『世界がいくつあったとしても』
第18話:『……ななはアホや』
「隼人のこと煮込んだる♪」
「えっ……」
七瀬が発したの唐突な一言に、目を丸くする隼人。
「「……」」
隼人が何も言わないせいで七瀬も一緒に黙るものだから、2人の間に暫しの沈黙が流れた。
「……ちょっとなにか言うてよぉ。 すべってるみたいやん」
沈黙に耐えきれず七瀬が困った様に助けを隼人に求めた。
すると、見つめ合う隼人がポツリと一言漏らす。
「……エグい」
「「……」」
再び訪れる沈黙の最中、七瀬はあることを思い出す。
それは以前、乃木坂46が冠番組のハロウィン企画で魔女の格好で、このセリフを言った七瀬。
番組MCのバナナマンの設楽に言わせれば笑顔で言うには“結構エグい”ようで、七瀬の表情とのギャップがツボらしく、相方の日村と共に大笑いしていた。
七瀬はその時言われたことと、隼人の言葉が重なった。
「「……ぷっ」」
お互い同じ事を考えていたのか、どちらからともなく吹き出す2人。
「あはは、隼人まで設楽さんみたいなこと言わんといてよ」
「あのやり取り好きだったから嬉しくてつい……。 でも、咄嗟で上手く切り返せないな」
「悔しそうにせんでよ。 芸人さんちゃうんやし」
いつの間にか部屋を支配していた重い空気は一変。
2人は笑顔を取り戻し、再び席へと戻った。
七瀬は席に戻ると徐にワインを一口飲む。
するとグラスに口を付けたまま七瀬は視線を伏せ、何かを考えているようだった。
「でも、ほんまやから……隼人に他人行儀にされるんは、ほんまに嫌……」
再び視線を上げた七瀬の表情は真剣そのもので、その言葉に隼人は驚いた。
「昨日まで名前も知らない他人やったはずやのに……今は隼人のこと全然そう思えへん」
「七瀬……」
「そう、そうやって隼人に名前を呼ばれると嬉しくなる。 これって……」
“恋”かと隼人に問い掛けかけて口を閉ざす七瀬。
言ってしまったら最後、後戻り出来なくなることを七瀬は感じていた。
躊躇する理由は今になり“アイドル”という、もう一人の自分の存在が首を
“アイドルと恋愛”は“水と油”でしかなく、決して相容れない存在でしかない。
更に、その水と油の匂い嗅ぎつけ、食い物にする
自分が恋をすることで、自分やメンバーが積み重ねてきたこれまでを無にし、自らの未来、延いては“乃木坂46”というグループの運命さえ左右するかも知れないのだ。
高山 一実……斉藤 優里……川後 陽菜……伊藤 かりん……伊藤 純奈……。
次々に浮かぶメンバー達の姿、彼女たちは自分が隠れて恋愛をしたと知ったらどう思うのだろう。
また、それとは別に“卒業”という二文字が過る。
そして何より、卒業し自分から“アイドル”という肩書きが無くなった時、目の前のこの
すると突然、脳裏に走馬灯のように様々なシーンが駆け巡る――。
『七瀬の好きなようにやんな。 あたしは七瀬の直感は正しいと思うし、それを応援するよ』
――奈々未が送ってきたLINEの文面。
この一言が迷っていた七瀬の心の後押しとなった。
『どの“世界”のななも隼人が大好きなんは確定してるんやから……』
――夢に見た自分と同じように隼人を好く、もう一人の七瀬。
この夢が切っ掛けとなり、七瀬は隼人へ連絡することになる。
『“乃木坂46のなな”やなくて、何でもない“普通のなな”になったけど、好きでいてくれる?』
――初めて見る光景。
水平線から昇る太陽を見つめながら、同じように隣で佇む隼人に、そう問うもう一人の七瀬。
その問いはまるで自分の気持ちを代弁するものであり、またそれまで肯定されてきた2つの
そんな七瀬を見透かすように心の準備の整わぬ内に、隣にいた自分の知らないもう一人の隼人が口を開く。
『……10年後も、20年後も、いや――』
ゆっくりとした口調で語る隼人だったが、そこまで言うと目を伏せた。
それに対し、もう一人の七瀬が顔を覗き込む。
すると、繋がれた手が隼人によって優しく握られ、その手の感触や温もりがもう一人の自分を通し伝わってくるのを感じた。
実際には、まだこんな風に触れたことのない温もりだというのに、これは隼人のものであると七瀬は確信できた。
そして、同時に“あること”に気付いた七瀬は、自分を戒めるように独り言ちた。
『……ななはアホや』
七瀬に伝わってくるものは、なにも温もりだけではなかった。
突如、知らないもう一人の自分が現れ、その彼女の身に起きたことを追体験している。
そんな摩訶不思議な状況だから、彼女の考えていることが七瀬に伝わってきても、何ら不思議なことではないだろう。
事実、もう一人の自分の隼人へと抱く“純粋”な気持ちが、七瀬へと伝わって来ていた。
そこにあったのは“好き”という、たった一つだけの感情。
もう一人の自分が抱くのは、唯々相手を想う純粋な気持ちのみであった。
そんなもう一人の七瀬の気持ちに応えるかの様に、伏せていた顔を上げた隼人は迷いのない瞳でこちらを見つめ、続きを口にしようとする。
『どんな――』
ところが、そこで七瀬は現実へと引き戻され、先程まで食事をしていたレストランの一室が目に飛び込んできた。
隼人が何を言おうとしていたのか肝心な所で途切れたが、七瀬にとってもうそれは重要ではなくなっていた。
何故ならば、期せずしてもう一人の自分が隼人へと抱く気持ちを垣間見、同じ“男性”を想う者同士の気持ちの“純度差”を知り、それが何の差であるかを理解したからだった。
もう一人の自分はアイドルでありながらも、隼人のことも決して諦めなかった。
彼女にとって隼人がどういった存在なのか、彼女から伝わってきたアイドルとしての“覚悟”が物語っているように七瀬は感じた。
それと比べ、自分はどうだったのだろうか。
ずっと、誰かの後ろを付いてまわっていた七瀬を、乃木坂46という存在が変えてくれた。
それまで困難で無理だと思っていたことが、自分の行動次第で乗り越えられることを、活動する中で身を持って体験したからであった。
七瀬にとって、それは大いなる自信へと繋がり、今日の原動力ともなっていた。
そうやって、やって出来ないことはないのだと思う一方で“西野 七瀬”は乃木坂46のメンバーであり、アイドル界という一つの世界の一員だという事実が存在した。
そこには大事な理(ことわり)があり“乃木坂46”として、何より“アイドル”として、優先すべきものがあった。
その一つが“恋愛禁止”であり、その存在理由を七瀬も理解していたし守ろうとしてきた。
だから、これまで誰かに好意を抱く度、その感情が溢れ出ないように、“理屈”や“理論”が防波堤となりコントロールしてきた。
ところが、隼人との出会いで、その防波堤はいとも容易く決壊し、“好き”という感情が止め処なく溢れてくる。
だが、かと言って全てを無視できる程に七瀬は傍若無人でなかったし、何より隼人の気持ちを確かめた訳でもなかった。
そんな宙ぶらりんな状況にあったから、感情と理屈、理想と現実の狭間で揺れ動き、それが“恋”を濁らせる不純物となっていたのだ。
そんなことが頭の内に浮かんだものの、結局のところ純粋に相手を想い切れなかった自分自身への言い訳にしていただけだと気付き、七瀬は独り言ちたのであった。
ふと、そこで目の前の隼人と視線が重なる。
隼人は会話が突然途切れたことに、どうしたのかと言うような表情で七瀬を見てきた。
彼は現実世界の隼人であるから、自分をどう想っているかなど分からない。
だが、その淀みない瞳に見つめられ、七瀬は自分の内から溢れ出る想いに、一つの決断をする。
『伝えたいことがあったら、ちゃんと伝えな……』
それまで見てきた様々な光景を思い出し、そして内から溢れる想いを胸に自らを奮い立たせると、七瀬は2人の関係を一歩進めようとした。
「なぁ、隼人――」