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『世界がいくつあったとしても』

第16話:「ななだけが浮かれてたんかな……」

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 淡く照らされた部屋へやには男女2人の影があった。
外の喧騒から隔離された部屋には、美しいクラシック音楽が静かに奏でられ、この場所だけ時間ときがゆっくり進んでいる、そんな錯覚さえしそうな雰囲気が流れていた。
部屋の中央には、2人を別つ桃花心木マホガニーのテーブルがあり、ダウンライトの光はその赤みを帯びた木肌をより色濃くし、その上に敷かれた白いテーブルランナーや並べられた食器とのコントラストを強めていた。
雪の結晶柄のテーブルランナー、その上に飾られたミニキャンドルとミニツリーが、窓のない部屋の中をクリスマスに演出していた。
そして、2人の前にはクリスマスディナーの前菜と、グラスにはそれぞれ異なる色の飲み物が注がれていた。

「乾杯」

「か、乾杯」

 女がグラスを傾けると、慌ててそれに合わせるように向かいに座る男もグラスを傾けた。
チンというグラス同士の当たる甲高い音が部屋に響く。
本来はマナー違反だと言える行為も、この部屋に咎める者は居らず、音だけが余韻を残し消える。
スッと残響が消え、目の前の慌てたような男の様子に微笑むと、女はグラスに注がれたレモンイエローの液体をコクリと一口含む。
その白ニットのタートルネックから伸びる白くほっそりとした喉元が、嚥下でコクリと動く様は美しかった。

 口の中で林檎リンゴ洋梨ラフランスを思わせる芳醇な香りと甘みに加え、葡萄の生き生きとした酸味が拡がり、後味のアルコールもしつこくなくキレの良い口当たりをしていた。

「美味しい」

 そう感嘆の声を漏らしたのは“西野 七瀬”であった。
そんな七瀬は普段からあまりアルコールを摂らない。
それは、メンバーや関係者との食事をする機会がある時でさえ、お酒を口にすることは多くなく、飲んだとしても今でも苦さが勝ち美味しいと感じられることは少なかった。
ところが、今日に限っては感想を漏らす程に、ワインが美味しいと七瀬は感じていた。
偶々、口にしたワインが女性を強く意識したもので、飲みやすかったということもあるのだろうが、それ以上に目の前の“存在”によるところが大きかった。
テーブルを挟み座る男の存在、それが七瀬を高揚させ飲み慣れないワインの味さえも変化させていた。
そして勿論、男とは“新城 隼人”のことであり、七瀬は改めて彼を見つめた。

 一方、その隼人はというと、乾杯をしたもののグラスに口を付けもせず、ワインを飲む七瀬を見ていた。
当然、目の前の七瀬がこちらを見れば目が合う形になるのは想像に難くなく、案の定一口飲み終えた七瀬と目が合う。
見つめ合う形となった2人であったが、七瀬に微笑みを向けられた隼人は、再び慌てたようにグラスの中のワイン……ではなく、未成年者のために用意されたノンアルコールワイン、所謂葡萄ジュースを口にする。

「あっ……これ美味しい」

 慌てて口にした隼人だったが、喉が渇いていたことや、グラスの中身の想像以上の美味しさに、それまで考えていたこととは全く無縁な感想を漏らした。

 すると、七瀬が興味を持ったのか「どれ、ななにもちょうだい」と、隼人からグラスをひょいっと取ると一口飲んでしまう。

「ほんまや。 ななはワインよりこっちの方が好きかも」

 笑顔でそうさらりと言い何事もなかったように、自分の口を付けたグラスを隼人に返す七瀬。
だが、渡された隼人の方はというと、グラスと七瀬を交互に見て複雑な表情をしている。

『これって……』

 いくら自分の物とはいえ、今し方トップアイドルが口を付けたグラスで、再び飲んでも良いものかと悩んでいた。

「どないしたん?」

「あっ、ううん……何でもないです」

 そう言って隼人は再びグラスに口を付けると、先程よりも甘く感じた。

 それから暫く運ばれてきた料理を2人は堪能する。
前菜をはじめ、丁寧に裏ごしされ滑らかな舌触りの京蕪とキャビアのパンナコッタや、モッツァレラチーズに生クリームが加えられ濃厚なブラータチーズと程よい酸味のフルーツトマトのカプレーゼ仕立てなど、クリスマスディナーらしく女性が喜ぶような料理ばかりであった。
勿論、七瀬も上機嫌で自然と酒も進み、普段よりも饒舌になっていた。

「でな、まいやんが――」

「……そんなことがあったんですか」

 ところが、饒舌になる七瀬とは対照的に、何処か隼人は浮かない様子。
七瀬が喋る傍ら、隼人は相槌を打つも何処か遠慮がちで、考え事をしているようでもあった。

「なぁ、なんでさっきからずっと他人行儀なん?」

 確かに隼人の言葉遣いは相変わらず丁寧なままで、指摘としては頷けるもの。
しかし、七瀬が問題にしているのはそこではなく、心の距離が昨日よりも離れている様に感じられたことにあった。
昨晩までの隼人であれば、会ったばかりだろう距離を感じさせる物言いをしていたかと思うと、突然に七瀬の望む恋人のような甘い言葉を囁いてくる。
そうかと思い気を良くしていると、再び会ったばかりだと言うような素振りを見せ、その絶妙な距離感に七瀬は翻弄されるばかりであった。
“飴と鞭”を使い分けられているようで、翻弄される度に隼人に対する想いを募らされていた七瀬。
ところが、今の隼人からは丁寧とも違う、余所余所しさしか感じられない。
距離を縮めたいとこうやって食事に誘ったというのに、離れた心の距離が切なく、七瀬は堪らず隼人に問いかけたのだった。

 一方で、そう七瀬に問いかけられた隼人だったが、上手く返答出来ずいた。
それもそのはず、隼人自身現状に混乱をしていたのだ。
原因は目の前の七瀬が身に付けている服装にあった。
空想の産物でしかなかった服を、七瀬が現実に着て現れたのだから、隼人が混乱するのは当然のことであろう。


 それを夢の中で見たのは、あるクリスマスシーズンを迎え七瀬とデートをする前日の話――。

…………………………

……………………

………………

…………

……

「なぁ、隼人。 これなんてどう?」

「それも可愛いよ」

「もう! さっきからどれ着ても、おんなじ返事ばっかりやん。 ちゃんと見てる?」

 服を胸に当て楽しそうな見た目とは裏腹に、あからさまに“不満ですよ”という視線を隼人に投げかける七瀬。
ところが、投げかけられた側の隼人は、そんな視線とは無縁とでも言うようにニコニコとしていた。

「勿論。 だって、どれ着ても七瀬似合うから、優劣付けがたくて……」

「ほんま? なら、えぇけど」

 疑うような言葉とは裏腹に、隼人からの一言に何とも嬉しそうな様子の七瀬。
それをソファーで寛ぎながら、にこやかに隼人は見ていた。

 ここは2人が住むマンションのリビング。
今、2人は明日のクリスマスデートに、七瀬が着ていく服を選んでいる真っ最中だった。
クローゼットから服を取っ換え引っ換えし、ミニファッションショーを開いている七瀬。
七瀬が何着も着て見せても同じ反応ばかりで、いい加減怒ろうかと思っていたが、思わぬ隼人の返答に喜んでいる七瀬。

「ん?」

「どないしたん?」

「そのクローゼットの端にある服って……」

「あ、これ?」

「うん、それ。 それってさ。 昔クリスマスの時に着てデートしたことあったよね?」

 隼人が指差した服をクローゼットから取り出すと、七瀬は懐かしそうな表情を浮かべそれを眺めた。
それはビッグシルエットの白のボアブルゾンだった。
当日はそこに生成りのニットとスカートを合わせ、オフホワイトと生成りを混ぜ白のグラデーションで、ワントーンを上手に着こなしていた。

「そうやね」

「古いのをとって置くなんて、お洒落好きな七瀬にしては珍しいね」

「捨てられる訳ないやん! これでクリスマスに初デートしたんやから。 まさか、隼人にとってどうでもいい“思い出”とかではないやんな?」

「ううん、今でも覚えているよ」

「懐かしいなぁ。 もう、あれから何年経つんやっけ?」

…………………………

……………………

………………

…………

……

 そんな“夢”を以前に見たことを、隼人は今でも鮮明に覚えていた。
やはり、その夢は現実的リアルだったが、まさかその時の服を着た七瀬が待ち合わせ場所に現れるとは思っていなかったし、今でも信じられない気持ちで一杯だった。
待ち合わせ場所で自分のことにすぐ気付いたことを七瀬は凄いと驚いていたが、夢の中で記念だからと同じ服を着て再びデートまでしたのだから分からない訳がなかった。
既視感デジャブでもなく思い違いでもない、鮮明な記憶に戸惑い、混乱していたから、だから隼人は七瀬に対し敬語になっていたのだ。

 七瀬からすれば、最初こそ緊張しているのかと思ったのだが、一向に縮まらない距離感がもどかしく望む答えを得られないと分りつつも、聞かずにはいられず隼人に尋ねた。

「なぁ、隼人なんでなん?」

「それは……」

 一方、“夢”の中での話などと言える訳はなく、自分自身混乱していることもあって七瀬に説明のしようがない。
隼人は困り果て俯いた。

「「……」」

 どうしようもない空気が流れ、沈黙が部屋を支配する。

「なな“だけ”が浮かれてたんかな……」

 七瀬の呟くような一言も、今の隼人には非道く大きく聞こえ、言葉が胸に深く突き刺さる。
顔を上げていないというのに、七瀬の泣き顔が脳裏を掠めた。
現実世界で見た事などないはずなのに、まるで見たことがあるように鮮烈に思い出される七瀬の表情に、思わず隼人は顔を上げた。

「ッ!」

 七瀬の両の手にはナイフとフォークは握られていた。
だが、既にそこに食事の意思はなく、意思を示すのはポロポロと両の瞳から溢れる涙だった。

「ごめん……なんで涙出るんやろ……ほんま、ごめんな」

ガタッ

 七瀬は立ち上がると、隼人に涙を見せまいと顔を手で隠す様にしながら部屋を出ようと隣を通り過ぎようとした。

 その時であった。
ふっと、隼人の目に映る全ての景色から色が消えモノクロとなり、隣を行く七瀬の動きがスローモーションの様に見え始めた。
その様子に目を見張る隼人。

『何だよこれ……』

 何が起きたのか分からない隼人を余所に、聞き覚えのない“声”が何処からともなく響く。

 “行かせてはダメだ”

「男? 誰だよ! これって何だよ?」

 恐いそんな風に思いはしなかったが、その声に何事かと周囲を見渡し問いかける隼人。
だが、問いかけに答える者は誰も居らず、部屋に居るのは出ていこうとする七瀬と自分の2人だけだった。

ガチャッ

 気が動転している隼人を余所に、ゆっくりと時間ときは進み続けていたのだろう。
七瀬がドアを開け、外へと出て行く間際だった。

バタンッ!

 隼人が、それに気付いた時には時既に遅しと、扉が閉まる瞬間だった。
そして、閉められた音と共に、隼人の見ている世界は再び変化を起こす。
暗転するように、世界から全ての光が消え、ふっと七瀬の気配も消え失せた。

 突如訪れる壮大な“喪失感”。
暗闇に包まれた世界はまるで、七瀬の存在自体をこの世から消し去られたかのような、錯覚を覚えた隼人は恐怖し、そして激しい後悔を憶える。
七瀬のファン……いや、一人の女性として好意を寄せていた。
だからこそ、あんな夢を観ていただろうに、結局本人を前にしても自らの事ばかりを優先させるような選択をしていた。
後悔は更なる後悔を生み出し、その後悔を吐き出す度、隼人の世界を包む暗闇をより漆黒に塗り潰していく。
闇の深さが限界となる程に後悔を吐き出した頃、隼人の内に一筋なる光が残っていた。

 それは七瀬を“想う”気持ちだけで出来た光。
今日という日の続き、今という時の続きが、必ずしも訪れるとは限らない。
それを身を持って“後悔”という体験を通し学んだ隼人。
もう、ハッピーエンドという選択肢が残されていない事は、隼人も分かっていた。
だが、これ以上後悔を重ね、彼女を泣かせたままにしたくはなかった。
その気持ちは、純粋なまでの想いが結実したものであり、先程まで存在していた迷いは、何処にもなくなっていた。

 そして、隼人は無意識に暗闇へと、手を伸ばした――。


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