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『勘違いから始まる恋』第四章『それぞれの想い』

第078話

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「……秋元さん」

 杏は、その名を誰に聞かせるでもなく、只“口にしただけ”であった。
だから、人が行き交う場所にしては小さいその声に、誰も気付くことなどないはずだった。

 だが、“秋元”と呼ばれた男だけは、そんな声に気付いたように振り向き、杏の存在を認めると集団を抜け出しゆっくりと近付いてきた。
場を支配するような雰囲気を身に纏ったままの男に、周囲に居た者は何事かと緊張した様子で見守っている。

「ぁ……」

 杏は男が自分の方を見たとき、気付かれるとは思っていなかったのか、驚きの表情を浮かべていた。
だが、杏の驚きというには少し控え目なその表情は、男が近付いてくるのが分かると瞬く間に変わる。
周囲の張り詰めた様子とは対照的に、恐がるわけでも、緊張するわけでもなく至って普段の杏を思わせるものに戻っていた。

 一方、男の方は険しく周囲を緊張状態に陥れていたが、どちらかというと目をこらすような表情で杏へと近付いていく。
やがて、男が杏の前で立ち止まると、見つめ合うように二人は視線を合わせた。

「君は……」

 男は杏を見るなりそう言い、徐に人差し指で眼鏡を直す。
僅かに変わったレンズの角度で、眼鏡が怪しい光を放ち男の瞳を隠した。

 男の言動が場の緊張の度合いを高め、周囲の目が二人に集まる。

 だが、再び男の瞳が現れると、そこにあったのは先程までとは全く別人のような表情だった。

「杏くんじゃないか、久しぶりだね。 元気にしていたかい?」

「はい、おかげさまで。 秋元さんこそ、お元気そうですね」

 そればかりか雰囲気さえ一変し、杏の名を呼び手を差し出す男の表情は柔らかく、纏うオーラの中にあった緊張感も也を潜めていた。

 一方、差し出された方の杏も、躊躇する様子もなく和やかに笑顔を浮かべ“秋元 康”の握手に応じていた。

 “秋元 康”
構成作家、作詞家、小説家、映画監督など多くの肩書きと数々の功績を持ち、総合プロデューサーとしてAKB48グループの頂点に君臨する存在。

 AKB48グループに関する楽曲ほぼ全ての作詞を始め、イベント、メディア展開、そしてメンバーやスタッフの処遇などあらゆる事柄が、この男の意向一つに委ねられている。
それを可能にしたのは“出版”“広告”“音楽”“テレビ”“映画”“芸能”そして“政界”まで、あらゆる業界に太いパイプを持つが故で黒い噂も絶えなかった。

 また、秋元は表向きにはAKB48という存在を“夢を叶える場所”だと言い“面白さに根拠は要らない”とまで発言していたが、周囲の者には常日頃から効率的な売り出し方をさせるように強く求めていた。
秋元の要求に応え、どんな方法であれ成果を上げた者は成功を約束され、その者が独立し何かしらの業界で地位を確立すれば、それがまた秋元のパイプとなり地位を盤石にしていく。
一方で要求に応えられない者は厳しく糾弾され、業界から居場所を失い姿を消していた。

 そんな“独裁”とも言える絶大な権力を持つ秋元に、周囲の者たちは一挙手一投足まで気を配らざる終えないでいた。
その上、秋元は今日のコンサート内容に対しかなりの不満を持ち、関係者に対し先程までかなり激しい叱責を浴びせているのを目の当たりにしていた。

 そんな秋元が和やかに名を呼び、それに対しフランクに握手に応じる杏の存在は驚きであり、自然と視線が集まっていた。

 だが、その視線の中に異なる思いで二人……いや三人の姿を見ている者がいた。

 それは少しばかり前に遡る。

………………

…………

……

 コンサートが終わった舞台裏では出演したAKB48グループ総勢100名を超えるメンバーの他、秋元やその関係者、スタッフなどが集まっていた。

 話し声は疎か物音さえ憚られるような雰囲気の中(高橋)みなみの総括が拡声器に乗ってその場に響き渡っていた。
しかし、メンバーやスタッフの注意が注がれているのは、話しをしている(高橋)みなみではなく、その後方、秋元やその近しい関係者などが集まる一角だった。

 いつもとは違い関係者の集団の中に紛れるように居る秋元は、時折メンバーの方をチラ見しながら誰かと何かを言い合っていた。
拡声器の声に埋もれ内容が聞こえることはなかったし、チラ見する視線の先にずっと俯いたままの優子がいることなど誰も気付いてはいなかったが、時折見え隠れする秋元の表情が次第に険しさを増す度、その場の緊張感だけは確実に増していた。
その状況にメンバーやスタッフは、この後に秋元からあるであろう“プロデューサー”からの一言の内容に気を重くする。

 だが、それを裏切るように普段ならあるはずの秋元からの言葉はなく、当の本人は(高橋)みなみが喋り終えるのを待つことなく周りの関係者を連れ立ち去っていった。

 状況が状況であるにも関わらず、残された者たちはみな一様にホッとした様子で秋元たちの後ろ姿を見送っていた。

 残された者たちのことなど知る由もない秋元とその一団は、廊下に出ると関係者用のエントランスへと向かっていた。
廊下では大勢のスタッフたちが忙しなく動き回っていたが、秋元たちの姿を見るやモーセの奇跡が如く廊下に一筋の道が作られる。
普段からスタッフたちは同じように道を空けてはいたが、いつもとは違う秋元たちの雰囲気に作業の手を止め、通り過ぎる集団の様子を窺っていた。

「山本! あんな状態で本当に大丈夫なのだろうな。 明日は失敗が許されない日なんだぞ。 分かっているのか?」

「……はい。 今日はここ数日の出来事による精神的な疲れが出ましたが、明日のコンサートでは秋元先生のご期待に沿えるようにいたします」

「当然だ。 そのために態々お前を専属マネージャーにしているんだ。 その意味分かっているだろうな?」

「はい……」

「大島にはちゃんと言い聞かせておけ、いいな?」

「……承知しました……」

 集団の中から先程の舞台裏から続く秋元の不機嫌さを物語るかのように、廊下に叱責の声が響く。
その叱責をコンサート直後から隣でずっと受け続けているのが“山本”であり、大島 優子の専属マネージャー“山本 学”であった。

 叱責を受けることになった原因は勿論、先程コンサート中に“優子”が見せた行動にあった。
その時の様子は、数日前に起きた誤認逮捕の報告を秋元たち関係者へし終え“処分なし”という判断を得た直後、共に舞台裏で学自身も観ていたから事の顛末は把握していた。

 珠理奈の不安を打ち消すどころか助長させてしまうような態度だったり、先程もみなみが話しているというのに無視するように俯く優子の姿は、アイドルとして上位メンバーとして見過ごされる行為ではない。

 その点は学も秋元が怒りを露わに自分を叱責する理由は理解できたし、そうならぬようにメンタル含め調整するのがマネージャーの責務であるのだから、それが出来ていない今の状況では謝罪し続ける外なかった。

 だが、謝罪の言葉を口にする学も、内心では優子の行動の原因がなんなのか理解できないでいた。
確かにストーカー被害の相談から誤認逮捕、そして隼人との交際とまるでジェットコースターのような展開に、心身共に疲弊していた可能性はあった。
また、学が優子への配慮として隼人に提案した、コンサートのキャンセルが原因ではないかと思いもした。
しかし、コンサートが終わったら隼人とお花見デートをするんだと優子が嬉しそうに話し「コンサート頑張る!」と意気込んでいたのを学は聞いていたからそれも考えにくかった。

 では何が原因なのかと色々考えてみたものの、これと言った原因に思い至らなかった学は、マネージャーとして優子の立場を悪くしないため秋元からの叱責を受けつつ謝罪と釈明を繰り返しながら歩いていた。

 学が歩きながら必死に釈明を続けた結果、一団がエントランスに着く頃には秋元の口から直接的な言葉での叱責はなくなり事務的な指示に変わっていた。

 このままエントランスを抜け駐車場へ出れば秋元は会場を離れ一端この件はクローズすることができる。
そうすればたとえ、秋元が後で責任を問うたり原因について追及してきたとしても、優子から詳しく事情を聞くことが出来れば言い訳は幾らでも可能だと学は考えていた。

 だから、ここまでで優子へのペナルティや理由について深く聞かれていないことに安堵し、エントランスを出た先に秋元の車が停められているのをガラス越しに確認した学は内心ホッとした。

 ピタッ……。
しかし、歩き続けていた秋元の足がピタリと止まる。

『!?』

 その唐突な行動に、学も含め周囲の者たちは行き過ぎてしまう身体を引き戻すように秋元の方へ向き直る。
すると、秋元はエントランス方へと振り返ると、自分たちが来た通路とは逆側へと歩き出す。

 その足取りは目的なく歩く者のそれではなく、学は秋元の視線が向かう先を辿り驚愕した。

「君は……」

 そう口にした秋元の前には杏と、そしてこの場に居るはずのない……いや、居てはならない者の存在があった――。


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