髪を掬い上げたら。
一度芽生えた想像は、春の蔦のように瞬く間に彼女の心に絡みつき、締め付けた。
これは、単なる尊敬ではない。
一人の女性として、この男を求めているのだという、剥き出しの真実に、ナマエは打ちのめされそうになっていた。
「ナマエ」
エルヴィンの声が、少しだけ厳しさを帯びた。
彼はペンを置き、完全にこちらを向いた。その碧眼が、ナマエの動揺を射抜くように見つめている。
「ペンが止まっている。視線も、テキストではなく……私の顔にあるようだが」
「! っ……すみません、その」
ナマエは真っ赤になって顔を伏せた。心臓が早鐘を打ち、全身から汗が噴き出しそうになる。
エルヴィンは、ふっと息を吐くと、椅子の背にもたれかかった。その様子には、どこか彼女を愉しんでいるような、大人の余裕が漂っている。
「近頃、少し集中を欠いているな。せっかく実技で天才的な動きを見せても、座学でこれでは、いつまでも君を前線へ出す許可は出せないが」
「それは……困ります。私は、一刻も早く団長の役に立ちたいって思ってるので」
その真っ直ぐな言葉に、エルヴィンの瞳が微かに揺れた。彼は少しだけ身を乗り出し、ナマエの顔を覗き込むようにして言った。
「ならば、一つ提案をしよう」
「提案……ですか?」
「次の座学テストで、もし君が平均点を超えたら。……何でも一つ、君の望む『ご褒美』をあげよう」
エルヴィンの唇に、少しだけ意地悪な笑みが浮かんだ。それは、死線を潜り抜けてきた男が見せる、甘美で危険な誘惑だった。
「ご褒美、ですか……。何でも、一つ?」
「ああ。私の権限で叶えられることなら、何でもいい。特別休暇でも、新しい装備でも……あるいは、もっと個人的な願いでもな」
最後の言葉に、ナマエの心臓が大きく跳ねた。
個人的な願い。
その響きに含まれた、無数の可能性。もし、もしも合格したら。自分は彼に何を願うだろうか。
抱きしめてほしい。名前を、ただの兵士としてではなく、特別な響きで呼んでほしい。その唇に、触れてみたい――。
ナマエは両手で顔を覆いそうになるのを必死で堪え、拳を握りしめてエルヴィンを見据えた。
その瞳には、かつてないほどの決意の炎が宿っていた。
「何でも……ですね? 私、絶対に平均点取ってみせます。絶対に、団長に願いを聞いてもらいますから!」
「いい返事だ。……期待しているよ、ナマエ」
エルヴィンは、満足そうに彼女の頭をポンと叩いた。
その瞬間の接触だけで、ナマエの体温は限界を超えて上昇する。
尊敬が、恋へと完全に昇華した瞬間。
団長室に流れる空気は、これまで以上に甘く、切ない期待感に満たされていった。
その日の補習が終わる間際、ナマエは意を決したように顔を上げ、エルヴィンの視線を真っ向から受け止めた。窓の外では夜の静寂が深まり、執務室の壁に掛けられた振り子時計が、重々しく時を刻んでいる。
「……団長。お願いがあるのですが」
「なんだ。次のテストのヒントなら、もう十分に与えたはずだが」
エルヴィンは万年筆を置き、椅子の背にもたれかかった。ランプの灯火が、彼の広く逞しい胸板を黄金色に縁取っている。ナマエは膝の上で拳をぎゅっと握りしめ、言葉を紡いだ。
「団長のおすすめの本を、一冊貸してくれませんか」
エルヴィンの眉が、意外そうにわずかに跳ねた。
「……本を? 君は文字を読むと眠くなるのではなかったか」
「はい、そうです。でも、座学の練習にもなるかと思って……それに、団長がどんなものを読んでいるのか、知りたいんです」
ナマエの言葉には、装飾のない純粋な渇望が宿っていた。彼女はただ真っ直ぐに、彼という存在の深淵に触れたがっていた。
エルヴィンはしばし沈黙した後、ゆっくりと立ち上がった。壁一面を埋め尽くす書棚へ歩み寄り、背表紙を指でなぞる。古びた革の匂いと、微かな埃の香りが舞い上がる。
「これにしておこう。……少し難しいかもしれないが、君の今の理解度なら、読み解けないことはないはずだ」
彼が差し出したのは、銀色の箔押しが施された深い藍色の表紙の本だった。受け取ったナマエは、その本の重みと、彼の指先から移った微かな体温に胸を高鳴らせる。
「ありがとうございます。……あの、団長はこの本のどこが好きなんですか」
エルヴィンは、ふと足を止めた。これまで多くの部下が彼に教えを請い、命令を仰いできたが、彼自身の好みを問うた者は数えるほどしかいない。
「……そうだな。結末の不確かさが、現実の戦場に似ているからかもしれない。読み終わったら、話すとしよう」
「……はい。なんか、少し楽しみになってきました。本の内容じゃなくて、そのお話が」
ナマエはそう言い残して、逃げるように部屋を去った。扉が閉まる音の後に残ったのは、彼女が残した瑞々しい熱量と、エルヴィンの微かな当惑だけだった。
翌日の補習。
団長室の空気は、落ち着かない焦燥感に満ちていた。
ナマエの様子が明らかにおかしい。彼女は椅子の上でそわそわと身を揺らし、エルヴィンと目が合うたびに、弾かれたように視線を逸らす。
「ナマエ。ここを読んでみろ」
「は、はい……ええと、ウォール・ローゼの……あ、ええと」
ナマエの視線は空中を彷徨い、指先はテキストの角を何度も折ったり伸ばしたりしている。エルヴィンが問題を投げかけても、返ってくる答えは上の空で、思考が別の場所に飛んでいるのは明白だった。
「……集中していないな」
「し、してます! ちゃんと見てますよ」
「どこを見ているんだ。君の見ている世界では、文字が逆さまに踊っているのか?」
「えっ……?」
ナマエが慌てて手元のテキストを見ると、確かに上下が逆さまになっていた。真っ赤になった彼女は、そのまま机に突っ伏したい衝動を抑えるように、テキストを乱暴にひっくり返す。
「……顔が赤いな。熱でもあるか」
エルヴィンは椅子を引き、彼女の方へ身を乗り出した。
彼が近づくだけで、ナマエの鼻腔を彼の香りがくすぐる。洗いたての清潔な衣類と、彼が愛用する石鹸の、どこか官能的なまでに凛とした香り。
「ち、違います。熱なんて……」
「失礼する」
エルヴィンの大きな、冷んやりとした手が、ナマエの額にそっと触れた。
その瞬間、ナマエの頭の中は真っ白になり、心臓の音が鼓膜にまで響き渡った。至近距離で見つめ合う、彼の深い碧眼。長い睫毛の影。触れられている場所から、電流のような痺れが全身を駆け抜ける。
「……熱はないようだが。しかし、肌が非常に熱い。顔だけでなく、耳の先まで真っ赤だ」
エルヴィンは手を引き、少し首を傾げた。その動作には、彼女を追い詰めている自覚があるのか、それとも無意識の天然なのか判別のつかない危うさがあった。
ナマエの頬は、熟れた林檎よりもさらに深い紅色に染まっていく。
「……それは、団長のせいです……」
蚊の鳴くような、小さな呟き。
エルヴィンの耳には、その言葉がはっきりと届いていた。
(……困ったな)
エルヴィンは、机の下で密かに拳を握りしめた。
揺れる瞳。震える肩。必死に己の感情と戦っている、この年若い少女を、心の底から可愛いと思ってしまっている自分がいた。
それは、誇り高い調査兵団団長としての理性と、一人の男としての本能が、激しく火花を散らす音でもあった。
彼女の不器用な反応の一つ一つが、彼の胸の奥にある、冷え切った冬のような静寂を乱していく。
今夜の補習は、これ以上続けても意味をなさないだろう。いや、これ以上彼女のそばにいては、自分自身のブレーキが壊れてしまう。
「……今日はここまでだ、ナマエ。部屋に戻って、頭を冷やすといい」
エルヴィンの声は、いつも以上に低く、どこか切羽詰まった響きを帯びていた。
ナマエが慌てて退室した後、彼は一人、闇に沈みゆく窓の外を見つめながら、静かに、しかし深く息を吐き出した。
