『世界がいくつあったとしても』
第4話:「すいません!」
「すいません!」
それは、突然だった――。
年が明けるまで残り僅かとなった日のこと。
“七瀬”と“奈々未”は二人だけ乃木坂にある事務所にいた。
乃木坂46でも屈指の人気を誇るメンバーとあって中々まとまった時間が取れず、二人だけ夕方からのテレビ出演前の少ない空き時間を割き、大量のサイン書きに追われていた。
この日は、夕方からテレビ番組の生放送への出演を控えていた。
乃木坂46のメンバーは皆一度テレビ朝日に集まり、そこから幕張メッセに移動することになっていて、七瀬と奈々未の二人も終わり次第向かう予定であった。
やがて、大量のサイン書きを終えた七瀬と奈々未の二人は、集合場所であるテレビ朝日へ向かうためSonyMusic乃木坂オフィスを出た。
最初、事務所の者からはテレビ朝日に向かう車を手配すると言われたのだが、奈々未がそれに反し徒歩で移動すると言い出した。
奈々未は「せっかく天気がいいんだしさ」と嬉しそうに言うし、六本木ヒルズまで歩いてさほど遠くはない距離だったこともあって、七瀬は『まぁ、えぇか』と軽い気持ちで応じることにした。
『マスクと眼鏡しているし大丈夫』
普段その変装でバレたこともなかった七瀬は、深く考えずビルを出た。
するとビルの前には若い男女が立って居て、片方の女性がこちらを指差していたから、七瀬はタイミング悪いなと心の中で溜息を吐いた。
そればかりか奈々未は彼らの存在など意に介した様子もなく、話を続け階段を降りていくから、今更引き返すことも出来ず七瀬も普通に振る舞うことにした。
それでもファンだったらサインとか言われるのかと思いながら階段を降りていると、一瞬だけ男性の方と目が合う。
『……』
相手はまさか目が合うとは思っていなかったのか驚いた様子だったが、七瀬は七瀬で違う感情を彼に抱いていた。
それは何処か“懐かしさ”にも似た感情で、七瀬の中で強烈なインパクトを持つ程ではかったが、確かに心を刺激した。
それでも男性に見覚えもなく初めて見る顔に、何故そんな気持ちになったのか疑問に思いながら、橋本とお喋りしつつ彼らの前を横切った。
きっと、自分が忘れていたとしても、知り合いなら相手から声を掛けてくるだろうと七瀬は思ったが、結局角を曲がるまで声を掛けられることはなかった。
「ファンの人たちじゃなくて良かったね」
「……そうやね」
角を曲がると奈々未が、ビルの前に居た男女のことを言ってきた。
確かに七瀬もファンの人だったらと思っていたから奈々未の言葉に頷いたが、心の何処かで彼の正体を知りたいという気持もあり歯切れの悪い言葉になっていた。
「ん? どうしたの七瀬?」
「え、あ、なんもないよ」
「ほんとう?」
「うん。 ほんまやって」
「そっか。 なら良いんだけど。 ちょっと男の子の方、擦れてなくて良い感じだったよね」
「そこ?」
「違った? 女の子の方もスラッとして美人だったし」
「ちゃんと見てんねんな、ななみんは」
「あんだけのカップル中々見ないからね」
「そうやったんや」
「ふーん、七瀬は美男美女よりもMステにご執心な訳だ」
「ホンマ、ちゃうって」
「ほんと~? でも、まぁMステなら心配しなさんな。 いつも通りで大丈夫だって」
事務所を出るまで何ともなかった七瀬の返事が、急にここに来て歯切れが悪くなるのを感じた奈々未は、色々尋ねるがはぐらかされてしまう。
『まっ、大丈夫か』
ただ、時々後ろを気にする様子に、先程の男女が関係していることは理解できた。
表情に恐怖なども感じられなかった奈々未は、七瀬が頑固な一面を持っている事を知っていたから、適当な所で尋ねるのを止めた。
「すいません!」
そして、七瀬たちが声をかけられたのは、正にその時だった――。