『世界がいくつあったとしても』
第8話：「なにしてるんやろ……ほんま」
ガチャッ
鍵穴にキーが刺さり解錠の音共に鉄の扉がゆっくりと開かれ、その隙間からは一筋の光と共に人の躯体が
扉が閉まり、闇に包まれた部屋の中で、その者は慣れた手付きで壁際にあるスイッチへと手を伸ばし、ボタンを押す。
カチッ
音共に暗闇から一変、天井のライトが点り、玄関、そして七瀬の姿を照らし出した。
「ただいま……」
関西訛りなイントネーションが玄関に響く。
七瀬が帰宅を知らせるも、都内で一人暮らしの部屋に返事をする者はいない。
習慣となり毎日口にしてしまうのだが、その度少し寂しさが胸に込み上げてくる。
特に今夜は誰かの返事が無性に欲しいと思うが、当然返事が返ってくることはなかった。
静寂から逃れるように七瀬はリビングに入り、定位置となったリビングのソファーに掛けると、徐に近くに置かれたリモコンでテレビの電源を入れた。
ブゥンとテレビから通電の音が聞こえ、瞬く間に映像と音が部屋を満たしていく。
テレビからは聖夜直近とあって“クリスマスソング特集”が流れていた。
「ふぅ……」
そこで日頃の帰宅ルーチンを終えた七瀬は、1日の緊張から解放されたように深い呼吸と共にソファーへ身体を深く沈み込ませた。
適度な弾力に身を預けていると、先程までのことを思い出す。
先程まで乃木坂46としてメンバーと共に参加していたMステは、数ある音楽番組の中でもダントツの視聴率を誇る。
生放送で、今日に至っては“ミュージックステーション スーパーライブ2016”とあっていつも以上に失敗も許されなかった。
だが、大きな問題も起きず乃木坂46としても、七瀬個人としても何事もなくを乗り切ることができた。
しかも、先程までクリスマスと言うこともあって、ささやかながらケーキやチキンなどそれらしいパーティも開かれ、メンバーと楽しい時間も過ごしていた。
だというのに、七瀬の全くと言って良いほど表情の浮かないままであった。
「はぁ……」
気怠そうに溜息まで漏らし、七瀬はそのままソファーに身体を投げ出すと、外界からの全てを拒絶するように両腕を交差させるように顔を覆った。
「……」
部屋はテレビから流れるクリスマスソングで満たされていたが、七瀬の耳に届くことはなく、唯々無意味に虚空へ消費されていく。
“ラインッ！”
そんな七瀬の状態など無視したような軽快な音が近くで聞こえた。
「……」
七瀬は、片手で音の聞こえた辺りを探ると帰宅時にソファー脇に置いたバックがあり、そのまま中に手を突っ込み徐にスマートフォンを取り出すと、カバーフリップを開いた。
指紋認証でロックを解除し目当てのアプリを開くと、そこには奈々未からメッセージが届いていた。
『お疲れ七瀬。 さっきのことだけど七瀬の好きなようにやんな。 あたしは七瀬の直感は正しいと思うし、それを応援するよ』
「……ななみん」
奈々未が言っているのは、楽屋で2人が会話していた連絡先のこと。
“アイドルなんだから連絡しては駄目”
奈々未にそう言われ頭ではその通りだと思いながら、七瀬はどうしても心の片隅で“それ”の存在が気になっていた。
重鎮の者であればいざ知らず、“それ”をどうするかによってグループの在り方、ひいては自分のアイドル人生を問われかねないというのは、齢22の七瀬にとっては重責でしかなかった。
だが、
誰もが他者との繋がりを少なからず持ち生きている。
それはまるで織物に例えられ、糸を
七瀬も様々な人々との繋がりによって彩られ、人生という模様を紡いできた。
だが例外も存在し、家族や友人、そして恋人や乃木坂のメンバーであるならばいざ知らず、アイドルとして接してきた多くの者たちとは刹那の繋がりであるが故に、七瀬の人生の中に紡がれることはなかった。
それは“新城 隼人”も同様で、決して七瀬の人生を彩ることも、模様として残ることのない存在のはずだったのだ。
なのに、今も消えることなく心の中に残り、その有り様はまるで以前から知っていたようにさえ思えるほど鮮明で、七瀬の感情を揺さぶる。
感情と果たさなければならない責任との狭間で、七瀬は一人どうするべきか迷い続けていた。
だから、七瀬はMステが終わった後に奈々未に相談しようと考えていた。
だが、クリスマスパーティでは卒業を控え最後の参加となった奈々未は主役であり、七瀬は結局何も話せないまま帰宅する他なかった。
それが七瀬に浮かない表情を作らせていた。
そんな気持ちを察したかのような奈々未のメッセージは、姉のような優しさを感じ嬉しさと同時に、自分に課せられた重責が少しだけ軽くなった気がした。
だからだろうか、スマートフォンのフリップカバーのカード入れに挟まれた“それ”を取り出す七瀬。
そこには手書きで数行の文字が書かれ、楽屋のゴミ箱、帰りのマネージャーの車、何度か捨てる機会があったのに、結局持ち帰ってきてしまった
今もソファーから見えるゴミ箱に捨てることも出来たが、七瀬はそうすることはしなかった。
急いで書いたであろう圭子のメモの中に、LINE IDを見つけた七瀬は、興味本位でIDを打ち込んでいく。
不思議なことに最初こそ紙を見ながら打っていた七瀬だったが、途中からは紙を見ずに入力していた。
七瀬自身、無意識だったし、そうできることに違和感を持っていなかったから、気にもとめず、打ち終わると何事もなかったように検索ボタンを押していた。
友達検索の画面に数回くるくる回る検索中を示すアイコンが表示された後、パッと画面が変わる。
“新城 隼人”
名前と共に昼間出会った男性の顔が、丸形アイコンの中に表示されていた。
たった一度、昼間に会っただけの相手。
“そう言えばこんな
ところが、誰かに説明できるほど明確な感情ではないにしろ、七瀬は隼人に朧気に以前から知っているような既視感を感じていた。
「……」
其ればかりか、スマートフォンの小さな画面だと言うのに映る隼人の姿に、七瀬の胸が温かくなるのを感じた。
それが何故、どうしてなのかを七瀬は知る術はなく、唯々画面に目が釘付けとなっていた。
指で、その小さな画面に触れれば、隼人と繋がる。
そう思うと、より熱を帯びた感情が自然と画面へと指を誘っていく。
“ラインッ！”
すると、画面に触れる寸前、タイミングを計ったように再びLINEが届く。
ポップアップに表示された送り主を見て、七瀬は溜息を吐いた。
「……はぁ」
送り主は“マネージャー”。
明日、先方都合で一部仕事がキャンセルとなり、午後からフリーになったという内容のものだった。
日に日に増える仕事。
仕事量が自分たちの人気のバロメーターであり、忙しいことは決して悪いことではないと七瀬も分っていた。
しかし、それに連れ休日は疎か、睡眠時間も削られるようになっていた。
殊にここ最近、AKB48を超えたとも言われるようになり、以前にも増し働き詰めの毎日を送ってきた七瀬にとって、仕事のキャンセルが理由とて半日の休みが出来たことは喜ばしいことだった。
そんな状況であるにも関わらず、七瀬は喜ぶどころか複雑な表情を見せる。
LINEが届くまで七瀬の心は隼人のことで一杯だった。
暫し、自分がアイドルであるということなど忘れ、唯々1人の男性を想う時間は七瀬にとって、忘れかけた感情であった。
しかも、そこには初めて会ったはずの相手だというのに懐かしさと、七瀬にとりとても心地よい温かみを感じていた。
だが、それも束の間マネージャーからのLINEが七瀬を現実の世界へと引き戻し、自分が“アイドル”であることを思い出させた。
自らが望み足を踏み入れた世界とは言え、何処まで行っても自分はアイドルであることを再認識させられ、それまで熱を帯びていたことが嘘のように、七瀬の心は冷静になっていった。
“ラインッ！”
そこにダメ押しするように、再びマネージャーからのLINEが届く。
メッセージには明日の朝マネージャーが七瀬を迎えにやって来る時間が記されていた。
内容は単に、先程と同じ業務連絡のメッセージだったが、まるでそれは“アイドル”としての責任を七瀬に問うているように感じた。
そうなると、既に冷静さを取り戻していた七瀬にとり、自分のしようとしていたことが乃木坂にとり正しいことではないことは明白だった。
気持ちの天秤が、それまでとは逆に大きく振れるように傾いていく。
先程まで感じていた温かみは失われ、まるで心を強制的にリセットさせられたようになった七瀬は、小さく呟いた。
「なにしてるんやろ……ほんま」
スマートフォンをソファの前のテーブルに置くと、七瀬は自分の中に残った想いを洗い流そうとするように風呂場へ歩いて行った――。
