自由な空に、君と愛を。
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始まりは、嵐のような夢だった。
都内の高校に通う十七歳のナマエにとって、それは単なる「悪夢」と呼ぶにはあまりに重く、あまりに鮮烈な「誰かの生」の記録だった。
眠りに落ちるたび、彼女の意識は自分ではない「誰か」の肉体に溶け込み、その男が歩んだ峻烈な半生を、走馬灯のように駆け巡る。
――ある時は、教室で父親に無邪気な質問を投げかける黄金色の髪の少年として。
――ある時は、自らの好奇心が父を死に追いやったという、焼き付くような罪悪感に身を焼かれる孤独な青年として。
――そしてある時は、自由の翼を背負い、何万という部下の命を「人類の勝利」という天秤にかけ、非情な決断を下し続ける冷徹な指揮官として。
巨大な化け物に右腕を食い千切られる激痛。
馬を駆り、降り注ぐ岩礫の中を死地へと進む絶望的な高揚感。血と泥に塗れた戦場で、彼がただ一人、心の奥底で守り続けた「地下室」への執着と、子供のような純粋な夢。
その男が抱えていた、世界の重み。彼が誰にも見せず、鉄の仮面の下に隠していた、泣き叫びたいほどの孤独と、愛への渇望。
ナマエはそのすべてを、自分の鼓動のようにリアルに追体験していた。
(……ああ、苦しい。なんて、悲しくて美しい人なの……)
目が覚めるたび、ナマエの頬は涙で濡れていた。一度も会ったことのない男。実在するかもわからない、遠い異世界の戦士。
けれどナマエは、彼の苦悩を知るたびに、彼の誇り高い魂に触れるたびに、どうしようもなく彼を愛してしまっていた。それは初恋と呼ぶにはあまりに深く、執着と呼ぶにはあまりに純粋な、魂の共鳴だった。
朝の支度をする間も、高校への登校路を歩く間も、夢の中の碧眼が自分を見つめているような気がした。授業中、黒板に並ぶ数式はただの記号として滑り去り、耳に届く教師の声は遠く霧の向こう側の出来事のように感じられる。
それは恋焦がれるといった甘美な感情よりも先に、保護欲にも似た切実な祈りとしてナマエの中に根を張った。
放課後。夕闇が街を朱色に染め上げる頃、ナマエはいつもの帰路を辿っていた。
足取りは重く、心は未だ「あちら側」に囚われている。すると、ふと見慣れない光景が目に留まった。
自宅からわずか数分の距離に、漆黒の木材を基調としたシックなスクエア型の建物が佇んでいた。昨日までは空き地、あるいは別の建物があったはずなのに、記憶が定かではない。店先には「閉店セール」と記された、古びたのぼり旗が力なくはためいている。 アンティークショップだろうか。
何かに引き寄せられるように、ナマエはその重厚なドアを押し開けた。
カラン、という乾いた鈴の音が響く。
店内に一歩踏み入れると、そこは時間の流れが止まったかのような空間だった。埃の混じった古い紙の匂いと、蜜蝋のような甘美なワックスの香りが混ざり合い、鼻腔をくすぐる。 棚には、いつの時代のものかも判らぬ銀食器や、色褪せた革装丁の本、ゼンマイ仕掛けの壊れた時計が所狭しと並んでいた。
吸い寄せられるように向かったのは、店の一角にあるアクセサリーコーナーだった。
雑多な指輪やブローチの中で、それは「それ」だけが異質な光を放っていた。 銀色の台座には、繊細な唐草模様が刻まれ、その中央には深い森の奥底を閉じ込めたような、瑞々しくも重厚な緑色の石が嵌め込まれている。
「……あ」
心臓が跳ね上がった。 ループタイだ。
夢の中で、馬を駆っていたあの男が胸元に飾っていたものと、驚くほど似ている。いや、細部の彫金までが、ナマエの記憶の中にあるものと一致していた。 指先が震える。そっと手を伸ばし、その冷徹な銀の質感に触れた。瞬間、指先から微かな電流が走ったような錯覚に陥る。 これを手放してはいけない。
理屈ではない、魂の叫びが聞こえた。ナマエはそれを掴むように手に取ると、吸い寄せられるようにレジへと向かった。
店主の顔は、なぜか思い出せない。ただ、商品を包む手元がひどく丁寧だったことだけを覚えている。
家に戻り、自室のベッドに潜り込んだナマエは、枕元にそのループタイを置いた。 銀の台座が月光を浴びて、鈍く、けれど確かな意志を持って輝いている。 石の奥底に揺らめく深い緑は、あの男が守ろうとしていた世界の森の色だろうか。それとも、彼自身の心の深淵だろうか。
「もう一度、会いたい……」
零れた独り言は、夜の静寂に吸い込まれていった。
まどろみが降りてくる。意識がゆっくりと、重力から解放されていくような浮遊感に包まれる。
いつの間にか、部屋の空気は冷え込み、どこからか馬の嘶きと、鉄がぶつかり合う音が聞こえてくるような気がした。
眠りに落ちる直前、ナマエは確かに感じた。 枕元のループタイが、まるで鼓動するように熱を帯びたのを。
次に目を開けた時、そこはもう、見慣れた白のリノリウムの天井ではなかった。
「……気がついたかね?」
低く、落ち着いた声が鼓膜を震わせる。 漂ってくるのは、薬品のツンとした匂いと、燃える薪の爆ぜる音。 視界を埋めたのは、石造りの壁と、質素な木製の家具。そして、知的な面持ちの初老男性が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「ここは……?」
掠れた声で問いかけるが、自分の名前さえ、霧の向こう側にあるように茫洋としている。
「シガンシナ区にある、私の診療所だよ。君は道端で倒れていたんだ」
シガンシナ区? 聞いたこともない地名。ナマエは起き上がろうとしたが、全身を激しい倦怠感が襲う。
壁に掛けられたカレンダーのようなものには、見たこともない紋章が刻まれている。
「落ち着いて。君はひどく混乱しているようだ。……自分の名前は、わかるかな?」
男――カールと名乗った医師の問いに、ナマエは必死に記憶を手繰り寄せる。
けれど、昨日の学校の風景も、夕暮れのアンティークショップも、まるで数千年も前の出来事のように遠い。
ただ一つ、心に鮮明に残っているのは、あの翠緑の石の輝きと、前だけを見据えていた、気高い男の面影だけだった。
「……ナマエ。……私の名前は、ナマエです」
絞り出したその言葉が、異世界の冷たい空気に溶けていく。
ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか。 不安で張り裂けそうな胸の内で、ナマエは無意識に、首元に触れた。
そこには、あのループタイが、まるで彼女の新たな運命を繋ぎ止めるかのように、しがみついていた。
これが、長い、長い、そしてあまりにも残酷で美しい物語の始まりだということを、今の彼女はまだ知らない。
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