『勘違いから始まる恋』第三章『私はストーカーに恋をする』
第045話
「ため息なんかついていると幸せが逃げちゃいますよ」
「お、大島さん……」
いつの間にか手に買い物袋を下げた優子が、ニコニコしながら隣で隼人の顔を覗き込んでいた。
その下から覗き込むようにしながら笑顔で注意する仕草や言葉までもが、昔の彼女とそっくりで隼人は思わず言葉に詰まってしまう。
「どうしたんですか、ため息なんてついて?」
「い、いえ。 なんだか今日は疲れてしまって……」
ため息の理由が優子だとは、本人を目の前にして言える訳もなく、とっさに“仕事”で疲れたという意味合いの言い訳で誤魔化したつもりだったが、聞いた優子の表情が曇る。
それを見て隼人は自分の失言に気付くが時既に遅く、優子は自分のせいだと思ったのだろう謝罪の言葉と共に深く頭を下げていた。
「ぁ……そうですよね。 本当にすみませんでした」
「ち、違うんです。 そうじゃなくて……今日は仕事で沢山喋って忙しかったのが理由で、決して大島さんのせいとかじゃないですから、本当に謝らないでください……」
あたふたしながら必死で弁解する隼人の姿に、真剣に謝っていた優子も思わず笑ってしまう。
「クスクス。 新城さん必死過ぎです。 こんなところにいるのもなんなんで入りましょう」
「あっ、はい……そうですね」
そう言うと優子は笑いながらオートロックを解錠しマンションへと入って行った。
その後を自分の行動に恥ずかしさを感じた隼人が頭を掻きながら続いたが、内心ため息の理由を深く追求されずに済んだことにホッと胸を撫で下ろしてもいた。
「何か普段の新城さんってプレゼンしている時と全然違いますよね」
「そうで、えっ? どうしてそれを?」
すると前を歩いていた優子が顔だけ隼人の方に向けると、昼間にパソコンで観たプレゼンの感想を述べた。
『そうですか?』と言いかける隼人だったが、プレゼンの事など伝えていなかったことを思い出し、優子の言葉に驚き思わず聞き返してしまう。
『きっと、この人はこっちが素なんだろうな』
少年のように目を丸くし驚く隼人の姿は、プレゼンしていた時の自信に満ち溢れ凛とした姿とはあまりにギャップがあった。
でも、完璧とも言えるプレゼンを行う彼が、自分の前ではプライベートな部分を見せてくれていると思うとなんだか嬉しかった。
優子はエレベーターの呼び出しボタンを押すと隼人の方へクルリと振り返った。
「偶々だったんですけど発表会の様子をパソコンで観たんです」
「あぁ、それで知っていたんですね」
そう言うと優子は笑みを浮かべると下をペロッと出しプレゼンの件の種明かしをする。
それを聞いた隼人は疑問が解消され胸のつかえが取れたという表情になる。
冗談混じりに話す優子だったが、次に口にしようとしている言葉は彼女でも恥ずかしいのか微妙に頬が紅く染まっていた。
「観て思ったんですけど……」
ピンポーン
言葉を遮る様にタイミング良くエレベーターが1階に到着し扉が開く。
中からマンションの住人だろう中年女性がゴミ袋を片手に出てきた。
「どうも、こんばんは」
女性は2人に気付くと和やかに挨拶しゴミ捨て場へ続く扉の方へ歩いて行った。
「こんばんは」
2人も女性に挨拶を返したが、優子は他に意識がいっていたので辿々しい返事となってしまっていた。
『最悪のタイミングだぁ……』
女性のせいだと思わないが、意を決して喋ろうとした矢先のことで完全にタイミングを逃す優子。
人間は普通、勢いに任せて言おうとしていた言葉を一度言えなくなると、改めて口にすることは中々できるものではない。
それは優子も例外ではなく言い出せず、逆に冷静になって言おうとした言葉を頭で反芻してみると、自分で考えておきながら恥ずかしくなった。
顔が真っ赤になったのを見られまいと俯き隼人と視線を合わせないようにエレベーターに乗り込んだ。
隼人も後からエレベーターに乗り込んできたので、8階のボタンを押す。
ウィーン
機械音をさせエレベーターは上昇を始めた。
『どうしたんだろう?』
一方、何か言いかけていた優子の様子を暫く覗っていた隼人だったが、突然エレベーターに乗り込んでしまった優子を見て驚きつつ何かあったのかと思い、隼人もエレベーターに乗り込むと声をかけた。
「大島さんどうかされました? 気分悪いなら荷物持ちましょうか? そんなに持っていたら大変でしょう」
隼人の何気ない一言に嬉しさが込み上げてくるのを感じ、隼人を心配させまいと顔を上げると笑顔を向けた。
「いえ、何でもないんです。 全然平気。 ほら、元気!」
大きなビニール袋を持ち上げて心配ないとアピールしようとする優子だったが、いつもより多めに買ってしまった食料の入った袋は思いの外重く、履いていた高めのヒールのせいで
ガチャン
近くで何かが割れる音が聞こえたが、いつまで経っても衝撃がくることはなかった。
『……あれ?』
それどころかフワッと抱かれるような感覚を覚え、優子は恐る恐る目を開ける。
『!?』
そこには隼人の顔がキスできそうなぐらいの距離にあり、目が合うと隼人は心配そうな顔をした。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
「良かった」
優子に何も無かったことが分かると安心したのか笑顔になる隼人。
優子も冷静に返事をしているようで実は心臓が今にも飛び出しそうになっていた。
それもそのはず隼人が優子を助けるため彼女を抱き支えている状態で、これまでにない距離と体勢に固まってしまっていたのだ。
隼人は彼女が真っ赤になっているのに気付くと「すみません」と言いながら優子が再び倒れないようにゆっくり身体を離す。
優子は隼人の確かめるように離れてゆく温もりが名残惜しく、最後に離れる手をもう一度握り替えしたいとさえ思った。
『やっぱり、新城さんは他の
自分が男性不信だということは理解していた。
男性と接近したり触れたりすることが怖く、それを顔や態度に出さぬよう努力もしたし極力そのような状況にならないようにもしてきた。
それが今のはどうだろう。
自分を助けるための行為だということを差し引いても、他の男性であれば拒絶しそうな突然のパーソナルエリアへの侵入や肌を触れられる行為も、隼人で反射的な拒絶もなく許せてしまう。
寧ろ離れてゆく温もりにもっと触れていたいと思ってしまう程だった。
『運命なの……かな……信じたいな』
“運命”
その言葉を優子は幾度となく感じ信じてきた。
メンバーとの出会いは今でも運命だと信じている。
しかし“元彼”瑛士にも同じ事を強く感じたのに、結局酷い振られ方をした。
その時から男性に“運命”を期待することも感じることもなくなっていた。
でも、もう一度だけ“信じたい”と思える相手が優子の目の前に現れたのだ。
『お隣さんなんだから、何時でもチャンスはあるよね』
言えなかった言葉も、誰かが今じゃないぞとタイミングを計ってくれたのかもしれない。そう思うと、どこか自分に欠けていた本来のポジティブさが戻って来たような気がした。
ピンポーン
エレベーターが8階が着くと静かに扉が開く。
優子は軽い足取りで8階のエレベーターホールに出ると後ろから隼人の小さく呟く声が聞こえた。
「しまった……」
優子が振り向くと隼人の視線の先に床を真っ赤に染める水溜まりと、それに浸かる鞄の姿があった――。