『恋愛禁止条例』
第08話:お兄ちゃん:前編
8月に入り、俺はほぼ毎日のように劇場で過ごしていた。
夏休みとあってメンバーは劇場公演以外にも、握手会やらライブなんかで全国を飛び回っていて、劇場公演の数は決して多くはない。
だけど、裏方は新作衣装の製作から劇場設備のメンテナンスなどに追われ、普段よりも慌ただしいぐらいだった。
それでも身体を動かすことが好きな俺は、充実した日々を送ることができていた。
そして、暫くぶりに劇場公演が行われことになった夏休みのある日のこと……。
コンコン
「ん? はーい」
俺が仕事の合間にスタッフの休憩室で休んでいると、ノックする音が聞こえたのでドアを開けた。
するとドアの前には、様子を窺うように姉妹グループSKE48のエースで、AKB48も兼任している“松井 珠理奈”さんが立っていた。
「こ、こんにちは新城さん」
「こんにちは松井さん。 何かご用ですか?」
「えっと……」
何か言い難そうにしている松井さんだったが、意を決したような表情をしたかと思うと、突然頭を下げられた。
「もし、良ければ勉強教えてください。 お願いします!」
頭を下げながら手に持っていた数冊のテキスト類を差し出すように前に出してくる。
差し出されたそれには“数学”や“英語”などと書かれており、所謂“教科書”というやつだった。
『あぁ、そう言えば、この間中学校に上がったばかりだって戸賀崎さんが言ってたっけ』
「う~ん……」
「ダメ……ですか?」
俺が松井さんのお願いに唸っていると、彼女は上目遣いでお願いしてくる。
大人びた容姿の彼女がするおねだり顔のギャップに、ノックアウトされそうになるのをグッと堪える。
「い、いえ、教えるのはいいんですが、人に勉強を教えたことないから上手く教えられるか不安で……」
「大丈夫です! 戸賀崎さんが言ってました“隼人だったら丁寧だから大丈夫”だって」
戸賀崎さんの口まねしながら言う松井さん。
『戸賀崎さん何を根拠にそんなことを……』
内心、戸賀崎さんの言葉に溜息を吐くが、松井さんはそれを信じてわざわざ勉強道具まで持って来てしまったようなので、彼女のために引き受ける事にした。
「わかりました。俺の分かる範囲で良ければ」
「本当ですか!? やった! ありがとうございます!」
勉強を教えるだけだというのに大喜びする松井さん。
そのあどけない仕草に、やっぱりまだ中学生なんだなと微笑ましくなる。
「早速、今日からでも良いですか?」
「えぇ、準備は出来ているみたいだし、ここでも良ければいいですよ」
「やった!」
俺の言葉に嬉しそう喜ぶ松井さんを微笑ましく見ていると、彼女は休憩室のテーブルに勉強道具を広げる。
「さて、どの教科から始めますか松井さん?」
俺はテーブルに広げられた複数科目の教科書をペラペラと捲りながら、教えて欲しい教科を聞く。
「その前に」
「?」
「今日から新城さんは私の“先生”ですよね?」
「え、えぇ、一応は……」
「それに年上ですよね?」
「えぇ」
「だったらその“松井さん”って変じゃないですか?」
「でも、何て呼べば?……」
「珠理奈って呼んで下さい!」
そういうと松井さんは目をキラキラさせながら俺を見てくる。
松井さんは大人びた美しさの中に中学生という実年齢らしい可愛らしさを兼ね備え、何とも言えない魅力を持っている。
そんな松井さんにお願いされ健全男子の俺は、またもやノックアウトされそうになる……が、いくら年下で先生と生徒の関係だからと言って彼女たちのサポート役である“スタッフ”が気軽に呼べる訳がなかった。
「それはちょっと……俺はスタッフ、それもバイトの身ですし……」
「うー、じゃあ、せめて敬語はなしで」
「……分かった。さて、何から始めようか?」
「えっと……」
…………………………
……………………
………………
…………
……
それからというもの俺は“劇場講師”として、彼女が公演で劇場に訪れる度に勉強を教えることになった。
「松井ここはね」
「隼人さんこっちは?」
俺は“敬語はなし”という松井さんのお願いに応え敬語を使わないようにしていた。
一方、松井さんは初めこそ“新城さん”と俺を呼んでいたものの、いつの間にか下の名で呼ぶようになっていた。
『まぁ、松井さんが俺を呼ぶ分にはどう呼んでも良いんだけどね』
だけど、その考えが甘かったことを俺は後々痛感することになる――。