『恋愛禁止条例』
第31話:納得なんてできない:松井 珠理奈編
“後悔”
きっと、そんな表現が一番しっくりくる感情が、私の胸の中でぐるぐるとしていた。
「“彼”を諦めるくらいならAKBを辞めます」
優子ちゃんの真っ直ぐな瞳と言葉に、私は凄い衝撃を受けた。
だって、その直前に秋元先生から『アイドルと恋愛を天秤に掛けて交際したいか?』と問われ、私は恋愛よりも“アイドル”を選び取っていたから。
正直“彼”の姿が一瞬頭に浮かび、私は“恋愛”という選択肢に手を伸ばしかけた。
けど、その手を止めさせたのは“アイドルになりたい”その一心でこの世界に飛び込んだ“想い”と、SKE48をAKB48よりも有名にし自分自身が全グループの頂点とそのセンターに立つという目標が勝った結果だったんだと思う。
なのに、彼が秋元先生の甥であるとか、優子ちゃんとの付き合い始めが昨日だとか、色々な事実を知る度“後悔”の気持ちが私の心を激しく揺さぶり、本当は心の何処かでこんなことになるなんて思ってもいなかった自分に気付かされた。
「お兄ちゃん……」
彼をそう呼べるのは、私だけの特権だった。
逆に、お兄ちゃんが“珠理奈”って敬語なしに下の名前で呼ぶメンバーも私だけだった。
私がはしゃいで抱き付くと顔を真っ赤にしながら、それでも嫌な顔一つせず受け入れてくれた。
勉強で分からない所があると、私が名古屋に居ても電話で丁寧に教えてくれた。
でも……。
我が儘がいき過ぎた時や、子供みたいに駄々をこね周りのメンバーやスタッフさんに迷惑をかけた時、お兄ちゃんだけは本気で私を叱った。
それまで私は秋元先生から“10年に一度の逸材”なんて言われ、周囲もそんな私を特別扱いし何をしても怒られることなんてなくて、私も何時しかそんな状況に慣れてしまっていた。
勿論、麻里子さまや玲奈ちゃんは私を思い色々言ってくれたけど、それはあくまで一緒に活動するメンバーだから聞き入れることができただけで、他のスタッフさんや大人の人たちの言葉を私は段々聞かなくなっていた。
だから、お兄ちゃんに叱られた当初は『なんで?』って思ったこともあった。
けど、お兄ちゃんはただ怒るだけじゃなくって、
まるで、それはママの言葉のように心にすーっと入ってきて、素直に納得することが出来た。
それでも初めは素直に謝ることなんてできない私のために謝りに一緒に付いて来てくれたり、謝った後は決まって笑顔で褒めてくれた。
今思うと私が我が儘だけの女の子にならずに済んだのも、お兄ちゃんがそうやってしてくれたからなんだと思う。
私の人生なんてまだ始まったばかりで、お兄ちゃんとは更に短い時間一緒に居ただけだけど、こんなにも真剣に優しくも厳しく接してくれる人なんて両親や近しい人たち以外ではお兄ちゃんが初めてだったかも知れない。
お兄ちゃんの存在は兄弟の居なかった私にとって、まるで本当の兄ができたようで嬉しかった。
だからかな。
拗ねたり、怒ったり、泣いたり、笑ったり、私がお兄ちゃんに見せた姿はどれも等身大の“松井 珠理奈”だった。
兄と妹。
初めはそんな心地よく素の自分を出して甘えられる大事な一時が嬉しかった。
だけど、一緒に居れば居るほど、優しさに触れれば触れるほど、私の気持ちは変化を起こしていく。
嬉しいと思っていた気持ちはドキドキに変わり、いつしか妹である私はお兄ちゃんを兄として見られなくなっていった。
もっと……お喋りしたい。
もっと……一緒に居たい。
もっと……私だけを見ていて欲しい。
段々と強くなる感情が“恋心”だって気付くまでにそう時間はかからなかった。
けど、自分が“恋”をしお兄ちゃんを“異性”というフィルターを通して見たとき、同じ感情を秘めお兄ちゃんを見つめるメンバーが沢山いることに気付いた。
麻里子様……。
バイトを初めた最初の頃、スタッフとしての仕事は出来ても、芸能人、しかも女子の集団である“アイドル”に対してどう接していいか分からず右往左往していたお兄ちゃん。
そんな時、どうすれば良いのかをお兄ちゃんにレクチャーしたのが麻里子様だった。
“大声ダイヤモンド”でSKEを一人離れ戸惑う私に最初に声を掛け“妹”の様に可愛がってくれたのが麻里子様だったように、お兄ちゃんを“弟”の様に可愛がっていた。
誰から見ても仲の良い“姉弟”の様で、そこにあるのは恋心ではないかも知れない。
けど、お兄ちゃんに向ける瞳にはたっぷりの愛情が詰まっていて、それがいつ“恋心”に変わっても不思議ではないと私は思っている。
みるきーさん……。
何が切っ掛けだったのか分からない。
いつの間にかお兄ちゃんを“シンちゃん”と呼び“釣り”の練習だと言ってお兄ちゃんを捕まえ、際どいことをしては真っ赤になるお兄ちゃんを見て楽しんでいた。
流石、釣り師と言われているだけあるなって見て思っていたけど、みるきーさんの秘密を私は知っている。
お兄ちゃんに練習だと言って使った“釣り方”を絶対にファンの人たちにしないこと。
お兄ちゃんを釣りながら、実はみるきーさん自身も顔を赤くしていること。
何より、お兄ちゃんに見せる表情は釣り師ではなく、一人の恋する乙女そのものだった。
まゆゆさん……。
お兄ちゃんがスタッフとして劇場で働き始め暫く経つと、働きぶりや人柄でメンバーの間でちらほらと話題に上るようになる。
いつの間にかお兄ちゃんの周りには私も含め沢山のメンバーが集まるようになっていた。
その輪の中にはまゆゆさんと仲の良いさっしーさんや柏木さんもいて、二人が輪の中でお兄ちゃんと楽しそうに話しているのを、羨ましそうにしているまゆゆさんを何度か見たことがあった。
盗み見るようにしていると不意にお兄ちゃんと目が合い、慌てて視線を外すまゆゆさんはいつも真っ赤な顔をしていた。
それは普段見せる大好きな二次元キャラに『やびゃー』と興奮する感じじゃなくて、見つめるのも恥ずかしがるしおらしい現実的(リアル)な反応のまゆゆさんだった。
それが、ドームコンサート途中で前田さんや優子ちゃんの代役としてセンターを努めてから、まゆゆさんの様子が変わった。
お兄ちゃんのいる輪の中で積極的に話す姿。
私がお兄ちゃんに甘え独り占めしようとするのを、嫉妬したように必死に割って入るまゆゆさんの姿は、普段見せない可愛らしい姿だった。
それは、まゆゆさんに限らず多くのメンバーが同様で、ファンや他のスタッフさんには見せない女の子の姿を見せていた。
まがりなりにも私たちは“アイドル”。
如何に自分を良く見せれるかを日々考えている。
そんなことを彼の前でしようなどと考えが及ばないほどに、素の自分を見せてしまうほどにみんなお兄ちゃんに夢中だった……。
そう……。
みんなお兄ちゃんに“恋”していた。
でもね……。
私も含め誰もお兄ちゃんへ“恋心”を打ち明けるメンバーはいなかった。
だって、誰も“恋愛禁止条例”を破ってまで“アイドル”と“恋”を天秤にかけるようなことできる訳なんてなかったから。
想いを持ちながらそれを口に出来ない状況に、メンバーの誰もがもどかしく感じていたと思う。
私だって妹を演じるように甘えながら、これが恋人としてだったらって思わない日はなかった。
誰もが足踏みを続けているような毎日。
それでも“妹”として近くにいられることで、みんなよりも一歩リードしている気でいたから私は安心しきっていた。
だから、お兄ちゃんと優子ちゃんが付き合うことになるなんて、私は微塵も想像していなかったから初め聞いたときはショックだった。
ショックのあまり後悔の渦に呑まれ、自分で何を言ったのか憶えていなかった。
気付いたときには秋元先生の口から優子ちゃんの処遇や、その後のメンバーへの対応の話がされていた。
その内容にまた私はショックを受けることになる。
“解雇”その言葉だけ聞くとスキャンダルで“活動自体”になったメンバーよりも重い。
でも、実態は事務所を移し優子ちゃんとお兄ちゃんの交際を認めるための方便に聞こえ、私は“恋愛禁止条例”で身を引いていた自分の行動を後悔した。
ふいに座っていたイスに手が触れ、私の体温で生暖かくなっているのを感じる。
いつもは座り慣れ落ち着く気持ちになるAKB48劇場の客席なのに今は落ち着くどころか、あのままもっとこうしてたらとか、ああしていたら違ってたのかなって、選ばなかった方の選択肢が頭に浮かんでは消える。
選択肢を間違えていなかったら、きっと……。
今更そんなことを考えたって、結果が変わるわけでもないのにね。
「……話は以上だ」
秋元先生の言葉にその場に居たメンバーが次々と席を離れようと立ち上がる。
重い話から解放され気が緩んだ表情を見せる子たちは早々に席を離れていく。
でも、私の知らないところで決まってしまった自分の失恋に納得なんていく訳がなくて、立つこともせず私は触れたイスの端を強く握り締めた。
「……珠理奈、大丈夫?」
「……うん。 平気……だよ」
「珠理奈……」
隣で気遣ってくれる玲奈ちゃんに無理に笑顔を作りながら「うん」と答えたけど、彼への想いは簡単に忘れられるほど単純でもなく、私は俯いて唇を噛み締める。
「……ありがとうございます……」
遠くで聞こえる声に弾かれるように顔を上げた私の前で、優子ちゃんが泣きながら秋元先生に頭を下げていた。
涙を零しながら、それでもお兄ちゃんとの交際を認められAKBに残れたことを心底喜ぶような表情の優子ちゃんに、私は思わず立ち上がった。
湧き上がる嫉妬心にも似た感情が私を突き動かし彼女の元へと足を向けさせた。
「ちょっ、珠理奈!?」
きっと私の表情が険しかったんだろう、それを見ていた玲奈ちゃんが慌てて腕を掴み制止しようとする。
けれど、私の足は止まらない。
だって、納得なんて出来ないから。
今まで優子ちゃんがお兄ちゃんを好いている素振りなんか見せたことなかったのに、なんでお兄ちゃんは優子ちゃんを選んだの?
私の方がお兄ちゃんを好きなのに――。