その少女、飛翔につき座学不能
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春の柔らかな陽光が、訓練兵舎の古びた石壁を白く焼き、窓から差し込む光の帯には無数の塵がダンスを踊るように舞っている。
廊下に張り出された座学の試験結果の前には、黒山の人だかりができていた。合格を確信して胸をなで下ろす者、不本意な点数に肩を落とす者。十人十色の喧騒が石造りの校舎に反響し、重苦しくもどこか浮ついた空気を形成している。
その人だかりの最後方で、一人の少女――ナマエは、天を仰いで深い溜息をついた。
掲示板の最上段には、エリートたちの名前が燦然と輝いている。しかし、視線を下へ、下へと辿っていくと、底知れぬ深淵の如き最下位付近に、ポツンとその名前は記されていた。
「……また、やった」
ナマエの声は羽虫の羽音よりも小さく、絶望に濡れていた。
彼女の隣で、採点表を握りしめた教官が、まるで未知の巨大樹でも見上げるような顔で首を捻っている。その手にある答案用紙は、赤ペンによる修正の嵐で、もはや元の白さを失っていた。
「……解せぬ。実技では、あれほどまでに鮮やかな身のこなしを見せるというのに」
教官の呟きは、偽らざる本音だった。
ナマエは、実技においては別格と称される逸材である。
馬術の訓練では、荒ぶる駿馬をまるで己の手足のように操り、風と一体化して草原を駆ける。その姿を見た馬術教官は「調査兵団の歴史においても稀に見る天才だ」と手放しで称賛した。
立体機動の習得速度に至っては、同期の誰よりも頭ひとつ抜きん出ている。重力から解き放たれ、巨木の合間を縫うように飛翔する彼女の軌道は、芸術的なまでに無駄がなかった。
だというのに。
「なぜ、歴史の年号一つ覚えられんのだ、お前は」
教官の悲痛な問いに、ナマエはただ、気まずそうに視線を泳がせることしかできなかった。
場所は変わり、重厚な木製の扉の向こう側。
調査兵団13代団長、エルヴィン・スミスの執務室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
壁一面を埋め尽くす書物の背表紙が、窓から差し込む西日に照らされ、古びた紙とインクの芳醇な香りを漂わせている。
エルヴィンは、机の上に置かれた一通の報告書と、数枚の成績表に視線を落としていた。
彼の太い眉が、わずかに中央に寄る。
「……実技は、ほぼ満点か。対巨人戦闘のシミュレーションにおいても、判断スピードはベテランに引けを取らない。馬術に至っては……なるほど、非の打ち所がないな」
エルヴィンの低い、よく響く声が室内に満ちる。彼は次に、問題の座学の答案用紙を手に取った。
そこには、独創的すぎる解釈と、迷路のように彷徨った挙げ句に力尽きた解答が並んでいる。
「…………」
エルヴィンは沈黙した。その沈黙は長く、重い。
報告に訪れた教官は、冷や汗を拭いながら「私にも、理由が検討もつきません」と、申し訳なさそうに肩をすくめた。
エルヴィンは、答案用紙に記されたナマエという名前を指先でなぞる。
その筆跡は、どこか迷いがありながらも、力強く紙に刻まれていた。
「ナマエという兵士を、ここに呼んでくれ」
しばらくして、扉が控えめにノックされた。
入室を許可する声に応じて現れたのは、まだ幼さの残る、しかし引き締まった体躯を持つ少女だった。
ナマエは緊張で指先を強張らせながらも、軍人としての礼を完璧にこなす。
「新兵のナマエです。お呼びでしょうか、団長」
エルヴィンは、彼女の瞳をじっと見つめた。
その瞳は、戦場を駆ける猛禽のような鋭さと、今は試験結果に打ちのめされた仔犬のような弱々しさが同居している。
彼は机の上に、無残な点数の書かれた成績表を、そっと置いた。
「座学が苦手か」
あまりにも直球な問いに、ナマエの肩がびくりと跳ねる。
彼女は、まるで断頭台に立つ罪人のような悲壮な決意を固め、声を絞り出した。
「……はい。お恥ずかしながら」
「どのくらい、苦手なんだ?」
エルヴィンの声には、責めるような響きはない。むしろ、純粋な好奇心に近い響きが含まれていた。
ナマエは、自嘲気味に口角をわずかに上げた。
「文字を読むと、視界が霞みます。歴史の流れを追おうとすると、どうしても意識が遠のいて……気がつくと、机の木目を数えていたり、眠りについていたりします」
「……そうか」
再び、長い沈黙が訪れた。
エルヴィンは、彼女の天才としての資質と、この致命的な欠落を天秤にかける。
調査兵団は、力だけで生き残れる場所ではない。壁外の地勢、巨人の生態、作戦の意図を正しく理解し、思考の糧とする知恵がなければ、いかに剣技に優れていようと、待っているのは無意味な死だ。
放置するには、あまりにも惜しい素材だ――。
エルヴィンの冷徹な指揮官としての脳が、一つの結論を導き出した。
「ならば、私が教えよう」
「……はい?」
ナマエが、まるで信じられないものを見るような目で、エルヴィンを見上げた。その瞳が、驚きで大きく見開かれる。
「明日から毎日、夕食の後にこの団長室へ来なさい。私が直々に、君の脳を叩き直そう」
「だ、団長が……直々に、ですか? 私のような一新兵に、そんな時間を割くなんて……」
「他に適任がいるだろうか。君のこの壊滅的な解答を、根気強く読み解き、正解へと導ける人間が」
エルヴィンは、わずかに唇を綻ばせた。それは慈愛のようでもあり、あるいは面白い玩具を見つけた子供のような、得体の知れない熱を帯びていた。
「これは命令だ。君を、無知ゆえに死なせるわけにはいかないからな」
ナマエは、団長の力強い言葉に圧倒されながらも、小さく「了解しました」と答えるのが精一杯だった。
沈みゆく夕日が、エルヴィンの広い背中を長く影として伸ばし、彼女の足元まで届いている。
それが、甘く、そして苦い日々の始まりであることを、この時のナマエはまだ、知る由もなかった。
翌日。
夜の帳が深く降り、兵舎を包む空気はしんとして冷え切っていた。
団長室の重厚な扉の向こう側では、卓上のランプが放つ黄金色の光が、壁の地図や積み上げられた書類を幽玄に照らし出している。
室内に漂うのは、古い羊皮紙の乾いた匂い。そして、その静寂を刻むのは、カチカチという規則正しい時計の針の音と、ナマエが握るペンの、どこか自信なげな摩擦音だけだった。
「……では、まずは基礎中の基礎から確認しよう」
エルヴィンの声は、夜の静寂に溶け込むように低く、心地よい振動を伴ってナマエの鼓膜を震わせた。
ナマエは、背筋を伸ばし、真っ白なノートを前に固まっている。その手は緊張でわずかに汗ばみ、ペンの軸が滑りそうになるのを必死に堪えていた。
「はい。よろしくお願いします、団長」
ナマエの返答は、軍人らしく簡潔で力強い。その真剣な眼差しからは、実技で見せるあの鋭い才気が溢れ出ているようにも見えた。
エルヴィンは内心で(これならば、覚えも早そうだ)と、根拠のない期待を抱きながら、手元の資料に視線を落とした。
「まず、我々を守る壁の内側の地理的構造について説明してみろ。新兵として、己がどこに立っているかを知ることは生存に直結する」
「……えっと。大きい壁が、こう……三重になっていて」
ナマエは空中を指でなぞり、同心円を描く。エルヴィンはその滑らかな指の動きを見つめながら、静かに頷いた。
「そうだ。その内側から順に、名前を挙げてみてくれ」
「はい。一番中にあるのがウォール・マリア、次がウォール・ローゼ、そして一番外側がウォール・シーナ……で、合ってますか」
沈黙が、団長室を支配した。
エルヴィンは、掲げようとした称賛の言葉を喉の奥に飲み込んだ。
彼はゆっくりと顔を上げ、期待に満ちた瞳で自分を見つめるナマエを、呆然と見返した。
「……逆だ」
「……逆?」
「外側から、マリア、ローゼ、シーナだ。人類の領域が狭まっていく順序を考えれば、間違えようがないはずなのだが」
「あ。じゃあ、私が今住んでいるこの兵舎は、シーナにあるんですか」
「ローゼだ。シーナは王都のある最奥だ」
エルヴィンは、こみ上げてくる妙な衝動を抑えるように、口元を一瞬強く引き結んだ。
人類の希望を背負う司令官としての威厳が、彼女のあまりにも堂々とした間違いによって、微かに揺らぐ。
しかし、ナマエは自分の間違いに心底驚いたようで、「そうだったのか……」と、深刻な顔でノートに巨大なバツ印を書き込んでいる。その横顔は無防備で、そして少しだけ抜けていた。
(……いや、まだ初日だ。混乱することもあるだろう)
エルヴィンは自分に言い聞かせ、一つ溜息を吐くと、次の項目へと進んだ。
「気を取り直そう。次は、我々の真の敵である『巨人の特性』について述べてみろ。実技でそれだけの成績を残している君なら、身を以て理解しているはずだ」
ナマエは今度こそ、と意気込むようにペンを置き、胸を張った。
「大きい、怖い、首の後ろが弱点。以上です」
「…………」
エルヴィンは、自身の眉間を指の腹で強く押さえた。
確かに間違いではない。間違いではないが、それは訓練兵の初日に教わる、あるいは壁の中の子供でも知っているような、あまりにも抽象的な内容だった。
「……もう少し詳しく、具体的に述べてくれ。生態や個体差についてだ」
エルヴィンの促しに、ナマエはしばし眉を寄せ、難解な作戦会議にでも臨むかのような深刻な表情で考え込んだ。
そして、絞り出すように答える。
「……すごく大きい、すごく怖い、首の後ろがすごく弱点」
「形容詞を増やしても、それは答えにはならない」
エルヴィンの喉の奥から、くく、と短い音が漏れそうになった。彼は咄嗟に視線を逸らし、拳を口元に当てて咳払いを装う。
目の前の少女は、至って真面目なのだ。ふざけている様子は微塵もない。むしろ、自分の持てる限りの語彙を尽くして、精一杯の解答を導き出したのだ。
「ナマエ」
「はい、すみません。語彙が足りなくて……」
「いや……君の、その……独特の感性は、戦場では直感として役立っているのかもしれないな」
エルヴィンは、ついに観念したように目を閉じた。
深い思慮を湛えたその瞳の裏側で、先ほどの「すごく弱点」というフレーズが反芻され、腹の底をくすぐる。
戦場での冷徹な判断を求められる日々の中で、これほどまでに無垢で、予想を裏切る存在は稀だった。
「今日のところは、この資料を書き写して帰りなさい。言葉で覚えるのが苦手なら、まずはその手に覚えさせるんだ」
「わかりました。次はもっと、団長を感心させられる答えを考えてきます」
「……いや、無理に捻り出す必要はない。正確さを優先してくれ」
エルヴィンは、ランプの灯影に揺れるナマエの真摯な背中を見つめながら、微かな、しかし確かな可笑しさを噛み締めていた。
彼女を素材として評価した自分の眼識は、少し修正が必要かもしれない。
だが、書類にペンを走らせる彼女の必死な様子を見ていると、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、この退屈な夜の時間が、少しだけ鮮やかに色づき始めたような、そんな奇妙な錯覚さえ抱くのだった。
エルヴィンによる補習が始まってから数日が経ったある日の深夜。
調査兵団本部の石造りの廊下を渡る風は、春の気配を孕みながらも、夜の冷気を帯びて肌を刺した。団長室の重厚な扉の隙間から漏れる細い光の筋が、暗い廊下に一本の道を作っている。
室内では、煤けたオイルランプの芯が弾ける小さな音が、やけに大きく響いていた。
エルヴィンは、机の端で必死にペンを動かすナマエの横顔を、書類をめくる手を止めて見つめる。
彼女の眉間には、戦場での索敵中かと思うほどの深い皺が刻まれている。握りしめられたペンは、折れんばかりの力で紙に押し付けられ、時折、苦悶の溜息が彼女の唇から零れ落ちた。
「……ナマエ、少し休憩してはどうだ。根を詰めすぎると、記憶の定着を妨げる」
エルヴィンの落ち着いた声に、ナマエは弾かれたように顔を上げた。その瞳には、隠しようのない疲労の色が浮かんでいる。
「いえ、大丈夫です。まだ……覚えないといけないことが山ほどあるので。団長が時間を割いてくれているのに、私がここで休むわけにはいきません」
ナマエの言葉に、迷いはない。
そして、どこか潔く、真っ直ぐだ。その強さは、彼女がこれまで過酷な訓練をくぐり抜けてきた自負の表れでもあった。
エルヴィンは椅子から立ち上がり、音もなく彼女の背後に回った。
ふと、彼女の手元にあるノートに目を落とす。
「……これは」
エルヴィンの目に飛び込んできたのは、決して流麗とは言えない、不格好な文字の羅列だった。
しかし、そこには異様なまでの熱量が宿っていた。
一つの単語――例えば巨人のうなじの断裂という言葉が、ページを埋め尽くすほど、何十回、何百回と書き連ねられている。筆圧が強すぎて紙が破れかけている箇所もあれば、涙の跡か、あるいは汗の滴か、文字が滲んで何度も書き直された痕跡が、地層のように重なっている。
愚痴をこぼすこともなく、投げ出すこともなく。
実技という華々しい才能を持ちながら、彼女はこの地味で苦痛に満ちた理解という作業から、一歩も逃げ出そうとしていなかった。
エルヴィンは、胸の奥を小さな熾火で炙られるような感覚を覚えた。
指揮官として、多くの兵士を見てきた。効率を求め、近道を模索する者は多い。だが、これほどまでに不器用に、しかし真摯に己の欠落と向き合い続ける背中を、彼は知っていた。
それは、かつて訓練兵時代、立体機動を習得できずに夜通し一人で練習を繰り返していた、自分自身の記憶と重なる。
「……ナマエ。効率という観点から、少し教え方を変えよう。言葉を暗記するのではなく、イメージを定着させるんだ」
「イメージ……ですか?」
「ああ。例えば、この地質構造の変遷は、巨人の骨格形成と重ねて考えてみるといい。君は、立体機動で巨人の体を斬る際、肉の厚みを感覚で捉えているだろう?」
エルヴィンは自らペンを取り、ノートの余白に簡潔な、それでいて本質を捉えた図解を描き始めた。
彼の大きな手が動くたび、複雑な理論が鮮やかな絵図へと変わっていく。
「壁外調査の陣形も同じだ。この語呂合わせを使えば、君の直感に結びつくはずだ」
「……あ。本当だ、これなら……すんなり入ってきます。団長、教えるの上手いですね」
ナマエの顔に、今日初めての笑みが浮かんだ。
その笑顔は、深夜の疲れを吹き飛ばすほどに明るく、そして無垢だった。
それから一時間ほど、団長室には穏やかな、しかし密度の高い時間が流れた。
エルヴィンの説明を聞き、ナマエがそれを咀嚼し、自分の言葉で短く確認する。二人の距離は、地図や参考書を介して、自然と近くなっていた。
やがて、夜がさらに深まった頃。
ナマエの返答が途絶えた。
ペンを持ったまま、彼女の頭がカクンと大きく揺れる。
「……ナマエ?」
呼びかける声に反応はない。
彼女は机に突っ伏し、深い眠りの中に落ちていた。微かな寝息が、ランプの灯火に揺れている。
エルヴィンは、しばしその寝顔を見つめていた。
普段の鋭さは消え、あどけない少女の表情がそこにある。
彼は無意識のうちに、大きな手を伸ばしていた。
指先が、彼女の柔らかな髪に触れる。
訓練で酷使されているはずの髪は、意外にも滑らかで、陽だまりのような匂いがした。
彼はそのまま、慈しむように、彼女の頭をそっと撫でた。
「……よく頑張っているな」
それは、団長としての称賛でも、教師としての激励でもない。
一人の男として、彼女の魂に触れた時に溢れ出した、混じりけのない敬愛だった。
エルヴィンは自らのマントを脱ぐと、眠る彼女の肩にそっと掛けた。
重厚な緑の布地が、小さな彼女を包み込む。
その光景を、部屋の隅にある柱時計だけが、静かに見守り続けていた。
廊下に張り出された座学の試験結果の前には、黒山の人だかりができていた。合格を確信して胸をなで下ろす者、不本意な点数に肩を落とす者。十人十色の喧騒が石造りの校舎に反響し、重苦しくもどこか浮ついた空気を形成している。
その人だかりの最後方で、一人の少女――ナマエは、天を仰いで深い溜息をついた。
掲示板の最上段には、エリートたちの名前が燦然と輝いている。しかし、視線を下へ、下へと辿っていくと、底知れぬ深淵の如き最下位付近に、ポツンとその名前は記されていた。
「……また、やった」
ナマエの声は羽虫の羽音よりも小さく、絶望に濡れていた。
彼女の隣で、採点表を握りしめた教官が、まるで未知の巨大樹でも見上げるような顔で首を捻っている。その手にある答案用紙は、赤ペンによる修正の嵐で、もはや元の白さを失っていた。
「……解せぬ。実技では、あれほどまでに鮮やかな身のこなしを見せるというのに」
教官の呟きは、偽らざる本音だった。
ナマエは、実技においては別格と称される逸材である。
馬術の訓練では、荒ぶる駿馬をまるで己の手足のように操り、風と一体化して草原を駆ける。その姿を見た馬術教官は「調査兵団の歴史においても稀に見る天才だ」と手放しで称賛した。
立体機動の習得速度に至っては、同期の誰よりも頭ひとつ抜きん出ている。重力から解き放たれ、巨木の合間を縫うように飛翔する彼女の軌道は、芸術的なまでに無駄がなかった。
だというのに。
「なぜ、歴史の年号一つ覚えられんのだ、お前は」
教官の悲痛な問いに、ナマエはただ、気まずそうに視線を泳がせることしかできなかった。
場所は変わり、重厚な木製の扉の向こう側。
調査兵団13代団長、エルヴィン・スミスの執務室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
壁一面を埋め尽くす書物の背表紙が、窓から差し込む西日に照らされ、古びた紙とインクの芳醇な香りを漂わせている。
エルヴィンは、机の上に置かれた一通の報告書と、数枚の成績表に視線を落としていた。
彼の太い眉が、わずかに中央に寄る。
「……実技は、ほぼ満点か。対巨人戦闘のシミュレーションにおいても、判断スピードはベテランに引けを取らない。馬術に至っては……なるほど、非の打ち所がないな」
エルヴィンの低い、よく響く声が室内に満ちる。彼は次に、問題の座学の答案用紙を手に取った。
そこには、独創的すぎる解釈と、迷路のように彷徨った挙げ句に力尽きた解答が並んでいる。
「…………」
エルヴィンは沈黙した。その沈黙は長く、重い。
報告に訪れた教官は、冷や汗を拭いながら「私にも、理由が検討もつきません」と、申し訳なさそうに肩をすくめた。
エルヴィンは、答案用紙に記されたナマエという名前を指先でなぞる。
その筆跡は、どこか迷いがありながらも、力強く紙に刻まれていた。
「ナマエという兵士を、ここに呼んでくれ」
しばらくして、扉が控えめにノックされた。
入室を許可する声に応じて現れたのは、まだ幼さの残る、しかし引き締まった体躯を持つ少女だった。
ナマエは緊張で指先を強張らせながらも、軍人としての礼を完璧にこなす。
「新兵のナマエです。お呼びでしょうか、団長」
エルヴィンは、彼女の瞳をじっと見つめた。
その瞳は、戦場を駆ける猛禽のような鋭さと、今は試験結果に打ちのめされた仔犬のような弱々しさが同居している。
彼は机の上に、無残な点数の書かれた成績表を、そっと置いた。
「座学が苦手か」
あまりにも直球な問いに、ナマエの肩がびくりと跳ねる。
彼女は、まるで断頭台に立つ罪人のような悲壮な決意を固め、声を絞り出した。
「……はい。お恥ずかしながら」
「どのくらい、苦手なんだ?」
エルヴィンの声には、責めるような響きはない。むしろ、純粋な好奇心に近い響きが含まれていた。
ナマエは、自嘲気味に口角をわずかに上げた。
「文字を読むと、視界が霞みます。歴史の流れを追おうとすると、どうしても意識が遠のいて……気がつくと、机の木目を数えていたり、眠りについていたりします」
「……そうか」
再び、長い沈黙が訪れた。
エルヴィンは、彼女の天才としての資質と、この致命的な欠落を天秤にかける。
調査兵団は、力だけで生き残れる場所ではない。壁外の地勢、巨人の生態、作戦の意図を正しく理解し、思考の糧とする知恵がなければ、いかに剣技に優れていようと、待っているのは無意味な死だ。
放置するには、あまりにも惜しい素材だ――。
エルヴィンの冷徹な指揮官としての脳が、一つの結論を導き出した。
「ならば、私が教えよう」
「……はい?」
ナマエが、まるで信じられないものを見るような目で、エルヴィンを見上げた。その瞳が、驚きで大きく見開かれる。
「明日から毎日、夕食の後にこの団長室へ来なさい。私が直々に、君の脳を叩き直そう」
「だ、団長が……直々に、ですか? 私のような一新兵に、そんな時間を割くなんて……」
「他に適任がいるだろうか。君のこの壊滅的な解答を、根気強く読み解き、正解へと導ける人間が」
エルヴィンは、わずかに唇を綻ばせた。それは慈愛のようでもあり、あるいは面白い玩具を見つけた子供のような、得体の知れない熱を帯びていた。
「これは命令だ。君を、無知ゆえに死なせるわけにはいかないからな」
ナマエは、団長の力強い言葉に圧倒されながらも、小さく「了解しました」と答えるのが精一杯だった。
沈みゆく夕日が、エルヴィンの広い背中を長く影として伸ばし、彼女の足元まで届いている。
それが、甘く、そして苦い日々の始まりであることを、この時のナマエはまだ、知る由もなかった。
翌日。
夜の帳が深く降り、兵舎を包む空気はしんとして冷え切っていた。
団長室の重厚な扉の向こう側では、卓上のランプが放つ黄金色の光が、壁の地図や積み上げられた書類を幽玄に照らし出している。
室内に漂うのは、古い羊皮紙の乾いた匂い。そして、その静寂を刻むのは、カチカチという規則正しい時計の針の音と、ナマエが握るペンの、どこか自信なげな摩擦音だけだった。
「……では、まずは基礎中の基礎から確認しよう」
エルヴィンの声は、夜の静寂に溶け込むように低く、心地よい振動を伴ってナマエの鼓膜を震わせた。
ナマエは、背筋を伸ばし、真っ白なノートを前に固まっている。その手は緊張でわずかに汗ばみ、ペンの軸が滑りそうになるのを必死に堪えていた。
「はい。よろしくお願いします、団長」
ナマエの返答は、軍人らしく簡潔で力強い。その真剣な眼差しからは、実技で見せるあの鋭い才気が溢れ出ているようにも見えた。
エルヴィンは内心で(これならば、覚えも早そうだ)と、根拠のない期待を抱きながら、手元の資料に視線を落とした。
「まず、我々を守る壁の内側の地理的構造について説明してみろ。新兵として、己がどこに立っているかを知ることは生存に直結する」
「……えっと。大きい壁が、こう……三重になっていて」
ナマエは空中を指でなぞり、同心円を描く。エルヴィンはその滑らかな指の動きを見つめながら、静かに頷いた。
「そうだ。その内側から順に、名前を挙げてみてくれ」
「はい。一番中にあるのがウォール・マリア、次がウォール・ローゼ、そして一番外側がウォール・シーナ……で、合ってますか」
沈黙が、団長室を支配した。
エルヴィンは、掲げようとした称賛の言葉を喉の奥に飲み込んだ。
彼はゆっくりと顔を上げ、期待に満ちた瞳で自分を見つめるナマエを、呆然と見返した。
「……逆だ」
「……逆?」
「外側から、マリア、ローゼ、シーナだ。人類の領域が狭まっていく順序を考えれば、間違えようがないはずなのだが」
「あ。じゃあ、私が今住んでいるこの兵舎は、シーナにあるんですか」
「ローゼだ。シーナは王都のある最奥だ」
エルヴィンは、こみ上げてくる妙な衝動を抑えるように、口元を一瞬強く引き結んだ。
人類の希望を背負う司令官としての威厳が、彼女のあまりにも堂々とした間違いによって、微かに揺らぐ。
しかし、ナマエは自分の間違いに心底驚いたようで、「そうだったのか……」と、深刻な顔でノートに巨大なバツ印を書き込んでいる。その横顔は無防備で、そして少しだけ抜けていた。
(……いや、まだ初日だ。混乱することもあるだろう)
エルヴィンは自分に言い聞かせ、一つ溜息を吐くと、次の項目へと進んだ。
「気を取り直そう。次は、我々の真の敵である『巨人の特性』について述べてみろ。実技でそれだけの成績を残している君なら、身を以て理解しているはずだ」
ナマエは今度こそ、と意気込むようにペンを置き、胸を張った。
「大きい、怖い、首の後ろが弱点。以上です」
「…………」
エルヴィンは、自身の眉間を指の腹で強く押さえた。
確かに間違いではない。間違いではないが、それは訓練兵の初日に教わる、あるいは壁の中の子供でも知っているような、あまりにも抽象的な内容だった。
「……もう少し詳しく、具体的に述べてくれ。生態や個体差についてだ」
エルヴィンの促しに、ナマエはしばし眉を寄せ、難解な作戦会議にでも臨むかのような深刻な表情で考え込んだ。
そして、絞り出すように答える。
「……すごく大きい、すごく怖い、首の後ろがすごく弱点」
「形容詞を増やしても、それは答えにはならない」
エルヴィンの喉の奥から、くく、と短い音が漏れそうになった。彼は咄嗟に視線を逸らし、拳を口元に当てて咳払いを装う。
目の前の少女は、至って真面目なのだ。ふざけている様子は微塵もない。むしろ、自分の持てる限りの語彙を尽くして、精一杯の解答を導き出したのだ。
「ナマエ」
「はい、すみません。語彙が足りなくて……」
「いや……君の、その……独特の感性は、戦場では直感として役立っているのかもしれないな」
エルヴィンは、ついに観念したように目を閉じた。
深い思慮を湛えたその瞳の裏側で、先ほどの「すごく弱点」というフレーズが反芻され、腹の底をくすぐる。
戦場での冷徹な判断を求められる日々の中で、これほどまでに無垢で、予想を裏切る存在は稀だった。
「今日のところは、この資料を書き写して帰りなさい。言葉で覚えるのが苦手なら、まずはその手に覚えさせるんだ」
「わかりました。次はもっと、団長を感心させられる答えを考えてきます」
「……いや、無理に捻り出す必要はない。正確さを優先してくれ」
エルヴィンは、ランプの灯影に揺れるナマエの真摯な背中を見つめながら、微かな、しかし確かな可笑しさを噛み締めていた。
彼女を素材として評価した自分の眼識は、少し修正が必要かもしれない。
だが、書類にペンを走らせる彼女の必死な様子を見ていると、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、この退屈な夜の時間が、少しだけ鮮やかに色づき始めたような、そんな奇妙な錯覚さえ抱くのだった。
エルヴィンによる補習が始まってから数日が経ったある日の深夜。
調査兵団本部の石造りの廊下を渡る風は、春の気配を孕みながらも、夜の冷気を帯びて肌を刺した。団長室の重厚な扉の隙間から漏れる細い光の筋が、暗い廊下に一本の道を作っている。
室内では、煤けたオイルランプの芯が弾ける小さな音が、やけに大きく響いていた。
エルヴィンは、机の端で必死にペンを動かすナマエの横顔を、書類をめくる手を止めて見つめる。
彼女の眉間には、戦場での索敵中かと思うほどの深い皺が刻まれている。握りしめられたペンは、折れんばかりの力で紙に押し付けられ、時折、苦悶の溜息が彼女の唇から零れ落ちた。
「……ナマエ、少し休憩してはどうだ。根を詰めすぎると、記憶の定着を妨げる」
エルヴィンの落ち着いた声に、ナマエは弾かれたように顔を上げた。その瞳には、隠しようのない疲労の色が浮かんでいる。
「いえ、大丈夫です。まだ……覚えないといけないことが山ほどあるので。団長が時間を割いてくれているのに、私がここで休むわけにはいきません」
ナマエの言葉に、迷いはない。
そして、どこか潔く、真っ直ぐだ。その強さは、彼女がこれまで過酷な訓練をくぐり抜けてきた自負の表れでもあった。
エルヴィンは椅子から立ち上がり、音もなく彼女の背後に回った。
ふと、彼女の手元にあるノートに目を落とす。
「……これは」
エルヴィンの目に飛び込んできたのは、決して流麗とは言えない、不格好な文字の羅列だった。
しかし、そこには異様なまでの熱量が宿っていた。
一つの単語――例えば巨人のうなじの断裂という言葉が、ページを埋め尽くすほど、何十回、何百回と書き連ねられている。筆圧が強すぎて紙が破れかけている箇所もあれば、涙の跡か、あるいは汗の滴か、文字が滲んで何度も書き直された痕跡が、地層のように重なっている。
愚痴をこぼすこともなく、投げ出すこともなく。
実技という華々しい才能を持ちながら、彼女はこの地味で苦痛に満ちた理解という作業から、一歩も逃げ出そうとしていなかった。
エルヴィンは、胸の奥を小さな熾火で炙られるような感覚を覚えた。
指揮官として、多くの兵士を見てきた。効率を求め、近道を模索する者は多い。だが、これほどまでに不器用に、しかし真摯に己の欠落と向き合い続ける背中を、彼は知っていた。
それは、かつて訓練兵時代、立体機動を習得できずに夜通し一人で練習を繰り返していた、自分自身の記憶と重なる。
「……ナマエ。効率という観点から、少し教え方を変えよう。言葉を暗記するのではなく、イメージを定着させるんだ」
「イメージ……ですか?」
「ああ。例えば、この地質構造の変遷は、巨人の骨格形成と重ねて考えてみるといい。君は、立体機動で巨人の体を斬る際、肉の厚みを感覚で捉えているだろう?」
エルヴィンは自らペンを取り、ノートの余白に簡潔な、それでいて本質を捉えた図解を描き始めた。
彼の大きな手が動くたび、複雑な理論が鮮やかな絵図へと変わっていく。
「壁外調査の陣形も同じだ。この語呂合わせを使えば、君の直感に結びつくはずだ」
「……あ。本当だ、これなら……すんなり入ってきます。団長、教えるの上手いですね」
ナマエの顔に、今日初めての笑みが浮かんだ。
その笑顔は、深夜の疲れを吹き飛ばすほどに明るく、そして無垢だった。
それから一時間ほど、団長室には穏やかな、しかし密度の高い時間が流れた。
エルヴィンの説明を聞き、ナマエがそれを咀嚼し、自分の言葉で短く確認する。二人の距離は、地図や参考書を介して、自然と近くなっていた。
やがて、夜がさらに深まった頃。
ナマエの返答が途絶えた。
ペンを持ったまま、彼女の頭がカクンと大きく揺れる。
「……ナマエ?」
呼びかける声に反応はない。
彼女は机に突っ伏し、深い眠りの中に落ちていた。微かな寝息が、ランプの灯火に揺れている。
エルヴィンは、しばしその寝顔を見つめていた。
普段の鋭さは消え、あどけない少女の表情がそこにある。
彼は無意識のうちに、大きな手を伸ばしていた。
指先が、彼女の柔らかな髪に触れる。
訓練で酷使されているはずの髪は、意外にも滑らかで、陽だまりのような匂いがした。
彼はそのまま、慈しむように、彼女の頭をそっと撫でた。
「……よく頑張っているな」
それは、団長としての称賛でも、教師としての激励でもない。
一人の男として、彼女の魂に触れた時に溢れ出した、混じりけのない敬愛だった。
エルヴィンは自らのマントを脱ぐと、眠る彼女の肩にそっと掛けた。
重厚な緑の布地が、小さな彼女を包み込む。
その光景を、部屋の隅にある柱時計だけが、静かに見守り続けていた。
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