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『勘違いから始まる恋』第四章『それぞれの想い』

第065話

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 その日は朝から小雨の降る生憎の空模様だった。

『コンサート初日なのに……でも、ドームだから雨は心配ないか……』

 隼人は傘の隙間から覗く空を眺め、そんなことを考えながら会社に向かっていた。

「おはよう」

「「おはよう(ございます)」」

 会社に着いた隼人はいつものように、スタッフと挨拶を交わしながら自席に歩いて行く。

「ふぅ……」

 自席に着くと誰にも聞こえない程の気怠そうな声を出しアーロンチェアへ腰を掛ける。
幸いその様子は目の前にある大画面のiMac本体とシネマディスプレイに隠れ、周囲に見えてはいなかった。
スタッフの手前、気怠そうな様子など見せられないのが隼人の役職の辛い所だろう。
気怠さの原因は、昨晩スーツのままベッドで寝たせいのようで、朝起きた隼人は身体の節々が痛く、睡眠も浅かったのか気怠かった。
出勤するまでに節々の痛みは治まったが、それでも気怠さはそれなりに残っていた。
残った怠さに隼人は両手を突き出し、ゆっくりと伸びをする。

「ん~」

 全身の筋や腱が伸び筋肉が解れる感覚に、隼人は思わず小さく声にならない声を上げた。

ブッブーブッブー

 そうしていると、いつものようにデスクに置かれたスーツの上着のポケットの中で、スマートフォンが振動しメールの受信を知らせる。
隼人は上着のポケットから、スマートフォンを取り出すとメールを確認する。

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■差出人:
大島 優子

■件名:
Good Morning!

■本文:
おはよう、隼人!

昨日は電話ありがとう。
あの後ゆっくりお風呂入ってぐっすり寝たので元気ですヾ(≧∀≦*)ノ

そして!
いよいよ今日はコンサート初日!
劇場公演もコンサートも沢山やってきたけど、
上手くパフォーマンス出来るか心配で未だに初日は緊張するんだよね。
特に今日はSDNってAKBの姉妹グループと一緒の舞台に立てる最後のコンサートだし、
何よりAKBにとって大事な発表もあるから余計緊張しちゃう。

隼人はこんなときどうやって緊張しないようにしているの?
良いのがあったら教えてね(≧з≦)

隼人は朝ご飯は食べた?
私はこれからみんなで朝ご飯なんだけど、
隼人のことだから食べてないんじゃない?
ちゃんと朝は食べなきゃダメだよ!

コンサート終わったらになるけど、
私が毎朝作ってあげるから楽しみにしてて♥

それじゃあ、お仕事頑張ってね( ˘ ³˘)♥ ゚+。:.゚
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 コンサート初日が生憎の雨だったことや、昨日の一件について引き摺る様子もない優子のメールに安堵し、こういうポジティブな部分が好かれる由縁なのだろうと感心した。
そして、優子が昨日作ってくれた朝食を思い出しながら『あんな朝ご飯を優子と一緒に食べられるなら起きるのが楽しみだろうな』と想像する。
そんなポジティブなメールの中に、優子が隼人に伝えたかったであろう本音が書かれていた。

『緊張しない方法か……』

 文章こそ明るかったが、はっきりと“緊張している”と彼女が言うのだから、これがこのメールの本題なのだろう。
理由は色々あるようだが、優子にとってどれも重要で緊張していることだけは隼人にも分かり、自分であればどうなのだろうと思案する隼人。

 頭に浮かんだのは、数日前のプレゼンテーションをする自分、優子にコンサートへ行けなくなったと嘘の電話をする自分、そして優子と一夜を共にしようとする自分。
どれも隼人の中で鮮明な記憶として蘇る。

 暫く思案していた隼人は、何か思い付いたのかおもむろにスマートフォン片手に立ち上がり、何やらメールを打ちながら廊下に続くドアまで歩いて行く。
そのままの流れでドアを開けようとノブに手を伸ばすが、先にドアが開き向こうから杏が姿を現した。

「「あっ……おはよう(ございます)」」

 互いにスマートフォンに気を取られていたせいで突然視界に現れた相手に驚くが、目が合うと挨拶を交わしすれ違う2人。
何時もと変わらない朝の挨拶のようだったが、杏と入れ替わりに廊下に出た隼人は振り返り彼女を見た。
その後ろ姿や歩き方は普段と変わらぬ美しい杏だったが、隼人は何故か気になった。

『後で聞いてみるか』

 そう思いながら近くの空いている会議室に入ると、優子へと電話をかける。

トゥルルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル……ガチャ

《ただいま電話にでることが……》

 食事中であろう優子にかけても当然のように彼女は電話に出ることはなく、呼び出し音だけが鳴り続く。
それから数コールの後、留守電に切り替わり音声案内が再生される。
すると隼人は最初ふはじめから電話に出ないことが分かっていたように、留守電にメッセージを吹き込み始める。

「隼人です。 緊張しない方法を考えてみたんだけど思いつかなかったよ。 でも、緊張するのって真剣に取り組んでいる証拠だと思うし、実は俺も未だにプレゼンのときは緊張するんだ。 だからね、いつもプレゼンの上手い人を“演じる”つもりで壇上に立つようにしてる。 そうすると不思議と“この緊張感を楽しもう”って思えるようになるんだ。 だから、今日は優子にとってもAKBにとっても大事なコンサートなんだとしたら、優子も最高のアイドルを“演じている”つもりで緊張も全部引っくるめて楽しんだらどうかな? それに優子なら絶対“大丈夫”。 誰よりも凄いパフォーマンスが出来るよ……もしそれでも“全力でいるのが疲れてしまったら俺が癒やすから、優子のやりたいように全力でやってきて”……」

ピッ

 メッセージを残し終わると電話を切る。

 “疲れたら俺が癒やすから”なんて歯の浮くような台詞を嘘ではないにせよ、自分でもよく言えたものだと思う。
それでも優子が少しでもコンサートで良いパフォーマンスが出来るなら、何でもしたいと思い考えた末のメッセージだった。
実はさっき歩きながら打っていたメールも、このメッセージを残すためにわざわざ優子に留守電にして欲しいと頼むためのものだった。
今彼女に自分が出来ることはここまでだろうと思いながら、会議室から出ると自席へと戻った。

 席に戻った隼人は、先程の様子が気になり杏の姿を探す。
しかし、彼女の席のiMacはディスプレイこそ点いていたが本人は居なかった。
バッグなどもそのままで壁の予定表ボードにも何も書かれていないので、外出でもなさそうだった。

『お手洗いかな?』

 そんなことを思いながら、取り敢えず自分の仕事をするべくデスクに向かう。
iMacのデスクトップに置かれたファイルをダブルクリックすると“PowerPoint 2011”のディープオレンジのスプラッシュ画面が現われ、昨夜纏めた資料のスライドが開く。
昨夜も確認したが、もう一度目を通し問題ないかをチェックしていく。

カチッ、カタカタカタ……カタカタ……

 1日経ち見直すと意外と問題が見つかるもので、幾つか発見したミスを修正していく。

 そうしていると、不意に隼人の鼻孔をコーヒーの香りが擽った。
すると視界の端に見慣れたカップが静かに置かれる。
隼人は画面から視線を外すと、淹れてくれたであろう人物を見る。

「ありがとう、渡辺さん」

「いえ、今日は少し遅くなりましたが、どうぞ」

 感謝の言葉を伝えると、やはり杏がそこに居た。
隼人の言葉に恐縮する杏だったが、そこに先程感じた違和感はなくいつもの彼女に戻っていた。
あまりに普通なので、さっきの杏は何だったのだろうと思っていると、こちらの視線に気付いた杏が首を傾げる。

「どうされたんですか? 私の顔に何か付いてます?」

「あっ、いや、そういう訳じゃないんだけど。 このコーヒーがないと1日が始まらないなと……感謝してます」

 そんなことを言いながらコーヒーを一口飲む隼人。

「また、そんなこと言って、何も出ないですよ」

 隼人の言葉に満更でもない表情を浮かべる杏は、そう言って笑いながら席に戻っていった。
言い訳のように使った隼人だったが、実際に杏が淹れてくれる毎朝のコーヒーを飲むことで、仕事モードになるのは本当なので感謝していた。

………………

…………

……

「「お先に失礼しま~す」」

 そう言うと口々に「何処飲みに行く?」などと言いながら、オフィスを出て行く同僚や部下たちに「お疲れ様」と律儀に手を挙げながら見送る隼人。

 今日は金曜日。
皆仕事を早く切り上げ飲みに行くなど、定時で殆どの人間がオフィスから姿を消していた。
人の声に溢れていたオフィスが静かになると、それまで聞こえなかった有線の音楽が隼人の耳に入ってくる。

《友よ、思い出より輝いてる明日を信じよう♪ そう、卒業とは出口じゃなく、入り口だろう♫》

 何の因果か、そこに流れていたのはAKB48の“GIVE ME FIVE!”だった。

 カタカタカタッ
それまで軽快にキーボードを打鍵していた指がピタリと止まる。
今までも何度か有線から流れるこの楽曲を聞き、これがAKBのものだと知っていた隼人。
歌っているところを実際に観たことはないのに、何故か今は歌声の中にある優子の声を聞き分けることができ、弾けるような笑顔が頭に浮かぶ。
それと同時に、みなみの顔が浮かび隼人の胸がチクリと痛む。

『みなみの声は聞き分けられないんだな……』

 昔は毎日のように聞いていたみなみの歌声。
あの時はどんな状況でも聞き分けられた筈なのに、今の自分ではもう聞き分けられなくなったのが悲しく、みなみの存在を過去のものにしようとしていることに気付いた。

 隼人はこのとき、楽曲ごとにメンバーが選抜されていることを知りはしなかった。
だが実際“GIVE ME FIVE!”に“高橋 みなみ”がメンバーとして選ばれていたにも関わらず聞き分けることが出来ていなかったのは事実だった。

『自然なことだよな……』

 時が経ち今の自分には優子が居るのだからと、自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、腕時計をチラリと確認する。

 時計の時刻は既に19時を回っていた。

『もうコンサート始まっているな……』

 少し前に来た優子からのメールには18時開演と書いてあり、今は既に始まっている時間だった。

 気持ちを切り替えるかのように、隼人はデスクに置き充電中だったスマートフォンを手に取ると、1時間半程前に来た優子からのメールを改めて見直した。

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■差出人:
大島 優子

■件名:
本番!

■本文:
18時の開演まで少し時間あるけど、
これから秋元先生の言葉とか円陣組んだりとかするから、
今の内にメールするね。

隼人のメッセージのお陰で、
早くパフォーマンスしたくてウズウズしてる。

何でだろう?
隼人に大丈夫とか何か言われると、
全部その通りになるような気がしてしまうの。
だから、今日は最高のパフォーマンスができると思う。

実はね、このあとの本番が始まってからになるんだけど、
私たちAKBの念願だった東京ドームコンサートの開催が発表されるんだ!
ここに来るまで7年かかったけど、やっとAKBの夢が叶うの!

たぶん、関係者以外では最初に隼人が知ったんじゃないかな。

今度は絶対観に来てね。
その予行演習だと思って全力で頑張ってきます!!

コンサート終わったら沢山癒やしてね♥

いってきます!!!
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 “念願だった東京ドームコンサート”この一文に重みを感じる隼人。
秋葉原と後楽園、距離にして2キロにも満たず、電車ならたった2駅の距離に東京ドームは存在する。
だが、そのたった2駅先の舞台に立つために彼女たちは7年間我武者らに走り続け、その間に優子が“あの夜”自分に語った以上のことも他に沢山あったはず。
それでも歩みを止めず今日まで頑張って来た彼女達を隼人は純粋に凄いと思うし、何が彼女たちを奮い立たせているのか知りたいとも思った。
それだけに、優子が女優という夢に向かいながら、同時にAKBとしても全身全霊で挑んでいるのを感じれば、パートナーである自分がAKBについて知らないままで良いはずもないと思いに至る隼人。

 それまでしていた仕事の手を止めると周囲を見渡す。
オフィスに残っていたのは杏と数人のスタッフだけだった。
都合の良いことに杏は隼人の近くの席で、それ以外のスタッフは大声でも上げない限り声が聞こえないような距離に居た。

「渡辺さん、ちょっと良い?」

「ん? はい、どうしたんですか?」

 突然、隼人に呼ばれた杏は、それまで見ていたディスプレイから顔を上げ“なんでしょう?”という顔で隼人を見る。
すると隼人は冗談か本気かどちらともともつかない表情で杏に質問を投げかける。

「AKBの魅力って何なのかな?」

「魅力……ですか?」

「うん、魅力。 ほら、今も流れているのAKBの曲でしょ? 毎日のように聞いていたら、何となく気になってね」

 音楽を奏でる天井のスピーカーを指差しながら話す隼人。
突然とも言える隼人の質問だったが、杏は隼人がその疑問抱くことを何となく理解できた。
杏も優子と映画“桜の園”で共演するまでは『アイドルって何なのだろう?』と不思議に思っていた。

 杏は元々モデル出身で演技がもの凄く得意という訳ではなかった。
しかし、共演する中に“大島 優子”というアイドルがいると聞いていたので、自分だけが特段演技の下手さが目立つことはないと、今思えば失礼だがホッとした憶えがあった。
だが、クランクインすると、その認識が間違っていたことを思い知らされる。
“大島 優子”は子役時代も含めれば芸歴も長く誰よりも努力家で、スタッフに対する礼儀もきちんとし、演技に対して並々ならぬ想いを持っていることを彼女の演技を目の当たりにして理解した。
それに比べれば父に大物俳優のDNAを継いでいながら、自分の方がよっぽど努力不足だと痛感した。
幼い頃から芸能界の空気を知っていたり、両親の離婚などの共通点はあるものの、生い立ちが雑草のような優子と、サラブレッドとも言える杏。
そんな正反対の2人は反発し合うように思えたが、自分の道を自ら決め歩んできた杏は、優子に自分と似たものを感じ、弦楽器をやっているという話題で盛り上ったのを切っ掛けに撮影の合間などに良く話すようになっていた。

 そんなある日撮影の休憩時間のこと、杏は優子にそれまで疑問に思っていたことを口にする。

「何故、優子の夢は女優なのにアイドルをしているの?」

 すると優子は「他のアイドルのことは分からないけど」と前置きしながら答える。

「AKBには夢が詰まってると私は思ってる。 ファンの人にとって会えるアイドルは夢だったろうし、私たちメンバーにとっては自分の夢のための登龍門でもあるの。 色々なお仕事を経験させてもらって自分の夢の糧にしたり、自分でも分からなかった才能を開花させて違う道に進んだりもできる。 私の場合だったら、こうやって女優として映画に出させてもらえる。 この映画のお仕事だって、今の私1人の実力だったら貰えなかったんだもん感謝してるんだ。 だから、同じように女優を夢見ている後輩のためにAKBでいる限り全力でアイドルして、女優の夢も叶えて道標になってみせようって決めているの」

 質問した杏、そして“福田 沙紀”や”武井 咲”など、その場に居た者たちは優子の言葉で、自身の中にあったアイドル象が大きく変わったのを覚えている。
杏は特にパリコレなどに参加する程のモデルで、アイドルが取り立ててスタイルが良いとは言えないにも関わらずモデルとして国内のショーなどに出ているのを間近で見ていたのでアイドルに多少なりとも抵抗があったからか、優子の言葉に衝撃を受けたていた。

 それから杏は年下の優子を尊敬さえするようになると共に、プライベートでも遊ぶような仲になった。
そんな昔のことを思い出し、杏は隼人の質問に対する言葉を口にした。

「AKBって夢が詰まっているからじゃないですか」

「夢?」

「えぇ、メンバーにとってAKBは色々な夢を叶えるための場所なんだそうです。 いつかそれぞれの道を歩んで行くために、メンバーひとりひとりが志を持って活動している。 ファンにとっては、それまでテレビの中だけの存在だったアイドルが、AKBだったら実際会いに行けて、選抜を決める選挙があれば自分たちの応援でメンバーの活躍を後押しだって出来るんです。 今までになかった夢のアイドルなんだと思います。 公演も毎日あって、見ているとメンバーそれぞれが成長しているのが分かるんでしょうね。 それに歌や振り付けなんかもバリエーション豊かだし、選抜総選挙やじゃんけん大会みたいに面白い企画も多いから、楽しくて私も好きです」

 ニコニコしながら楽しそうに杏が話すのを聞いていて、隼人はコンサートに行けないのが本当に残念で仕方なかった。

「どんな感じか1度見てみたいな……」

「興味湧きました?」

「えっ、う、うん。 そうだね……」

 心の声だったつもりが、つい口に出していたことに閉口する隼人。

「今度会ってみます? 優子ちゃんなら会えますよ。 推しメンでしたよね?」

「えっ、い、いや。 そんな悪いし……それに、あまり大島さんと知り合いだって知られたくないんでしょ?」

 優子を“自分の彼女”とはまだ口が裂けても言えない隼人は、杏の言葉にしどろもどろになりながら、何とかそれらしい理由をみつけ断る。

「そうですか残念……会いたくなったらいつでも言ってくださいね」

 確かに隼人の言う通り、あまり優子と友人だと知られたくはなかった。
だが、隼人には既に話してしまっているのだから気にする必要はない杏であったが、意外にも大人しく引き下がる。
隼人はホッとした表情で「変なこと聞いて悪かったね」と言い仕事に戻った。

 それを杏は何か考えがあるのか、口角を上げニヤリとして見ていることに、隼人は気付くことはなかった。

………………

…………

……

 それから、どれ程時間が経っただろうか、2人は黙々と仕事をしていた。

「ん~……あっ」

 描いていた画像を保存しタブレットのペンをスタンドに戻すと杏は仕事が一段落付き、伸びをしながら周りを窺った。
いつの間にかオフィスには自分と隼人だけになっているのに気付いた杏は、腕時計で時刻を確認すると20時になろうかとしていた。

『そろそろ良い頃合いかな』

 実のところ隼人に声を掛けられたとき杏は、もう少しで退社しようと思っていたところだった。
だが、隼人とAKBの話をしていて“ある事”を思いついた杏は、この時間まで仕事をしながら頃合いを見計らっていたのだった。
隼人の席の方を見るとカタカタカタとキーボードを打つ音が聞こえ、仕事に集中しているのが分かった。

 杏は先程もしたようにニヤリとすると“ある事”を実行するため、隼人の席に近づいていった。

「新城先輩……新城先輩!」

「ん?……あっ、ごめん渡辺さん。 どうしたの?」

 杏は集中している隼人の顔の前に手を翳し振りながら声を掛ける。
すると隼人はそれに気付いたのか杏の方を向く。

「ほんと新城先輩は周りが見えなくなるんですから……」

「ごめんごめん」

 いつものことながら隼人の集中力に、感心を通り越し呆れる程だった。
隼人も自覚しているから苦笑しながら謝る。

「ところでどうしたの?」

「明日って夕方頃からお時間ってありますか?」

「明日?……どうして?」

 明日の予定を聞かれた隼人は、特に予定などはなかった。
しかし、優子と交際しているのだから他の女性と一緒に居ることは好ましくないことであったし、何よりコンサートを断った身であれば尚更だった。
それでも仕事のことかもしれないと考え一応用件を聞いた。
杏は質問を質問で返されるが、まるで想定内かのようにニコニコしている。

「実はリサーチしたい場所がありまして、1人だと心許ないのでご一緒していただけないかと思いまして……」

「リサーチ? それなら平日に時間取って行けないのかい?」

「それが明日限定なんですよ! どうか、お付き合いください!」

 渋る隼人に、拝むようにして頼み込む杏。
仕事のこと限定ではあったが、こうするのが隼人に有効だと半年の間に学んではいたが、やはり心配なのか薄目を開けて隼人の様子を窺う。

 すると「はぁ……」と溜息を付く隼人に、こういう風になれば大丈夫と杏は内心ガッツポーズをする。

「……しょうがない。 リサーチ結果のレポートはちゃんと提出するんだよ……ところで明日は何処に行くんだい?」

 思った通り隼人は同行することを承諾してくれたが、万一のこともあったので杏は内心ホッとした。

 一方の隼人からすると、アメリカに居た頃は休日に会社の人間やその家族と共に過ごすことなど当たり前ではあったので、優子の一件は気になっていたが仕事ならば仕方ないと思っていた。
勿論、そこに杏が自分に、そして自分も杏に邪な気持ちがないことが分かっているからこそでもあった。

「新城先輩の生の感想も聞きたいので内緒です」

「それも仕事の内なのかい?」

「えぇ、大事なお仕事です……それで待ち合わせは、15時にお家の近くまで迎えに行きましょうか?」

 トントン拍子に話が進んで行くが、流石に家の近くで待ち合わせは、杏に優子との関係を言っていない以上問題があると感じ隼人は他の場所を提案する。

「それなら会社の前でどうかな? 偶々、午前中にこっちに来る予定があるんだけど」

 隼人の提案を残念と思いつつ、今回はそれが目的ではなかったので仕方ないと納得する。

「では、明日会社の前に15時待ち合わせでお願いします……あっ、そうそう。 服装はカジュアルで平気ですから、寧ろスーツだと浮いちゃうので、どちらかと言うと少し動き易い服装が良いと思います」

 そう言ってニコニコとする杏。

 “スーツだと浮く”どんな所なんだろうと首を捻るが、ヒントが殆どないのだから思い付く筈もないが、隼人は暫く考えていた。

「わたな……あれ?」

 TPOというものもあるだろうと、もう一度聞こうと杏を見るが、先程まで隣に居たはずの彼女の姿はそこになく、杏のiMacも既に電源が落とされていた。

「お先に失礼しまーす」

 遠くで聞こえた声の方を見ると、帰り支度を終えた杏が廊下に続くドアの所で頭を下げ退社の挨拶をしていた。
杏は隼人の返事を待つことなくニコッとすると、さっさと部屋を出て行ってしまった。

「えっ、あっ、お疲れ……」

 その場に1人ぽつんと残された隼人は、言う相手の居なくなったオフィスで独り言のように呟いていた。
部下の仕事となれば手伝うことに異論などなかったが、結局何をするかも何処に行くかも知らないままとなり、今一釈然としない気持ちのまま次の日を迎えることになった隼人であった。

…………………………

……………………

………………

…………

……

「そろそろ3時か……」

 それまで手帳サイズのスケッチブックに何やら色々な図形や言葉を描いていた手を止め、腕時計を見た隼人は独り言を呟いた。
ペンを置き、テーブルに置かれた“スターバックス”ロゴが描かれたカップを手に取ると一口飲む。
口の中に程よい苦みと酸味が広がるのを感じながら、休日の贅沢な時間を過ごしていた。
今頃、優子はコンサートの準備に忙しいのだろうなと、ここから離れた地で頑張っている彼女のことを想う隼人。

 昨日の夜は、姉妹グループ“SDN48”のコンサート共演が最後だったらしく、そのメンバーとの食事会に出ていた優子とはメールのやり取りのみで終わってしまった。

 今日になっても準備で忙しいのか、1通メールが来ただけだった。
それでも『メール出来なくてごめんね』と書かれたメールを見ると彼女の気持ちを感じ、それだけで隼人には十分だった。

 ところが優子の方は十分ではなかったらしく、メールには優子の自撮り写真が添付され、文末には『隼人の写真も頂戴!』と書かれていたのを見て笑ってしまった。
自撮りをすることに気恥ずかしさを感じながら、優子が満足するならとメールに『今日も良いパフォーマンスが出来ますように!』と応援のメッセージと共に写真を添付し送った。

 隼人はその光景を改めて思い出し気恥ずかしくなり、またコーヒーを一口飲むと、そのとき優子から送られてきた写真を呼び出す。
スマートフォンの画面にはスウェットを着てピースするすっぴんの優子の姿があった。
楽屋で撮ったのか、同じような格好をした女性たちが写真の端に何人か写っていた。
“みなみ”の姿がなかったことに安堵とも残念ともとれない複雑な気持ちを感じたが、画面一杯の優子の笑顔が、その気持ちを忘れさせてくれた。
そうやって優子の写真を見ていた隼人だったが、今居るのが人の多い場所だということを思い出し写真を閉じた。

 隼人が今居るのは会社の入っている“汐留シティーセンター”1階にあるスターバックスで、杏が来るまでアイディアスケッチしながらコーヒーを飲んで待っているところであった。
休日とあって店内にはスーツ姿の者は少なく、カジュアルな装いの人々がコーヒーを楽しんでいた。
その中で、隼人もカジュアルな私服姿で違和感なく溶け込んでいた。

 上は2枚襟の白いシャツに、その上にアウターとして白いラインが首元・手首・腰周りに入ったネイビーのカーディガン。
下はシンプルで動き易そうなアイスグレーのチノパンに、足元はライトブラウンのベルトデザインドレープブーツ。
そして縦型のボディバッグという、杏のオーダー通り動き易そうな装いの隼人。
これならカジュアル過ぎず動き易いだろうと思って選んだ服装であったが、そもそも杏から何処に行くのか聞かされておらず気になっていた。

『今日は何処に行くつもりなんだろう?』

ブッブッブーーブッブッブーー……

 気にしていると手に持っていたスマートフォンが震えだし着信を知らせる。
画面には“渡辺 杏”と表示されていた。

ピッ

「はい、新城です」

「お疲れ様です。 渡辺です。 先輩今どこにいますか?」

「お疲れ様。 1階のスターバックスに居るよ」

「そうですか。 なら、もうちょっとで着くので昭和通りまで出てきてもらっていいですか?」

「わかった」

「お願いします。 それじゃあ」

ツーツー……

 短いやり取りのあと電話が終わり、先程までスケッチに使っていた“MOLESKINE”のスケッチブックをゴムバンドで閉じペンと共にバッグに仕舞い込むと、残ったコーヒーを飲み干し片付けると店を出た。

『何処に行くかなんて、行けば分かるからいいか』

 そう思いながら“汐留シティセンター”から出ると、ビルの前を走る昭和通りの所までやってくる。
普段は交通量の多い昭和通りだったが、今日は休日と言うこともあって比較的車の量は少なかった。
それでも多くの車が隼人の目の前を走り去っていく。

『車か……こっちでも、そろそろ買わないとな』

 ガードレールに腰掛けながら横目で走り去る車を見ている内、仕事も忙しくアメリカ程必要性を感じていなかった車に対する購入意欲をみせる隼人。
元々、運転することが好きだったこともあったが、今は優子の存在が大きかった。
アイドルである彼女と電車で移動しながらのデートなど出来るはずもなく、どうしても足が必要なのだ。

『優子にも相談してみよう』

 そう考えていると、1台の赤いポルシェ911カレラが轟音を響かせながら近づいてきた。

『格好いいけど、こういう車は避けないとな……』

 その豪快なエンジン音や普通車に比べ車高の低さが、どうも国内の道路事情に合っていないように思え、スポーツカーだけは避けようと思う隼人。
それでも流麗で時代を経てもなお受け継がれるそのデザインに、ついつい目が行ってしまう。
ジッと見ていたせいなのか、車はウィンカーを出し減速すると隼人の直ぐ近くで停車した。

『???』

 偶々だとは思いつつ、目の前で止まった車を思わず凝視する隼人。
1,000万円を軽く超えるこのスポーツカーにどんな人物が乗っているのか少し興味を持った隼人は、その場を移動せずガードレールに腰掛けたまま車を見ていた。
だが、車高が低いせいか運転席の様子を見ることが出来ない。

 すると、助手席側のウィンドウが下り、ドライバーらしき人影がコンソールボックスを越え助手席にまで身を乗り出しながら声を掛けてきた。

「お待たせしました先輩!」

「えっ?……渡辺さん?」

 なんと声を掛けてきた人物は杏だった。
意外な人物がドライバーだったことに驚いている隼人を、杏は車内から手招きする。

「先輩、乗ってください」

「あっ、うん」

 それまで座っていたガードレールを乗り越え、隼人は助手席側のドアを開けると車に乗り込んだ。
やはり車高は低かったが、その低重心さと座ったときの絶妙なホールド感のあるシートが、この車がスポーツカーであると主張しているようだった。

「おはようございます先輩」

「お、おはよう。 まさか渡辺さんの車だとは思わなかったよ」

「あら、そうですか? 私車好きなんですよ。 あっ、シートベルト閉めてくださいね」

「う、うん」

 杏が車好きだと言うのも初耳であったし、愛車がポルシェであることなど想像も付かなかった隼人。
だが、確かなのは杏が運転をするとなれば、自分は言われるがままシートベルトをして助手席に座っているしかないということだった。

「じゃあ、行きましょうか」

 隼人がシートベルトをするのを確認すると、杏はギヤをドライブに入れアクセルを踏み込む。
ポルシェはその自慢の水平対向6気筒エンジンが唸りをあげ1.4トンの車体を滑らすかのようにスムーズに走り出した。

「♪♬♩~」

 ご機嫌なのだろう、鼻歌交じりに運転する彼女の横顔が今日はいつもと違って見える。
それはポルシェというスポーツカーの代名詞を、さも当たり前のように乗りこなしているからなのか、それとも普段会社でパンツスタイルなのが今日はスカートだからなのか定かではなかったが、何でも様になる杏に羨ましささえ感じる隼人。

 一方、車は、昭和通りから外堀通りに入り東京高速道路を抜けると、西銀座JCTで八重洲線 北池袋方面に向かって快調に走ってゆく。
勢い良く流れて行くビル群と、時折見える案内板で方角を知るが、何処に向かっているのか皆目見当もつかない隼人。

「渡辺さん、今日は何処に行くの?」

「内緒です。 でも先輩は驚くと思いますよ」

 杏に目的地を尋ねるが、彼女はサプライズだと言うように教えてくれなかった。
車は首都高速都心環状線に入り、竹橋JCTを大宮・北池袋方面を経て、5号池袋線を北上していく。
その後も何度か杏に目的地を尋ねるが、結局行き先について教えてくれることはなく、聞くことを諦めた隼人は杏と世間話をしながら目的地までドライブを楽しむことにした。

ゴトン、ゴトン……ゴトン、ゴトン……

 車内はいつの間にか静まり、高速道路の接合部分の上を車が走る度に規則正しい音と適度な振動が車内を支配していた。
先程まで聞こえた返事がなくなり、杏は助手席の様子を窺うと隣で隼人がうつらうつらとしていた。

「眠そうですね。 夜更かしでもしたんですか?」

「ふぁ……ちょっとね……」

 杏が眠そうな理由を尋ねると、欠伸をしながら隼人は夜更かししたことを認める。
昨夜はAKB48について少しでも知っておくべきだろうと、公式サイトやWikipediaなどを見ていて就寝するのが普段よりも遅くなっていた。

 そこに車から伝わる規則正しい音と適度な揺れが、まるで子守歌のように隼人の眠気を誘っていた。

「着いたら起こしますから、眠かったら寝てても良いですよ」

 欠伸を噛み殺していた隼人に、杏は仮眠を勧める。

「それは運転している渡辺さんに悪いよ……ふぁ」

 そう言いながらも欠伸を再び我慢する隼人に、杏は笑ってしまう。

「クスクス、全然説得力ないですよ。 そんな欠伸ばかりされたら私にも移って逆に危ないです」

「確かに……ごめんね。 悪いけどちょっと寝させてもらうね……」

 危ないと言われてしまうと無理に起きている訳にもいかず、悪いと思いつつ目を閉じる隼人。
それから数分も経たぬうちに隼人から寝息が聞こえ始める。

『先輩の寝顔って、あどけないですね』

 隼人の寝顔を横目で見ながら杏はクスッと笑いながら運転を続けた。

………………

…………

……

「……城先輩、起きてください……先輩」

 杏が寝ている隼人の肩を揺さぶりながら声を掛ける。
自分を呼ぶ声と共に体を揺さぶられ、隼人は目を覚ました。

「んん……ふぁ……あっ、渡辺さん……」

 目を開けた隼人は盛大な欠伸をしたが、直ぐ隣で杏が自分の肩に手を置きながらこちらを見ているのに気付き、状況を把握したのか恥ずかしそうに欠伸を手で隠す。

「着きましたよ。 気持ち良さそうに寝てましたね」

 余程しっかり寝ていたのだろう、杏は隼人にそう言って笑いながら車を降りていく。
杏が運転している間に、自分は熟睡しただけでなく起こされた挙げ句、大欠伸をしたのが恥ずかしかった。
部下の前で失態を演じ恥ずかしいのか隼人は顔を赤らめながら、杏に習い車から降りた。

『恥ずかしい……あれ、何処だここ?』

 車を降り周囲を見渡した隼人は自分が駐車場に居るのが分かったが、その場の雰囲気に違和感を感じる。

 まず、2人が乗るポルシェ以外は、大量に停められた車両がどれも事業用のナンバープレートを付けたマイクロバスばかりで個人用のナンバープレートを付けた車が殆ど停まっていないこと。

 もう1つは駐車場内で慌ただしく歩き回る人々が、服装こそ各々違えど一様に腰に無線機を携帯していたのだ。
まるで、その状況は何かのイベント会場の駐車場にいるかのようであった。
周囲の状況を見ても何処に自分が居るのか今一把握出来ていなかったが、既に前を歩き始めていた杏を追い隼人はボディーバック片手に歩き始めた。

「渡辺さん、ここが目的地なの?」

 隼人が後ろから声を掛けると、杏はクルリとこちらに向き直りリモコンで車にキーロックしながら答えた。

「そうですよ。 それより道が混んでいたんで“開演時間”ギリギリなんで急いだ方がいいですね」

「えっ……“開演時間”って? 今日はリサーチじゃ……」

 杏の言うことが釈然としなかった隼人は今一度の説明を彼女に求めようとしたが、杏は“Staff”と書かれた腕章を付けた若い男性を捕まえ何やら聞いていた。

「すいません。 このチケットの席に行きたいんですけど、どうやって行けばいいですか?」

「ここは関係者しか……あっ、すみません。 席までご案内します」

 杏に声を掛けられた男性はスタッフのようで、初めは怪訝そうな顔をしていたが彼女の手にある小さな紙を見た途端態度が一変する。

 一方、さっきから全く状況について行けていない隼人だったが、会話の邪魔をする訳にもいかず杏の隣で話を聞きながら時計を見ていた。

 時刻は16時53分を指していた。
やがて杏と話していたスタッフが「こちらです」と改まった様子で2人の前を歩き案内し始める。

「渡辺さん、どういうこと?」

「着いたら説明します。 取り敢えず間に合わないといけないので行きましょう」

 前をスタッフと共に歩く杏に尋ねるが、杏はもう少し我慢してくれといった様子だった。
その様子を隼人は怪訝に思ったが、前を行くスタッフも少し焦り気味の早足に歩くので仕方なく黙って後を付いていくことにした。

 駐車場を歩いて行くと車寄せのある入り口が見え、その先にある自動ドアを入るとエントランスには多くの荷物と、案内役のスタッフと同様の腕章をした人が忙しなく動き回っていた。
近くにエレベーターが見え、運良く隼人たちが現在いま居る階で停まっていた。
3人はそれに足早に乗り込むとスタッフは“2F”と書かれたボタンと“閉”のボタンを手早く押していく。
扉が閉まりエレベーターは僅かに揺れると上へと動き出す。

 B1……1F……とエレベーターの階数表示が変わっていく。
エレベーターの奥に乗っていた隼人だったが、前に居るスタッフや杏が背中から見ていても焦っているのが分かった。
何故焦るのか見当もつかなかったが、それよりも寧ろ杏の口から先程出た“開演時間”という言葉が心の中で引っかかっていた。

ピンポーン

 “2F”へと到着したエレベーターの扉がゆっくりと開くとそこは長い廊下で、ここにもスタッフが大勢いた。
無線で話す者、何かを抱え走る者、どのスタッフも部外者の隼人たちに目もくれず慌ただしく動き周っている。

 その中をすり抜けるように歩き、廊下の突き当たりにあったドアを案内役のスタッフが開け出て行った。
隼人たちもそれに続くと、その先にはコンコースのような開けた場所があった。

ワァッー!!!

 そこに足を踏み入れた途端くぐもった大きな音が聞こえ、それはコンコース全体を揺さぶっているかのようであった。

 それを聞いた杏は腕時計を見て“しまった”という顔をし、スタッフも歩く速度を上げた。
だが、隼人だけはその音を聞いて歩みを止めていた。
隼人の視線の先には天井付近の案内板があり、トイレやエレベーターのピクトグラムや説明に交じり赤い地に白い文字で“203”と書かれている。
その奥にも同じように赤に白の文字で“204”その奥に“205”と順番に数字の書かれた案内板が等間隔に並んでいた。

『まさか……』

 心の奥で引っかかっていたものが、隼人の中で形になり脳裏に浮かぶ。
音の正体が何なのか、そして自分が今どのような場所に居るのか察した隼人の心中は穏やかではなくなっていた。

ワァッー!!! ♪♬♩♫♪~ ワァッー!!

 隼人の耳に先程と同じような音が聞こえる。
再び聞こえた音は、くぐもったものではなくハッキリと音の正体が“何で”あるか分かるものだった。
音のする方向を見ると“206”と書かれた案内板の下で杏が手を振っていた。

「先輩! こっちです!」

 それを見た隼人は杏の居る場所へ駆け出していた。

『違っていて欲しい』

 隼人は胸騒ぎのする気持ちを必死に抑えていた。
杏の所まで駆けてきた隼人だったが、そのまま彼女を無視するように“206”番の扉へと駆け込む。

「えっ?」

 隼人が走ったのは杏に呼ばれたからなどではなく“音の正体”を知るためだったが、当然自分を無視するなど思ってもみなかった杏は、扉へ駆け込んで行く隼人に驚くしかなかった。

 既に隼人には杏の姿も、扉を開けて待っていたスタッフの姿も、目には入っていなかった。
ただ、自分の脳裏にある光景とは違うものが、目の前に現われてくれることを願い走るだけだった。

♪♬♩♫♪~ ワァッー!!!

 扉を抜けると暗がりが広がっていたが、その先に光を見つける。
その光は恰も地獄に垂らされた蜘蛛の糸の如く隼人を惹きつけそこへと走らせた。

「……」

 だが、そこに辿り着いた隼人の前に“極楽”などありはしなかった。
目の前の光景に、隼人は自らの行ないを呪い心の中で呟いた。

「天罰だ……」


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