8、届かぬ願い
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
座り込みを始めて二日目。ヒジェは朦朧とする意識の中で、うわ言のように王に減刑を申し立てていた。焦点は合わず、手は震えている。それでもかすれる声でヒジェは続けた。
───ウォルファ…………ウォルファ…………
彼は必死に顔を上げた。すると夢か現か、目の前に粛宗が立っていた。
「ハン内官、今すぐにこの者に水と食事を与えよ。そして、余の元に連れてこい。話を聞こう」
「王…………様…………ありがたき…………幸せに…………」
「止めぬか。死んでしまうぞ」
チャン・ヒジェがここまで頼み込む様子に心動かされた粛宗は、騰録類抄の件やトンイの暗殺の件で不信感を抱いていたものの、ついに彼の話を聞く気になったのだ。
部屋に通されたヒジェは、恐る恐る包みのものを全て取り出して粛宗に渡した。目を通した彼は、ヒジェをまじまじと見て尋ねた。
「………淑媛とシム氏が姉妹であることも、その家系が元々両班のもので、姜嬪殺害の陰謀に関わっていることも驚きだ。だが、それより何故、ここまでする。もしこれが身分回復に繋がれば、そなたの敵である淑媛の手助けをする羽目になるのだぞ?」
ヒジェは真っ直ぐで決意溢れる表情で笑った。
「それは、シム・ウォルファだからです。」
意味を理解していない粛宗のために、彼は続けた。
「………私はあの子を愛しています。王様が反対を押し切ってでも淑媛様を側室にされたように、私も政治家として破滅してでも、あの子と生きていきたいのです。」
粛宗はその言葉に少し考えると、力なく首を横に振った。
「だめだ。今は、無理だ」
「ならいつなら出来るのですか!?王様!」
「宗学だ。王子が六歳になれば、宗学に入学する。そのときに淑媛を王宮に戻す。そして、シム氏のことは姜嬪殺害の件で濡れ衣を着せられた者たちを平民に戻すことで、平民に昇格し再び正式な養子として迎える。それでいいか?」
ヒジェは目を丸くした。まさか王がここまで考えていたとは。だが、彼は一言付け足した。
「だがそれにはそなたが南人の重臣たちを反対に持ち込まぬということが条件だ。もし淑媛の再入宮に反対すれば、今度こそは許さぬ。そして、このことはシム氏を含め、誰にも漏らしてはならぬ。良いな?」
「……肝に命じます。」
彼は心の底から感謝を示すと、便殿をあとにした。
───六年………か。待とう。必ず、全てを取り戻してみせる。
ヒジェはウォルファの紐飾りを取り出すと、ぎゅっと握りしめて目を閉じた。
───待っていてくれ、ウォルファ。俺が出来ぬことはないと証明してやる。
そしてこの日から、チャン・ヒジェは真に愛に生きる男としての素顔を封印することに決めた。それはだれよりも狡猾に、政治の世界を生き残ることこそが、愛する人を幸せにする唯一の方法であると彼は既に知っていたからだった。
翌日ウォルファのもとに、とんでもない知らせがやって来た。それは、トンイの息子が風疹にかかっていたというのだ。彼女はかつて医女の知り合いが初期症状は風邪に似ていると言っていたことを思い出した。
どうすることもできず、ウォルファは宝慶堂の吉報を待った。しかし、やって来たヒジェは暗い顔をしている。
「……………お亡くなりに………なったそうだ」
「えっ………」
彼女は呆然とした。あのとき自分が気づいていれば、疑っていれば、王子は助かったかもしれない。後悔がウォルファを襲う。同時にヒジェも、宗学に入学する予定だった王子が亡くなり、悲嘆にくれていた。もう、ウォルファを戻す手だては失われたのだ。
明日には淑媛が宮殿を去り、ウォルファは身分を剥奪される。ヒジェは尋問室に誰も通さないように取り計らうと、彼女を連れて部屋に入った。
「………座れ。ずっとあのような場所では辛いであろう」
「───トンイは、どうしているか知ってる?」
「……………就善堂の女官曰く、自ら宮殿を去ると言い出すほどに憔悴しきっているらしい。亡くなる直前まで、望みを捨てずに薬草を探していたらしい。」
それを聞いてウォルファはむせた。あれほどに子供が出来たことを喜んでいたトンイが、あまりに不憫だった。自分がヒジェと居たことは元よりあってないような脆い幸せだったが、トンイのものは違った。これからいくらでも成長を見守る楽しみが待っているはずだった。
───なのに………
運命は自分からヒジェを奪うだけでなく、妹からようやく手にした幸せの結晶まで奪うというのか。ウォルファは運命の残酷さに、やり場のない怒りをぶつけた。
「どうして………どうして………どうして、トンイの子供じゃないと駄目だったの?ねえ、どうしてよ!何であんなに苦労をしたあの子を、これ以上苦しめるようなことが起きるのよ!!!」
ヒジェは黙って彼女を抱き締めると、その背中をさすった。
「どうしてなのよ…………どうして、私たち姉妹はこんなに些細な喜びさえも許されないの……?」
「……わからん。それは………」
言葉を詰まらせるヒジェに気づいたウォルファは、涙を拭いて笑顔を作った。
「………ごめんなさい。あなたも辛いのに…最後の夜なんだから、笑わないと……ね」
「最後などと言うな。きっとすぐに会える。すぐに……」
それが嘘だと知っている彼女はヒジェの言葉を遮るように口づけをすると、初めて見せた笑顔と同じ顔で笑った。
「………愛してる」
「俺もだ………愛している………!」
──なら……どうして離れないといけないの………?
──どうして、俺たちでないと駄目だった…………?
二人は強く抱き合うと、互いの表情が見えないところで運命を呪った。そして、こうも思った。
「……ねぇ。どうして私たちは、こんなお互いを選んだの?」
「…………何故だろうな、ウォルファ。」
すぐに手が届く場所に居るはずなのに、互いを遠く感じた二人は好きになった、ただそんな当たり前の答えでさえも見失っていた。本当に自分が命を懸けて愛していた人は、存在するのだろうか。
明日になれば、ウォルファは消えてしまう。
明日になれば、ヒジェは届かぬ人になる。
「嫌………嫌………そんなの………嫌!!」
「ウォルファ………?」
普段は自分の感情を激しく露にしないウォルファが突然叫んだため、ヒジェは言葉を失った。彼女はヒジェに抱きつくと、嗚咽を漏らしながらこう言った。
「ねぇ……………私のこと…………忘れない?」
「当然だ。忘れるものか。そなただけが俺の妻だ。絶対に妻は迎えん」
「無理よ…………いつか、私とあなたは………思い出になるの。とても綺麗な、思い出の中でしか互いに会えなくなるのよ」
そんなことはないと否定しようとする彼を遮り、ウォルファは続けた。
「それから、ゆっくりとその思い出も抗いきれない現実に、掠れるように消えていくの。そうしたら、もう誰も思い出せない。……悲しいことよね」
ヒジェは王子が死んだ今、あながち否定しきれない運命の憶測に黙りこんだ。だが、反面ウォルファは笑っていた。
「───でも、そうしましょう?これは確かに悲しいことだけれど、今生きていてもあなたと私は結ばれない。決して同じ道は歩めない。だったらいっそ、誰にも壊されない思い出の世界でずっと一緒に居ましょうよ」
「ウォルファ……………」
「もう、疲れたんです。途方もない夢を待つのも、あなたの背中に追い付くように努力するのも、私を私でなくするこの愛も。」
そして、ヒジェが恐れていた言葉が彼女の口をついででた。
「───終わりにしましょう、この夢は。……覚めるときが来たんです。」
「…………また、同じ夢を見ることは出来ないのか?」
出来ないことを知りながらも、ヒジェは全てを受け入れられずにいた。ウォルファは静かに首を横に振ると、彼から離れた。
「さようなら、ヒジェ様。………ありがとう、私に愛を………教えてくれて…………」
「それは…………それは、俺の台詞だ!俺の俗世に凍りついた心を溶かしてくれたのは、そなたのひたむきな優しさと、純粋無垢な愛だった………」
扉の前に立つ彼女があまりに遠くに感じられ、ヒジェはその整った顔立ちを他人事のように眺めながら、一筋の涙を流した。
「………教えてくれ。そなたにあげる分の愛は、一体どうすれば…………」
「ここに棄てて。そうすれば、私がゆっくり思い出しながら拾えるわ」
ウォルファは扉を開けると、外に一歩踏み出した。だが、ようやく全てが現実だと理解したヒジェは彼女を後ろから強く抱き締めた。
「…………俺は諦めない。俺は、そなたを取り戻す方法を探す。必ず、そなたと生きてみせる………!」
「ヒジェ様……」
彼女はヒジェの手にそっと自分の手を添え、目を閉じると静かに微笑んだ。
この思い出も、ぬくもりの記憶も、いつかは消えてしまうだろう。それでも構わなかった。二人で刹那の時の中でも生きられた。それだけでも彼女にとっては幸せだった。
もうヒジェとは会うことが無いだろうと思い、後悔しながらも日々を送っていた義州で再会したときから、彼女はどんなことがあっても彼の傍に居ようと決めていた。明日からはそれが体の距離でなく、心の距離になるだけだ。彼女は自分に言い聞かせながら呟いた。
「私は、明日からはヒジェ様のお傍に居ませんし、もう顔を見せることもありません。ですが、心だけはいつもあなたのお傍に居ます。あなたが辛いときも、嬉しいときも、悲しいときも、怒っているときも。どんなときもあなたのお傍に居ます。要らなくなったら忘れてください。目障りになったらその手で存在を殺してください。あなたが要らないと言うその日まで、私の心はあなたのお傍に居ます。」
シム・ウォルファはそれだけで幸せだと何度も心の中で繰り返すと、牢に戻っていった。残されたヒジェは、無力さにうちひしがれながら、いつまでも床に両手をつき、泣き続けるのだった。
ウォルファは色鮮やかな絹の服から、地味でぱっとしない色と布の服に着替え、王の下した命令を受けた。少し遠くでは、母のイェリがウンテクとチェリョンに支えられながら泣いているのが見えた。縁を切ったような形になったので、もう母のことを母とは呼べない。ウォルファは気の聞いた言葉を掛けてやるにもどうやって呼べばいいのか分からず、空を見上げた。
一羽の鳥が、空を飛んでいる。
──鳥は………自由なのかしら
そんなことを考えながらも、宣旨は読まれていく。
「シム・ウォルファは賤民、それも罪人の娘でありながら身分を知らず両班として生活をし続けた。本来、これは大罪に値するが、チャン・ヒジェの訴えをお聞き入れになった王様の寛大なお慈悲により、その身分を剥奪し常人とする。また、シム家とは一切接触を絶ち、その血縁関係も剥奪する。以後、シム・ウォルファはチェ・ウォルファとして生活するように。以上」
これ程に大きな変化をもたらす話というのに、何故か他人事のように聞こえてしまう可笑しさに、ウォルファは笑いそうになった。彼女はごく少量の荷物を持ってウンテクが密かに買い与えた家に向かうと、自分で戸を開けて冷たい床に座った。一人で生活をするというのはなんと心細いことか。それでも仕方がない。彼女は仕事をせねばと思い出すと、ウンテクが既に取り計らってくれた写本の業者の元へ行こうとした。
「チェリョン!支度を──」
そして、思い出した。もう自分は両班の令嬢でも、シム・ウォルファでもないということを。
それから彼女は一人で支度をすると、業者の元へ向かった。通りの人々は皆、見慣れぬ顔だとささやいている。服は人と同じでも、漂う雰囲気や身のこなし、全てにずれが生じてしまうのを恐れて、ウォルファは早足で通りを抜けるのだった。
チャン・ヒジェは知らせを受けても、黙っていた。もう、ウォルファとは会わない。それが妹との約束だった。
ステクがやって来て、事の次第を手短に伝える。全てが遠い世界で起きたような気がして、ヒジェはふらふらと歩くと、床に膝から崩れ落ちた。
「ウォルファ……………ウォルファ…………」
そしてもう一度会うために、彼は駆け出した。
───頼む、手遅れではないはずだ………!
今すぐにでも別邸に囲い、傍に置こう。そして時が経てば彼女を正妻に迎えよう。
だがそんなヒジェの淡い期待は消え去った。ウォルファが居た場所には、複雑な表情をするウンテクが立っていた。ヒジェはうろたえながら近づくと、彼に尋ねた。
「お、おい、シム・ウンテク。ウォルファはどこだ」
振り返ったウンテクは何も言わない。だがその表情があまりに痛々しかったので、ヒジェは全てを悟った。彼は何も言わず肩を落とすと、唇を噛んできびすを返し、とぼとぼと歩きだした。
すると、その背にウンテクが言葉を投げ掛けた。
「チャン・ヒジェ。………ウォルファのために座り込んで訴えたそうだな。」
何も言わないヒジェを無視して彼は続けた。
「───そなたの愛は、本物だった。もっと早くに理解していれば……本当に、済まなかった」
いつもなら、今更!と怒りを露にして殴り飛ばすところだが、もうヒジェにその気力は残っていなかった。
ウォルファが居ない、彼にとっては世界はそれで終わりだった。そしてその背中の虚しさが、いつまでもウンテクを罪の意識に苛むのだった。
───ウォルファ…………ウォルファ…………
彼は必死に顔を上げた。すると夢か現か、目の前に粛宗が立っていた。
「ハン内官、今すぐにこの者に水と食事を与えよ。そして、余の元に連れてこい。話を聞こう」
「王…………様…………ありがたき…………幸せに…………」
「止めぬか。死んでしまうぞ」
チャン・ヒジェがここまで頼み込む様子に心動かされた粛宗は、騰録類抄の件やトンイの暗殺の件で不信感を抱いていたものの、ついに彼の話を聞く気になったのだ。
部屋に通されたヒジェは、恐る恐る包みのものを全て取り出して粛宗に渡した。目を通した彼は、ヒジェをまじまじと見て尋ねた。
「………淑媛とシム氏が姉妹であることも、その家系が元々両班のもので、姜嬪殺害の陰謀に関わっていることも驚きだ。だが、それより何故、ここまでする。もしこれが身分回復に繋がれば、そなたの敵である淑媛の手助けをする羽目になるのだぞ?」
ヒジェは真っ直ぐで決意溢れる表情で笑った。
「それは、シム・ウォルファだからです。」
意味を理解していない粛宗のために、彼は続けた。
「………私はあの子を愛しています。王様が反対を押し切ってでも淑媛様を側室にされたように、私も政治家として破滅してでも、あの子と生きていきたいのです。」
粛宗はその言葉に少し考えると、力なく首を横に振った。
「だめだ。今は、無理だ」
「ならいつなら出来るのですか!?王様!」
「宗学だ。王子が六歳になれば、宗学に入学する。そのときに淑媛を王宮に戻す。そして、シム氏のことは姜嬪殺害の件で濡れ衣を着せられた者たちを平民に戻すことで、平民に昇格し再び正式な養子として迎える。それでいいか?」
ヒジェは目を丸くした。まさか王がここまで考えていたとは。だが、彼は一言付け足した。
「だがそれにはそなたが南人の重臣たちを反対に持ち込まぬということが条件だ。もし淑媛の再入宮に反対すれば、今度こそは許さぬ。そして、このことはシム氏を含め、誰にも漏らしてはならぬ。良いな?」
「……肝に命じます。」
彼は心の底から感謝を示すと、便殿をあとにした。
───六年………か。待とう。必ず、全てを取り戻してみせる。
ヒジェはウォルファの紐飾りを取り出すと、ぎゅっと握りしめて目を閉じた。
───待っていてくれ、ウォルファ。俺が出来ぬことはないと証明してやる。
そしてこの日から、チャン・ヒジェは真に愛に生きる男としての素顔を封印することに決めた。それはだれよりも狡猾に、政治の世界を生き残ることこそが、愛する人を幸せにする唯一の方法であると彼は既に知っていたからだった。
翌日ウォルファのもとに、とんでもない知らせがやって来た。それは、トンイの息子が風疹にかかっていたというのだ。彼女はかつて医女の知り合いが初期症状は風邪に似ていると言っていたことを思い出した。
どうすることもできず、ウォルファは宝慶堂の吉報を待った。しかし、やって来たヒジェは暗い顔をしている。
「……………お亡くなりに………なったそうだ」
「えっ………」
彼女は呆然とした。あのとき自分が気づいていれば、疑っていれば、王子は助かったかもしれない。後悔がウォルファを襲う。同時にヒジェも、宗学に入学する予定だった王子が亡くなり、悲嘆にくれていた。もう、ウォルファを戻す手だては失われたのだ。
明日には淑媛が宮殿を去り、ウォルファは身分を剥奪される。ヒジェは尋問室に誰も通さないように取り計らうと、彼女を連れて部屋に入った。
「………座れ。ずっとあのような場所では辛いであろう」
「───トンイは、どうしているか知ってる?」
「……………就善堂の女官曰く、自ら宮殿を去ると言い出すほどに憔悴しきっているらしい。亡くなる直前まで、望みを捨てずに薬草を探していたらしい。」
それを聞いてウォルファはむせた。あれほどに子供が出来たことを喜んでいたトンイが、あまりに不憫だった。自分がヒジェと居たことは元よりあってないような脆い幸せだったが、トンイのものは違った。これからいくらでも成長を見守る楽しみが待っているはずだった。
───なのに………
運命は自分からヒジェを奪うだけでなく、妹からようやく手にした幸せの結晶まで奪うというのか。ウォルファは運命の残酷さに、やり場のない怒りをぶつけた。
「どうして………どうして………どうして、トンイの子供じゃないと駄目だったの?ねえ、どうしてよ!何であんなに苦労をしたあの子を、これ以上苦しめるようなことが起きるのよ!!!」
ヒジェは黙って彼女を抱き締めると、その背中をさすった。
「どうしてなのよ…………どうして、私たち姉妹はこんなに些細な喜びさえも許されないの……?」
「……わからん。それは………」
言葉を詰まらせるヒジェに気づいたウォルファは、涙を拭いて笑顔を作った。
「………ごめんなさい。あなたも辛いのに…最後の夜なんだから、笑わないと……ね」
「最後などと言うな。きっとすぐに会える。すぐに……」
それが嘘だと知っている彼女はヒジェの言葉を遮るように口づけをすると、初めて見せた笑顔と同じ顔で笑った。
「………愛してる」
「俺もだ………愛している………!」
──なら……どうして離れないといけないの………?
──どうして、俺たちでないと駄目だった…………?
二人は強く抱き合うと、互いの表情が見えないところで運命を呪った。そして、こうも思った。
「……ねぇ。どうして私たちは、こんなお互いを選んだの?」
「…………何故だろうな、ウォルファ。」
すぐに手が届く場所に居るはずなのに、互いを遠く感じた二人は好きになった、ただそんな当たり前の答えでさえも見失っていた。本当に自分が命を懸けて愛していた人は、存在するのだろうか。
明日になれば、ウォルファは消えてしまう。
明日になれば、ヒジェは届かぬ人になる。
「嫌………嫌………そんなの………嫌!!」
「ウォルファ………?」
普段は自分の感情を激しく露にしないウォルファが突然叫んだため、ヒジェは言葉を失った。彼女はヒジェに抱きつくと、嗚咽を漏らしながらこう言った。
「ねぇ……………私のこと…………忘れない?」
「当然だ。忘れるものか。そなただけが俺の妻だ。絶対に妻は迎えん」
「無理よ…………いつか、私とあなたは………思い出になるの。とても綺麗な、思い出の中でしか互いに会えなくなるのよ」
そんなことはないと否定しようとする彼を遮り、ウォルファは続けた。
「それから、ゆっくりとその思い出も抗いきれない現実に、掠れるように消えていくの。そうしたら、もう誰も思い出せない。……悲しいことよね」
ヒジェは王子が死んだ今、あながち否定しきれない運命の憶測に黙りこんだ。だが、反面ウォルファは笑っていた。
「───でも、そうしましょう?これは確かに悲しいことだけれど、今生きていてもあなたと私は結ばれない。決して同じ道は歩めない。だったらいっそ、誰にも壊されない思い出の世界でずっと一緒に居ましょうよ」
「ウォルファ……………」
「もう、疲れたんです。途方もない夢を待つのも、あなたの背中に追い付くように努力するのも、私を私でなくするこの愛も。」
そして、ヒジェが恐れていた言葉が彼女の口をついででた。
「───終わりにしましょう、この夢は。……覚めるときが来たんです。」
「…………また、同じ夢を見ることは出来ないのか?」
出来ないことを知りながらも、ヒジェは全てを受け入れられずにいた。ウォルファは静かに首を横に振ると、彼から離れた。
「さようなら、ヒジェ様。………ありがとう、私に愛を………教えてくれて…………」
「それは…………それは、俺の台詞だ!俺の俗世に凍りついた心を溶かしてくれたのは、そなたのひたむきな優しさと、純粋無垢な愛だった………」
扉の前に立つ彼女があまりに遠くに感じられ、ヒジェはその整った顔立ちを他人事のように眺めながら、一筋の涙を流した。
「………教えてくれ。そなたにあげる分の愛は、一体どうすれば…………」
「ここに棄てて。そうすれば、私がゆっくり思い出しながら拾えるわ」
ウォルファは扉を開けると、外に一歩踏み出した。だが、ようやく全てが現実だと理解したヒジェは彼女を後ろから強く抱き締めた。
「…………俺は諦めない。俺は、そなたを取り戻す方法を探す。必ず、そなたと生きてみせる………!」
「ヒジェ様……」
彼女はヒジェの手にそっと自分の手を添え、目を閉じると静かに微笑んだ。
この思い出も、ぬくもりの記憶も、いつかは消えてしまうだろう。それでも構わなかった。二人で刹那の時の中でも生きられた。それだけでも彼女にとっては幸せだった。
もうヒジェとは会うことが無いだろうと思い、後悔しながらも日々を送っていた義州で再会したときから、彼女はどんなことがあっても彼の傍に居ようと決めていた。明日からはそれが体の距離でなく、心の距離になるだけだ。彼女は自分に言い聞かせながら呟いた。
「私は、明日からはヒジェ様のお傍に居ませんし、もう顔を見せることもありません。ですが、心だけはいつもあなたのお傍に居ます。あなたが辛いときも、嬉しいときも、悲しいときも、怒っているときも。どんなときもあなたのお傍に居ます。要らなくなったら忘れてください。目障りになったらその手で存在を殺してください。あなたが要らないと言うその日まで、私の心はあなたのお傍に居ます。」
シム・ウォルファはそれだけで幸せだと何度も心の中で繰り返すと、牢に戻っていった。残されたヒジェは、無力さにうちひしがれながら、いつまでも床に両手をつき、泣き続けるのだった。
ウォルファは色鮮やかな絹の服から、地味でぱっとしない色と布の服に着替え、王の下した命令を受けた。少し遠くでは、母のイェリがウンテクとチェリョンに支えられながら泣いているのが見えた。縁を切ったような形になったので、もう母のことを母とは呼べない。ウォルファは気の聞いた言葉を掛けてやるにもどうやって呼べばいいのか分からず、空を見上げた。
一羽の鳥が、空を飛んでいる。
──鳥は………自由なのかしら
そんなことを考えながらも、宣旨は読まれていく。
「シム・ウォルファは賤民、それも罪人の娘でありながら身分を知らず両班として生活をし続けた。本来、これは大罪に値するが、チャン・ヒジェの訴えをお聞き入れになった王様の寛大なお慈悲により、その身分を剥奪し常人とする。また、シム家とは一切接触を絶ち、その血縁関係も剥奪する。以後、シム・ウォルファはチェ・ウォルファとして生活するように。以上」
これ程に大きな変化をもたらす話というのに、何故か他人事のように聞こえてしまう可笑しさに、ウォルファは笑いそうになった。彼女はごく少量の荷物を持ってウンテクが密かに買い与えた家に向かうと、自分で戸を開けて冷たい床に座った。一人で生活をするというのはなんと心細いことか。それでも仕方がない。彼女は仕事をせねばと思い出すと、ウンテクが既に取り計らってくれた写本の業者の元へ行こうとした。
「チェリョン!支度を──」
そして、思い出した。もう自分は両班の令嬢でも、シム・ウォルファでもないということを。
それから彼女は一人で支度をすると、業者の元へ向かった。通りの人々は皆、見慣れぬ顔だとささやいている。服は人と同じでも、漂う雰囲気や身のこなし、全てにずれが生じてしまうのを恐れて、ウォルファは早足で通りを抜けるのだった。
チャン・ヒジェは知らせを受けても、黙っていた。もう、ウォルファとは会わない。それが妹との約束だった。
ステクがやって来て、事の次第を手短に伝える。全てが遠い世界で起きたような気がして、ヒジェはふらふらと歩くと、床に膝から崩れ落ちた。
「ウォルファ……………ウォルファ…………」
そしてもう一度会うために、彼は駆け出した。
───頼む、手遅れではないはずだ………!
今すぐにでも別邸に囲い、傍に置こう。そして時が経てば彼女を正妻に迎えよう。
だがそんなヒジェの淡い期待は消え去った。ウォルファが居た場所には、複雑な表情をするウンテクが立っていた。ヒジェはうろたえながら近づくと、彼に尋ねた。
「お、おい、シム・ウンテク。ウォルファはどこだ」
振り返ったウンテクは何も言わない。だがその表情があまりに痛々しかったので、ヒジェは全てを悟った。彼は何も言わず肩を落とすと、唇を噛んできびすを返し、とぼとぼと歩きだした。
すると、その背にウンテクが言葉を投げ掛けた。
「チャン・ヒジェ。………ウォルファのために座り込んで訴えたそうだな。」
何も言わないヒジェを無視して彼は続けた。
「───そなたの愛は、本物だった。もっと早くに理解していれば……本当に、済まなかった」
いつもなら、今更!と怒りを露にして殴り飛ばすところだが、もうヒジェにその気力は残っていなかった。
ウォルファが居ない、彼にとっては世界はそれで終わりだった。そしてその背中の虚しさが、いつまでもウンテクを罪の意識に苛むのだった。