『勘違いから始まる恋』第三章『私はストーカーに恋をする』
第056話
何処からかパンの香ばしい香りが漂い隼人の鼻孔をくすぐる。
「ん……」
隼人はその香りに誘われるように目を覚ます。
目を覚ますと、ふと身体が軽いことに気付き視線をその方向へ向けたが、そこに居るはずの優子の姿が見えなかった。
「優子?」
呼んでみても何処からか現れる訳もなく、隼人はベッドサイドの時計を見る。
時計は7時28分を指していた。
丁度起きる時間でもあったので優子を探しがてら起きようとした。
カチャッ
「あれ……」
突然ドアが開かれ、部屋へ入って来た優子と起きようとベッドへ腰掛けた隼人の視線が合う。
「隼人起きてたんだ……」
残念そうな優子の声に起こしに来たのだろうと察した隼人は冗談交じりに言った。
「もう一回寝ようか?」
「うん」
「えっ……本気?」
冗談を言ったつもりだったのだが即答が返ってくる。
それも予想だにしない返答に驚いた。
だがそこで、隼人は開け放たれたドアから漂う香ばしいパンやコーヒーの香りに気付く。
「ん~っ、良い匂いだね。 朝ごはん作ってくれたの?」
「うん……」
「じゃあ冷めないうちに食べないと」
わざとらしく言うと隼人はベッドから立ち上がり、話をはぐらかされ不満げな表情の優子の傍らまでくると軽く彼女を抱き寄せキスをした。
軽く触れるようなキスを終えると微笑む隼人。
「おはよう優子」
先程までの不満は何処へやら、満足げに微笑む優子。
「おはよう隼人♪」
2人は指を絡めながら部屋を後にする。
リビングに入るとテーブルの上には朝食が並べられていた。
メニューは朝らしく焼きたてのトースト、見た目だけでフワフワと分かるスクランブルエッグ、彩り豊かなレタス、キュウリ、トマトなどのサラダがワンプレートに載り、横にはフルーツヨーグルトとコーヒーが添えられていた。
二度寝してから1時間半程しか経っていないにも関わらず優子は朝食を用意していた。
一体どれだけ眠れたのだろうと隼人は心配になった。
「美味しそうだね。 でも、さっきほとんど寝ていないんじゃないの? 平気?」
「平気だって。 これぐらいなら10分、15分で出来ちゃうんだから」
「さぁ、食べよう」そう言って優子は隼人をテーブルに着かせると、自分も向かいに座る。
「「いただきます」」
目配せすると食事の挨拶を声を合わせする2人。
昨日の夕食同様会話を楽しみながら2人は朝食を摂った。
………………
…………
……
ジャーッ、キュッ
「洗い物終わったよ」
洗い物を終えた隼人はふきん掛けに台布巾を掛け、濡れ手をタオルで拭きながら優子に声をかけた。
「ありがとう。 洗い物してもらって」
「2回も御飯をご馳走になったんだから、洗い物位はさせてもらわないとね」
隼人の声にダイニングで寛いでいた優子が労いの言葉をかけるが、逆に恐縮されてしまう。
食事が終わり優子が食器を片付けようとしたが『ご馳走になってばかりだから』と隼人が食器洗いを買って出た。
昨日の分も含め2食分の洗い物も、隼人の手に掛かればあっという間に終わり、隼人はキッチンから出ると優子の向かいに座った。
隼人はちらりと時計を見ると時刻は8時18分で、部屋に戻り支度をしなければならない時間となっていた。
「優子、そろそろ支度をしないといけないから部屋に戻るね」
「うん……」
“部屋に戻る”その言葉に優子は返事をするものの、寂しそうな表情を見せる。
仕事に行かなければならないのだから仕方ないことだと理屈では理解していても、心の壁を取り払った優子は感情が素直に表情として出てしまった。
「そんな顔しないで。 ほら、美人が台無しだよ?」
隼人はそんな彼女の表情に冗談めかしながら微笑んだ。
優子は隼人の気遣いが嬉しかったが何だかもやもやして気持ちが晴れなかった。
そんな優子の表情を見た隼人はポケットから何かを取り出した。
「ほら、優子も携帯出して?」
「あっ、うん」
隼人の手に握られていたのはスマートフォンだった。
優子も隼人に言われ近くにあったバッグから“携帯電話”を出す。
無意識にiPhoneではなく“携帯電話”を出したのは、隼人を“特別”な男性と優子の本能が認めたからに他ならなかった。
「赤外線で連絡先送るね」
そう言ってスマートフォンの画面を何度かタップすると携帯電話の方へ本体を向けてきた。
優子も言われるがまま赤外線の準備をするとお互いの連絡先を交換した。
「ありがとう。 これでいつでも優子と連絡ができるね。 いつでも連絡してきて」
ニコニコと微笑む隼人のその言葉と、自分の携帯電話のアドレス帳に登録された“唯一”のアドレス“新城 隼人”の文字が、先程までのもやもやした気持ちを晴らしていた。
「うん♪」
優子の表情に笑みが戻ったことに一安心した隼人は、ソファーの前にあるローテーブルに置かれた鞄や書類、元々着ていた服を持つと、ヒップのケージを覗いた。
ヒップはペレットを食べていたが、隼人の存在に気付いたのか立ち上がり、隼人の差し出した手を器用に前足で掴んだ。
それはまるで握手しているように、傍らにやって来た優子からは見えた。
「ヒップも隼人のこと気に入ったんだね」
動物好きな隼人はヒップに気に入られたことが嬉しかったのだろうヒップの頭を撫でた。
「そうか。 気に入ってくれたんだ。 ありがとう、また来るからね」
「じゃあね、ヒップ君」と言いながら隼人はリビングを後にした。
「悪いんだけど、このスウェットは貸しておいて。 洗って返すから」
「うん。 次来るときは次の日会社に着て行く服とか持って来てね」
靴を履きながらスウェットについて話すと優子からそんな返事が返ってきた。
隼人は苦笑し優子の頭を撫でながら言う。
「わかったよ。 じゃあ、優子はライブのリハーサル頑張って。 じゃあね」
言い終わりドアの鍵に手を伸ばそうとする隼人を優子が呼び止める。
「あっ、隼人。 今度の日曜って空いてる?」
「日曜か確か……空いていたはずだよ。 どうしたの?」
「私たちのコンサート観に来ない? 場所は“さいたまスーパーアリーナ”なんだけど……」
そう言うと様子を窺うようにする優子に、隼人は笑顔で答える。
「うん、行くよ。 優子の歌ったり踊っている所を観たい」
「本当! やった! チケット確保してもらうね」
ピョンピョン跳ね喜ぶ優子にやはり苦笑しつつ、自分も彼女や彼女の仲間達の努力の結晶であるAKBのパフォーマンスを間近で観られることが嬉しかった。
しかし、同時に心配事が思い浮かんだ。
「あのさ、優子」
「ん?」
「AKBって“恋愛禁止”だよね? 隠して付き合うことになるのは覚悟しているけど、万が一誰かに知られたりしたらどう言って誤魔化せばいいかな?」
「そっか……そうだよね……」
隼人に自分のパフォーマンスをしている姿を見せられると浮かれていたが、場所はステージと客席で離れているとはいえ公の場で同じ空間に居ることになる。
それだけリスクは格段に上がるということだ。
それを失念し、素人である隼人に指摘されるなどプロ失格だと落ち込み俯く。
急に黙ったと思うと俯いた優子に隼人は焦る。
素人の自分にアドバイスを貰おうと思っただけなのだが、優子の様子だと何か地雷を踏んだのだと理解した。
そーっと、身体を屈ませると優子の顔を見る。
すると優子は俯きながらぼそっと呟いた。
「ごめん。 私がそれを一番に気にしないといけないのに浮かれてた……」
それを聞いた隼人の顔からは焦った表情は消え、温和な表情になる。
「ねえ、優子。 誰にでも忘れてしまうことはあるよ。 今気付いて良かったんじゃないかな」
毎回このようなことがある度に隼人がフォローしてくれることは嬉しかったが、このままズルズル甘えてしまうのではないかと自分が心配になり「うん」とは言ったものの笑顔を返せなかった。
普段のオヤジキャラとは異なる、真面目な所があるのも優子の魅力でもあったが、そういう所が人知れず自分独りで抱え込んでしまう原因にもなっていた。
それは隼人も昨晩のことで理解しているのか、笑顔の戻らなかった優子に対し優しげな表情を崩すことなく話し始めた。
「初めから上手くいく人なんていないんじゃない?」
隼人の言う“初めから”とはどういう意味なのか優子には分からなかった。
「俺と優子が付き合い始めてから“初めて”当たった壁だよね? 今まではどう乗り越えてきたかなんて関係ない。 全てが2人にとって“初めての経験”なんだから最初は失敗だってするさ。 だから、失敗したり問題があったら、俺たちには俺たちなりの解決の方法を一緒に探そう?」
隼人の言葉にハッとなり顔を上げると、そこには隼人が笑顔で微笑んでいた。
隼人と出会い浮かれている自分に自己嫌悪をし、
自分はアイドルという仕事の“プロ”なんだから、スキャンダルに対しては自分が考えなければとそう思い込んでいた。
しかし、隼人が言いたかったのは“2人の問題は2人で解決しよう”という至ってシンプルで“普通”の事だった。
だが、シンプルだからこそ言い訳ができない事であり、一番困難な方法でもあった。
それでも、隼人と共であれば可能だと思えてしまう。
それは、隼人が常に同じ事を言い続けているから、そう感じたのだろう。
『隼人は本当に一貫してるな』
臨機応変に対応できるタイプだと周囲から言われ自分でも思っていた。
しかし、隼人の事になると、どうも心が乱され思うように出来なかった。
それに比べ隼人の付き合う前も後でも一貫した言動は、自分とは3つしか違わないとは思えなかった。
進むべき道を見失い迷った時、隼人から差し出される手はいつも大きく、そして温かかった。
今は彼の差し伸べた手を素直に掴もう。
でも、いつか自分が隼人に手を差し伸べられる“恋人”になろうと優子は心に誓った。
「そうだね。 隼人の言うように2人でどうするか考えよう!」
そう言うと優子は隼人に飛び切りの笑顔を向ける。
迷いの消えた優子の表情に隼人はドキリとした。
昨日まで幾度となく見たどの笑顔よりも輝いた表情と、淀みのない澄みきった瞳があまりに綺麗で見惚れた。
互いの視線が合うと、何も言わず自然と唇を重ねる2人。
互いを純粋に“愛おしい”と感じながら口付けした2人は奇しくも同じ想いを抱いていた。
アイドルである優子、普通の会社員である隼人、本来交わることの無かった自分たち2人が出会ったことで色々な問題を生み、2人の前に壁として立ちはだかるだろう。
『でも、俺(私)達は絶対に別れたりしない』
そのために“2人で”どうすべきか考え答えを出そう。
“2人なら”きっと乗り越えられる。
心からそう想いながら2人は互いの気落ちを確かめるように指を絡め、暫く口付けを交わし続けた。
2人の新たなスタートを祝福するような晴れ渡った空を、2羽の鳥が飛び立っていった――。
13/13ページ