『勘違いから始まる恋』第三章『私はストーカーに恋をする』
第046話
「後は拭けば終わりですから」
「でも……」
「ガラスの破片が残っていると危ないですよ。 さっきも言いましたが大島さんには怪我をしてほしくないんで自分がやります」
そう言って隼人はガラスの破片を片付け終えると、床に広がったワインを雑巾で拭き始める。
傍らにいた優子は、先程までワインに浸かってしまった隼人の革鞄を染みにならぬよう水に浸け応急処置をしたり、雑巾やバケツを用意したりと慌ただしく動きまわっていた。
勿論、自分の馬鹿な振る舞いがなければ隼人が荷物を放り出し、こんな惨事にはならなかったと責任を感じていた優子は片付けも自らがするつもりでいた。
しかし『ガラスの破片があって危ない』からと、片付けの殆どを隼人がしてしまっていた。
それでも何度か優子が片付けを自分がしたいと伝えるが、その度にはぐらかされる。
終いには隼人はさも当たり前のように『怪我をしてほしくない』と恥ずかしい一言を口に出すので、それを聞いた優子は頬を赤らめ呻るしかなかった。
『うぅ、天然のタラしだ……』
思いがけない隼人の一言にドキドキが収まらない優子は、結局彼の言葉に従い片付けの様子をエレベーターの扉が閉まらぬよう扉に
普段は頑固でやると決めたら譲らないのだが、どうしてか隼人の言葉には従ってしまう自分に戸惑いながら何処か嬉しそうな表情の優子。
『嫌じゃないんだよね……』
そんな事を考えながら静寂に包まれたエレベーターの中で、優子は背中越しに作業をする隼人を見ていた。
静寂を破るように、こちらを見ないまま隼人が口を開いた。
「よし終わり!」
あっという間にワインを拭き取った隼人は綺麗に拭けたことを確認し傍らに置かれていたガラス瓶の破片などを纏めたバケツに雑巾を入れ立ち上がると振り向いた。
「ん? 大島さんどうしました?」
「手際が良いなって思って」
男性でありながら大雑把でもなく、かといって神経質なわけでもない手際の良い片付け方に優子は素直に感心していた。
そんな優子の言葉に、先程テキパキと鞄の応急処置やバケツ等の準備をする彼女の様子が目に浮かぶ隼人。
「そうですか? 大島さんの準備の手際には負けますよ。 そうだ、鞄の応急処置ありがとうございます」
「いいえ、染みにならなければいいんですけど……」
「きっと平気ですよ。 あっ、それを言うなら、食材は無事でした?」
「はい。 卵とかも割れずに無事でした」
「良かった……大島さんは、よく料理されるんですか?」
「えぇ、なるべく時間があるときは自炊するようにしているんです。 新城さんは?」
「忙しいのに凄いな。 自分なんかはアメリカに居たときはしていたんですが、日本に帰ってきてからは仕事が忙しいって言い訳して全くしていないです」
「じゃあ、御飯はどうされているんですか?」
エレベーターを出るとそんな会話をしながら廊下を歩く2人。
優子はここぞとばかりに隼人のプライベートなことを聞いていた。
「ほとんど外食で、時々酒と摘まみだけみたいな日もありますね」
「じゃあ今日はもしかして……お酒とお摘まみしかない日だったんですか?」
「えっと……今日はあまりお腹が空いていなかったんで……」
気遣いをさせたくない隼人は、優子と極力視線を合わせず話しをはぐらかそうとするが、ジッと見つめる優子の視線が痛かった。
そうこうしている内に優子の部屋の前に着き、当然のことながら優子はそこで足を止めるが、隼人はそのまま歩みを止めなかった。
「新城さん、あの「バケツは洗って返しますね」」
優子は引き留めようと何か言いかけるが、それをバケツを持ち上げつつ遮るように話す隼人。
「それで「グゥ~」……」
『それでは』そう言って、そのまま足早に去ろうとした隼人だったが、お腹が減っていないはずの腹の虫がタイミングよく鳴く。
一瞬、2人の間に静寂が訪れる。
優子はこの時、不謹慎と思いつつ意外にチャンスは早くやってくるものだと思っていた。
「お、お腹の調子悪いのかな……ははは」
嘘がバレバレというのに強引に去ろうとする往生際の悪い隼人。
そんな彼に優子は強烈な一言を放った。
「新城さんは私のこと嫌いですか……」
その言葉に思わずドキリとして振り返った隼人の視界に、俯き顔を両手で覆う優子がいた。
『嘘!?』
隼人はただワインが割れたのは自分に責任があり優子には気遣わせたくなかっただけなので、目の前で彼女に泣かれることは予想外と共に本末転倒なことだった。
「そんな!? 違います。 そんなつもりじゃ!」
そう言って駆け寄ってくる隼人の気配を感じた優子は、両手で覆って見えない口元をニヤリと歪めた。
「でも、私はお詫びしたいのに……新城さんは何一つ……」
「違うんです。 割れたのは大島さんのせいじゃないし、何よりそんなことで気遣わせたくなかったんです」
「本当に?」
「本当です」
「じゃあ、お腹空いてます?」
「空いてます。 お腹が鳴るくらい……ん!?」
ここまで来てやっと隼人はやり取りの不自然さに気付くが既に時遅く、顔を上げた優子は満面の笑みを浮かべ言った。
「なら、お詫びにうちでお夕飯ご馳走します。 嫌いな物はありますか?」
決定事項と言わんばかりに“します”と言い切る優子。
隼人は彼女が泣いていなかった事に安堵したのも束の間、突然の夕飯の招待に戸惑う。
「い、いえ、嫌いなものは特にないです……」
咄嗟のことで優子に聞かれるまま答えてゆく隼人。
「じゃあ1時間後、私の部屋に来てください。 待ってますね」
ガチャ
答えに満足したのか、それだけ言うとさっさと部屋に入ってしまう優子。
『断られなくて良かった……』
玄関のドアに
嘘とはいえ泣き真似という女の武器を使い、食事の約束を一方的に取り付けた。
自分が男だったらそんな女は嫌だと思うだろうが、隼人にはこうでもしなければずっとはぐらかされ続ける気がし『これは仕方ないことだ』と自分を納得させた。
人生において巡ってくるチャンスは決して多くないことを身をもって味わってきた優子にとって、これは隼人との関係を進展させる大きなチャンスだった。
『嫌な女でごめんなさい。 でも代わりに美味しい御飯ご馳走しますね……』
心の中でそう思うと、食事の準備をするため部屋の奥へと入って行った。
その背中はいつになく嬉しそうに見えた。
ドアが閉まり廊下に静寂が広がると独り残された隼人はようやく事態を把握する。
『待ってますって……これって良いんだろうか……』
上手い具合に誘導されたとは言え独り暮らしの女性の部屋に上がって良い物だろうかと考えたが『あくまでもお詫びとして招待されただけなんだ』と自分に言い聞かせた。
それでも優子に嫌われていないことが分かり、隼人は安堵と共に嬉しさが込み上げ軽い足取りで自分の部屋へと入っていった――。