その少女、英才につき実技絶望
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調査兵団本部の古い石造りの校舎には、常に乾いた砂埃と、使い込まれた革製品の匂いが染み付いている。
午後の柔らかな陽光が、高い窓から差し込み、空中に舞う細かな塵を白く照らしていた。
ナマエは、団長室の重厚な扉の前に立ち、自身の心臓が肋骨を叩く音を聞いていた。手に持った一枚の書類が、指先の震えに合わせてカサリと、乾いた音を立てる。
「……失礼します」
意を決して扉を叩き、中に入ると、そこには積まれた書類の山を背に、エルヴィン・スミスが静かに座っていた。彼の蒼い瞳は、冷徹な氷の湖のように澄み渡り、すべてを見透かすような深淵を湛えている。
「ナマエ、よく来てくれた。君の成績について、少し話をしようと思ってね」
エルヴィンが机の上に差し出したのは、最新の新兵評価表だった。
ナマエは、その内容を直視できずに視線を泳がせる。
「座学、戦術立案、巨人学。これら全ての筆記試験において、君は百点満点……歴代でも類を見ない、圧倒的な正答率だ。君の書く作戦案は、被害を最小限に抑えるための論理的整合性に満ちている。これには私も感銘を受けた」
「……ありがとうございます」
「だが、問題はここからだ」
エルヴィンの指が、表の後半部分へと滑る。そこには、見るも無惨な数字の列が並んでいた。
「実技、対人格闘、そして立体機動。……すべて、零点に近い。それどころか、先日の清掃点検でも、君の担当区域はリヴァイから『埃の舞踏会でも開催するつもりか』と酷評されている」
ナマエはうなだれた。
頭の中では、巨人のうなじを削ぐための最短ルートも、風速と重力を加味したワイヤーの射出角度も、完璧に計算できている。だが、いざ体が動く段になると、自分の手足が自分のものではないように思えるのだ。立体機動に移れば、狙った大樹の幹に吸い込まれるように激突し、雑巾を持てば、なぜか汚れを広げた挙句にバケツをひっくり返す。
「このままでは、君を壁外へ出すわけにはいかない。死なせるために調査兵団へ入れたわけではないからね。……そこでだ」
エルヴィンの口角が、わずかに、しかし決定的な角度で上がった。
「リヴァイに、君の更生プログラムを任せることにした。今日から、君の全権は彼が握る」
その瞬間、ナマエの頭の中で、積み上げられた理論の城が音を立てて崩れ去った。
人類最強の兵士。潔癖症で冷酷無比。あの、鋭利な刃物のような視線を持つ男に、実技と清掃の指導を受ける。それはナマエにとって、死刑宣告にも等しい響きだった。
「……私の、世界が終わった」
ふらふらとした足取りで団長室を出たナマエは、廊下の冷たい空気を吸い込み、壁に手をついた。
頭を抱え、絶望に沈もうとした、その時だった。
「……何が終わりだ。勝手に幕を閉じるな」
低く、鼓膜を直接震わせるような声が降ってきた。
弾かれたように顔を上げると、目の前には、いつの間にか現れたリヴァイが立っていた。
逃げる間もなかった。彼はナマエの至近距離まで踏み込むと、彼女の顔のすぐ横の壁に、ドン、と鋭く手を突いた。
石壁の冷たさが背中に伝わり、逃げ場を失う。
リヴァイの体温と、微かに漂う石鹸の清潔な香りが、鼻腔を突いた。あまりの距離の近さに、ナマエの思考が白く霧散する。
「兵、長……」
「……おい。この細い枝みたいな腕で、どうやって巨人のうなじを削ぐつもりだ? ああ? 紙の上じゃあ、巨人は死なねえぞ」
リヴァイの鋭い眼光が、ナマエの華奢な手首を、そして泳ぐ瞳を射抜く。
恐怖で足がすくむはずだった。しかし、あまりにも至近距離で見る彼の顔は、物語の挿絵よりも、磨き上げられた芸術品よりも、残酷なまでに整っていた。
長い睫毛の影が、三白眼の瞳に影を落とし、筋の通った鼻梁が美しい稜線を描いている。
(……顔がいい。信じられないくらい、顔が綺麗……)
絶望的な状況下で、ナマエの脳内は場違いな感嘆に支配された。
「……理論上は、遠心力と角度で、筋力の不足は補える計算です。物理学的には、速度さえ乗れば、私の体重でも十分な切断能力を……」
「その前に自分が木に刺さってるだろうが、この馬鹿が」
リヴァイが吐き捨てるように言い、壁についていた手を離した。彼はそのまま、ナマエを見下ろしたまま冷徹に告げる。
「……明日から朝五時だ。基礎から叩き直してやる。早く寝ておけ」
「ご、五時……! はい、承知しました」
ナマエの声は上ずっていた。
遠ざかっていくリヴァイの背中を見送りながら、彼女は自分の胸が、恐怖とは別の理由で激しく高鳴っていることに気づく。
明日から始まるのは、地獄の特訓か、あるいは。
(……どうしよう。死ぬほど怖いのに、顔が良すぎて、明日が来るのが少しだけ楽しみになってしまった)
壁に寄りかかったまま、ナマエは熱を持つ頬を押さえた。
石造りの長い廊下には、彼女の小さな呟きと、遠ざかる兵長の規則正しい足音だけが、いつまでも反響していた。
翌日。
黎明の光すら届かぬ午前五時。兵舎の空気は、肺の奥まで凍てつかせるような冷気を孕んでいた。
ナマエは、約束の時間の数分前に廊下へ立ったが、そこには既に、影のように音もなく佇むリヴァイの姿があった。彼の背負う、冷厳な静寂。それは、これから始まる地獄の幕開けを告げる鐘の音にも似ていた。
「……遅いとは言わんが、次は四時五十分に来い。心の準備を整える時間が必要だろうからな」
リヴァイの声は、朝の静寂を切り裂くナイフのように鋭い。彼は手渡したばかりの、使い古されたが清潔な雑巾を顎で指し、最初の目的地——資料室へと歩き出した。
初日の指導内容は掃除だった。
ナマエは、理論上は理解していたつもりだった。汚れを物理的に除去し、衛生環境を整える。極めて単純な作業。だが、リヴァイの掃除は、もはや宗教的な儀式に近かった。
「雑巾の絞り方が甘い。水滴の一滴でも床に残れば、それは腐敗の種になる。親指の付け根に力を込めろ、布の繊維を一本ずつ鳴らすように絞るんだ」
冷たい水に浸された指先は、またたく間に感覚を失っていく。バケツの取っ手が触れる金属的な響き、水が撥ねる音。ナマエは必死に彼の手本を模倣するが、リヴァイの目は、ほんの僅かな拭き残しも、窓枠の隅に潜む一粒の塵も見逃さない。
「拭く順番が逆だ。上から下へ、奥から手前へ。重力に逆らうな。一度拭いた場所に自分の影を落とすな。それは汚れを再付着させているのと同じだ」
六時間が経過した頃、ナマエの膝はガクガクと震え、視界は埃と疲労で霞んでいた。石畳の床を這い、隅々まで磨き上げた代償として、爪の間には泥が入り込み、手のひらは真っ赤に腫れ上がっている。
作業が終わった時、ナマエは廊下で文字通りの屍となって崩れ落ちた。背中に当たる冷たい壁だけが、自分の生存を確認する唯一の手がかりだった。
二日目。全身の筋肉痛が悲鳴を上げる中、与えられた課題は紅茶の淹れ方だった。
兵舎の厨房には、ふつふつと沸き立つ湯の音が響いている。
リヴァイは、自分専用の茶葉をナマエの前に置いた。ベルガモットの気品ある香りが、張り詰めた空気を僅かに和らげる。
「お湯の温度は、沸騰した直後の気泡が消えた瞬間だ。茶葉が対流し、その香りを最大限に解き放つ空間を作れ。蒸らす時間は、砂時計の最後の一粒が落ちるまで、瞬き一つするな」
ナマエは震える手でポットを持った。一度目は、温度が低すぎると言われ、中身を捨てられた。二度目は、茶葉の量が多すぎて渋みが強すぎると指摘された。
三度目。ナマエは自分の計算能力のすべてを、ポットの中に注ぎ込んだ。水の密度、温度降下率、抽出時間の相関関係。頭の中に数式を展開し、最適解を導き出す。
差し出されたカップを、リヴァイは彼独特の持ち方で受け取った。
湯気が、彼の整った顔を白く隠す。リヴァイは無言でそれを口にした。
……沈黙。
ナマエは生きた心地がせず、自分の鼓動の音ばかりが耳についた。
だが、リヴァイは何も言わず、ただ最後の一滴までその紅茶を飲み干した。
(……飲んでくれた。何も言わないのは、合格ってことだよね)
ナマエは、リヴァイに悟られないよう、背中の後ろで小さく、しかし力強くガッツポーズを作った。その瞬間、彼の切れ長な瞳が、ほんの僅かだけ、面白そうに細められたような気がした。
そして三日目。ついに始まった立体機動訓練。
訓練用の森。シュルシュルというガス噴射の音と、ワイヤーが幹に食い込む鋭い音が響き渡る。
ナマエは開始から一時間で、三回も地上に叩きつけられていた。
「ぐっ……、うう……」
泥に塗れ、右肩を強く打ったナマエは、荒い息を吐きながら立ち上がる。計算通りにワイヤーを射出しても、体がその加速度に耐えきれず、軸がぶれてしまうのだ。
「……今日はこれまでだ。その無様に折れ曲がった姿勢で空を飛ぼうとするな。重力に愛されすぎているぞ、お前は」
リヴァイが木の上から、羽のように軽やかに着地した。彼のマントが、風を切って翻る。
ナマエは土を払い、乱れた髪を振り払って、リヴァイを真っ直ぐに見据えた。
「もう一回……、もう一回だけ、やらせてください。今の激突で、旋回のタイミングがコンマ五秒遅かった原因が判明しました。次は必ず、修正できます」
膝の擦り傷から血が滲み、呼吸は絶え絶え。それでも、その瞳だけは死んでいなかった。
リヴァイは無言でナマエを見つめ返した。彼の瞳は、冬の夜空のように冷たく、けれどどこか深淵な色を湛えている。
……そんな理屈で巨人を殺せるなら苦労はしねえ。
だが。
何度も転び、その度に泥を食って立ち上がる。その眼光は、地下街で見た絶望に抗う鼠のそれよりも鋭い。
根性だけはある。それだけは、認めてやる。
「……勝手にしろ。だが、木に刺さったまま日が暮れても、俺は助けねえぞ」
突き放すような言葉。だが、リヴァイはそのまま去ることはせず、腕を組んで、再び訓練の準備を始めるナマエの背中を、無言で、けれど確かな熱を持って見つめ続けていた。
森に響くガスの音は、やがて夕闇に溶けていく。ナマエの体はボロボロだったが、その心には、厳しい指導の裏にある期待のようなものが、微かな温もりとして宿り始めていた。
訓練兵団の寄宿舎が深い眠りに沈む頃、演習場の森には、未だに断続的な金属音が響いていた。
シュッ、という鋭いガス噴射の音と、ワイヤーが樹皮に食い込む鈍い衝撃。
月は中天にあり、白銀の光が木々の隙間から幾筋もの槍のように地上へ降り注いでいる。夜の空気は、昼間の熱を奪い去り、湿った土と針葉樹の鋭い香りを色濃く立ち昇らせていた。
「……くっ、あと少し……重心を、左に……」
ナマエは、太ももの筋肉が悲鳴を上げるのを感じながら、ワイヤーを巻き取った。
視界の端で火花が散る。全身は汗と泥にまみれ、制服のあちこちが枝に擦れて綻んでいる。計算では分かっている。風向、湿度、ワイヤーの張力。それらを脳内で統合し、最適な放物線を描こうとするが、疲労した肉体はその精緻な命令を拒絶するように震えていた。
「……計算に没頭しすぎて、自分の限界値を見誤ったか」
ナマエが切り株に腰を下ろし、荒い息を整えていた時だった。
頭上から、羽が舞い降りるような、あまりに静かな着地音が聞こえた。
「夜風に当たって頭を冷やしているのかと思ったが。……ただの無謀な居残りか」
心臓が跳ねた。見上げると、月光を背負ったリヴァイが、大樹の枝に悠然と腰掛けていた。
影に沈んだ彼の表情は読み取れないが、銀色に縁取られた輪郭は、夜の闇の中で神話の死神のように神々しく、そして恐ろしい。
「兵長……。すみません、自主練をしていました」
「……。降りてこい。首が疲れる」
リヴァイが軽やかに地面へ飛び降りる。彼はナマエの数歩手前で足を止め、懐から取り出した布で、愛用のブレードを拭い始めた。
沈黙が流れる。聞こえるのは、虫の声と、布が金属を擦る微かな音だけ。
やがて、リヴァイが顔を上げずに問いかけた。
「お前、なんでここに来た」
唐突な問いだった。ナマエは少しの間、夜の闇を見つめ、自身の胸の奥にある理由を慎重に言葉へと変換した。
「……自由になりたかったからです」
「自由、だと」
リヴァイの手が止まる。その鋭い視線が、射抜くようにナマエを捉えた。
「壁の中の方が、食うに困らず安全だ。家畜と同じだとしても、少なくとも巨人に食われる心配はねえ。わざわざ自分から死地に飛び込む理由にはならねえな」
「安全と自由は別です。たとえ明日死ぬとしても、私は壁の外にある世界を知っていたい。……怖くても、私は外が良かったんです」
ナマエの声は小さかったが、そこには揺るぎない、鉄のような芯が通っていた。
その言葉は、冷たく冴え渡る月光によく似ていた。
それ以上、ナマエは語らなかった。
リヴァイもまた、それ以上は聞かなかった。
リヴァイはゆっくりとナマエに歩み寄った。彼女が思わず身を固くした瞬間、リヴァイの手が、彼女の額にかかった乱れた髪に触れた。
その指先は、掃除の時のような冷徹さはなく、初めて触れる、驚くほど優しい熱を持っていた。
「……勝手に壊れるな。お前のその安い理屈が正しいかどうか、見極めるまではな」
リヴァイの手が、ナマエの髪を整えるようにゆっくりと動き、そのまま指先が頬を微かに掠めて離れた。
ナマエの心臓が、夜の静寂を打ち消すほど激しく脈打つ。
自由になりたい。そのためにここに来た。
……反吐が出るほど聞き飽きた言葉だ。
だが、この女の瞳に宿る光は、地下街にいた頃の自分と同じ色をしていた。
腐った空気と絶望に満ちた地下で、一度も見たことのない外を焦がれていた、あの頃の自分と。
こいつのことが、ほんの少しだけわかった気がした。
ただの出来損ないの英才ではなく、その胸に、制御しきれないほどの業火を抱えた一人の兵士なのだと。
……それだけのはずだった。
「……行くぞ。門限はとうに過ぎている」
「はい。……あ」
並んで歩き始めた矢先、ナマエの足が、突き出た木の根に引っかかった。疲労で感覚の鈍った足は踏ん張りが効かず、彼女の体は無様に地面へと傾く。
だが、衝撃が来るより先に、強い力がナマエの腕を掴み、引き寄せた。
「……前を見て歩け。自分の重心も計算できないのか、お前は」
リヴァイの胸板に、ナマエの肩がぶつかる。
彼の体から漂う、独特の清潔な香りと、激しい訓練の後の僅かな熱。その濃密な男の気配に、ナマエは息を呑んだ。
「……ありがとうございます。助かりました」
腕を掴んだリヴァイの手は、すぐには離れなかった。
ナマエが呟いた礼の言葉が、なぜか妙に耳に残り、リヴァイの胸の奥をざわつかせる。
ただの訓練だ。使えそうな駒を、壊さないように鍛えているだけだ。
……それだけのことだ。
リヴァイは不意に腕を離し、足早に歩き出した。
背後からついてくるナマエの、少しぎこちない足音。
自分の耳に残る、彼女の声の余韻。
リヴァイはそれらを振り払うように、夜の闇を睨みつけながら、ただ黙々と兵舎へと続く道を歩み続けた。
午後の柔らかな陽光が、高い窓から差し込み、空中に舞う細かな塵を白く照らしていた。
ナマエは、団長室の重厚な扉の前に立ち、自身の心臓が肋骨を叩く音を聞いていた。手に持った一枚の書類が、指先の震えに合わせてカサリと、乾いた音を立てる。
「……失礼します」
意を決して扉を叩き、中に入ると、そこには積まれた書類の山を背に、エルヴィン・スミスが静かに座っていた。彼の蒼い瞳は、冷徹な氷の湖のように澄み渡り、すべてを見透かすような深淵を湛えている。
「ナマエ、よく来てくれた。君の成績について、少し話をしようと思ってね」
エルヴィンが机の上に差し出したのは、最新の新兵評価表だった。
ナマエは、その内容を直視できずに視線を泳がせる。
「座学、戦術立案、巨人学。これら全ての筆記試験において、君は百点満点……歴代でも類を見ない、圧倒的な正答率だ。君の書く作戦案は、被害を最小限に抑えるための論理的整合性に満ちている。これには私も感銘を受けた」
「……ありがとうございます」
「だが、問題はここからだ」
エルヴィンの指が、表の後半部分へと滑る。そこには、見るも無惨な数字の列が並んでいた。
「実技、対人格闘、そして立体機動。……すべて、零点に近い。それどころか、先日の清掃点検でも、君の担当区域はリヴァイから『埃の舞踏会でも開催するつもりか』と酷評されている」
ナマエはうなだれた。
頭の中では、巨人のうなじを削ぐための最短ルートも、風速と重力を加味したワイヤーの射出角度も、完璧に計算できている。だが、いざ体が動く段になると、自分の手足が自分のものではないように思えるのだ。立体機動に移れば、狙った大樹の幹に吸い込まれるように激突し、雑巾を持てば、なぜか汚れを広げた挙句にバケツをひっくり返す。
「このままでは、君を壁外へ出すわけにはいかない。死なせるために調査兵団へ入れたわけではないからね。……そこでだ」
エルヴィンの口角が、わずかに、しかし決定的な角度で上がった。
「リヴァイに、君の更生プログラムを任せることにした。今日から、君の全権は彼が握る」
その瞬間、ナマエの頭の中で、積み上げられた理論の城が音を立てて崩れ去った。
人類最強の兵士。潔癖症で冷酷無比。あの、鋭利な刃物のような視線を持つ男に、実技と清掃の指導を受ける。それはナマエにとって、死刑宣告にも等しい響きだった。
「……私の、世界が終わった」
ふらふらとした足取りで団長室を出たナマエは、廊下の冷たい空気を吸い込み、壁に手をついた。
頭を抱え、絶望に沈もうとした、その時だった。
「……何が終わりだ。勝手に幕を閉じるな」
低く、鼓膜を直接震わせるような声が降ってきた。
弾かれたように顔を上げると、目の前には、いつの間にか現れたリヴァイが立っていた。
逃げる間もなかった。彼はナマエの至近距離まで踏み込むと、彼女の顔のすぐ横の壁に、ドン、と鋭く手を突いた。
石壁の冷たさが背中に伝わり、逃げ場を失う。
リヴァイの体温と、微かに漂う石鹸の清潔な香りが、鼻腔を突いた。あまりの距離の近さに、ナマエの思考が白く霧散する。
「兵、長……」
「……おい。この細い枝みたいな腕で、どうやって巨人のうなじを削ぐつもりだ? ああ? 紙の上じゃあ、巨人は死なねえぞ」
リヴァイの鋭い眼光が、ナマエの華奢な手首を、そして泳ぐ瞳を射抜く。
恐怖で足がすくむはずだった。しかし、あまりにも至近距離で見る彼の顔は、物語の挿絵よりも、磨き上げられた芸術品よりも、残酷なまでに整っていた。
長い睫毛の影が、三白眼の瞳に影を落とし、筋の通った鼻梁が美しい稜線を描いている。
(……顔がいい。信じられないくらい、顔が綺麗……)
絶望的な状況下で、ナマエの脳内は場違いな感嘆に支配された。
「……理論上は、遠心力と角度で、筋力の不足は補える計算です。物理学的には、速度さえ乗れば、私の体重でも十分な切断能力を……」
「その前に自分が木に刺さってるだろうが、この馬鹿が」
リヴァイが吐き捨てるように言い、壁についていた手を離した。彼はそのまま、ナマエを見下ろしたまま冷徹に告げる。
「……明日から朝五時だ。基礎から叩き直してやる。早く寝ておけ」
「ご、五時……! はい、承知しました」
ナマエの声は上ずっていた。
遠ざかっていくリヴァイの背中を見送りながら、彼女は自分の胸が、恐怖とは別の理由で激しく高鳴っていることに気づく。
明日から始まるのは、地獄の特訓か、あるいは。
(……どうしよう。死ぬほど怖いのに、顔が良すぎて、明日が来るのが少しだけ楽しみになってしまった)
壁に寄りかかったまま、ナマエは熱を持つ頬を押さえた。
石造りの長い廊下には、彼女の小さな呟きと、遠ざかる兵長の規則正しい足音だけが、いつまでも反響していた。
翌日。
黎明の光すら届かぬ午前五時。兵舎の空気は、肺の奥まで凍てつかせるような冷気を孕んでいた。
ナマエは、約束の時間の数分前に廊下へ立ったが、そこには既に、影のように音もなく佇むリヴァイの姿があった。彼の背負う、冷厳な静寂。それは、これから始まる地獄の幕開けを告げる鐘の音にも似ていた。
「……遅いとは言わんが、次は四時五十分に来い。心の準備を整える時間が必要だろうからな」
リヴァイの声は、朝の静寂を切り裂くナイフのように鋭い。彼は手渡したばかりの、使い古されたが清潔な雑巾を顎で指し、最初の目的地——資料室へと歩き出した。
初日の指導内容は掃除だった。
ナマエは、理論上は理解していたつもりだった。汚れを物理的に除去し、衛生環境を整える。極めて単純な作業。だが、リヴァイの掃除は、もはや宗教的な儀式に近かった。
「雑巾の絞り方が甘い。水滴の一滴でも床に残れば、それは腐敗の種になる。親指の付け根に力を込めろ、布の繊維を一本ずつ鳴らすように絞るんだ」
冷たい水に浸された指先は、またたく間に感覚を失っていく。バケツの取っ手が触れる金属的な響き、水が撥ねる音。ナマエは必死に彼の手本を模倣するが、リヴァイの目は、ほんの僅かな拭き残しも、窓枠の隅に潜む一粒の塵も見逃さない。
「拭く順番が逆だ。上から下へ、奥から手前へ。重力に逆らうな。一度拭いた場所に自分の影を落とすな。それは汚れを再付着させているのと同じだ」
六時間が経過した頃、ナマエの膝はガクガクと震え、視界は埃と疲労で霞んでいた。石畳の床を這い、隅々まで磨き上げた代償として、爪の間には泥が入り込み、手のひらは真っ赤に腫れ上がっている。
作業が終わった時、ナマエは廊下で文字通りの屍となって崩れ落ちた。背中に当たる冷たい壁だけが、自分の生存を確認する唯一の手がかりだった。
二日目。全身の筋肉痛が悲鳴を上げる中、与えられた課題は紅茶の淹れ方だった。
兵舎の厨房には、ふつふつと沸き立つ湯の音が響いている。
リヴァイは、自分専用の茶葉をナマエの前に置いた。ベルガモットの気品ある香りが、張り詰めた空気を僅かに和らげる。
「お湯の温度は、沸騰した直後の気泡が消えた瞬間だ。茶葉が対流し、その香りを最大限に解き放つ空間を作れ。蒸らす時間は、砂時計の最後の一粒が落ちるまで、瞬き一つするな」
ナマエは震える手でポットを持った。一度目は、温度が低すぎると言われ、中身を捨てられた。二度目は、茶葉の量が多すぎて渋みが強すぎると指摘された。
三度目。ナマエは自分の計算能力のすべてを、ポットの中に注ぎ込んだ。水の密度、温度降下率、抽出時間の相関関係。頭の中に数式を展開し、最適解を導き出す。
差し出されたカップを、リヴァイは彼独特の持ち方で受け取った。
湯気が、彼の整った顔を白く隠す。リヴァイは無言でそれを口にした。
……沈黙。
ナマエは生きた心地がせず、自分の鼓動の音ばかりが耳についた。
だが、リヴァイは何も言わず、ただ最後の一滴までその紅茶を飲み干した。
(……飲んでくれた。何も言わないのは、合格ってことだよね)
ナマエは、リヴァイに悟られないよう、背中の後ろで小さく、しかし力強くガッツポーズを作った。その瞬間、彼の切れ長な瞳が、ほんの僅かだけ、面白そうに細められたような気がした。
そして三日目。ついに始まった立体機動訓練。
訓練用の森。シュルシュルというガス噴射の音と、ワイヤーが幹に食い込む鋭い音が響き渡る。
ナマエは開始から一時間で、三回も地上に叩きつけられていた。
「ぐっ……、うう……」
泥に塗れ、右肩を強く打ったナマエは、荒い息を吐きながら立ち上がる。計算通りにワイヤーを射出しても、体がその加速度に耐えきれず、軸がぶれてしまうのだ。
「……今日はこれまでだ。その無様に折れ曲がった姿勢で空を飛ぼうとするな。重力に愛されすぎているぞ、お前は」
リヴァイが木の上から、羽のように軽やかに着地した。彼のマントが、風を切って翻る。
ナマエは土を払い、乱れた髪を振り払って、リヴァイを真っ直ぐに見据えた。
「もう一回……、もう一回だけ、やらせてください。今の激突で、旋回のタイミングがコンマ五秒遅かった原因が判明しました。次は必ず、修正できます」
膝の擦り傷から血が滲み、呼吸は絶え絶え。それでも、その瞳だけは死んでいなかった。
リヴァイは無言でナマエを見つめ返した。彼の瞳は、冬の夜空のように冷たく、けれどどこか深淵な色を湛えている。
……そんな理屈で巨人を殺せるなら苦労はしねえ。
だが。
何度も転び、その度に泥を食って立ち上がる。その眼光は、地下街で見た絶望に抗う鼠のそれよりも鋭い。
根性だけはある。それだけは、認めてやる。
「……勝手にしろ。だが、木に刺さったまま日が暮れても、俺は助けねえぞ」
突き放すような言葉。だが、リヴァイはそのまま去ることはせず、腕を組んで、再び訓練の準備を始めるナマエの背中を、無言で、けれど確かな熱を持って見つめ続けていた。
森に響くガスの音は、やがて夕闇に溶けていく。ナマエの体はボロボロだったが、その心には、厳しい指導の裏にある期待のようなものが、微かな温もりとして宿り始めていた。
訓練兵団の寄宿舎が深い眠りに沈む頃、演習場の森には、未だに断続的な金属音が響いていた。
シュッ、という鋭いガス噴射の音と、ワイヤーが樹皮に食い込む鈍い衝撃。
月は中天にあり、白銀の光が木々の隙間から幾筋もの槍のように地上へ降り注いでいる。夜の空気は、昼間の熱を奪い去り、湿った土と針葉樹の鋭い香りを色濃く立ち昇らせていた。
「……くっ、あと少し……重心を、左に……」
ナマエは、太ももの筋肉が悲鳴を上げるのを感じながら、ワイヤーを巻き取った。
視界の端で火花が散る。全身は汗と泥にまみれ、制服のあちこちが枝に擦れて綻んでいる。計算では分かっている。風向、湿度、ワイヤーの張力。それらを脳内で統合し、最適な放物線を描こうとするが、疲労した肉体はその精緻な命令を拒絶するように震えていた。
「……計算に没頭しすぎて、自分の限界値を見誤ったか」
ナマエが切り株に腰を下ろし、荒い息を整えていた時だった。
頭上から、羽が舞い降りるような、あまりに静かな着地音が聞こえた。
「夜風に当たって頭を冷やしているのかと思ったが。……ただの無謀な居残りか」
心臓が跳ねた。見上げると、月光を背負ったリヴァイが、大樹の枝に悠然と腰掛けていた。
影に沈んだ彼の表情は読み取れないが、銀色に縁取られた輪郭は、夜の闇の中で神話の死神のように神々しく、そして恐ろしい。
「兵長……。すみません、自主練をしていました」
「……。降りてこい。首が疲れる」
リヴァイが軽やかに地面へ飛び降りる。彼はナマエの数歩手前で足を止め、懐から取り出した布で、愛用のブレードを拭い始めた。
沈黙が流れる。聞こえるのは、虫の声と、布が金属を擦る微かな音だけ。
やがて、リヴァイが顔を上げずに問いかけた。
「お前、なんでここに来た」
唐突な問いだった。ナマエは少しの間、夜の闇を見つめ、自身の胸の奥にある理由を慎重に言葉へと変換した。
「……自由になりたかったからです」
「自由、だと」
リヴァイの手が止まる。その鋭い視線が、射抜くようにナマエを捉えた。
「壁の中の方が、食うに困らず安全だ。家畜と同じだとしても、少なくとも巨人に食われる心配はねえ。わざわざ自分から死地に飛び込む理由にはならねえな」
「安全と自由は別です。たとえ明日死ぬとしても、私は壁の外にある世界を知っていたい。……怖くても、私は外が良かったんです」
ナマエの声は小さかったが、そこには揺るぎない、鉄のような芯が通っていた。
その言葉は、冷たく冴え渡る月光によく似ていた。
それ以上、ナマエは語らなかった。
リヴァイもまた、それ以上は聞かなかった。
リヴァイはゆっくりとナマエに歩み寄った。彼女が思わず身を固くした瞬間、リヴァイの手が、彼女の額にかかった乱れた髪に触れた。
その指先は、掃除の時のような冷徹さはなく、初めて触れる、驚くほど優しい熱を持っていた。
「……勝手に壊れるな。お前のその安い理屈が正しいかどうか、見極めるまではな」
リヴァイの手が、ナマエの髪を整えるようにゆっくりと動き、そのまま指先が頬を微かに掠めて離れた。
ナマエの心臓が、夜の静寂を打ち消すほど激しく脈打つ。
自由になりたい。そのためにここに来た。
……反吐が出るほど聞き飽きた言葉だ。
だが、この女の瞳に宿る光は、地下街にいた頃の自分と同じ色をしていた。
腐った空気と絶望に満ちた地下で、一度も見たことのない外を焦がれていた、あの頃の自分と。
こいつのことが、ほんの少しだけわかった気がした。
ただの出来損ないの英才ではなく、その胸に、制御しきれないほどの業火を抱えた一人の兵士なのだと。
……それだけのはずだった。
「……行くぞ。門限はとうに過ぎている」
「はい。……あ」
並んで歩き始めた矢先、ナマエの足が、突き出た木の根に引っかかった。疲労で感覚の鈍った足は踏ん張りが効かず、彼女の体は無様に地面へと傾く。
だが、衝撃が来るより先に、強い力がナマエの腕を掴み、引き寄せた。
「……前を見て歩け。自分の重心も計算できないのか、お前は」
リヴァイの胸板に、ナマエの肩がぶつかる。
彼の体から漂う、独特の清潔な香りと、激しい訓練の後の僅かな熱。その濃密な男の気配に、ナマエは息を呑んだ。
「……ありがとうございます。助かりました」
腕を掴んだリヴァイの手は、すぐには離れなかった。
ナマエが呟いた礼の言葉が、なぜか妙に耳に残り、リヴァイの胸の奥をざわつかせる。
ただの訓練だ。使えそうな駒を、壊さないように鍛えているだけだ。
……それだけのことだ。
リヴァイは不意に腕を離し、足早に歩き出した。
背後からついてくるナマエの、少しぎこちない足音。
自分の耳に残る、彼女の声の余韻。
リヴァイはそれらを振り払うように、夜の闇を睨みつけながら、ただ黙々と兵舎へと続く道を歩み続けた。
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