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『世界がいくつあったとしても』誕生記念:第二弾

結び:前編“切っ掛け”

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「あんたは10ヵ月ボーッと待ってれば良いけど、こっちは悪阻つわりが始まってるし、上司にバレそうだし朝から毎日泣きそうなのっ!」

 “西野 七瀬”は叫ぶように鋭い言葉と苛立つ視線を、見下ろしながら目の前にいる相手へと投げつけた。
そこまで言うと七瀬は目を伏せ何かを思案するように沈黙する。

「……それでも仕事を辞めたくない。 今のわたしから仕事を取ったら何もないから」

 短い沈黙が明け再び話始めた七瀬の様子は、それまでと異なり思い詰めたように暗く沈んでいた。

「……」

 まるで世の全ての男性オトコに対し投げかけられたような言葉セリフ
望む望まぬに関わらず変えようのない仕組みことわりであり、それが形を変え鋭利な刃となってこの部屋ただ1人の相手である“男”へと降り注いだ。
男は腰掛けたソファーから見上げたまま、彼女から降り注ぐ言葉の刃をその一身で受け止めていた。

「……」

 そんな厳しい言葉であったが向けられた男、“新城 隼人”は傷付いた訳でも憤慨した様子を見せることもなかった。
ただ、七瀬から投げかけられた言葉を受け止め何か感じ、そして考え込んでいるようであった。

「ちょっ、どないしたん?」

 そんな隼人の反応が予想外であったのか七瀬は驚きを見せる。
その様は先程までの鋭いものとは打って変わり、眉尻は下がり隼人を心底心配しているように見える。

「あっ、ごめん」

 すると考え込んでいた隼人もまた七瀬のガラリと変わった様子に気付いたのか、我に返った様に少しバツが悪そうに苦笑した。

「急に黙り込むんやからビックリしたわ」

 2人は先程までのやり取りが何であったのかと訝しく感じるほどに、表情に笑顔が戻っていた。

「ごめん。 あまりの迫真の演技に呑まれちゃってさ」

 隼人は、そう言いながら右手に持った閉じられたままの冊子をそっと捲っていく。

「そないなこと言うて、ホンマなんかなぁ」

 言葉とは裏腹に演技を隼人に褒められ、七瀬は何処となく嬉しそうな表情を見せた。
七瀬は、自分の持っていた冊子をソファー前のテーブルに置くと、その場を離れて行く。

 隼人は、ページを捲りながら七瀬のパタパタと歩く足音が何処へ行くのか気にしていると、彼女はキッチンの方へと歩いて行き、直後冷蔵庫を開ける音がした。
隼人は、ページを捲るのをやめ冊子を閉じると、表紙に印刷された文字を読む。

【Amazon Primeビデオ オリジナルドラマ ホットママ 第一話 台本】

 それは先程、七瀬がテーブルに置いた冊子にも書かれていたものと同じで、彼女が主演するドラマの台本であった。

 このドラマは2013年に中国で放送され、仕事に子育てに奮闘する主人公の姿が大きな反響を呼んだ大ヒット作品を、日本版にリメイクしたAmazon Primeビデオのオリジナル作品となる。
アパレル会社のレディース部門で働き、世界に通用するファッションディレクターを夢見る、主人公・松浦 夏希を七瀬が演じる。
ある日突然、新設のベビー部門への異動を言い渡され、同時期に大学時代の同級生と再会。
意気投合して一夜をともにしてしまい、その数ヵ月後に妊娠が発覚する。
夏希は妊娠・結婚・出産・育児を乗り越え、仕事と家庭の両立、そして夢を実現することが出来るのかを描く内容ストーリーとなっている。

 配信専用のコンテンツではあったが、七瀬にとり乃木坂46を卒業後初主演とあって決まった時の彼女の喜び様を隼人は今でも覚えていた。

 しかし2020年新型コロナウイルスが猛威を振るい、地球規模で未曾有のパンデミックが起きていた。
多くの人命が失われ、経済活動すら抑制しなけれならず、日本でも本来開催されるはずであった東京オリンピック、パラリンピックも翌年に延期される事態となり、終わりの見えない日々を人々は過ごしていた。
そんなコロナの影響は七瀬のいる芸能界にも波及していた。
政府から緊急事態宣言が発令され、ドラマの撮影なども中断を余儀なくされた。
それは七瀬が出演する“アンサング・シンデレラ”も同様であり、撮影中断の影響でクランクアップが遅れに遅れたのだ。
全ての撮影を終えたのが、ホットママの撮影開始2週間前となってのことだった。
だが撮影が終わったからといって全神経を次の作品に集中できる訳もなく、番宣や主演“石原 さとみ”のクランクアップに合わせ現場を訪れたり、レギュラー番組の収録など多忙であった。

 そんな七瀬を一番近くで見てきた隼人は、彼女の負担を減らすべく家の事は勿論、今回の様に台本の読み合わせも買って出た。
ところが……迫真の演技を前に隼人は主人公 夏希の台詞を七瀬の口から聞き、心抉られるような想いだった。

 べつに七瀬の言葉セリフに反感を持ったわけではない。
寧ろ日々変わりゆく世界の中で、多忙を極めそれでも歩みを止めず前進もうとする七瀬の姿に、自分は今のまま平々凡々と過ごし彼女との“恋愛”をただ楽しんでいて良い訳がないのだ、と気付かされたのだった。
もし七瀬が夏希と同じように妊娠したとして、果たして安心して産む事が出来るのだろうか、今のままでは彼女に同じ事を言わせてしまうのではないか、と目の前に突き付けられた気がした。

 隼人はこの時大学4年。
コロナ禍でも就職活動は無事行うことができ既に希望する企業に内定を得ていて、残すは卒業論文を書き終えるのみという所まで来ていた。
一般的にこれだけで十分過ぎる状態にあるのだが、隼人は自分の状態に自問自答する。

 本当にこのままで良いのか?
では、どうするべきなのか、どうしなければならないのか……いや、どうしたいのか。
考えを巡らすうち底知れぬ思考の沼にはまっていく隼人。

 そんな事を考えていると、ふと鼻腔を覚えのある香りがくすぐる。
その香りに隼人の意識は思考の沼から引き上げられ、直後頬に突然ひんやりとした冷たい物が触れた。

「?!」

 咄嗟に身体が反応しビクッと体を震わせると、隼人は何かが触れた方に視線を向ける。
すると隣にはいつの間にか飲み物入りのグラスを手にした七瀬がいて、どうやら手に持つそれを頬にあてがわれたようだった。

「ビックリした?」

 そう言って七瀬は悪戯っ子が悪さを成功させたかのように微笑んでいた。

「……」

 付き合い始めて四年、見慣れたはずの七瀬の顔を隼人は改めて見つめる。
付き合い始めて知った七瀬の意外な一面、隼人が悪戯に引っかかる度に幾度も見せてきた笑顔がそこにあった。
何気ない表情、何気ないやり取り、何気ない日常、そして七瀬から漂ういつもの香り……今目の前にあるものは隼人にとって当たり前のもののはずだった。
だが、全てが当たり前の事に囲まれていたはずなのに、台詞とはいえたった一言、演技とはいえたった一つの出来事で、崩れてしまうほど実は危うい均衡バランスの中で保たれていたことを痛感させられた。

「ごめんて……そない怒らんといて」

 隼人が自分のすることでは滅多に怒る事はないと七瀬も知っていたが、黙り込み反応を見せない彼を見て悪戯以外に思い当たる節がなく少し困ったような表情を見せる。

「怒ってないよ。 ただ……七瀬がここの所ずっと忙しそうだから、何か俺に出来る事ないかなって考えてたんだ」

 見つめていたらみるみるうち表情が曇る七瀬の表情に、隼人は咄嗟に考えている事とは違う事を口にしていた。

「ふふ、心配してくれるん? でも、アイドルしてた時の方が大変やったやんか」

 隼人から優しい言葉を聞き安心したのか再び表情に明るさを取り戻した七瀬。
七瀬は心配ないとでも言いたげに笑うと、隼人の隣に座り持っていたグラスに口にする。
飲み物を嚥下する度、少し蒸し暑い室内で少し汗ばんだ七瀬の細い喉がコクコクと僅かに隆起した。

 くるくると豊かな表情を見せる七瀬に、隼人は何かを思い出すように目を細めた。
隼人は七瀬のファンとなった当初から彼女に対し“何か特別なもの”を感じていた。
だからと言って本人に会う機会が訪れるようなことはなく、彼女を知る切っ掛けはいつも雑誌やテレビという“綺麗に成形された姿”だけであった。
“オタク気質で内向的な泣き虫、それでいて頑張り屋なところもあり、誰もが守ってあげたくなる雰囲気を持ち合わせた愛され妹キャラ”
それが推しファン達の間、そして当時の隼人の七瀬に対する共通認識であった。
ところが“夢”で七瀬と出会い、後に実際に交際し一緒に暮らすと共に、今こうして彼女の隣に居てみると、その印象は大きく異なることが分かった。

 確かに漫画が好きで“ジョジョの奇妙な冒険”や“銀牙 -流れ星 銀-”など本棚にはかなりの量の本が並び、ゲーム機も最新のものがテレビの前に鎮座している。
だが、それにばかり没頭し大事な2人の時間を消費するようなことはなく、むしろ一緒にいる時間を七瀬はとても大切にしていた。
また休みの日は基本昼まで寝ていると述べていたが、実は隼人と外出デートをすることが多く前日から服選びをしたり、朝は眠い目を擦りながら鏡の前でメイクをする七瀬を何度も見た。
年上でありながら年下の隼人を揶揄からかっては楽しむ子供のようなところを見せたかと思うと、大人びた表情で自分に迫って来るような女性であった。
中には相手によって笑顔を使い分けたり、共演者のしつこいアプローチに悪態を吐くなど、決して褒められないものも多分に含まれていた。

 それでも隼人は思う。
それが“西野 七瀬”であり、自分はそんな彼女の全てが愛おしいのだと。
少し前から既に伝えるべき言葉は胸の内にあったが、今ではないと隼人はそれを心にしまい込んできた。
それも今回の七瀬が演じる“夏希”の台詞で、その躊躇する気持ちが消え去った。
もう先延ばしにするのではなく、七瀬に大事なことを伝えるべき時期が来たことを感じ、隼人は“ある重大な決意”をする。

 人知れず重大な決断を下した隼人は無性に喉の渇きを覚え、七瀬から受け取ったグラスに口を付けた。
夏が残した暑さにやられた喉の渇きを、ひんやりとし麦茶が香ばしい香と共に潤していく。

 喉が渇いたことすら忘れる程に自分が考え事をしていたことに気付き、ふと隣でソファーに座る七瀬に視線を移すと、既にグラスを置き再び台本を読み込んでいた。
時折何かを書き込んでいた。

 2人にとって何気ない日常の一場面。
だが、明日も同じような一日が訪れるとは限らないのだ、そう思うと隼人は無性に七瀬が欲しくなった。

「……七瀬」

 隼人が名を呼ぶと、七瀬はそれまで読み込んでいた台本から顔をあげた。

「どないし――」

 隼人は言葉を言い終える前の七瀬を、強引に抱き寄せると唇を奪った。
フワッと麦茶と七瀬が愛用するソープの香りが微かに隼人の鼻腔をくすぐった。

「んっ!?……」

 突然のキスに驚き目を大きく開ける七瀬。
だが、それも一瞬、すぐに七瀬は隼人を受け入れるように目を閉じた。

 触れるだけの口吻くちづけ
唇に伝わる温もりは、まるで互いの感情のように次第に熱を帯びてゆく。
七瀬は我慢できず少し唇を開くと、そこへ隼人の舌が侵入していく。
舌先が触れやがて互いの気持ちを伝え合うように絡み合う。

カラン

 グラスの中で2人の熱に当てられた氷が音をたてた――。










-次話予告-

「こちら本日の特別な一皿になります」

 そう言ってテーブルに置かれたのは、何も盛り付けられていない白い皿であった――。


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