その少女、飛翔につき座学不能
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訓練場の朝は、乾いた土の匂いと、馬たちの荒い鼻息で幕を開ける。
高く突き抜けた蒼穹の下、鋭い金属音が空気を切り裂いた。立体機動装置から射出されるアンカーが巨木を捉え、ガスの噴射音が鼓膜を震わせる。調査兵団の精鋭たちが入り乱れる定期訓練の場において、ひときわ異彩を放つ一筋の軌道があった。
エルヴィンは、高台からその光景を静かに見守っていた。
彼の視線の先にいるのは、昨夜、自らのマントに包まれて眠っていた少女――ナマエだ。
団長室で見せる、文字に翻弄され、ペンを握りしめて懊悩する彼女の姿は、そこには微塵もなかった。
ナマエは、風そのものだった。
重力という枷から解き放たれたかのように、彼女の体は空中でしなやかな弧を描く。複雑に入り組んだ樹々の間を、一切の迷いなく最短距離で駆け抜け、模擬巨人のうなじを銀色の閃光で削ぎ落としていく。その動きは、天性の勘という言葉だけでは説明のつかない、美しさを纏っていた。
「……見事だな」
エルヴィンの唇から、無意識に感嘆の吐息が零れる。
馬術においても同様だった。彼女が跨る馬は、まるでお互いの血が通い合っているかのように、細かな手綱捌き一つで荒野を疾走する。泥を跳ね上げ、風を切り裂き、戦場を支配するその圧倒的な躍動感。
座学でのあの壊滅的な成績が、にわかには信じがたいほどの天才がそこにはいた。
ナマエを見つめ続けるうちに、エルヴィンの意識は、遠い過去の情景へと引き戻されていく。
かつて、自分もあの場所にいた。
しかし、自分は彼女のような天才ではなかった。
訓練兵時代、座学において苦労した覚えはない。理論は頭ですぐに理解できた。だが、肉体がそれに追いつかなかった。立体機動の習得には人一倍の時間を要し、馬術も最初は落馬の連続だった。
誰にも言わず、深夜の訓練場に一人立ち、月明かりの下で何度も、何度も装置を動かした。指先が裂け、全身が痣だらけになっても、ただできないという事実を塗り替えるためだけに、孤独な反復を繰り返した。
エルヴィンにとっての力とは、積み上げた研鑽の結果であり、血の滲むような努力の結晶だった。
だからこそ、目の前で軽やかに舞うナマエの中に、自分とは正反対の輝きと、そして驚くほど似通った何かを見出していた。
回想の霧が晴れ、現実の音が再び鮮明になる。
訓練を終えたナマエが、額に光る汗を拭いながら地上に降り立った。
彼女を囲む新兵たちが、称賛の声を浴びせる。だが、彼女は決して驕ることなく、清々しい笑顔で仲間と接していた。
座学がどれほど苦手でも、彼女はペンを置こうとはしない。
実技で誰よりも抜きん出ていても、彼女は努力を止めようとはしない。
(……ああ、そうか)
エルヴィンは、胸の奥で熱い塊が動くのを感じた。
彼女の意識は、常に現場にある。
この閉ざされた壁の中の理論ではなく、いつか必ず対峙するであろう、あの残酷な戦場に。
そこで生き残るため、そして仲間を生かすため。彼女は持てる才能の全てを肉体に注ぎ込み、足りない知恵を補おうと、あの不格好な文字と格闘しているのだ。
エルヴィンの視線は、もはや義務的な監察を超えていた。
一人の兵士として、その魂の気高さに敬意を抱き、そして一人の人間として、彼女という存在そのものに、抗いがたい興味を抱き始めている自分に気づく。
訓練場の喧騒の中で、ナマエがふと顔を上げた。
遥か高台に立つエルヴィンと、視線が交差する。
ナマエは驚いたように目を見開き、それから少しだけはにかむように、軍人としての敬礼を送った。
その瞬間、エルヴィンの心に去来したのは、指揮官としての冷徹な判断ではなかった。
もっと根源的な、甘やかで疼くような感情。
彼女をもっと知りたい。あの真摯な瞳が、今度は自分だけを見つめる時間を、一刻も早く手に入れたい。
エルヴィンは、その熱を隠すように静かに頷き返した。
夕食後の、あの静謐な団長室が、今から待ち遠しくてならなかった。
数時間後。
夜の団長室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
卓上のオイルランプが放つ、橙色の柔らかな光。それがエルヴィンの端正な横顔を深く縁取り、机の上に広げられた古い地図に長い影を落としている。
窓の外では、春の夜風が梢を揺らす微かな音が聞こえる。室内には、淹れたての紅茶から立ち上る爽やかな香りが満ちていた。
ナマエは、その静寂の中で静かにペンを動かしていた。
最近では、この場所の空気にも、向かいに座る男の存在感にも、少しずつ慣れてきた。いや、慣れたというよりは、その重厚な存在感に包まれることに、ある種の安らぎを覚え始めていた。
エルヴィンが、ふと書類から目を離し、ナマエを見つめた。
「今日の訓練、私も見ていた。……見事な飛翔だった」
その唐突な、しかし重みのある言葉に、ナマエのペンがぴたりと止まった。
彼女は驚いたように顔を上げ、大きな瞳をさらに見開く。
「……見てたんですか」
その声は、驚きと共に、どこか気恥ずかしさを孕んで震えていた。エルヴィンは、わずかに目を細め、穏やかな微笑を浮かべる。
「ああ。偶然、通りかかっただけだが……君の立体機動は、重力を感じさせない。あれほどの技術を身につけるのに、どれほどの汗を流したのか、想像に難くない」
「……そんな。私はただ、無我夢中で……」
ナマエは照れたように視線を落とし、手元のノートの端を指でなぞった。
実技で褒められることには慣れているはずだった。教官や同期からの称賛は、彼女にとって当然の報酬でしかなかったからだ。
けれど、この男に、この冷徹で聡明な団長に認められたという事実は、彼女の胸の奥を、言葉にできない熱い感情で満たした。
「座学がダメすぎるので。せめて実技では、団長や皆に迷惑をかけないようにしないと、って……いつも思ってます」
ナマエが自嘲気味に、ポツリと零した本音。
その言葉を聞いた瞬間、エルヴィンの表情から微かな笑みが消え、代わりに深い思慮の色が宿った。
「迷惑をかけていると、思っているのか」
エルヴィンの低い、よく響く声が、ナマエの心臓を直接掴むように響く。
ナマエは少しだけ肩をすくめ、視線を彷徨わせた。
「だって、団長は忙しいのに。こんな風に、私一人のために時間を使って……本来なら、作戦の立案や、もっと大事なことに使うべき時間でしょう? 申し訳ないなって、ずっと思ってたんです」
しばらくの間、沈黙が部屋を支配した。
時計の刻む規則正しい音が、やけに大きく聞こえる。
エルヴィンは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。彼はナマエの隣まで歩み寄ると、彼女の肩に、大きな、温かい手をそっと置いた。
「ナマエ」
名前を呼ばれ、彼女は息を呑んで彼を見上げる。
至近距離にあるエルヴィンの瞳は、夜の闇よりも深く、それでいて慈しみに満ちた光を湛えていた。
「私が、必要だと判断したから教えているんだ。君が気にすることではない」
その手の重み、そこから伝わってくる確かな体温。
ナマエは、自分の顔が急激に熱くなるのを感じた。心臓が、耳のすぐそばで警鐘を鳴らしているかのように激しく打っている。
「君は、調査兵団にとって……いや、私にとって、失うわけにはいかない兵士だ。そのための投資を、惜しむはずがないだろう?」
私にとって。
その一言が、ナマエの胸に鋭い楔を打ち込んだ。
単なる兵士としての価値を言っているのだと、頭ではわかっている。けれど、彼の瞳が、彼の声が、それ以上の何かを伝えているような気がして、呼吸が苦しくなる。
「……ありがとうございます、団長」
ナマエは、やっとの思いでそれだけを絞り出した。
エルヴィンは満足そうに一度頷くと、再び自分の席へと戻った。
それからの補習は、これまでの義務としての空気とは、決定的に何かが違っていた。
エルヴィンが、時折、壁外の地質学とは無関係な、他愛のない世間話を振るようになった。ナマエも、それに応えて、訓練兵時代の失敗談を話しては、小さな笑い声を上げた。
教える者と、教わる者。
その境界線が、ランプの灯影の中で少しずつ溶け、曖昧になっていく。
ナマエは、ノートに書き込む文字が、心なしかいつもより滑らかに躍っているように感じた。
夜の団長室。
二人の間に流れる空気は、春の予感を含んだ、どこまでも甘やかで、密やかな熱を帯び始めていた。
高く突き抜けた蒼穹の下、鋭い金属音が空気を切り裂いた。立体機動装置から射出されるアンカーが巨木を捉え、ガスの噴射音が鼓膜を震わせる。調査兵団の精鋭たちが入り乱れる定期訓練の場において、ひときわ異彩を放つ一筋の軌道があった。
エルヴィンは、高台からその光景を静かに見守っていた。
彼の視線の先にいるのは、昨夜、自らのマントに包まれて眠っていた少女――ナマエだ。
団長室で見せる、文字に翻弄され、ペンを握りしめて懊悩する彼女の姿は、そこには微塵もなかった。
ナマエは、風そのものだった。
重力という枷から解き放たれたかのように、彼女の体は空中でしなやかな弧を描く。複雑に入り組んだ樹々の間を、一切の迷いなく最短距離で駆け抜け、模擬巨人のうなじを銀色の閃光で削ぎ落としていく。その動きは、天性の勘という言葉だけでは説明のつかない、美しさを纏っていた。
「……見事だな」
エルヴィンの唇から、無意識に感嘆の吐息が零れる。
馬術においても同様だった。彼女が跨る馬は、まるでお互いの血が通い合っているかのように、細かな手綱捌き一つで荒野を疾走する。泥を跳ね上げ、風を切り裂き、戦場を支配するその圧倒的な躍動感。
座学でのあの壊滅的な成績が、にわかには信じがたいほどの天才がそこにはいた。
ナマエを見つめ続けるうちに、エルヴィンの意識は、遠い過去の情景へと引き戻されていく。
かつて、自分もあの場所にいた。
しかし、自分は彼女のような天才ではなかった。
訓練兵時代、座学において苦労した覚えはない。理論は頭ですぐに理解できた。だが、肉体がそれに追いつかなかった。立体機動の習得には人一倍の時間を要し、馬術も最初は落馬の連続だった。
誰にも言わず、深夜の訓練場に一人立ち、月明かりの下で何度も、何度も装置を動かした。指先が裂け、全身が痣だらけになっても、ただできないという事実を塗り替えるためだけに、孤独な反復を繰り返した。
エルヴィンにとっての力とは、積み上げた研鑽の結果であり、血の滲むような努力の結晶だった。
だからこそ、目の前で軽やかに舞うナマエの中に、自分とは正反対の輝きと、そして驚くほど似通った何かを見出していた。
回想の霧が晴れ、現実の音が再び鮮明になる。
訓練を終えたナマエが、額に光る汗を拭いながら地上に降り立った。
彼女を囲む新兵たちが、称賛の声を浴びせる。だが、彼女は決して驕ることなく、清々しい笑顔で仲間と接していた。
座学がどれほど苦手でも、彼女はペンを置こうとはしない。
実技で誰よりも抜きん出ていても、彼女は努力を止めようとはしない。
(……ああ、そうか)
エルヴィンは、胸の奥で熱い塊が動くのを感じた。
彼女の意識は、常に現場にある。
この閉ざされた壁の中の理論ではなく、いつか必ず対峙するであろう、あの残酷な戦場に。
そこで生き残るため、そして仲間を生かすため。彼女は持てる才能の全てを肉体に注ぎ込み、足りない知恵を補おうと、あの不格好な文字と格闘しているのだ。
エルヴィンの視線は、もはや義務的な監察を超えていた。
一人の兵士として、その魂の気高さに敬意を抱き、そして一人の人間として、彼女という存在そのものに、抗いがたい興味を抱き始めている自分に気づく。
訓練場の喧騒の中で、ナマエがふと顔を上げた。
遥か高台に立つエルヴィンと、視線が交差する。
ナマエは驚いたように目を見開き、それから少しだけはにかむように、軍人としての敬礼を送った。
その瞬間、エルヴィンの心に去来したのは、指揮官としての冷徹な判断ではなかった。
もっと根源的な、甘やかで疼くような感情。
彼女をもっと知りたい。あの真摯な瞳が、今度は自分だけを見つめる時間を、一刻も早く手に入れたい。
エルヴィンは、その熱を隠すように静かに頷き返した。
夕食後の、あの静謐な団長室が、今から待ち遠しくてならなかった。
数時間後。
夜の団長室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
卓上のオイルランプが放つ、橙色の柔らかな光。それがエルヴィンの端正な横顔を深く縁取り、机の上に広げられた古い地図に長い影を落としている。
窓の外では、春の夜風が梢を揺らす微かな音が聞こえる。室内には、淹れたての紅茶から立ち上る爽やかな香りが満ちていた。
ナマエは、その静寂の中で静かにペンを動かしていた。
最近では、この場所の空気にも、向かいに座る男の存在感にも、少しずつ慣れてきた。いや、慣れたというよりは、その重厚な存在感に包まれることに、ある種の安らぎを覚え始めていた。
エルヴィンが、ふと書類から目を離し、ナマエを見つめた。
「今日の訓練、私も見ていた。……見事な飛翔だった」
その唐突な、しかし重みのある言葉に、ナマエのペンがぴたりと止まった。
彼女は驚いたように顔を上げ、大きな瞳をさらに見開く。
「……見てたんですか」
その声は、驚きと共に、どこか気恥ずかしさを孕んで震えていた。エルヴィンは、わずかに目を細め、穏やかな微笑を浮かべる。
「ああ。偶然、通りかかっただけだが……君の立体機動は、重力を感じさせない。あれほどの技術を身につけるのに、どれほどの汗を流したのか、想像に難くない」
「……そんな。私はただ、無我夢中で……」
ナマエは照れたように視線を落とし、手元のノートの端を指でなぞった。
実技で褒められることには慣れているはずだった。教官や同期からの称賛は、彼女にとって当然の報酬でしかなかったからだ。
けれど、この男に、この冷徹で聡明な団長に認められたという事実は、彼女の胸の奥を、言葉にできない熱い感情で満たした。
「座学がダメすぎるので。せめて実技では、団長や皆に迷惑をかけないようにしないと、って……いつも思ってます」
ナマエが自嘲気味に、ポツリと零した本音。
その言葉を聞いた瞬間、エルヴィンの表情から微かな笑みが消え、代わりに深い思慮の色が宿った。
「迷惑をかけていると、思っているのか」
エルヴィンの低い、よく響く声が、ナマエの心臓を直接掴むように響く。
ナマエは少しだけ肩をすくめ、視線を彷徨わせた。
「だって、団長は忙しいのに。こんな風に、私一人のために時間を使って……本来なら、作戦の立案や、もっと大事なことに使うべき時間でしょう? 申し訳ないなって、ずっと思ってたんです」
しばらくの間、沈黙が部屋を支配した。
時計の刻む規則正しい音が、やけに大きく聞こえる。
エルヴィンは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。彼はナマエの隣まで歩み寄ると、彼女の肩に、大きな、温かい手をそっと置いた。
「ナマエ」
名前を呼ばれ、彼女は息を呑んで彼を見上げる。
至近距離にあるエルヴィンの瞳は、夜の闇よりも深く、それでいて慈しみに満ちた光を湛えていた。
「私が、必要だと判断したから教えているんだ。君が気にすることではない」
その手の重み、そこから伝わってくる確かな体温。
ナマエは、自分の顔が急激に熱くなるのを感じた。心臓が、耳のすぐそばで警鐘を鳴らしているかのように激しく打っている。
「君は、調査兵団にとって……いや、私にとって、失うわけにはいかない兵士だ。そのための投資を、惜しむはずがないだろう?」
私にとって。
その一言が、ナマエの胸に鋭い楔を打ち込んだ。
単なる兵士としての価値を言っているのだと、頭ではわかっている。けれど、彼の瞳が、彼の声が、それ以上の何かを伝えているような気がして、呼吸が苦しくなる。
「……ありがとうございます、団長」
ナマエは、やっとの思いでそれだけを絞り出した。
エルヴィンは満足そうに一度頷くと、再び自分の席へと戻った。
それからの補習は、これまでの義務としての空気とは、決定的に何かが違っていた。
エルヴィンが、時折、壁外の地質学とは無関係な、他愛のない世間話を振るようになった。ナマエも、それに応えて、訓練兵時代の失敗談を話しては、小さな笑い声を上げた。
教える者と、教わる者。
その境界線が、ランプの灯影の中で少しずつ溶け、曖昧になっていく。
ナマエは、ノートに書き込む文字が、心なしかいつもより滑らかに躍っているように感じた。
夜の団長室。
二人の間に流れる空気は、春の予感を含んだ、どこまでも甘やかで、密やかな熱を帯び始めていた。
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