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『世界がいくつあったとしても』誕生記念:第二弾

結び:中編“秘密”

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2021年5月25日――

 息を切らせ夜の麻布十番を足早に歩く独りの女がいた。

 女はこの近くで待ち合わせをしていて、その服は余所行きのお洒落なものを身に纏っている。
足下はこれもコーディネートにマッチしたヒールであったが、今のように足早に歩くには些か辛そうであった。
だが、女はそんな状況を気にしていられないとばかりに、唯々普段ではしないような必死な表情をマスクの下に隠し歩き続けた。
そして麻布十番通りの成城石井を曲がり、綱代通りに差し掛かった辺りで腕時計をチラリと見る。

19時57分――

 コロナ禍、しかも緊急事態宣言下の東京。
都から要請で多くの飲食店は20時までの営業となっていて、周りの店は既に閉めていたり客が出てきて閉店間近といった所が目立ち始めていた。

 そんな時間だというのに“西野 七瀬おんな”が、待ち合わせ場所へと急がなければならなくなったのには理由わけがあった。

 この日、都内某所で七瀬がレギュラーを務める“グータンヌーボー2”の収録が行われていた。
収録は滞りなく終わり、この後予定まちあわせがあった七瀬は、現場スタジオから出ようと他の共演者に挨拶をしていた。
すると、その日のゲスト“ローランド”が田中 みな実などキャストを交え、七瀬と共に写真を撮りたいと提案された。
直ぐスタジオここを出ても時間的にギリギリだという状況で、内心では急いでいるのにと思ったものの彼の提案は大事な番宣で、尚且つ自分の誕生日を記念してと言われてしまうと無下には出来なかった。

 結局その対応に追われ急いでタクシーに飛び乗ったのだが、相手に遅れるとLINEれんらくをしている最中これまたタイミング悪くスマートフォンの電池バッテリーが切れてしまった。
手持ちの充電機器もなくタクシーに備え付けもない、そんな状況で一瞬脳裏にコンビニへ寄ればと思ったが、外を見ると既に高速道路に乗ってしまっていた。
そんな事情があるとはいえ大幅な遅刻に加え、突然の音信不通状態となってしまったことで、七瀬はこうやって走る羽目になったのであった。

『ここを曲がれば……』

 七瀬は息を切らせながら目の前の角を曲がる。
曲がった先、そこは綱代通りとパティオ通りが丁度交差する場所にあり、辺りは少し開け緩やかな上り坂となっていて、数本の木々と共に階段のある広場のような場所が広がっていた。

「ハァハァ――」

 息を切らせ階段を上がってゆく七瀬の視界に、待ち合わせ場所である目印が見えた。
“きみちゃん像”それが七瀬が相手と待ち合わせていた場所の目印で、童謡「赤い靴」で有名な少女のモデル“岩崎 きみ”ちゃんの像であった。
像は広場の階段を昇りきった所にあり、七瀬の位置からは背を向けるように設置されている。
そして、そのきみちゃん像と並ぶように、誰かが背を向け立っていた。

『こんなに遅うなったのに、ちゃんと待っててくれてるんや……』

 ここは待ち合わせによく使われる場所で、もしかしたら他人である可能性はゼロではない。
だが七瀬には、その背中が彼であることは一目で見て分かっていた。
何せ5年もの間一緒に暮らしている相手であり、七瀬にとって最愛の人こいびとなのだから見間違えるわけがなかった。

18時30分――

 それが本来、彼と待ち合わせ時間。
遅れるとは事前に伝えていたものの、何時に着くと伝える前にスマートフォンの電池切れトラブルで、かなりの時間待たせたことになってしまっている。
相手がいくら“新城 隼人こいびと”でも、彼も今日は平日で仕事の後で疲れているはず。
それなのにこんな遅刻をしたのだから、怒って帰られてしまっても文句が言える状態にない。
だが、隼人はその場所に立っていた。
連絡もつかぬ状態で1時間も待ち続けていたのだとしたら、そう思うと七瀬は駆け出していた。

カッカッカッ――

 響くヒールの音。
走るように出来ていないヒールでもつれそうになりながらも、七瀬は階段を駆けた。
帰らずに待っていてくれた嬉しさと共に、その脳裏には隼人に対し申し訳ないという気持ちで一杯だった。

 すると隼人が居る場所まであと数段という所で、隼人がこちらに振り向いた。
あれだけヒールの音を発てていれば当然のことであったが、待ち合わせ場所に早く着くことに精一杯だった七瀬は突然の事に驚いた。

 そして2人の視線が交差する。

 ニコリ。
目が合った隼人はマスク越しにでも分かる程微笑んだのが七瀬には分かった。
良かった待っていたよ、そんな風に感じられる隼人の優しい視線。
そんな視線を向けられ鼓動が止まり息切れすら忘れたように、その場で立ち止まる七瀬。

「お待たせ……」

 遅れてきておきながら最初に口から出た言葉が謝罪どころか、待ってもらっていたことに感謝する言葉でもない自分の発言に、七瀬は『あほや……』と後悔した。

「仕事お疲れさま。 ヒールなのに走ったら危ないよ?」

 ところがそんな七瀬の後悔を余所に、隼人はさも普通な様子で彼女の居る所まで階段をおりてくる。
怒られても仕方ないと思っていた七瀬は、そんな隼人の様子に“なんで?”と問うような視線を投げかけた。

「電池なくなるってLINE来てたからね。 それより大丈夫? 歩ける?」

 すると視線の意味を感じとったのか、隼人はあっけらかんとしていて七瀬を心配する素振りさえみせる。
それがかえって罪悪感を憶える一方、大事にされているのだと感じられ七瀬は嬉しかった。
だから、七瀬は隼人に今度は素直に謝ることができた。

「うん、大丈夫……ほんまにごめんなさい」

「うん……じゃあ、そろそろ行こうか」

 隼人は七瀬の言葉に一言頷く。
どうしてこうなったのか、そして次はどうしたら良いのか。
そんな事は七瀬本人が一番分かっていることだと隼人も十分に理解していた。
だから謝罪の言葉を受け取ると、一言頷きそれでこの話は終わりだと言うように移動を促した。

「ありがとう……ほな、行こう!」

 七瀬もそんな隼人の優しさに感謝しながら、彼の腕に絡みついた。

………………

…………

……

 待ち合わせた場所から目的地へ向け歩き始めた2人。

 この地域は目と鼻の先にある六本木ヒルズのようなランドマークとは異なり、商店街や住宅街とあってか比較的小ぢんまりとしたビルや建物が建ち並んでいた。
庶民的な商店と高級老舗も含めお洒落な店が入り交じった、芸能人御用達の不思議な雰囲気に包まれた街それが“麻布十番”。

 そんな麻布十番の路地裏を、七瀬は隼人に手を引かれ歩いていた。
七瀬もアイドルではなくなり“恋愛禁止”から解放されていたが、やはり芸能人とあって人目というのものは気になる。
だが、路地裏にありがちな場末のネオンが煌めく様とは無縁で、人通りの少なさと艶やかなのにギラついていない街の落ち着いた雰囲気と相まって、七瀬は周りを気にしないでデートを楽しむようにギュッと隼人と手を繋いでいた。

「――でな、そこで台詞飛んでしまって、内心めっちゃ焦ってん」

「……」

 少し前まで自分が出演していた舞台の裏話を隼人にしながら歩く七瀬。
ふと、それまであった相槌がなくなった事が気になり彼の横顔を見ると、何処か心此処にあらずともソワソワしているともとれる表情をする隼人がいた。
どちらかと言えば何かにソワソワして落ち着かないともとれる様子に、七瀬は気に掛かる事でもあるのだろうかと、隼人の顔を覗き込んだ。

「隼人?」

「あっ……ごめんね。 初めて行くお店だから場所合ってるかなって思って」

 名を呼ばれた隼人は弾かれたように、声のする方に顔を向けた。
すると視線の先には、七瀬が心配そうに自分を見ていた。
隼人はその表情を見て“ある事”に気を取られ過ぎて、いつの間にか七瀬の話を聞き逃していたことに気付いた。
内心焦りを感じていた隼人だったが、それもほんの一瞬で表情に出すことはなかった。
寧ろ機転を利かせたように、七瀬の問いに考えていた事とは全く別の言葉と共に苦笑で応えてみせた。

 一方その返答を聞いて七瀬は、普段から段取りの良い隼人のこと事前に調べていないわけがなく、本当に分からなくてもその場で調べるであろうことを、長い付き合いで知っていたから不思議に思えて仕方なかった。
だが、もし営業時間のことで焦っていたとしたら……そんな事が七瀬の頭を掠める。
すると隼人の様子の全てに合点がいき、七瀬は確かめるように彼に聞き返した。

「ほんまに?」

「本当だよ。 あっ、ここだ。このお店だよ」

 隼人はあっさりと七瀬の質問に答えたかと思うと、ある建物の前で立ち止まる。
その絶妙なタイミングのせいもあり、七瀬はそれ以上を隼人に聞く事が出来なくなってしまった。
不本意だったのか七瀬はむぅと口を尖らせながら隼人が背にして立つ建物を見た。

 待ち合わせ場所から程なくの場所に建つ二階建て程の小さなビル。
レンガ造りと古材で誂えられた重厚でクラシカルな扉などの外装が、麻布十番にあって悪目立ちせず、それでいて閑静な住宅街の中では店の存在を適度に主張していた。
店の名が刻まれた小さなプレートや必要以上に中を見せないスリット状の窓が、隠れ家的な雰囲気を醸し出していた。

『雰囲気の良いお店やん』

 七瀬も芸能人である。
この近辺で食事をする機会は幾度となくあったが、このお店は初めて訪れる場所であった。
雰囲気も七瀬の好みであり、自分の誕生日にこんなお店を予約してくれていることが嬉しく、先程まで尖らせていた口元が緩むのを感じた。

「えっ……」

 ところが店の入り口だろう扉のところへと視線を移した瞬間、七瀬はあるものを目にしてしまう。

“CLOSE”

 そう書かれたプレートが扉にぶら下がっていた。
今の時刻は20時06分、時短要請をきちんと守っている飲食店は閉店している時間である。
今日、七瀬の誕生日を祝うために隼人が予約してくれていたであろうこの店も、中は明かりが点いていたが要請に応じているのか2人が到着した時には既にこうなっていた。

「ごめん。 ななが遅刻したばっかりに……」

 先ほどま上機嫌だった七瀬であったが、目の前の状況に再び表情を曇らせると謝った。
寧ろ謝ることしか出来ず、七瀬はしょんぼりとした様子で隼人の様子を窺う。

「大丈夫だから」

 すると、隼人は七瀬を安心させるように微笑むと、プレートの存在を無視するようにドアを開ける。

「ちょっ、あかんて……」

 七瀬は突然の隼人の行動に驚き制止しようとするが、隼人はそのまま店に入って行ってしまう。
どうしたものかと七瀬が思っていると、暫くし開けたままのドアの奥から隼人が手招きをしてきた。

「入ってはいって」

 遅れた自分が悪い訳でドアを開けて待ってくれている隼人に言われると従う他なく、七瀬は大人しく店の中に入っていった。  

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

 すると店に入った七瀬を、マスクをしていたが如何にもギャルソンと思しき黒のベストとズボンを身に纏った長身の男性が出迎えた。
短めに整えられた白髪ロマンスグレーがギャルソンに風格を与え、目元の皺が年齢を感じさせたがそれがより笑顔を優しいものにしていた。

 店内はギャルソンの言葉フレーズが表すように、ゆったりとした音楽が流れ、綺麗に飾られた花や雰囲気を演出する照明など、全て営業中そのものに見えた。
その様子に七瀬は一体“CLOSE”のプレートは何だったのだろうかと思った。

「どうぞこちらへ……」

 七瀬が店に入るのを確認したギャルソンは、その優しい物腰で隼人たちを席に案内するように指先を店の奥へと向けながら歩き始めた。
店に入った正面には奥へと続く通路と、その壁には絵画が幾つか飾られていた。
ギャルソンと隼人の背中越しにその奥はホールになっているように見え、七瀬はそこへ通されるものばかり思っていた。
ところが、ギャルソンは通路の途中にある階段の所で立ち止まる。

「足下にお気を付けください」

 それだけ言うと再び歩き出したギャルソンはその階段を登っていき、それに着いていく隼人。
一方、七瀬は通路をそのまま進むのだと思っていたから、視線が自然と奥へと向けられていた。
奥はホールになっていて広めに間隔が取られ並べられたテーブル席が目に入る。
どの席もセッティングされているようだったが客は誰も居らず、七瀬はそれを横目に見ながら2人の後を追った。
そして階段の登り切った先にありいくつか並ぶ部屋の一つに隼人と七瀬は通された。

「本日お食事を楽しんで頂くのは、このお部屋になります」

 ギャルソンが扉を開け止めたまま2人を招き入れながらそう言った。
通された個室は、店構え同様にクラシカルでゆったり落ち着いた雰囲気に非日常感があり、“特別な日”に食事をするにはお誂え向きな部屋だった。
部屋の中央には隼人と七瀬を待っていたように、2脚では余りある大きめなアンティークテーブルがセッティングされた状態で置かれていた。

「さぁ、どうぞ」

 七瀬が部屋に入ると既に隼人が入口側に背を向ける形になっている席の椅子を引いて待っていた。
通常であれば案内のギャルソンがするものなのだが、七瀬もテーブルマナーに詳しい訳でもなく寧ろ特別な日のおもてなしの一つだと捉え、隼人に勧められるがままその席に座った。
「ありがとう」と七瀬が隼人へ伝えると、「どういたしまして」とニコリと微笑み、そのまま向かいのギャルソンが引く席に座った。

「失礼いたします」

 タイミングを見計らっていたのか、案内してくれた年配の者とは別の若いギャルソンが部屋に入ってきた。
若いギャルソンは年配の者へメニューらしきものを渡すと、その流れでもう一つ手にしていたウォーターポットで七瀬と隼人のテーブルにセッティングされていたグラスに水を注ぐと部屋から出て行った。

「お飲み物のメニューになります」

 ギャルソンからメニューを手渡される2人。
メニューにはアルコール類も数多くあり、目を通していた七瀬が今のご時世もあって少し戸惑いを含んだ声で呟いた。

「この時間でもお酒あるんですか?」

「本日は“特別な日”だと伺っておりましたので、ご用意させていただきました」

 七瀬の呟きにギャルソンは微笑みはそのままに、続けて彼女にある提案をしてくる。

「もしよろしければ、お二人のために特別なワインをご用意いたしましたので、そちらはいかがでしょうか?」

「えっ、えーと……」

 正直ワインに詳しくもない七瀬、今では隼人の方がよっぽど自分の好みを知っている。
そんな自分がメニューの中の選択肢もそうだが、お薦めされたものを選べるわけもなく、視線で隼人に助けを求める七瀬。
すると視線に気付いたのか隼人は見ていたメニューを閉じる。

「では、その“特別な”ワインをお願いします。 勝手に決めてしまったけど良いかな?」

「うん。 私は隼人が選んでくれたものやったらえぇよ」

「では、ご用意いたします」

 ギャルソンはそう言って、部屋を出て行った。
その姿を見送りつつ七瀬は隼人がワインを選んでくれたことに内心ほっとしていた。

「なな、お酒詳しいわけないんやけどな」

「七瀬は今日の主役だからね。 飲みたいものがあるかもしれないから聞いてくれたのかもよ?」

「そうなんかなぁ~」

 ぼそりと呟かれたギャルソンへの小言へ、隼人がさりげなくフォローを入れると、七瀬は納得はしなくとも違う話があるのかそれ以上言わなかった。

「なぁ、それより誰もお客さんおらんかったけど、うちら今から食事してえぇん?」

 先程、この部屋へ案内された際、店内を見て誰も客が居なかったことに七瀬は違和感を感じていた。

「お店には遅れること言ってあったから、大丈夫じゃないかな?」

 七瀬の言葉に何処となく曖昧な返答をする隼人。
そんな隼人に先程から違和感を感じつつも、遅れた張本人であるため七瀬はそれ以上突っ込めなかった。

 すると隼人は何かを思い出したように、別の話題を七瀬に振る。

「そういえば七瀬は、俺たちが初めて食事した時のことは覚えてる?」

「んー、初めて会うた次の日のクリスマス?」

「そうそう。 あのとき七瀬がワインを選んでいるのみて、大人の女性だなって思ったのを思い出した」

「あの時は隼人は未成年やったし、ななが年上ってところ見せなって思うてたんよね」

「大人の余裕っていうのかな? そういうの感じたよ」

「ん? じゃあ今のななは大人やないみたいやん」

「いやいや、そんなことはないからね。 七瀬はあの時より“もっと綺麗になった”よ」

「……そうやって口ばっかり上手くなって」

「本心だよ」

 隼人の口から出る調子の良い言葉に訝しむ七瀬。
だが、それは七瀬の単なる照れ隠し。
想いを実直ストレートに伝えてくれる彼の言葉は、4年経った今も耳にこそばゆく、そして心地良かった。
隼人はそんな七瀬のいつものつれない態度に苦笑しつつ、念を押すことは忘れない。

コンコン

 そんな風にして2人がテーブル越しにじゃれ合っていると、ノックと共に部屋の外から「失礼いたします」と言う声が聞こえドアが開かれる。
すると部屋へワインボトルを持つ年配と、料理の皿をいくつか器用に持つ若いギャルソンが入ってきた。
若いギャルソンが手早く丁寧に七瀬と隼人の前に料理を並べていく。

「こちらが先程お話しをしていた赤ワインでございます」

 年配のギャルソンは料理が並べられていくその間に、2人に対しボトルを見せながらワインを開封していく。
慣れた手付きであっと言う間にコルクを開けたギャルソンはワインのことを説明しながら七瀬のグラスにそれを注ぐ。
トクトクと濃厚な音の、まるで紅茶のような赤色のワインが、グラスを満たしてゆく。

「94年……」

 注がれる様を見ていた七瀬が何かに気付いたのかぼそりと呟く。
七瀬は“特別”と聞いていて“何が”そうなのかとジッとみていたのだ。
するとギャルソンの持つボトルに1994という文字を発見したのだった。

「左様でございます。 お客さまの誕生年が1994年と窺っておりましたので、こちらをご用意いたしました」

 ギャルソンはそう説明しながらもう一度ボトルを七瀬に見せると、続いて隼人のグラスにワインを注いでいく。

「“きみ”と同じ年に生まれたんだね……同じ空の下で同じ時を過ごしたワインか……」

「そうやね」

 注がれていくワインから香るラズベリーやブルーベリーの甘味を帯びた香りに、隼人は思わず当時の七瀬が生まれた日に想いを馳せた。
そんな隼人と同様に香りに誘われてか、自然と七瀬からも相槌が漏れる。

「1994年のフランスはワイン造りにとても適していました。 このワインは当時を代表するワイナリーで作られたものです。 きっとお客さまのお生まれになった時間ときを感じて頂けるものと思います」

 ギャルソンは2人にそれだけ伝えボトルをワインクーラーへ置く。
本来はここでアヴァン・アミューズの説明をするはずであったが、“特別”な日の2人には不躾であると思い「ごゆっくりお楽しみください」の言葉を残し部屋を出て行った。

 2人きりになった部屋。
薄らとクラッシックの流れる部屋は、再び2人きりのパーソナル空間に戻る。
隼人は店に来てから芸能人である七瀬の名を呼ばないようにしていた。
2人きりに戻り再び隼人は七瀬の名を呼んだ。

「“七瀬”――」

 その声色は優しく落ち着き払っていて、七瀬はその声に惹かれ彼の表情を窺う。
すると穏やかな表情がそこにあり、七瀬と目が合った瞬間、隼人は微笑んだ。

「誕生日おめでとう」

 笑顔で祝いの言葉を述べた隼人は、続けてグラスを取ると七瀬の方へと差し出した。

「“七瀬”の誕生日を祝して……乾杯」

 チンとグラスの合わさる音が小さく部屋に響く。

「ありがとう隼人」

 七瀬はそう言って微笑むとワインを一口味わう。
普段お酒はその場の雰囲気が好きで飲んでいる七瀬。
そんな彼女であっても口当たりが柔らかく、先程感じたベリー系の香りがより鮮明に鼻腔抜け、それでいてスッと消えていくこのワインの味は理解出来た。

「美味しい」

「うん、美味しいね」

 七瀬の口から出る感嘆の言葉。
それに相槌を打つように隼人も同様の言葉を口からでる。
2人とも同じ感想に思わず視線が重なり笑い合った。

「さっ、食べよ。 ななお腹空いちゃった」

「そうだね」

 そう言って、2人は早速自分たちの前の皿へ綺麗に盛り付けられた一品に手を伸ばす。
皿には一口で食べられるよう陶器のスプーンに載せられた料理が幾つか並んでいた。

 七瀬はその中の一つ、真紅のソースを纏ったキューブ状のものが載ったスプーンを手にすると口に運んだ。

「ん! 美味しい」

口に入れるとキューブ状のものがほろほろと解け、それが牛肉を煮込んだものだと分かった。
そこに少しの甘みや酸味などが上手にまとまって肉の味わいを引き立てていた。
食べてみて意外だったのは赤い色がトマトではなかったことで、七瀬の内で該当する料理が思い浮かばなかった。

「初めて食べる味なんやけど」

「美味しいね。 たぶん“ボルシチ”だと思うよ」

 すると、同じ料理ものを食べた隼人が、七瀬が分からなかった料理名をあっさり言い当てる。

「ボルシチ?」

「ロシアなどで良く食べられている料理で、赤いのは“ビーツ”ってカブみたいな野菜の色なんだよ」

「そうなん? 一口食べただけでよう分かるな」

「伊達に4年間、七瀬のご飯作ってないからね」

 そう、七瀬と交際を始めてからこれまで芸能人と大学生という関係性もあって、忙しい彼女に代わり隼人が率先して家事を行っていた。
勿論、日々の食事も隼人が作るので、それを言っていた。

「頼もしいな。 隼人は良い旦那さんになりそうやんな」

「そ、そうだね――」

 七瀬の何気ない一言。
それに対し、隼人は言葉を何処か濁し、徐にワインを飲む。

「お店の人がワインと料理が合うって言ってたけど、ほんとにそうだよ。 七瀬も飲んでみなよ」

 一口飲んだ隼人は“良い旦那”の件がなかったかのように、七瀬にギャルソンの話を持ち出すとワインを勧めてきた。 

「う、うん」

 何だか誤魔化された気もする七瀬。
だが、事前に2人で話し合い分担をしていこうと決めたにも関わらず、隼人が社会人となった今も、舞台で家を空けたりドラマや映画などの撮影で遅くなる事も多かった七瀬。
それを考えると自分の発言が無神経だったかもと思い直し、七瀬は隼人に勧められるがまま料理とワインを合わせながら食べてみた。

………………

…………

……

 それからは2人共ギクシャクすることもなく会話を楽しみながら、アミューズと前菜、スープや魚介など品数豊富なコース料理に舌鼓を打った。
そして今2人の前にはこの日のコースでメインとなる肉料理の皿が置かれていた。

 隼人は、綺麗に盛り付けられていた牛フィレ肉とフォアグラを、器用にフォークとナイフで一口大にカットすると口に運んだ。

「あっ、これも美味しい」

 濃厚なフォアグラとトリュフの香るソースが、絶妙に焼き上げられた牛フィレ肉と絶妙なハーモニーを奏で、噛めば噛むほど肉の旨味が口の中に広がっていくのを隼人は堪能する。

 隼人が思わず漏らした言葉に刺激されたのか、七瀬はナイフを上手く焼き上げられたフォアグラに入れていく。

「……なんか、また4年前の“あの日”のこと思い出してもうた」

 だが、七瀬は何かを思い出したように、極厚の赤身肉のところまでナイフを入れていた手をそっと止め呟いた。
七瀬の言う“あの日”とは、先程も隼人から話題に出た“クリスマスディナー”のこと。

「隼人とこんな風に食事するん、別に今までやってあったのにな――」

 七瀬は自分でも不思議なのか、ちょっと困った顔をしながらも言い終えると止めたナイフを最後まで入れる。

「やっぱり、あの日出会って2日やのに付き合うとかあったからなんかな……」

 それを言い終えると、一口大になった肉のミディアムレアの断面から滴る肉汁を零さないようにしながら、七瀬はそれを頬張る。

「“不思議な縁”だよね」

 もぐもぐと肉を美味しそうに食べる七瀬を見ながら、そう相槌を打つ隼人。
口では予測し得なかった事とでもいうような表現をした隼人だったが、内心では彼女との生活を“夢”で“予習”していたことを隠し続けている自分はずるいなと思っていた。

 七瀬は「不思議な縁か……」と、隼人の言葉を反芻すると何処か浮かない表情をつくる。
そしてナイフとフォークを置くと、グラスを取りクルクルと中のワインを転がす様をジッと見つめ、暫くし残った全部を飲み干した。

 それを見ながら隼人も釣られるようにワインを飲む。
七瀬が一気に飲み干すのを見ていたが、大して中身が残っていなかったのを確認していたので、さほど問題とは感じていなかった。
寧ろ何か思い詰めたような表情の方が気になり、隼人はワインを飲みながら彼女を観察していた。
 
「ふぅ……」

 ワインを飲み干した七瀬が一息吐く。
そしてグラスを置いたかと思うと、空になったグラスを見つめながら七瀨が口を開いた。

「……でもな、知ってたんや――」 

「なにを?」

 突然の告白に隼人はさっぱり内容が分からず、何のことかと問いかけた。
すると七瀬は目を細め隼人を見ると、言って良いものかと戸惑いげに言葉を続ける。

「ななとな、隼人が付き合うことになることを知っとったんよ……」

「えっ?」

 七瀬の告白の威力は凄まじく、あまりの衝撃に語彙力を失ったかのように疑問符ばかりが隼人の口から出る。
だが、それは隼人でなくともそうなって致し方ないと思えるほどの内容であった。
これまで隼人は相手に何を言ったりしたりすれば、次にどうなるかを知っているのは、自分だけだと思っていた。
それは驕っているとか自分を特別視しているとかではなく、自分が見ているものが余りにも不思議なものであるため、同じ体験などしている人間が近くには存在しないだろうと思っていたのだ
それがどうだ、身近に、それも恋人がそうであったと知れば、大抵の者はみな同じ反応になろうというもの。
ご多分に漏れず隼人も驚き、というよりも困惑といった表情を浮かべずにはいられなかった。

「けどクリスマスの日に告白されるんとかは知らんかったんよ――」

 そんな気休めにならない言葉を言いながら、内心自分自身に自嘲する七瀬。
隼人の驚きようは予期していた反応であり、こうなることが分かっていたから七瀬は言うか言うまいかずっと悩み続けてきた。
だが、隠し続ける事は隼人に対し不貞をしているような気さえし、2人の出会いを思い出したタイミングで我慢できず吐露しようと決意をしたのだった。
それでも言えば関係が崩れるかも知れないと思うと、ワインを一気に煽りでもしなければ言えなかった。
こうして言ってしまった以上、もう隠し通すことはできなくなり、七瀬はこれまでの経緯を語った。

 七瀬は隼人と出会った晩、自分と彼が交際している“未来”を夢で見たことを切っ掛けに、それ以降2人のそれからを事ある毎に既視感(デジャヴ)のようにして知ったという。

「そんな……」

 隼人は七瀬が語った内容に静かに呟きを漏らした。
それは、まさか七瀬が自分と同じものを見ていた事実、そして何よりも2人が悪手を回避してきたからこそ今の関係があったのだ。
事実であれば砂上の楼閣のような関係であって偽りの幸せ以外の何ものでもなく、深い悲しみが心の奥底から込み上げてきた。

 そんな隼人の思わず心から出た呟きは七瀬の耳にも届いていた。

「……ここまで言うておいて信じてもらえへんやろうけど――」

 深い感情がそこに込められていて決してそれが良いものでないのは、漏れ出た呟きを聞かなくとも隼人の表情を見れば七瀬の目にも明らかだった。
だが七瀬はそこで言い終える事はなく先を続けた。 

「だからって全部、自分の運命を人任せにした訳やないねん――」

 初めこそ見えた事を未来からの贈り物ギフトだと喜び、それに倣っていたという七瀬。
だが共に暮らし一緒に居る時間が増え、隼人という男性を知り深く惹かれていくにつれ、少しずつ既視感デジャヴに対しズレを感じ始めたという。
誰かに与えられた最良の選択肢を選ぶということは、目の前に居る隼人を見ていないことに気付いたというのだ。

 そしてある日、七瀬は決断する。
それは見えた少し先の未来から選ぶのではなく、その時目の前で自分を見つめる隼人から感じるものだけを信じることにしたというのだ。
すると程なくして七瀬は既視感デジャヴを見る事はなくなったという。

 誰かの選択に倣うのではなく自分自身が選びとることで、それまで感じていたズレはなくなり本当の意味で恋人になれたと感じた瞬間だった。
だが、それは同時に安心という選択肢を捨て、その代償として隼人を失う事への恐怖が心に灯った瞬間でもあった。
まるでその時を思い出したように、これまでこちらを真剣に見ていた瞳が伏せられ、キュッと唇を噛み締める七瀬。

「もし自分が間違った選択をして……隼人が離れていったらって思うたら怖くなって……」

 七瀬はそこまで心内を吐露し終えると、一旦言葉を切った。
そして再び俯いていた顔を上げると隼人を見つめた。

「でもな、そうしたらななが考えている事なんて知らんはずなのに、隼人が言うてくれたんや――」

 そう言うと七瀬は隼人を見つめ表情を和らげると、その顔に笑みを溢れさせた。

「七瀬を失うのが怖くて、いつの間にか目の前が見えていなかった気がするんだ。 七瀬に想ってもらっている、それだけで世界一幸せなのにね。って……」

 七瀬が口にした言葉セリフに隼人は驚く。
それは隼人自身が“チート”から決別をしようと、自分に言い聞かせるため口にした言葉だったのだ。
七瀬に想われているという絶対的な真実に、恥じない自分でいたいと思っての一言だった。
七瀬本人を前にしての発言でなければ、再び“夢”に頼ってしまいそうだと感じての言動であったが、それがまさか彼女に影響を与えていようとは、隼人も思ってもみなかった。

「なんかそれ聞いたら自分は今のままでえぇんやって、 肯定されてるようで嬉しかった」

 突然告げるには荒唐無稽な内容であることは、七瀬自身分かっていた。
だからこそ嘘偽ることだけはしたくなく、ありのまま伝えたつもりだった。

「ごめんな、いきなりこんな話してもうて。 突然こんな話されても困るよね」

 自分の話した事を聞いて内心どう隼人が思ったのか分からなったが、謝りながらも言い終えた七瀬の表情はとてもスッキリとしていた。
これが自分で未来を選び取るということであり、隼人がどのような選択をしても七瀬はそれを受け入れる覚悟は出来ていた。

 一方の隼人も七瀬の話を聞き、自分も同じように幾つもの分岐点で夢とは異なる選択肢を選んでいた事を思い出す。
最初の頃は七瀬同様に夢で見た事を参考にしているだけだと隼人も思っていた。
ところが段々と夢を選ばされている気がし、自らの考えとはズレを感じずにはいられなくなっていった。
だから、七瀬が言った言葉のようなものを彼女に伝え、良心に従い決めることとしたのだ。
良心に従い決めた選択肢が、決して最良ではなかったかもしれない。
それでも紛うことなき自分自身の選択で、七瀬を幸せにしたかった。
七瀬も同じように思ったのだと言うなら、隼人は彼女に何かこの件で言うことはなかった。
寧ろ七瀬のお陰で自分が彼女に“伝えたいこと”を言う覚悟を固めることが出来た。

「いや、七瀬の言うこと信じるよ……」

 そう言いながら微笑んだ隼人はワインクーラーからボトルを取り出し不要な水滴を拭うと、先程で空になった七瀬のグラスにワインをゆっくりと注いでいく。
七瀬の心は隼人の笑みと言葉によって、グラスは鮮やかな赤色を纏ったワインによって、それぞれ満たされていく。

「ありがとう」

 自分の想いが届いたことに言葉と笑顔で返す七瀬。
そして七瀬は隼人に注いでもらったワインを口にすると「食べよっか」と食事を再開させた。
隼人も「そうだね」と相槌を打ちワインを口にしすると、彼もまた再びナイフとフォークに手を伸ばした。

………………

…………

……

コンコン

 2人の皿がすっかり空になった頃、タイミングを計ったようにギャルソンたちが料理を下げに訪れる。

「あの――」

 隼人は自分の皿を下げる年配のギャルソンに声を掛け、何やら耳打ちをする。
するとギャルソンは目配せと頷きを見せると、もう一人のギャルソンと共に部屋を出て行った。

「?」

 隼人と年配のギャルソンのやり取りを不思議そうに七瀬は見ていたが、それについて聞くことはしなかった。
だが、七瀬の目には明らかに隼人の様子が変わったのは認識していて、それが何処となく緊張しているのが見て取れた。
それが証拠に隼人は先ほど自分がやったように、ワインを一気に煽るものだから流石の七瀬も聞かずにはいられなかった。

「どないしたん?」

「いや、何でもないよ」

「ほんまに?」

 そう聞きながら七瀬が隼人のグラスにワインを注ぐと、苦笑を浮かべ「本当だよ。 ありがとう」と言われ、それ以上聞けなかった。

コンコン

 暫くすると再びノックと共に年配のギャルソンが、1枚の皿を手に戻ってきた。
扉に対し背を向け座っている七瀬からはそれが見えず、テーブルの横にギャルソンが来ても座る彼女からは長身の彼が持つ皿の中身が見えなかった。
だが、隼人の様子が気になっていた七瀬は、それを気に留めていなかった。

「こちらが本日の特別な一皿となります」

 だが、そう言ってギャルソンが皿を置くと、七瀬の関心先が変わる。
新たな関心先となったのは七瀬の目の前に置かれた真っ白な皿。
何も盛り付けられておらず、穢れを知らない純真無垢な白い皿が一枚目の前に置かれていた。

「???」
 
 これから何か切り分けたりしてとも思った七瀬だったが皿は一枚自分側に置かれたのみで、ギャルソンは部屋を後にしようとしていた。

「ごゆっくりお楽しみください」

 そして説明もないままギャルソンは会釈と共に部屋を後にした。
残されたのは隼人と七瀬、そして一枚の白い皿だけだった。

 何も盛り付けのない白い皿を置かれ“特別”と言われても意図を理解しかねた七瀬だったが、隼人の顔を窺い先程より緊張度の増した表情に何かを感じ取る。

 真っ先に浮かんだのは自分への誕生日プレゼントのサプライズ演出なのだろうと思った。
そして七瀬の予想通りに隼人は何やらポケットから取り出すと、それを皿の上に置いた。

 深紅の小さな箱。

 閉じられていたが箱から察するに宝飾品ジュエリーだろうと予想する七瀬。
とは言え、隼人からのプレゼントならどんな物でも嬉しく、こうやってディナーデートだけでも十分誕生日を満喫出来ていた。
それでもこうやって毎年何か考えてくれる隼人の気持ちが嬉しく、今年のサプライズにも胸躍る七瀬。

「七瀬――」

 だが、この後続いた隼人の言葉と箱の中を見て、七瀬は手で口元を覆った――。










-次話予告-

『どの世界の……』

 最初の一節に七瀬はハッとする――。


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