『世界がいくつあったとしても』誕生記念:第二弾
結び:後編“契り”
「七瀬――」
皿の上に置かれた小箱を、隼人は七瀬に向けゆっくりと開く。
すると、そこには一石の
それは部屋の照明に反射しダイヤが無色透明に澄んだ輝きを放っていた。
元アイドルであり女優として人気を博す芸能人の“西野 七瀬”へプレゼントするには些か小さくもあったが、この後に隼人が告げる言葉によって、その価値が大きく変わる物であった。
隼人は小箱を開けたまま、ゆっくりとした口調で七瀬に語り掛け始めた。
「どの世界の“
七瀬を見つめるその眼差しは言葉と同様に優しく、慈しみに満ちていた。
「勿論、この世界でもね……だから――」
そこまで言い一息吐くように黙ったかと思うと、それまで優しかった隼人の眼差しが真剣なものに変わる。
そして、隼人は七瀬を真っすぐ見つめたまま“運命の言葉”を告げた。
「七瀬、俺と結婚してください」
隼人の告げた“
以前、七瀬は自身がレギュラーを務める番組「グータンヌーボ2」で、レストランのようなありきたりではなくサプライズされたいとコメントしていた。
それを隼人も憶えていてロマンチックなシチュエーションでサプライズを……と、考えたこともあった。
だが、同時にもう一つ七瀬へ告げなければならない
目の前で起きた突然の出来事に、七瀬は大いに驚いていた。
まさか自身の誕生日、それもコロナ禍で隼人自身大変だろう時に、プロポーズを受けるなどとは思ってもみなかった七瀬。
考えを纏めるように目の前のダイヤを見つめながら、隼人の言葉を心の内で反芻する。
『どの世界のオレも……』
最初の
あの時の隼人は話題をサラッと流していて、覚えてなどいないと思っていた。
だが、話の核心はそこではなく、あの時自分が夢の中で“
その
「えっ……」
七瀬はその“
すると隼人は七瀬の視線の意味を悟ったのか口を開いた。
「俺も見ていたんだ。七瀬と暮らす夢を――」
そして隼人はこれまであった経緯を、ゆっくりと話し始めた。
七瀬に乃木坂で会う以前から、2人が交際しているというシチュエーションの夢を見ることがあったのだという。
乃木坂で会ったのは偶然であったが、次の日のレストランでの食事中の会話は、夢とその場で見た
何月何日何時なのか詳しいことはまで分かるわけではなかったが、その日が来るとまるで再現ドラマを見ているように同じ事が起きたという。
その後も別れに繋がる出来事を回避するため、夢で見たことを利用していたというのだ。
「……」
隼人の告白に七瀬は呆気にとられ言葉もなかった。
騙されていたとか、裏切られたと思うより先に、自分自身の体験とあまりに酷似していたことが衝撃的だったのだ。
「ほんとうにごめん」
「ちょっ、やめてや隼人……」
内容云々ではなく、直感的に隼人が頭を下げることではないと、七瀬は彼の行動を止めようとした。
だが、それでも隼人は顔を上げることはなく頭を下げ続ける。
まるでそれはこれまでの日々一日一日に懺悔するように。
「そのうえで聞かせて欲しいんだーー」
すると頭を下げたまま隼人がそう言った。
「えっ?」
感情も、思考も、唯々混乱していて、七瀬はその隼人の言葉に戸惑うしかなかった。
そんな七瀬を、顔を上げた隼人は見つめると残りの言葉を続けた。
「君からの返事を……」
隼人は返事を聞かせてと言いながらも、内心良い返事をもらえる自信も、確信もあるわけではなかった。
夢を見なくなって久しく、それからの選択はすべて隼人が自らが決めたものであり、今日この日の出来事で事前に知っていることは何一つない。
言わなければバレるものでもなかったが、自分に包み隠さず“秘密”を打ち明けてくれた七瀬に、嘘を吐き続けることなど出来ようもなく、隼人は玉砕を覚悟し告げたのであった。
断られることがあったとしても、それは自分自身が招いた結果であり、運命(さだめ)なのだと思いながら、七瀬の言葉を静かに待った。
「「……」」
2人の間に沈黙が流れる。
沈黙の片隅で音楽の流れる室内にて、隼人は七瀬の返事を待った。
元々、七瀬からの告白がなくとも、今日この瞬間に隼人は秘密を打ち明ける予定でいた。
そうでなくては2人が“恋人”から“夫婦”になることなど出来ない、そう考えての事だった。
それでも“
「隼人はこの後、ななが何て答えるか知ってるん?」
隼人の瞳が揺らいだことを知ってか知らずか、真剣な眼差しで七瀬が問いかける。
まるで嘘など見抜けるとでも言っているような眼差しが隼人を射抜く。
その問いかけに対し隼人は首を横に振って見せた。
「夢はもうだいぶ前から見ていないんだ」
「ほんまに?」
言うだけならば嘘だって言えるのが人間である。
だから、七瀬は隼人の目をジッと見つめ問うた。
そんな七瀬の問いかけに対し、隼人の眼差しは揺れることはなく、彼女を真っすぐ見つめたまま「うん」と頷いてみせた。
これで疑念が晴れる程、簡単な問題でないことは隼人も重々承知していた。
それでも相手へ積み上げてきた“愛”が嘘になる気がして、隼人は嘘偽りなく答えることを選んだ。
「俺は
まるで二度目のプロポーズのような隼人の
七瀬はそれを聞き何故か視線を落としボソッと呟く。
「……隼人は何か勘違いしてる――」
「えっ……」
感動させたいとか喜んで欲しいとか思ってはいなかったが、想定していたものと違う七瀬の反応に隼人は驚き感じていた。
そんな隼人に対し、七瀬は再び顔を上げ告げる。
「隼人が選んだものも、なながした選択も、どれも責任や結果は全部自分にあるんやで――」
顔を上げた七瀬は間違いを指摘するように、人差し指をビシッと立て隼人に言い聞かせるように言う。
そしてテーブルからグイッと身を乗り出すように、隼人に顔を近付ける。
「だから、隼人となながここにこうして
「……七瀬」
これまでずっと七瀬を騙しているという罪悪感が心の片隅で燻り続けていた。
それが七瀬の言葉に、まるで“赦し”を得たように気持ちがふっと軽くなり、安堵から思わず我慢していた感情が膨らみ声を詰まらせる隼人。
いつの間にか小箱を持つ手が小刻みに震えていた。
そんな隼人の手を七瀬は自身の手で優しく包み込むと慈しむ様に見つめた。
「ななな、
そこまで言うと七瀬は包み込んだ隼人の手に少しだけ力を込めた。
「だから今度はななが隼人を幸せにしたる――」
そしてにこりと七瀬は微笑む。
「隼人、ななと結婚しよ」
隼人の前で七瀬の混じりけのない純度100%の笑顔が咲く。
“秘密”を打ち明ければ二度と見られなくなるかも知れない。
そう思っていた七瀬の笑顔が目の前で、自分のため、自分にだけ向けられている。
「ありがとう、七瀬」
それが堪らなく嬉しくて隼人の顔にも笑顔が零れた。
2人の間にあった“秘密”は全て取り浚われ、代わりに笑顔と新たな“契り”が結ばれた。
「つけて」
七瀬はそう言って左手の薬指を隼人へと差し出した——。
おまけ
プロポーズが成功し、隼人は今一度ギャルソンを呼んだ。
今度こそ正真正銘の
コンコン
暫くしノックと共に年配のギャルソンが部屋へと入ってくる。
ギャルソンは事前にプロポーズすることを聞いており、2人の雰囲気を察し「成功されたんですね」と小声で隼人に呟いた。
聞かされていなくとも、七瀬が左手の薬指に輝く
隼人も「おかげさまで」と小声で返していると、ヒソヒソと話す2人に気付いたのか七瀬が首を傾げた。
それを見たギャルソンは、改めて2人に対し祝福の言葉を口にする。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
和やかに祝われ嬉しそうにはにかみお礼を述べる七瀬。
ギャルソンは、そんな2人の幸せな時間の妨げにならないようにとの気遣いなのか、デザートの用意をと言い残し部屋を再び出て行った。
再び2人きりになった部屋は静寂に包まれる、かと思われた。
ところが、ギャルソンが部屋を出て幾分も時間が経たないというのに、部屋の外が急に騒がしくなる。
「なんやろ?」
「何かあったのかな?」
外の様子など分からない2人は、何事かと顔を見合わせる。
すると、騒がしかった部屋の外が突然静まり返えり一瞬の静寂が訪れた。
「「?」」
隼人と七瀬は部屋の外で起きている謎めいた状況に思わず顔を合わせた。
ガチャッ
静寂を破り突然ノックもなく扉が開き、何人もの人が雪崩れ込むように部屋へと押し寄せた。
「「「「「「「「「おめでとー」」」」」」」」」
その者たちは口々に祝福の言葉を述べ、笑顔で2人に近付いてくる。
その面々を見て七瀬は思わず目を見張る。
「あんたらっ!?」
部屋に入ってきたのは“橋本 奈々未”“高山 一実”“斉藤 優里”“川後 陽菜”“伊藤 かりん”“伊藤 純奈”など乃木坂46の現役やOGメンバーに加え、友人である“奥寺 圭子”“飯豊 まりえ”がいた。
そして新たな顔ぶれとしてお笑い芸人ハリセンボンの“近藤 春菜”の姿もあった。
そんな乱入者達に驚く隼人と七瀬。
特に春菜の存在に至ってはコロナが広まる以前の年末にお世話になって以来の関係で、対外的には七瀬の、個人的には2人共の友人だった。
「春菜まで!? なんでここにおるん?」
「春菜さん!?」
「2人ともおめでと~」
眼鏡を掛けた丸顔の春菜が愛嬌ある笑顔で祝福する。
すると隣にいた奈々未が隼人たちを見てニヤリとした。
「プロポーズ成功したんでしょ?」
そう言って隼人たちを見ながら奈々未がニヤニヤとする。
その言葉に去年の誕生日のサプライズを思い出し、またかと思った七瀬は隣の隼人を睨みつけた。
「隼人ぉ~!」
「し、知らないよ」
またかという視線を七瀬から向けられ、隼人は驚きを隠せぬまま首を横に振る。
ぶんぶんと横に首を振る隼人の表情に嘘はないと分かった七瀬は、奈々未たちの行動が全て自分たちには内緒だったことを悟った。
「奈々未~っ」
そして大概の元凶である奈々未に、七瀬はジト目で何故知っているのかと問うような視線を送る。
「バレたか――」
すると奈々未は、その視線に悪戯が見つかってしまったと言わんばかりにペロッと舌を出し、事の顛末を七瀬へと語り出した。
「
「あっ……」
隼人は“相談”と聞いて、奈々未が何を言わんとしているのかを理解し、思わず小さな声を漏らした。
ある相談とは七瀬への“プロポーズ”のこと。
奈々未が言うには、彼女の夫である“村松 俊亮”にプロポーズのことで、隼人が相談したことから事が始まったという。
内容はと言うのは上京した途端に七瀬と交際を始めたからか、お店を知る機会に恵まれなかった隼人。
一世一代のプロポーズに相応しい場所を、仕事柄交友関係の広い俊亮なら知っていると思った隼人は、助言を受けるため相談をした。
そこで俊亮から打って付けの場所があると紹介されたのが、このレストランだというのだ。
「何でそれを奈々未さんが知っているの?」
そこまで聞いて、奈々未が何故それを知っているのか、いまいち腑に落ちないと言った様子の隼人。
それに対し奈々未はニヤリとした笑顔で、さも当たり前のように言い放った。
「俊亮さんがあたしに隠し事なんて出来ると思う?」
奈々未の返答を聞き、隼人も七瀬も“確かに”と妙に納得させられた。
俊亮は一回り以上も年下の奈々未に、全くと言っていい程頭が上がらない。
それが俊亮の奈々未への愛ゆえであることは見ていて分かる程で、こうなったのも納得できてしまうのだ。
「……七瀬、こんなことになってごめん」
「なんで謝るん? 悪いんは隼人やないやろ」
こうなった原因に納得するも、七瀬には悪いことをしたと謝る隼人。
隼人が悪いなどと微塵も思っていない七瀬はそれを否定した。
何より七瀬は目の前で笑顔で祝福してくれている友人たちを見て、切っても切れない縁というものがあるのだと実感する。
それはまるで世界が異なっていても惹かれ合う“
何だかそれに、こういうことがあるのが自分たちらしい気もし、思わず笑ってしまう七瀬。
「縁は大事にせなあかんな」
「そうそう大事になさい……ということで、結婚式でもスピーチしてあげるから」
ニコニコと言うより、ニヤニヤに近い笑みを浮かべる奈々未。
その笑みが何か企まれているようにしか見えず、ジト目で奈々未を見る七瀬。
「奈々未が? 何言われるんかめっちゃ心配やわ」
「あんたね~式の時は覚悟なさいよ」
七瀬の冗談めかした言葉に、奈々未も腰に手を当て凄んで見せたがこちらも冗談だったのか、最後は意地悪そうに笑って見せた。
するとその場にいる面々から笑いが起こった。
………………
…………
……
途中プロポーズから誕生日会となったレストランを後にし、隼人と七瀬の2人は家に帰っていた。
隼人はシャワーを浴び終え部屋着でバルコニーに出て涼んでいた。
七瀬へ秘密を打ち明けた。
妄想、精神的な問題を抱えているなど言われてもおかしくのない“秘密の告白”。
ところが蓋を開けてみれば2人共似た状況にいて、互いに同じ苦悩を抱えていた。
隼人たちは抱えた苦悩を告白し合い、逆に絆が深まる結果となった。
そしてプロポーズは成功、隼人は今日まで抱えていた胸の支えが取れ、バルコニーから見る景色も一段と輝いて見える気がした。
夜景を眺めながら今の幸せを噛みしめる隼人。
「隼人」
すると後ろから名を呼ばれ振り向く隼人。
そこには風呂から上がりパジャマ姿の七瀬が、バスタオルを首に掛けた姿でバルコニーへとやって来た。
つっかけをパタパタと言わせ隼人の隣へ立つと、七瀬はニコニコしていた。
「ん?……七瀬、まだ髪濡れているじゃないか」
隼人は七瀬を見て、彼女の髪がキラキラとしているのに気付くと、髪を手で梳いた。
しっとりとした手触りに驚いた隼人は、七瀬の首に掛けられたバスタオルを取ると、彼女の髪を優しく拭き始めた。
「やん、この位大丈夫やって」
隼人に髪を拭かれ嬉しそうに身を任せながら、くすぐったかったのか七瀬はきゃっきゃ言っていた。
暫くしそれにも慣れてきた頃、七瀬はふとある疑問が頭に浮かんだ。
「なぁ、隼人――」
「はい、終わり。 湯冷めしちゃうから部屋に入ろうか」
疑問に思った事を尋ねようと七瀬がするも、髪を拭き終わった隼人によって遮られてしまう。
だが思えば七瀬も外で話す内容でもない気がし、部屋へ戻ることにした。
「隼人、ここ座って」
部屋に戻った七瀬は足早にリビングにあるソファーへ座ると、隣をポンポンと叩きながら隼人にも座るよう促してきた。
ニコニコとした七瀬の表情も然る事ながら、座らない理由もなかった隼人は隣へと座った。
すると待っていたとばかりに七瀬が、先程途中となった質問を目を輝かせながら聞いてきた。
「なぁ、何でこのタイミングでプロポーズしようって決めたん?」
「あぁ……それはね――」
突然の七瀬からの質問であったが、いつか聞かれることは分かっていたし気になるだろうと思った隼人は、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「去年、七瀬とドラマ台本の……読み合わせって言うんだっけ? あの時の事が切っ掛けなんだ」
「読み合わせ? 去年って言うたら“ホットママ”やんな。 どういうことなん?」
隼人の言葉が何を意味しているのか分からず、思わずキョトンとするばかりの七瀬。
七瀬は読み合わせで何かあったかと記憶を掘り起こそうと考えを巡らせる。
ところが七瀬の内では、これと言ったことがあった記憶はなく、思わず「うーん」と頭を悩ませるだけだった。
そんな唸る七瀬を見て、隼人は助け船を出すように口を開く。
「あの時、七瀬の口から“朝から毎日泣きそうなの”って
当時に思いを馳せながら表情を曇らせる隼人。
だが、そこには彼女を第一に想う純粋な感情の他にもう一つの想いも存在していた。
言葉を途中詰まらせたのは、隼人がそれを無意識に隠そうと言い訳をしようとしていた自分に気付いてのことだった。
「違うな……周りに秘密にしながら付き合っている状況に終止符を打ちたかっただけなのかも知れない……」
これまで4年の間、隼人は七瀬と交際していることは疎か、彼女がいるということさえ一部の親しい者を除き隠し通してきた。
その理由は七瀬が芸能人、殊に“乃木坂46”というアイドル界の頂点に昇りつめたグループのセンターという存在だったことが大きい。
ましてや卒業しても日が浅い内は、スキャンダル沙汰など以ての外なのは言うまでもなかった。
だが、隼人も人間である、愛する女性のことを打ち明けられないばかりか、スキャンダルにならないよう生きる事の辛さは、筆舌に尽くしがたいものがあったと言えよう。
だからと言って七瀬がアイドルを卒業し恋愛解禁となり、隼人自身も就職し経済的に支えられるようになれば、その“秘密”を公に出来るのかと言えば、そうもいかないのが現実であった。
七瀬を想ってのプロポーズが、いつの間にか自分自身の身の可愛さに変わっていた気がし、隼人は思わず独り言ちた。
「俺の勝手な我が儘だったのかな……」
改めて考え、その事に気付いた隼人であったが、七瀬へ説明していたはずがいつの間にか懺悔のようになっていることに気付いてはいなかった。
「……格好つけ過ぎやろ」
それを聞いていた七瀬が小さく呟く。
隼人にはそれがまるで嘆きに聞こえ、呆れられたのかと自嘲する。
「ははは、似合わなかったか――」
「ちゃう、そんなんやない!」
重ねられていく隼人の自嘲を厳しい視線と共に遮る七瀬。
それは七瀬の嘆きどころか何一つ卑下することなどない隼人が、自分を追い込んでいる姿を見たくなくてしたものだった。
七瀬にしてみれば、一般人である隼人に何年もの間我慢を強いてきた自分自身にこそ、非があるのだと思っていた。
だが、ここで自分が贖罪の意思など見せてしまうと、隼人を余計に追い込むのは目に見えて明らかだった。
だから七瀬は間違いを諭すように、優しい口調で隼人に語り掛けた。
「隼人はななにもっと我が儘言うてよ。 ななばっかり気遣われるんは今日で終わり――」
そして七瀬は隼人の手を取ると、ギュッと握りしめ微笑む。
隼人の気持ちを軽くするためには、謝罪でも、贖罪でもなく、自分が笑い幸せである姿を見せることだと知っている七瀬は、飛び切りの笑顔を彼に向けた。
「これからは“新城 七瀬”になるんやから」
そう言い終わるか、終わらないかの所で、七瀬は隼人へもたれ掛かる。
押し倒すように七瀬が体重を掛けたから、2人はもつれ合うようにソファーに倒れ込む。
こんな突然の事でも自分をしっかりと抱き留めてくれる隼人に嬉しくなった七瀬は、そのまま体を少し上げると馬乗りのような体勢で彼を見つめた。
「七瀬?」
そんな七瀬と目が合った隼人は、突然の事態に驚きながらも気遣うように名を呼ぶ。
未来が見えていたというのに出会った頃から変わらないその心配性とも言える部分も、彼の本質的な優しさの結果なのだろうと思う。
ましてや隼人は自分の身可愛さに結婚を申し込んだ様なことを言っていた。
だが、拒絶された時の気持ちは七瀬自身痛い程知っていたから、相手よりも隼人が自身を大切にする者であるならば、拒絶されるかもしれない
七瀬は自分が偽りなく愛されているのだと感じずにはいられなかった。
「隼人、愛してる」
その言葉と共に再び顔を近付けると、七瀬は自分の唇を隼人の唇に静かに押し当てた。
唇と唇が触れるだけのキスであるのに、今まで知っているどのキスよりも充足感に満ちる気がし、七瀬はそのまま口づけを交わし続けた。
暫くし息継ぎに小さく呼吸すると、不意に隼人の香りが鼻腔を擽り、男の匂いに忽ち鼓動が早まっていく。
暫くし七瀬はキスを解き顔を上げると、隼人と視線が交錯した。
そこには先程までの贖罪や気遣いともまるで違う、優しい温もりを宿した隼人の表情があった。
「愛しているよ、七瀬」
その言葉と共に今度は隼人に抱き寄せられると、再び唇が塞がれる。
鼓動は加速しドキドキが止まらない。
そして気付く、自分の内に色褪せないままの感情があることを……自分もまた隼人にずっと恋したままなのだと。
七瀬の内に結婚願望は元々存在していた。
それは“ホットママ”で母親役を演じ、赤ちゃんを抱っこする機会を得てから、以前よりも強くなっていた気持ち。
だが世界がコロナ一色となり、そんな中でも立て続けに舞い込んでくる仕事に、出来る事、出来ない事を取捨選択しなければと、アイドルであった頃に染みついた悲しい考えが首を擡げ、望む気持ちを失っていた。
同棲をしているのだし、結婚は紙の上での繋がりに過ぎない、十分今でも幸せだと自分に言い聞かせ諦めさせていた。
そんな自分が“結婚”をする。
そして、その願望を叶えてくれたのもやっぱり隼人だった。
自身もコロナ禍での不自由な大学生活から、就職という人生の大きな転換点を迎え、大変な時期にも関わらず自分との結婚を決意し
自分が望む方向へと進めるようにと隼人から差し伸べられた手を、自分はまた今回も掴んだのだ。
七瀬は思う。
きっと2人の関係は変わらないし、おいそれと変わることはないだろう。
恋は求めるもので愛は与えるものであるとか、哲学的な小難しいことは分からない。
だけど、隼人は自分をただ一身に愛してくれ、自分も彼を愛しているしもっと言えば恋だってしている。
どちらが上とか下とか、どちらがより想っているとかでもなくて、2人にとってそれが当たり前で、心地良いのだ。
2人の愛の形を見つけた気がし、七瀬の“
自然に自由だった腕を彼の首へと回すと、それまで優しく穏やかな口づけに変化が訪れる。
七瀬は自らの舌を隼人へと差し入れ、唾液の交換をするように彼の舌に絡めていく。
隼人も七瀬の舌を吸ったり、舌先でつついたりしながらそれに応える。
「はぁ、んふ……」
七瀬から時折漏れる吐息が、2人の間に言葉では決して伝わらない“想い”を交換しているように見える。
もう何がなんだか分からなくなっていく感覚を感じながら、気持ちの良い行為に没頭する2人。
だが、そんな性欲の匂いのするキスの中にも、根底には互いを想い合う気持ちが存在していた。
七瀬の身体を包むように背中に回された隼人の腕から延びる指先が髪を梳く。
情熱さとは対照的な優しさが、荒々しい行為の中でも欲望にまみれた関係だけでないことを七瀬に教えていた。
「ぷはっ」
暫く続いた口づけも、七瀬の小さな呻きと共にどちらともなく唇を離す。
情熱的だった行為の余韻か、2人の間をてらてらとした糸がスーッと引いては消えた。
身体の奥に熱を持ち下腹を熱くさせる七瀬。
そうした動物的な熱情の内で、七瀬は精神的、肉体的、全て隼人が望むまま受け入れたいという衝動に駆られる。
愛する
ほとんど初めて知る感情に、これが普段自分に対し隼人が抱いている気持ちだとするならば、大きな愛に包まれていた事を実感するのだった。
今度はそれを隼人へ返そうと七瀬は思い立つ。
そして、七瀬は艶めかしく上気させた頬で妖艶な笑みを浮かべると、隼人の耳元で小さく囁いた。
「……うちらの赤ちゃん、どんなやろうな?」
-完-
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