自由な空に、君と愛を。
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あの日、パステルカラーの自室で目覚めてから、ナマエの時間は止まったままだった。
高校を卒業し、都内の有名大学の文学部に進学してからも、彼女の瞳は常に「ここではないどこか」を探し続けていた。かつて異世界で彼と約束したおすすめの本を選ぶために、彼女は狂ったように書物を読み耽った。
古今東西の冒険譚、哲学書、そして切ない恋物語。頁を捲るたびに、指先にあの地下室の冷たい感触や、彼の大きな掌の熱が蘇る。
失われた翠緑のループタイを求めて、休日のたびにアンティークショップを巡った。けれど、あの漆黒のスクエアな店も、深い緑の石を湛えた銀の台座も、二度と彼女の前に現れることはなかった。 周囲の友人たちが恋に遊びに興じる中、ナマエだけは、実在したかも定かではない「金髪碧眼の団長」への貞節を守るように、孤独を友として過ごしてきた。
大学三年生になったばかりの、春。
キャンパスは満開の桜に彩られ、若者たちの浮き立った声が溢れていた。ナマエは文学部の古い講義棟へ向かっていた。今日の「特別英文学演習」は、新しく赴任してきた教授の初講義だと聞いている。 講義室の重厚な扉を開け、中段の席に腰を下ろす。春の陽光が窓から差し込み、埃の粒子がダンスを踊る。ナマエは無意識に、首元に手をやった。そこにはもう、何も掛かっていない。
定刻。廊下に響く、硬質な靴音。 カツ、カツ、カツ――。 その規則正しいリズムを聞いた瞬間、ナマエの心臓が、痛いほどに跳ね上がった。全身の血が逆流し、呼吸が浅くなる。この足音を、彼女は知っている。石造りの廊下で、あるいは塔の階段で、幾度となく背中を追った、あの足音だ。
扉が開く。
現れたのは、仕立ての良いスリーピースのスーツに身を包んだ、長身の男だった。 周囲を圧倒するような体躯。黄金の陽光をそのまま形にしたような金髪。そして、眼鏡の奥に隠された、冷徹なまでに澄んだ碧い瞳。
「今年度からこの演習を担当することになった、エルヴィン・スミスだ。よろしく頼む」
朗々と響く、深く、慈愛に満ちた声。
ナマエは息を吸うことさえ忘れ、教壇に立つその男を凝視した。 彼は教壇に資料を置くと、ゆっくりと教室内を見渡した。その視線が、中段に座るナマエを捉える。一瞬、彼の眉が微かに動いたように見えたが、彼はすぐに視線を戻した。 けれど、ナマエの目は、彼の胸元に釘付けになっていた。
白シャツの襟元。タイの代わりに締められていたのは、鈍く光る銀の台座に、深い緑色の石が嵌められた、あのループタイだった。
(……ああ、嘘……、嘘でしょ……!)
動悸が激しくなり、視界がチカチカと爆ぜる。涙が溢れ出し、止まらない。 今、目の前で、この世界の言葉でシェイクスピアを語っている男は、間違いなくあのエルヴィン・スミスだった。
ナマエは耐えきれず、鞄を掴むと、講義が始まったばかりの教室を飛び出した。
「失礼します……っ!」
背後で、学生たちの当惑する声と、エルヴィンの声が途切れる気配がした。けれど、彼女は止まれなかった。 廊下を走り抜け、中庭の桜の木の下を通り過ぎ、辿り着いたのは静かな保健室だった。
「あら、どうしたの?」
「……気分が、悪くて。少し、休ませてください……」
保健室の先生にそう告げると、ナマエはカーテンで仕切られたベッドに倒れ込んだ。泣き疲れて、いつの間にか意識が混濁していく。 夢なのか現実なのか。かつての壁外調査の馬の嘶きと、現代の車の騒音が混ざり合う。
どれほどの時間が経っただろうか。
頬に、温かく、けれどどこか切なげな感触を覚えた。 大きな、指の腹が、彼女の涙の跡をそっとなぞっている。ナマエはゆっくりと、重い瞼を開けた。
「……起きたか」
すぐ傍らに、彼がいた。パイプ椅子に腰掛け、講義の時よりもずっと柔らかい、慈愛に満ちた瞳で自分を見つめる男。 保健室特有の消毒液の匂いの中に、微かに香る、彼特有の清涼なハーブの匂い。
「……エル、ヴィン……先生……?」
「授業中に飛び出すとは、困った生徒だ。……だが、君を責める気にはなれないな」
エルヴィンはふっと口角を上げ、かつて調査兵団の団長室で見せたような、あの優しげな微笑みを浮かべた。 彼は震えるナマエの手を取り、その手の甲に、あの日々と同じように静かに唇を寄せた。
「待たせてすまない、ナマエ。君を見つけるのに、少し時間がかかってしまった」
その瞬間、ナマエの目から再び大粒の涙が溢れ出した。 彼は、覚えていた。 あの日々を。あの約束を。共に巨人と戦い、地獄を潜り抜け、血塗られた戦場で誓い合った愛を。
「……夢じゃ、なかったんですね。本当に、そこに……いるんですね」
「ああ。君が俺を救い、未来を変えてくれたおかげで、俺は今ここにいる。……団長ではなく、一人の男として、君に会いに来た」
エルヴィンは彼女を抱き寄せる代わりに、その小さな手を、自身の胸元のループタイに触れさせた。石の冷たさと、その奥に宿る彼の鼓動が、指先から伝わってくる。
「現代という檻の中で、ようやく止まっていた歯車が回り始めた。……これからは、もうずっと離さない。……そうだ、まずは、今の君の話を聞かせてもらえないかな? 君が俺のために選んでくれた、あの本のことも」
エルヴィンの声は、春の陽だまりのように温かかった。ナマエは彼の胸に顔を埋め、泣き笑いのような声を上げた。 三年の月日を経て、二人の止まっていた時間は、今、鮮やかに色づき始めた。
「……はい、エルヴィンさん。たくさん、お話があります。あなたがいない間に、私がどれだけ本を読んだか……覚悟してくださいね」
「ふ……。それは楽しみだ」
保健室の白いカーテンが、春の風に揺れている。
運命は残酷に二人を引き裂いたけれど、魂に刻まれた絆までは消せなかった。 二人の止まっていた物語が、再び音を立てて動き出す。 今度はもう、巨人も壁も、二人を阻むものは何一つない、新しい世界で。
高校を卒業し、都内の有名大学の文学部に進学してからも、彼女の瞳は常に「ここではないどこか」を探し続けていた。かつて異世界で彼と約束したおすすめの本を選ぶために、彼女は狂ったように書物を読み耽った。
古今東西の冒険譚、哲学書、そして切ない恋物語。頁を捲るたびに、指先にあの地下室の冷たい感触や、彼の大きな掌の熱が蘇る。
失われた翠緑のループタイを求めて、休日のたびにアンティークショップを巡った。けれど、あの漆黒のスクエアな店も、深い緑の石を湛えた銀の台座も、二度と彼女の前に現れることはなかった。 周囲の友人たちが恋に遊びに興じる中、ナマエだけは、実在したかも定かではない「金髪碧眼の団長」への貞節を守るように、孤独を友として過ごしてきた。
大学三年生になったばかりの、春。
キャンパスは満開の桜に彩られ、若者たちの浮き立った声が溢れていた。ナマエは文学部の古い講義棟へ向かっていた。今日の「特別英文学演習」は、新しく赴任してきた教授の初講義だと聞いている。 講義室の重厚な扉を開け、中段の席に腰を下ろす。春の陽光が窓から差し込み、埃の粒子がダンスを踊る。ナマエは無意識に、首元に手をやった。そこにはもう、何も掛かっていない。
定刻。廊下に響く、硬質な靴音。 カツ、カツ、カツ――。 その規則正しいリズムを聞いた瞬間、ナマエの心臓が、痛いほどに跳ね上がった。全身の血が逆流し、呼吸が浅くなる。この足音を、彼女は知っている。石造りの廊下で、あるいは塔の階段で、幾度となく背中を追った、あの足音だ。
扉が開く。
現れたのは、仕立ての良いスリーピースのスーツに身を包んだ、長身の男だった。 周囲を圧倒するような体躯。黄金の陽光をそのまま形にしたような金髪。そして、眼鏡の奥に隠された、冷徹なまでに澄んだ碧い瞳。
「今年度からこの演習を担当することになった、エルヴィン・スミスだ。よろしく頼む」
朗々と響く、深く、慈愛に満ちた声。
ナマエは息を吸うことさえ忘れ、教壇に立つその男を凝視した。 彼は教壇に資料を置くと、ゆっくりと教室内を見渡した。その視線が、中段に座るナマエを捉える。一瞬、彼の眉が微かに動いたように見えたが、彼はすぐに視線を戻した。 けれど、ナマエの目は、彼の胸元に釘付けになっていた。
白シャツの襟元。タイの代わりに締められていたのは、鈍く光る銀の台座に、深い緑色の石が嵌められた、あのループタイだった。
(……ああ、嘘……、嘘でしょ……!)
動悸が激しくなり、視界がチカチカと爆ぜる。涙が溢れ出し、止まらない。 今、目の前で、この世界の言葉でシェイクスピアを語っている男は、間違いなくあのエルヴィン・スミスだった。
ナマエは耐えきれず、鞄を掴むと、講義が始まったばかりの教室を飛び出した。
「失礼します……っ!」
背後で、学生たちの当惑する声と、エルヴィンの声が途切れる気配がした。けれど、彼女は止まれなかった。 廊下を走り抜け、中庭の桜の木の下を通り過ぎ、辿り着いたのは静かな保健室だった。
「あら、どうしたの?」
「……気分が、悪くて。少し、休ませてください……」
保健室の先生にそう告げると、ナマエはカーテンで仕切られたベッドに倒れ込んだ。泣き疲れて、いつの間にか意識が混濁していく。 夢なのか現実なのか。かつての壁外調査の馬の嘶きと、現代の車の騒音が混ざり合う。
どれほどの時間が経っただろうか。
頬に、温かく、けれどどこか切なげな感触を覚えた。 大きな、指の腹が、彼女の涙の跡をそっとなぞっている。ナマエはゆっくりと、重い瞼を開けた。
「……起きたか」
すぐ傍らに、彼がいた。パイプ椅子に腰掛け、講義の時よりもずっと柔らかい、慈愛に満ちた瞳で自分を見つめる男。 保健室特有の消毒液の匂いの中に、微かに香る、彼特有の清涼なハーブの匂い。
「……エル、ヴィン……先生……?」
「授業中に飛び出すとは、困った生徒だ。……だが、君を責める気にはなれないな」
エルヴィンはふっと口角を上げ、かつて調査兵団の団長室で見せたような、あの優しげな微笑みを浮かべた。 彼は震えるナマエの手を取り、その手の甲に、あの日々と同じように静かに唇を寄せた。
「待たせてすまない、ナマエ。君を見つけるのに、少し時間がかかってしまった」
その瞬間、ナマエの目から再び大粒の涙が溢れ出した。 彼は、覚えていた。 あの日々を。あの約束を。共に巨人と戦い、地獄を潜り抜け、血塗られた戦場で誓い合った愛を。
「……夢じゃ、なかったんですね。本当に、そこに……いるんですね」
「ああ。君が俺を救い、未来を変えてくれたおかげで、俺は今ここにいる。……団長ではなく、一人の男として、君に会いに来た」
エルヴィンは彼女を抱き寄せる代わりに、その小さな手を、自身の胸元のループタイに触れさせた。石の冷たさと、その奥に宿る彼の鼓動が、指先から伝わってくる。
「現代という檻の中で、ようやく止まっていた歯車が回り始めた。……これからは、もうずっと離さない。……そうだ、まずは、今の君の話を聞かせてもらえないかな? 君が俺のために選んでくれた、あの本のことも」
エルヴィンの声は、春の陽だまりのように温かかった。ナマエは彼の胸に顔を埋め、泣き笑いのような声を上げた。 三年の月日を経て、二人の止まっていた時間は、今、鮮やかに色づき始めた。
「……はい、エルヴィンさん。たくさん、お話があります。あなたがいない間に、私がどれだけ本を読んだか……覚悟してくださいね」
「ふ……。それは楽しみだ」
保健室の白いカーテンが、春の風に揺れている。
運命は残酷に二人を引き裂いたけれど、魂に刻まれた絆までは消せなかった。 二人の止まっていた物語が、再び音を立てて動き出す。 今度はもう、巨人も壁も、二人を阻むものは何一つない、新しい世界で。
