その少女、英才につき実技絶望
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湿り気を帯びた風が、荒野を不穏になでていく。
壁外を模した広大な演習場。巨木の合間を縫うように、自由の翼を背負った緑の外套が次々と翻る。
兵団全体で行われる大規模な模擬壁外調査訓練。ナマエは、これまでのリヴァイによる苛烈な個別指導の成果を遺憾なく発揮し、先行班の旗手として馬を走らせていた。蹄が湿った土を叩く鈍い音が、周囲の張り詰めた緊張感を煽る。
「……雲行きが怪しいな」
ナマエは手綱を握る手に力を込め、低く垂れ込めた空を仰いだ。
重く淀んだ灰色の雲が、太陽の光を完全に食い尽くしている。間もなく、予報になかった激しい雨が降り始めた。視界は一気に遮られ、地面は瞬く間に、馬の足を奪う底なしの泥濘へと姿を変える。
「班長! この先の斜面、地盤が緩んでいます! 迂回を――」
叫ぼうとした、その時だった。
大地を揺らす轟音と共に、前方の斜面が大きく崩れ落ちた。想定外の土砂崩れだ。
大量の土砂が道を塞ぎ、ナマエたちの班は、崩落した崖と、背後から迫る模擬巨人の群れ――その役割を担う精鋭兵たち――に挟まれる形で孤立してしまう。
「くそっ、これじゃあ立体機動を打つ木がない! 泥に足を取られたら、おしまいだぞ!」
班員たちが絶望に駆られる中、ナマエの脳裏に、ある光景が鮮烈に蘇った。雨の日の特訓、泥にまみれながらリヴァイに組み伏せられた時の、あの低く、熱を孕んだ声。
『……おい。支えがなきゃ飛べねえとでも思ってんのか。重力に逆らうんじゃねえ、利用しろ。泥濘だろうが崩落だろうが、一瞬の静止を見極めてワイヤーを叩き込め。身体の軸をブラさなきゃ、空中はどこだって道になる』
ナマエは目を閉じ、リヴァイに肩を掴まれ、何度も放り投げられた時の感覚を必死に手繰り寄せる。
彼の手が修正してくれた腰の位置。鼓動が重なるほどの至近距離で教わった、ガスの噴射タイミング。そのすべてが、暗闇の中の灯火のように進むべき道を照らし出した。
「……皆、私に続いて! 崩落する土砂の『塊』を足場にする! 重心が沈む前に、ワイヤーを最小角で引き抜いて!」
ナマエは迷うことなく馬を蹴り、崩れ落ちる斜面の縁へと疾走した。
常人なら足がすくむ断崖。彼女は馬を捨て、宙へと身を投げ出す。崩れ落ちる巨岩が一瞬だけ空中に止まる点を見切り、そこへアンカーを射出。リヴァイから伝承された、螺旋を描くような独自の姿勢制御で、慣性を利用して一気に高みへと舞い上がった。
彼女の後に続き、班員たちも次々と危機を脱していく。追撃してきた模擬巨人の班も、その神業に近い挙動に、呆然と空を見上げるしかなかった。
訓練終了後の帰還命令。
夕闇に包まれた兵舎の前で、兵士たちは雨に濡れた体を震わせながら整列していた。
リヴァイは、最前列で彼らを迎えた。その表情はいつものように峻厳で、一切の感情を排している。
彼の視線が、一瞬だけナマエを捉えた。けれど、そこには何の特別扱いも、温もりもなかった。ただの兵長と兵士としての、氷のような視線。
ナマエは胸に一抹の寂しさを覚えながら、濡れた外套を脱ぐために歩き出した。
けれど、その夜。
リヴァイの私室に呼び出されたナマエを待っていたのは、暖炉で赤々と温められた部屋と、湯気を立てる一杯の紅茶だった。
「……よくやったな。泥の中で這いつくばるかと思ったが」
扉を閉めた瞬間、リヴァイの声が、先ほどとは別人のように深く、柔らかな響きを帯びた。
彼はデスクから立ち上がり、ナマエの前まで歩み寄る。そして、温かい手を彼女の少し湿った頭の上に乗せた。
「……俺が教えた身体の使い法を、あんな形でおさらいするとはな。お前は、俺が思っていた以上に、筋がいい」
彼の手のひらから伝わってくる、確かな熱。
ナマエは、その温もりに触れた瞬間、昼間の緊張と寒さが一気に溶けていくのを感じた。
見上げれば、そこには兵長としての仮面を脱いだ、一人の男としてのリヴァイがいた。
「……兵長の教えがなかったら、私は今日、あの泥の中で死んでいました。……あなたが私の身体に、逃げ方を叩き込んでくれたから、今ここにいられます」
ナマエの声は、自分でも驚くほど震えていた。
彼女は、頭に乗せられた彼の手を、自分の両手でそっと包み込む。
「私、兵長の指導がないと、もう生きていけません。戦場でも、この壁の中でも……。あなたの手の熱がないと、どこへ進めばいいのか分からなくなってしまう」
一点の曇りもない、剥き出しの告白。
リヴァイは、その真っ直ぐな瞳に射抜かれたように、微かに息を呑んだ。
「……生きていけない、だと。……随分と重い責任を押し付けてきやがる」
リヴァイは、少しだけ困ったように、けれどこの上なく愛おしそうに目を細めた。
彼はそのまま、彼女を自分の胸へと引き寄せ、抱きしめる。
ナマエは彼のシャツから香る清廉な匂いに包まれながら、これから訪れるであろう、さらに過酷な戦いも、この人と共にならば乗り越えていけるのだと、強く確信していた。
「……安心しろ。お前が迷子になっちまう前に、俺の手を引かせてやる。……一生、俺の視界の中で、泥にまみれてろ。いいな」
「はい、兵長……。一生、ついていきます」
暖炉の火が爆ぜる音だけが、二人の親密な沈黙を包み込んでいた。
数日後。
非番の日の兵舎は、戦場の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
高い窓から差し込む午後の陽光は、石造りの床に柔らかな黄金の帯を描き、空中に舞う細かな塵さえも、穏やかな光の粒子に変えている。先日の演習で浴びた冷たい雨も、足元をすくった泥濘の感触も、今は遠い記憶の底へと沈んでいた。
ナマエは、手の中に収まる小さな包みを、壊れ物を扱うように大切に抱えていた。
中に入っているのは、この数日、講義の合間や睡眠時間を削って作り上げた贈り物だ。
リヴァイの執務室の前で、ナマエは一度深呼吸をした。肺に溜まった緊張を吐き出すと、意を決して扉を叩く。
「……リヴァイ兵長。ナマエです。入ってもいいですか」
「ああ。入れ」
扉の向こうから響く、低く落ち着いた声。ナマエが扉を開けると、そこには机に向かって書類を整理するリヴァイの姿があった。彼はナマエの姿を認めると、その鋭い目元をわずかに和らげた。
「……なんだ。非番だというのに、まだ俺の顔が見足りないのか」
「まさか。……いえ、少しだけ、顔が見たかったのは本当です」
ナマエは冗談めかして笑いながら、彼のデスクの傍らへと歩み寄った。リヴァイはふんと鼻を鳴らし、彼女が差し出した包みに視線を落とす。
「なんだ、これは。新しい作戦立案書にしては、随分と柔らかそうだが」
「先日の演習のお礼です。……兵長の指導があったから、私はあの場所で生き残れました。これは、私にできる精一杯の恩返しです」
リヴァイは無言で包みを受け取り、紐を解いた。
中から現れたのは、真っ白な布が数枚。一見すれば、兵舎の備品にある雑巾と変わりないように見える。しかし、リヴァイがそれを手に取った瞬間、その瞳に驚きの色が走った。
「……これは、ただの端切れじゃねぇな」
「はい。繊維学と流体力学の知識を詰め込みました。ハニカム構造の二重層で、吸水性と吸着力を極限まで高めてあります。……少しでも、兵長の掃除の助けになれば嬉しいです」
ナマエは少し得意げに、けれどリヴァイの反応を伺うように早口で解説した。リヴァイは雑巾を陽にかざしたり、指先でその独特な凹凸をなぞったりして、感心したように吐息を漏らす。
「……お前、非番の日にまでそんな理屈をこね回していたのか。……だが、悪くない。この密度なら、窓枠の隅に溜まる煤も、一拭きで仕留められそうだ」
「気に入ってもらえて良かったです。……使い心地の感想待ってますね……!」
ナマエが照れくさそうに笑うと、リヴァイは立ち上がり、彼女の頭を無造作に、けれどこの上なく愛おしそうに撫で回した。
「……有り難く使うが、この一枚は、俺の私物として保管させてもらう」
「えっ、全部掃除に使わないんですか? 雑巾なのに」
「使い道は俺が決める。……茶でも飲むぞ。淹れてやる」
リヴァイは、ナマエが贈った白銀の雑巾を大切に机の引き出しへとしまうと、いつものようにティーカップを用意し始めた。
湯気が立ち昇り、ベルガモットの気品ある香りが二人の間に満ちていく。
ナマエは椅子に腰掛け、リヴァイが自分のために用意してくれた静かな時間を噛み締めた。
「……リヴァイ兵長、私、嬉しいです。最初は、あなたに叱られるのが怖くて必死でした。でも、今は……あなたの役に立てることが、何よりも誇らしいんです」
ナマエの真っ直ぐな言葉に、リヴァイはカップを口に運ぶ手を止めた。彼は窓の外に広がる夕焼けの空を見つめ、やがて独り言のように呟く。
「……お前は、いつの間にか俺の想像を超えていた。技術も、知性も。……そして、俺の平穏を乱す才能もな」
「平穏を、乱していますか?」
「ああ。……お前のことを考えている時間が、日に日に増えていく。これは、どんな戦術眼を持ってしても計算外の事態だ」
リヴァイが椅子をナマエの方へ向け、彼女の細い手首を掴んだ。引き寄せられたわけではない。けれど、掴まれた場所からリヴァイの熱が、ナマエの全身へと波紋のように広がっていく。
「……兵長?」
「……お前のその賢すぎる頭も、泥臭い根性も、俺の目の届く場所で管理させろ。……いいな」
愛の告白でも、正式な辞令でもない。
けれど、それはリヴァイにしか言えない、最大級の「必要としている」という言葉だった。
ナマエは、掴まれた手首に自分の手を重ねた。まだ恋人ではない。けれど、この瞬間の二人の距離は、どんな定理でも説明できないほどに密接だった。
「はい。……一生、兵長についていきます」
夕陽が完全に沈み、部屋には暖炉の火影が揺らめき始める。
二人の影が壁に長く伸び、その距離がほんのわずかに縮まったところで、夜が静かに更けていった。
壁外を模した広大な演習場。巨木の合間を縫うように、自由の翼を背負った緑の外套が次々と翻る。
兵団全体で行われる大規模な模擬壁外調査訓練。ナマエは、これまでのリヴァイによる苛烈な個別指導の成果を遺憾なく発揮し、先行班の旗手として馬を走らせていた。蹄が湿った土を叩く鈍い音が、周囲の張り詰めた緊張感を煽る。
「……雲行きが怪しいな」
ナマエは手綱を握る手に力を込め、低く垂れ込めた空を仰いだ。
重く淀んだ灰色の雲が、太陽の光を完全に食い尽くしている。間もなく、予報になかった激しい雨が降り始めた。視界は一気に遮られ、地面は瞬く間に、馬の足を奪う底なしの泥濘へと姿を変える。
「班長! この先の斜面、地盤が緩んでいます! 迂回を――」
叫ぼうとした、その時だった。
大地を揺らす轟音と共に、前方の斜面が大きく崩れ落ちた。想定外の土砂崩れだ。
大量の土砂が道を塞ぎ、ナマエたちの班は、崩落した崖と、背後から迫る模擬巨人の群れ――その役割を担う精鋭兵たち――に挟まれる形で孤立してしまう。
「くそっ、これじゃあ立体機動を打つ木がない! 泥に足を取られたら、おしまいだぞ!」
班員たちが絶望に駆られる中、ナマエの脳裏に、ある光景が鮮烈に蘇った。雨の日の特訓、泥にまみれながらリヴァイに組み伏せられた時の、あの低く、熱を孕んだ声。
『……おい。支えがなきゃ飛べねえとでも思ってんのか。重力に逆らうんじゃねえ、利用しろ。泥濘だろうが崩落だろうが、一瞬の静止を見極めてワイヤーを叩き込め。身体の軸をブラさなきゃ、空中はどこだって道になる』
ナマエは目を閉じ、リヴァイに肩を掴まれ、何度も放り投げられた時の感覚を必死に手繰り寄せる。
彼の手が修正してくれた腰の位置。鼓動が重なるほどの至近距離で教わった、ガスの噴射タイミング。そのすべてが、暗闇の中の灯火のように進むべき道を照らし出した。
「……皆、私に続いて! 崩落する土砂の『塊』を足場にする! 重心が沈む前に、ワイヤーを最小角で引き抜いて!」
ナマエは迷うことなく馬を蹴り、崩れ落ちる斜面の縁へと疾走した。
常人なら足がすくむ断崖。彼女は馬を捨て、宙へと身を投げ出す。崩れ落ちる巨岩が一瞬だけ空中に止まる点を見切り、そこへアンカーを射出。リヴァイから伝承された、螺旋を描くような独自の姿勢制御で、慣性を利用して一気に高みへと舞い上がった。
彼女の後に続き、班員たちも次々と危機を脱していく。追撃してきた模擬巨人の班も、その神業に近い挙動に、呆然と空を見上げるしかなかった。
訓練終了後の帰還命令。
夕闇に包まれた兵舎の前で、兵士たちは雨に濡れた体を震わせながら整列していた。
リヴァイは、最前列で彼らを迎えた。その表情はいつものように峻厳で、一切の感情を排している。
彼の視線が、一瞬だけナマエを捉えた。けれど、そこには何の特別扱いも、温もりもなかった。ただの兵長と兵士としての、氷のような視線。
ナマエは胸に一抹の寂しさを覚えながら、濡れた外套を脱ぐために歩き出した。
けれど、その夜。
リヴァイの私室に呼び出されたナマエを待っていたのは、暖炉で赤々と温められた部屋と、湯気を立てる一杯の紅茶だった。
「……よくやったな。泥の中で這いつくばるかと思ったが」
扉を閉めた瞬間、リヴァイの声が、先ほどとは別人のように深く、柔らかな響きを帯びた。
彼はデスクから立ち上がり、ナマエの前まで歩み寄る。そして、温かい手を彼女の少し湿った頭の上に乗せた。
「……俺が教えた身体の使い法を、あんな形でおさらいするとはな。お前は、俺が思っていた以上に、筋がいい」
彼の手のひらから伝わってくる、確かな熱。
ナマエは、その温もりに触れた瞬間、昼間の緊張と寒さが一気に溶けていくのを感じた。
見上げれば、そこには兵長としての仮面を脱いだ、一人の男としてのリヴァイがいた。
「……兵長の教えがなかったら、私は今日、あの泥の中で死んでいました。……あなたが私の身体に、逃げ方を叩き込んでくれたから、今ここにいられます」
ナマエの声は、自分でも驚くほど震えていた。
彼女は、頭に乗せられた彼の手を、自分の両手でそっと包み込む。
「私、兵長の指導がないと、もう生きていけません。戦場でも、この壁の中でも……。あなたの手の熱がないと、どこへ進めばいいのか分からなくなってしまう」
一点の曇りもない、剥き出しの告白。
リヴァイは、その真っ直ぐな瞳に射抜かれたように、微かに息を呑んだ。
「……生きていけない、だと。……随分と重い責任を押し付けてきやがる」
リヴァイは、少しだけ困ったように、けれどこの上なく愛おしそうに目を細めた。
彼はそのまま、彼女を自分の胸へと引き寄せ、抱きしめる。
ナマエは彼のシャツから香る清廉な匂いに包まれながら、これから訪れるであろう、さらに過酷な戦いも、この人と共にならば乗り越えていけるのだと、強く確信していた。
「……安心しろ。お前が迷子になっちまう前に、俺の手を引かせてやる。……一生、俺の視界の中で、泥にまみれてろ。いいな」
「はい、兵長……。一生、ついていきます」
暖炉の火が爆ぜる音だけが、二人の親密な沈黙を包み込んでいた。
数日後。
非番の日の兵舎は、戦場の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
高い窓から差し込む午後の陽光は、石造りの床に柔らかな黄金の帯を描き、空中に舞う細かな塵さえも、穏やかな光の粒子に変えている。先日の演習で浴びた冷たい雨も、足元をすくった泥濘の感触も、今は遠い記憶の底へと沈んでいた。
ナマエは、手の中に収まる小さな包みを、壊れ物を扱うように大切に抱えていた。
中に入っているのは、この数日、講義の合間や睡眠時間を削って作り上げた贈り物だ。
リヴァイの執務室の前で、ナマエは一度深呼吸をした。肺に溜まった緊張を吐き出すと、意を決して扉を叩く。
「……リヴァイ兵長。ナマエです。入ってもいいですか」
「ああ。入れ」
扉の向こうから響く、低く落ち着いた声。ナマエが扉を開けると、そこには机に向かって書類を整理するリヴァイの姿があった。彼はナマエの姿を認めると、その鋭い目元をわずかに和らげた。
「……なんだ。非番だというのに、まだ俺の顔が見足りないのか」
「まさか。……いえ、少しだけ、顔が見たかったのは本当です」
ナマエは冗談めかして笑いながら、彼のデスクの傍らへと歩み寄った。リヴァイはふんと鼻を鳴らし、彼女が差し出した包みに視線を落とす。
「なんだ、これは。新しい作戦立案書にしては、随分と柔らかそうだが」
「先日の演習のお礼です。……兵長の指導があったから、私はあの場所で生き残れました。これは、私にできる精一杯の恩返しです」
リヴァイは無言で包みを受け取り、紐を解いた。
中から現れたのは、真っ白な布が数枚。一見すれば、兵舎の備品にある雑巾と変わりないように見える。しかし、リヴァイがそれを手に取った瞬間、その瞳に驚きの色が走った。
「……これは、ただの端切れじゃねぇな」
「はい。繊維学と流体力学の知識を詰め込みました。ハニカム構造の二重層で、吸水性と吸着力を極限まで高めてあります。……少しでも、兵長の掃除の助けになれば嬉しいです」
ナマエは少し得意げに、けれどリヴァイの反応を伺うように早口で解説した。リヴァイは雑巾を陽にかざしたり、指先でその独特な凹凸をなぞったりして、感心したように吐息を漏らす。
「……お前、非番の日にまでそんな理屈をこね回していたのか。……だが、悪くない。この密度なら、窓枠の隅に溜まる煤も、一拭きで仕留められそうだ」
「気に入ってもらえて良かったです。……使い心地の感想待ってますね……!」
ナマエが照れくさそうに笑うと、リヴァイは立ち上がり、彼女の頭を無造作に、けれどこの上なく愛おしそうに撫で回した。
「……有り難く使うが、この一枚は、俺の私物として保管させてもらう」
「えっ、全部掃除に使わないんですか? 雑巾なのに」
「使い道は俺が決める。……茶でも飲むぞ。淹れてやる」
リヴァイは、ナマエが贈った白銀の雑巾を大切に机の引き出しへとしまうと、いつものようにティーカップを用意し始めた。
湯気が立ち昇り、ベルガモットの気品ある香りが二人の間に満ちていく。
ナマエは椅子に腰掛け、リヴァイが自分のために用意してくれた静かな時間を噛み締めた。
「……リヴァイ兵長、私、嬉しいです。最初は、あなたに叱られるのが怖くて必死でした。でも、今は……あなたの役に立てることが、何よりも誇らしいんです」
ナマエの真っ直ぐな言葉に、リヴァイはカップを口に運ぶ手を止めた。彼は窓の外に広がる夕焼けの空を見つめ、やがて独り言のように呟く。
「……お前は、いつの間にか俺の想像を超えていた。技術も、知性も。……そして、俺の平穏を乱す才能もな」
「平穏を、乱していますか?」
「ああ。……お前のことを考えている時間が、日に日に増えていく。これは、どんな戦術眼を持ってしても計算外の事態だ」
リヴァイが椅子をナマエの方へ向け、彼女の細い手首を掴んだ。引き寄せられたわけではない。けれど、掴まれた場所からリヴァイの熱が、ナマエの全身へと波紋のように広がっていく。
「……兵長?」
「……お前のその賢すぎる頭も、泥臭い根性も、俺の目の届く場所で管理させろ。……いいな」
愛の告白でも、正式な辞令でもない。
けれど、それはリヴァイにしか言えない、最大級の「必要としている」という言葉だった。
ナマエは、掴まれた手首に自分の手を重ねた。まだ恋人ではない。けれど、この瞬間の二人の距離は、どんな定理でも説明できないほどに密接だった。
「はい。……一生、兵長についていきます」
夕陽が完全に沈み、部屋には暖炉の火影が揺らめき始める。
二人の影が壁に長く伸び、その距離がほんのわずかに縮まったところで、夜が静かに更けていった。
