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『世界がいくつあったとしても』

第13話:「なぁ、あかん?」

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 隼人は七瀬の言葉を、額面通りの意味で受け取っていた。
だから、普段の隼人であればこの場でも鈍感力を発揮し、圭子相手の時のように七瀬にも溜息を吐かせたことだろう。
だが、そうならず寧ろ七瀬の気持ちを、高ぶらせられたのには理由わけがあった。

 隼人は、七瀬が求めているであろう答えを、事前に知っていたのだ。
正確には“もう一人の七瀬”を知っていたからと言うべきなのかも知れない。
それというのも、以前より隼人は七瀬と恋人同士というシチュエーションの“夢”を屡々しばしば見ていた。
夢と言うには不思議なほど生々しくリアルで、普段ライブやテレビ越しでは適わない七瀬の笑顔の裏にある様々な感情や姿を隼人は見ていた。
そんな夢の中にあって、七瀬が照れ隠しとして口にしたのが先程の言葉であり、それに対する隼人の返答も“同様”のものであった。

 そう、同じであったのだ。
偶然の一致か、2人は夢の内でも現実世界同様の会話をしていて、しかも、それは一度や二度ではなかったのだ。
最初こそ決まって訝しむ様子を見せるのだが、直ぐに満更でもない嬉しそうな表情を見せ、同じような言葉を投げかけてくるのが、七瀬の愛情を確かめる一連の流れであった。
そんな事情があり、七瀬に同じ事を聞かれる度、隼人は毎回同じ返答を繰り返していた。
毎回同じなのは、それ以上に簡潔に気持ちを伝える術を隼人は持ち合わせて居らず、七瀬もその言葉が最も安心するからだった。
そうやって、夢の中の七瀬と過ごすことの方が長かった隼人は、電話越しの七瀬が同様の問いをしてきたことに無意識に反応し、普段通りの返答したのだった。
とは言え、隼人の言葉がその場任せのものであったなら、七瀬の心を掴むことは他の男性同様出来なかっただろう。

 そんな事情があったことなど露とも知らない七瀬であったが、偶然の一致だろうか隼人の言葉を聞いたその表情は、夢の内の"もう一人の彼女"と同じ笑みを浮かべていた。

 ここまで七瀬の表情や様子を見る限り、隼人が彼女を上手くリードしているようであった。
だが、それも夢の内での話とはいえ"もう一人の彼女"との生活がもたらした功罪であって、不正チートによって得られた状況が長く続くことはなかった。

「ほんまに? せやったら、私も“隼人”って呼んでえぇよね?」

「あっ、いや、それは……」

「なんで? あかんの?」

「なんでって……」

「なぁ、なんで?」

 電話越しの隼人の困ったような声に、自分が我が儘を言っているなと自覚する七瀬。
だが、言い間違えたのだとしても自分の名を呼ばれたことが嬉しく、他人行儀に“西野さん”と呼ばれることに違和感を感じた七瀬は“名前で呼ばれたい”と、どんどん気持ちが我が儘になっていく。

「咄嗟だったから言い間違いというか……」

「ななが、えぇって言ってもあかん?」

「そ、そういう訳じゃ……」

 もっと、もっと、と隼人に対し我が儘になっていく七瀬。
追及されても拒絶することなく、しどろもどろになる隼人の態度が、七瀬の気持ちを一層加速させていく。
七瀬の悪戯っ子のような弾んだ声が、いつしか主導権が彼女へ移ったことを教えていた。

「やったら、ななは"隼人"って呼ぶから、 隼人も“ちゃんと”ななって呼んでな。 決まりやで?」

「そ、そんな……」

「……」

 もう一押し。
もう一押しのところにきて、隼人の嘆きにも聞こえる呟きが、七瀬の表情を一瞬にして曇らせた。

「……嫌やった?」

 “拒絶されることはない”
相手が自分のファンだからとはいえ、そんな根拠のない自信が心の何処かにあった七瀬にとり、隼人の言葉はショックだった。
それまで、隼人の様子を楽しんでいるように見えた七瀬の声からは明るさが失われ、逆に伺うようなものへと変わっていた。

 ところが、そんな七瀬の反応に驚いたのは言った張本人である隼人だった。
別に名前を呼ぶことを拒絶した訳ではなく、どちらかといえば“七瀬”と彼女を呼ぶことの方が馴れている隼人。
名を呼ぶことで、夢との境界が曖昧になっている自分の内にある七瀬への感情のストッパーが、外れることを危惧したからに過ぎなかった。

「嫌なわけではないんです……でも、俺なんかが西野さんのことを、名前で呼んでいいものかと考えてしまったんです……」

 “西野さん”
再び隼人にそう呼ばれ、胸がザワつく七瀬。
昨日までは存在すら認知していなかった男性だというのに、今は彼の口から自分の“名”を呼ばれたい。
たとえ、それが夢の影響であったとしても、七瀬にとって理屈などはどうでもよかった。
ただ夢で見たように、互いの“名”を呼び合えたらよかったのだ。

「……嫌なわけないやん」

「でも……」

「隼人には“なな”って呼んで欲しい……なぁ、あかん?」

 これまで幾夜の夢で呼んだ名。
電話越しとは言え本人の前で口にする日が来るとは、隼人は想像もしていなかった。

「……な」

 夢の中ではさも当たり前かのようにさらりと言えたはずなのに、現実世界いまは緊張のあまり上手く言葉がでない。

 そんな様子を察したのか、七瀬は唯々黙って隼人の言葉を待つ。
もう言葉で促すことなどしなくても、隼人なら呼んでくれると信じていた。
先程、あれだけ根拠のない自信には意味などなかったというのに、七瀬の内には“確信”があった。

 それは、彼が他の誰でもなく“新城 隼人”という存在だからであった。
先程の七瀬を落ち込ませた言葉も、理由を知ってしまえば何とも隼人らしいものだと、何処か納得できてしまう。
何故、“理解”も“納得”もできてしまうのか、七瀬にも実際のところ分からないでいた。
だが、不思議と彼と話せば話すほど、隼人の存在が近く、当たり前になっていく。

 だから、七瀬は隼人の言葉を待った。

「七瀬……さん」

「もう!! “さん”はいらんて!」

「だって……恥ずかしくて、いきなり呼び捨てなんて出来ないですよ」

「……ぷっ、まぁ、隼人にしては上出来やな」

 そう言ってコロコロと笑う七瀬の表情は満足そうだった――。


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