『勘違いから始まる恋』第四章『それぞれの想い』
第062話
宮澤 佐江と大島 優子は同じ2期生である。
“AKBグループ”の創世記から今までを“ほぼ”リアルタイムに見てきたと言え、AKBの様々な部分を知る2人でもあった。
世間では彼女たち2人に加え、同2期生の秋元 才加を加えた3人をメンバーという枠を越え“絆”で結ばれた“心友”と呼んでいた。
その場を上手に取り仕切る実直で姉御肌の才加と、観察眼に優れ面倒見が良くメンバーやスタッフから信頼の厚い佐江。
そして、どのような時でも持ち前のポジティブさで場をもり立て、女優という夢を掴むため直向きに努力し続け、メンバーの道標となるべく先頭に立ち続ける優子。
三者三様ながら苦楽を共に6年という同じ時間を過ごし、深い絆で結ばれた3人は確かに互いを“心友”と呼び合っていた。
だが佐江が“大島 優子”と“秋元 才加”を“心友”と呼ぶとき、異なる意味が含まれていることを知る者はいない。
佐江にとって優子は何者にも代えがたい存在で才加と比べるのは憚(はばか)られるが、どちらか一方しか助けられないとなった時迷わず優子を選ぶだろう。
佐江にとって優子が、そのような存在となったには理由(わけ)があった。
それは優子が“枕営業”を強制された頃に遡る。
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当時、20歳を超えたメンバーが次々と事務所指示の元で秘密裏に夜伽に駆り出されていた。
男達の要求は次第にエスカレートして行き、とうとう前田 敦子や河西 智美、小嶋 陽菜など未成年者を求める声が出始めた。
しかし、運営側は幼い彼女達を出すことは、精神的、肉体的な負担や情報漏洩による法的な問題も含め多大なリスクを負うことにもなり苦慮していた。
そんな中、運営側が目を付けたのが“大島 優子”であった。
芸歴がAKBのメンバーの中で最も長く芸能界のいろはを心得ている優子であればと白羽の矢が立てられた。
何より抜群のスタイルながら大人への成長途中のアンバランスな容姿は、その手の男性を相手にするには打って付けであり、女優志望の優子であればどんな趣向を持った男の前でも求められた役を演じることができるだろうという打算もあった。
だが、当然のことながらこのようなことを快諾する者などいる訳もなく、既に決まった他のメンバー達も最初は拒否したが、アイドルとしての後ろ盾を失うことを恐れ仕事と割り切る者が多く、一部の野心的メンバーがこれを好機と捉え条件を提示する者もいたが、最終的には皆渋々運営側に従い承諾していた。
当然、優子もその業務命令を聞くと即断で拒否した。
その目にはあからさまに軽蔑の色が浮かんでいた。
だが、運営側も優子が拒否するであろうとは予想済みで、一部の者に出したような好条件を出したとしても乗ってくるとは到底思えず、断れば代わりにTeam Kの未成年メンバー達が行かなければならないとし、半ば強引な手に打ってでた。
候補メンバーの中には“佐江”や“才加”の名もあり、優子は悩み抜いたが結局即答することができず、後日返答することとなった。
このとき既にTeam Kは他のチームと比べメンバー同士の結束力が強く、優子のメンバーに対する想いも同様に強く大切な場所でもあった。
殊に佐江や才加とは、何でも話せる“親友”と呼べる程仲良くなっていた。
そんなTeam Kの大切なメンバーを仕事のためだと言って、男達に売ることなど出来ようもなく、かといって代わりに自らの身体を差し出せる程、18歳の優子の
普段ポジティブな優子であったが悩みの内容が内容だけに、その日から暫く悩み眠れぬ夜を幾日も迎えることになる。
そのまま答えを出せず悩み続ける内、極度の心労のせいか本人も気付かぬような僅かな変化が表れていた。
それに気付いたのはメンバーで唯一、佐江だけであった。
彼女の目には、普段前向きポジティブで一見豪快な振る舞いをしているように見え、実は誰よりも周囲に気を配っている優子に、何時ものような余裕が感じられなかったのだ。
何処か笑顔にも陰が差し、何があったのか定かではなかったが普段おくびにも出さない彼女のことだったので、それは相当なものではないかと気になり“親友”として力になりたかった。
普段前向きポジティブであるが故、どんな時でもその状態を演じ自然体になることのできない優子が自分や才加の前では“素”になってくれるので、この時は力になれると安易に考えていた。
だが、いざ蓋を開けてみると、佐江が何があったのか尋ねても優子には「大したことじゃない」と言われ打ち明けてもくれない。
そればかりか「佐江には関係ない」と冷たくあしらわれてしまう始末。
そうこうしている内に表面上いつものポジティブな優子に戻ってしまい、他のメンバーも気にする者がいなくなってしまう。
その中で佐江だけは優子の表情に陰が残っているのを感じ食い下がり続けた。
それでも優子はその後も佐江に素っ気ない態度を繰り返し、次第に2人の間に溝が生まれ始める。
しかし、実際の優子の内にある気持ちは、態度と裏腹なものであった。
気付かれてはならないと思いつつ、それでも自分の変化に佐江が誰よりもいち早く気付き、気に掛けてくれたことが何よりも嬉しかった。
だからこそ余計に佐江達に悩みを打ち明けることが出来なかった。
メンバーはそれぞれの夢を胸に秘めAKBという“夢を叶える”場所へやって来ている。
夢を掴むためにたゆまぬ努力することは当然必要であったが、それとは全く関係のないことで傷付いてほしくなかった。
大事なメンバーを、そして大切な場所を守るため、優子は自らの身を大人達に差し出す決意をする。
『ごめんね佐江……』
だが、これから自分がすることを思うと、純粋な佐江達の側に自分が居ることが相応しくないような気がし、佐江に意図的に冷たくし距離を取っていた。
そのような理由があることを知る由もない佐江は、力になれないばかりか優子に冷たくあしらわれることに“自分は親友に値しない存在”ではないかと自信を失っていた。
佐江の様子を見かねた才加が間を取り持とうとするが、優子との状況は好転せず次第に疎遠となった2人はいつしか挨拶すら交わすことがなくなっていた。
そして、運命の日が優子に訪れる。
その日、劇場公演後に事務所に来るようにと“戸賀崎 智信”に言われていた優子は、公演後で疲労感の残る重い身体を引き摺りながら、劇場と同じドンキホーテ8階にある事務所に続く廊下を歩いていた。
足が重く足取りも覚束ないのは疲労感だけでないことを優子本人も自覚していた。
佐江達を守ると決心したとはいえ、優子もまだ18歳であり男達に手籠めにされる自分を想像すると怖くない訳がなかった。
恐怖に足が小刻みに震えるのを何とか抑えながら事務所に向かう優子。
そこに何時ものような余裕などあろう訳がなく、後ろを付ける人影に気付くことはなかった。
『どうしたの優子……』
優子の後を付ける人影の正体は佐江であった。
その日、劇場公演が始まる前のリハーサル時から優子の様子は明らかにおかしく、振り付けや歌い出しのミスを連発していた。
その度メンバーに何度も頭を下げ謝る優子を周囲は心配した。
それは公演が始まっても、いつものMCやキレのあるパフォーマンスが戻ることはなく優子らしからぬ状態が続いた。
他のメンバーのフォローもあったが、エースでありムードメーカーの不調をカバーすることは出来ず、その日の公演は散々な結果に終わった。
ファンは優子の努力を良く知るため公演の結果に対し責める者はおらず、寧ろ彼女を心配する声さえ聞こえたが、優子は終演後のハイタッチの時にファン一人ひとりへ頭下げ謝っていた。
それはメンバーに対しても同様で楽屋に戻ると、皆の前で深々と頭を下げ謝る優子。
その姿にキャプテンである才加は何か言おうとしたが掛ける言葉が見つからず、他のメンバー達も同様に何も言えずにいた。
その中で佐江は優子を無言で見つめていた。
重い空気のまま解散となり送迎のマイクロバスにメンバーが次々に乗り込んで行く中、優子だけは「用事があるから」と劇場に残った。
佐江はバスに一旦は乗り込むが、やはり優子の様子が気に掛かり劇場に戻った。
すると事務所に続く廊下で優子を発見する。
事務所の方に向かって歩く優子の足取りは、後ろから見ても分かるほど重かった。
やがて優子は営業時間が終わり誰も居ないはずの事務所へと入って行く。
佐江が事務所の入り口の所で中の様子を窺うが、明かりは消され静まり返った事務所に優子の気配だけが感じられる。
しかし、戸締まりのなされていなかったドアが、中に優子以外の誰かが居ることを教えていた。
バタン
事務所内でドアの閉まる音が聞こえ、微かにあった優子の気配が消えた。
佐江は、音を立てないように慎重に事務所に入って行く。
中は電気が消え暗闇と静寂に包まれていた。
いつも出入りし見慣れているはずの事務所内も、非常灯と所々点滅するパソコンのスリープランプの僅かな明かりだけでは、見知らぬ場所のようで寒々しく恐怖さえ感じた。
ゴクリ
佐江の喉が鳴る。
恐る恐る事務所を奥へと進んでいくと“支配人室”と書かれた部屋のドアの隙間から光が漏れ出ているのを発見する。
「……答え……決めたのか……大島?……」
その部屋からは佐江の知る男性の声が微かに聞こえた。
『戸賀崎さん?』
佐江はそのドアに耳を付けると中の会話を盗み聞きした。
「本当に私がその方達のお相手をすれば佐江や、他のメンバーはしなくて済むんですね?」
すると中から戸賀崎以外の声が聞こえ、それは紛れもなく優子だった。
少なくとも劇場支配人である戸賀崎と優子が部屋に居るようだった。
ただ、優子の感情の宿らない声は酷く印象的で、自分の知る“大島 優子”が居なくなってしまったように感じ背筋がゾクリとした。
何故、優子がそのような喋り方になっているか分からない佐江だったが、先程までの優子の様子を考えると彼女の悩みの原因に戸賀崎が関わっていることを直感的に感じ取った。
そして、何について優子が言っているのか分からなかったが、自分の名やメンバーのことが会話の中で出てきたことで自分達に関わることなのだと理解した。
それでも何故、自分達に関わることを優子が隠したのか見当が付かず暫し悩む佐江だったが、疑問を解決する決定的な言葉が戸賀崎の口から語られた。
「そうだ。 大島が全員の夜の相手をすれば、他のメンバーを行かせなくて済む」
当時はまだメンバーとのキスさえ恥じらっていた佐江でも、戸賀崎の“夜の相手”という言葉で全てを理解することができた。
そして、いくら尋ねても優子が自分に話さなかった理由を悟る。
優子は“言わなかった”のではなく“言えなかった”のだと。
優子は自分達“Team Kのメンバー”を守ろうとしてくれていたのに、自分は優子を追い詰めるようなことばかりしていた。
「……わかりました。 私が全員の方のお相手をします」
優子の無機質で感情のない声が1度は承諾するが、次の瞬間その声に感情が宿りそれは戸賀崎に向けられる。
「だから、絶対他のメンバーを行かせないと約束してください!」
優子の想いの詰まった声が部屋に響き渡る。
“想い”それはドアを隔てた佐江にも伝わり、自分達への想いの大きさに佐江の頬に涙が伝い零れ落ちていく。
『優子……』
優子が今どんな顔をしているだろう、どんな気持ちでいるのだろうかと佐江は思いを巡らした。
しかし、好いてもいない男に抱かれること、それも赤の他人である自分達を守るため“身代わり”となることが、どれだけ屈辱的で耐え難い事なのか同じ女である佐江でも優子の心中を推し量ることなどできなかった。
世間では仕事を得るため“枕営業”をする女性が、少なからずいることは佐江も知っていた。
それは端から見れば悪であり、佐江の中でも恥ずべき行為だと考えてた。
だが、実際目の前の優子はどうだ、人質である自分達メンバーの身代わりとなるのだ。
このような惨い仕打ちを平気でする運営に怒りを覚えた。
だが、同時に何処か安堵している自分がいることに気付き佐江はハッとする。
それは無意識に自分を守ろうとする防衛本能が、身の安全が確保されたことを感じ発したシグナルだった。
人間としては極めて普通の感じ方だったが人一倍正義感の強く、そして同じ“女”として佐江は自分自身が許せず先程以上の怒りが沸き起こる。
苦しんでいる親友を目の当たりにしての自身の保身は、優子を男達へ差し出そうとしている運営と同罪に思え、佐江は無意識に肌に爪が食い込むほど拳を握りしめていた。
『このままじゃダメだ……』
何もしなければ自分は最低なままで、優子の“親友”だなんて言えない。
そう結論づけた佐江は、何かを決意したような表情になり“支配人室”のドアに手を掛けようと手を伸ばした。
「佐江達は夢を持ってAKBに入って来たんです。 こんなことが行われているなんて知って欲しくない。 私も口外したりしません。 だから、このことは絶対に彼女達に言わないでください」
ノブに触れるか触れないかの瞬間、部屋の中で優子が戸賀崎へと言った言葉で佐江の動きが止まった。
ここで自分が部屋に入れば優子の今までの努力が全て水の泡になる。
だが、それは同時に優子が苦しみを1人で抱えることになってしまう。
どちらを選んだとしても優子が苦しむことになる。
その状況に自分の無力さをより感じ、先程以上に強く拳を握り締めた。
とうとう握られた拳から指の隙間を伝い血が流れ落ちる。
粘度を持ったその液体は、ほんの小さな滴となって数滴床に落ちた。
「わかった約束しよう。 連絡は普段のマネージャーとは別の者からいくと思うから、そのつもりで。 今日は帰っていいぞ」
「失礼します……」
佐江が自分の無力さを感じている間に戸賀崎と優子の話が終わってしまう。
人の気配が近づくのを感じ、佐江は咄嗟にその場から離れようと真っ暗な事務所を必死に音を立てぬように動いた。
だが、事務所のドアを閉めようとした瞬間、奥の部屋のドアの開く音が聞こえる。
閉める音を聞かれる訳にもいかず、佐江はドアを半開きにしたまま事務所を出た。
優子は再び無機質な声で退出の挨拶をすると、俯きながら支配人室を出た。
『!?』
部屋を出ると何か違和感を感じ当たりを見回す。
真っ暗な事務所内に、まるで直前まで誰か居たかのような気配とある物が残っていた。
だが、当然従業員もメンバーも居るわけもなくシーンと静まりかえった事務所内が目の前にあるだけだった。
しかし、微かに鼻に漂う香りに覚えがあり、優子の顔は青ざめる。
『嘘……』
優子は真っ暗な部屋の中を何度かぶつかりながら事務所を駆け抜ける。
あってはならない事態に優子は必死に出口に急いだ、やっと事務所の出口に辿り着き、ドアに触れた優子は驚きのあまりドアノブから手を引いてしまう。
その反動で半開きだったドアが少し開く。
濡れた手を見ると非常灯に照らされた手の平とノブに何か付いているのが見てとれた。
恐る恐るその手の匂いを嗅ぐと鉄臭い香りがした。
そのような匂いの液体を優子は1つしか知らなかった。
「血?」
部屋の前に残されていた香水の残り香、閉めた筈なのに開いていたドア。
そして、何故このようなことになったのか分からなかったが、ノブに付着した乾ききっていない血液が直前まで誰かが事務所の、それも支配人室の前に居たことを示していた。
しかも、さわやかな香りの中に甘さが交じりどことなく本人を思わせる香りが、直前までここに居た人間が誰なのかを教えていた。
「佐江……」
一番知られたくない相手に知られたかと思うと、優子は居ても立ってもいられなくなり事務所を飛び出していった。
階段を駆け上がる優子。
「……あそこしかない……」
楽屋やステージ、劇場フロアなど探す場所など山ほどあったが、もし自分が佐江だったら行くのは“その場所”しか考えられず、優子の足は初めからそこへと向かっていた。
その場所とはレッスンで怒られたり、公演が上手くいかなく落ち込んだり、何かある度に優子や佐江が悩みを吐露したり悔し涙を流した“屋上”であった。
佐江は屋上のコンクリートの上に両膝を抱え座り込んでいた。
空を見上げると快晴であるはずの夜空に星は見えなかった。
東京で生まれ育った佐江からすれば見慣れた光景ではあったが、星という希望の見えない空に気持ちが余計に落ち込むのを感じる。
いつも笑顔を絶やさない佐江の顔に笑顔はなく、今あるのは深い悲しみと頬を伝う涙だった。
あの場でそうすることしか出来なかったとは言え、自分は優子を置いて逃げた。
『なにが“親友”だよ……』
一番大事なときに力になれずに、裏切った自分に優子を“親友”などと呼ぶ資格などないと思った。
そう思うと悲しさが増し涙が溢れ、堪えきれず両膝に顔を埋め泣いた。
「佐江は最低だ……」
「そんなことないよ……」
優しさの篭もった声が後ろから聞こえ、佐江は思わず後ろを振り返った。
「佐江は最低なんかじゃないよ……」
振り返ると出入り口のドアの所に息を切らせた優子が立っていた。
「優子……どうして……」
「何かあったとき私たち何時もここに来てお互いを励まし合ったじゃん。 だから、かな……それに」
そういうと優子は佐江に近づき後ろから彼女を抱きしめ呟いた。
「私たち“親友”でしょ? 佐江が何処に行ったかぐらい分かるよ」
優子が自分を“親友”と呼んでくれたことが嬉しかった。
だが、その優子を裏切った自分が余計に許せず、感情を抑えられなくなった佐江は泣きながら優子に言った。
「佐江は優子にそんなこと言ってもらえる資格なんてない! 何も知らないであたしは色々聞いて追い詰めたり、何より佐江は優子を身代わりにして……」
そこまで言うと再び膝に顔を埋め泣く佐江。
それを見た優子は、距離を置くため佐江に冷たくしたことが反って逆効果になり、剰え佐江を傷付けていたことを反省した。
優子は抱きしめたまま、佐江の髪を梳くように撫で始めた。
「違うよ。 佐江のせいなんかじゃない。 これはね私自身が選んだことなの」
「でも、佐江達を行かせないために……」
「ねぇ、佐江はなんでAKBに入ったの?」
「えっ……将来女優になりたくて……」
「私もそう。 初めは女優になりたくてAKBに入ったの。 でもね、今は少し違うんだ」
「違う?」
その言葉を聞いた佐江は顔を上げると不思議そうに優子の方に顔を向ける。
「うん。 それより佐江。 手出して?」
すると、優子は佐江の横に座り直すと手を出すように要求した。
「えっ……」
「良いから出して!」
「うん……」
「やっぱり、血が出てる!」
差し出された佐江の右手の平からは血で滲み、所々爪で裂けたであろう傷が出来ていた。
優子はバッグからミネラルウォーターとタオルを出すと、タオルを水で濡らし傷口を丁寧に拭いていく。
「染みるかもしれないけど我慢してね……本当にもう何してるの佐江は」
「っう、それは……許せなくて……」
「そんなんで手を怪我したってしょうがないでしょう」
そう言いながら、血を拭き終えた優子はポケットから未使用のハンカチを出すと、それで傷付いた手を手際よく応急手当をしていく。
「ごめん……」
「出来た。 家に帰ったらちゃんと消毒するんだよ」
「ありがとう……馬鹿だね佐江は、意味ないことして怪我してさ……」
優子の“そんなこと”という言葉が佐江には堪えたようで手当ての礼を言うと再び膝に顔を埋めてしまった。
そんな佐江に優子は再び横から抱きしめ一言呟く。
「でも、嬉しかったよ」
「えっ?」
優子の言葉に顔を上げると、普段のふざけじゃれ合っている時のような無邪気な笑顔ではなく、大人の顔をし佐江を慈しむような表情の優子がいた。
「誰よりも早く私の変化に気付いてくれたし、私が何を言ってもずっと佐江は心配してくれた……それに、私のことでしなくてもいい怪我なんかしちゃってさ……そんなことされたら嬉しくて大島さん泣いちゃうよ」
そう言いながら既に瞳からは大粒の涙が溢れて落ちている優子。
佐江はそれをみて自分も大泣きすると、優子の胸に飛び込んだ。
「優子ぉー!」
抱き付かれた優子はそのまま床に倒れ込むと2人は抱き合い泣いた。
暫くすると優子は佐江の髪を撫で始める。
その様子はまるで母親が子供を宥めるかのようで、優子の瞳には涙はなく代わりに何か決意のようなものが宿っていた。
優子は眼前に広がる夜空を見ながらポツリと言った。
「さっき、AKBに入った
「うん……」
「勿論、女優の夢を捨てた訳じゃないよ。今でも大事な“夢”……正直ね、入った頃は女優への通過点としてしかAKBのこと見てなかったから、演技のお仕事とか貰っても“AKBの大島 優子”って言われるのが嫌で嫌でしょうがなかったんだ……だけど現実は私がAKBだから、お仕事貰えてたのは事実なんだよね……」
「そんな優子は演技力あるよ!」
「ありがとう佐江……でも、まだまだダメ。 周りからすれば、子役やってたことなんて関係ないんだもん。 話題になってるAKBだから使おう。 ちょっと芝居ができる大島 優子にしようって……でも、それはいいの。 身の丈を知ったって言うか、今の自分の実力が分かったから」
「優子……」
佐江は優子の胸から顔を上げると、そこには凜とし透き通るような眼差しの優子が自分を見つめていた。
『何でこんな時に、そんな顔できるの?』
優子の表情に見惚れている佐江に、優子は言葉を続ける。
「私ねAKBを日本中の誰もが知っているアイドルにしたいの。 その上でAKBで色々なことを経験して、誰もが認めてくれる女優になりたい。 それで後輩や世間の人にAKBで頑張れば女優にだってなれるんだっていう道標になりたいの……」
試練というにはあまりに残酷な現実を前にしても、優子の輝きは鈍るどころか輝きを増そうとしている。
淀みのない澄んだ瞳、そしてその言葉に佐江は心打たれるが、それが余計に酷い目に合うのが何故、優子でなければならないのかと思い口をついて出そうになる。
だが、佐江が口にする前に優子が先に口を開いた。
「私が何かあっても全て受け止め守るから……だから、佐江達は何も心配しないで純粋な想いのまま夢に向かって欲しいの」
僅かに佐江を抱きしめる腕に力が篭もる。
それが彼女の決意の証しなのだと理解すると、それに応えるように佐江も優子を抱き返した。
佐江はもう優子に何か言い返すことはしなかった。
ただ、優子が夢のため、自分達のために身を犠牲にすることを厭わない決意をしたのなら、自分達もそれに応え夢に邁進し続けようと佐江も決意し、そしていつか優子に降り掛かる全てのことから守れる存在になると心から誓う。
『どうかこれ以上の悲しみを優子に与えることだけは止めてください』
そして同時に佐江はいるか分からぬ神へ願わずにはいられなかった。
この時からだろう佐江の中で優子が“親友”から“心友”へと変わり、一生友でいたいと思うようになったのは。
『この人のためならば佐江はどんなことでもする』
そう思い佐江は優子から、そして優子から佐江へ様々なことを打ち明け合いながら絆を深め6年という月日を共有してきた。
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……
だから“業務連絡。頼んだぞ、片山部長! in さいたまスーパーアリーナ”のリハーサル後に、優子の口から出会って3日の男性と付き合うことになったことを聞いた時、ルックスが優子の好みとは違うなと思い驚きはしたが全面的に応援し協力をするつもりでいた。
だが、彼女の大事にしているブレスレットの話題以降、優子の黒歴史とも言える封印された過去に関することを優子自ら打ち明けたと聞くと、佐江の内にあった想いに変化が表れる。
“新城 隼人”という男性へ、優子が過去のことを何故そこまで打ち明けたのか理解出来なかったのだ。
そして、彼女の口から『全てを聞いて、それでも受け入れてくれた』という言葉を聞いたとき、それまで普段と変わらぬ笑顔だった表情は一変した。
眉間に皺を寄せ怒りとも悲しみともとれないその表情は、普段の佐江からは想像もできない程“負”の感情を纏っていた。
幸いその表情を肩に頭を預けてきていた優子に見せずに済んだし、話の途中で珠理奈が乱入してきたのは救いだったかもしれなかった。
それでも、みなみと珠理奈の2人と並んで歩く優子の背中に、昨日観た映像の中に映った“新城 隼人”という男の姿が重なって見えると、ポッと出の男に優子の何が分かるんだと怒りさえ覚えた。
ウエンツ 瑛士の時でこそ、優子同様に子役からずっと芸能界に居る2人にしか分かり合えない部分があり、そこに惹かれたのだろうと思い交際を応援し協力もした。
だが“新城 隼人”という男はどうだ、優子がストーカーだと間違える程の男であった筈。
そんな訳も分からない男が、たった3日という短期間で本気で好きになった瑛士にさえ語らなかった過去を、優子自ら打ち明けさせたというのだ。
優子に心を開かせるのは容易なことではなく、固く閉じられた心の扉を開けるだけの“何か”を持ち合わせているということを意味していた。
本来、そのような相手が現れたのならば“心友”として優子の幸せを祝福すべきなのだ。
だが、隼人の存在は佐江の中で異質過ぎて、素直に応援することが出来なかった。
寧ろ6年かけて築いた“心友”という関係を、ものの3日で追い越された気がし佐江の心中穏やかでいられなかった。
愛憎入り交じる感情が“あの時”のように、佐江に拳を強く握らせていた――。