3、複雑な再会
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ウォルファは懐からいつでも妹を探せるようにと下着に縫い付けておいた袋から、片割れの残りを取り出すとトンイの持つそれに合わせた。二つは驚くほどにぴったりはまり、二人はようやく姉妹であることに確証を得た。
「トンイ…………私の妹…!!」
「ウォルファ姉さん………私の姉さん…!!」
兄と父を剣契の事件で失ってから、トンイは血縁の者はもう居らず天涯孤独だと思っていた。だからこそ、尚更姉と慕うウォルファが現れたことに喜びを隠せなかった。二人は泣きながら抱き合うと、様々なことを語った。ウォルファは捨てられたいきさつ、拾われたときの話を語り、トンイは剣契の事件に触れないように上手く父ヒョウォンと兄トンジュの話、そして二人から聞いた母の話をした。
「父と兄さんは、とても優しい人でした。父は聡明で、私に字を教えてくれました。書物も教えてくれて、私に監察部で生きていける能力をくれたのは父です。兄は楽士でした。私にヘグムの弾き方を教えてくれた、とても優れた演奏家でした。」
ウォルファはそれを聞き、自分が何故聞いただけである程度清国の言葉を理解できるようになり、妓生顔負けの演奏が出来るのかを悟った。彼女はそれをそのままトンイに話すと、彼女はまた涙を流しながらうなずいた。
「そうよ、きっと兄さんと父さんの血よ……そして、母さんはとても賤民にしておくにはあまりに勿体無いくらいに綺麗だったそうよ。」
「それはあなたにしか遺伝してないわ」
「いいえ、姉さんの方が………」
二人は互いの何処か似ている顔を見合わせると、声をあげて笑った。あの日、書類を持ってきたときにトンイがウォルファに感じた似ているという感情は、間違いではなかったのだ。彼女は息子の存在を含め、自分が独りではないという喜びに包まれ、喜びが溢れるのだった。
一方その話を聞いたウンテクは、ウォルファとトンイに箝口令を敷いた。更に母のイェリにだけ事実を告げ、他のものには一切口外することを禁じた。彼はあるひとつのことを恐れていた。それは凌上罪という目上の身分である──この場合では両班を身分的に偽って軽んじたということにされることになりかねないからだ。弱った南人はただでも両班連続殺人事件について西人を攻撃しているのに、これ以上ぼろを出しては危険だ。彼は頭を抱えると、これからどうべきかを悩み、心を痛めた。
ウォルファは自らの出自を知ってからというものの、ヒジェを避けるようになった。トンイを殺したいほどに憎んでいる彼に、どうしても会うことができなかった。彼女は初めて市場で出会ったとき、店主にヒジェが渡した手紙を見て、素直にあの頃に戻りたいと願った。
───この広い都の中で出会えたのも何かの縁。必ずまた、そなたと私は会えるだろう。
「そうね……縁だった。……出会ってはならない縁でした」
彼女は手紙を抱き締めて泣いた。今まで党派を越えた恋は難しいと感じてはいたが、きっと大丈夫だと信じていた。だが、今はもう違う。きっとヒジェはすべてを知れば拒絶するだろう。
産まれて初めて、ウォルファは自分がウォルファであることを呪った。そして、それでも尚ヒジェを思って泣く己の心が実に身勝手に思えるのだった。
ウンテクは、すべてに決着をつけるためにある場所へ来ていた。それは、チャン・ヒジェの家だった。彼はヒジェの部屋に通されると、毅然とした態度で座った。程無くして何事かと血相変えてやって来たヒジェは、神妙な面持ちで座った。
しばらく沈黙がその場を支配していたが、ウンテクがそれを破った。
「…………何度も妹から手を引けと、俺は言ったよな?」
「ああ、言ったな。だが今も俺は引く気はない」
「それはどうかな?───例え、慕う女が憎い淑媛の双子の実の姉でもか?」
「な………何?」
意外な言葉にヒジェは己の耳を疑った。そして、不意にある日のウォルファの告白を思い出した。あのとき、彼女は泣いていた。その訳を聞くと、自分が捨て子だということを知ったと言っていた。
────好きだ。お前が例えもし、賤民であろうとその気持ちは変わらぬ。身分なんてふざけた物よりもずっと大切なことを、俺は知っているからな。
ヒジェは自らの運のなさに嘆いた。
────ああ、言ったとも。賤民であっても、そなたを愛することはできる。だが……だが……!!!トンイ──あの憎き女の血を分けたお前は愛せない………!!!
彼は何も言わず、ウンテクに退室するように促した。ウンテクは確かにヒジェの心を折ったかどうかをまじまじと見極めると、そのまま手応えを感じて部屋を後にした。あとは早くウォルファを地方の官僚に嫁がせるだけだ。既に目星をつけておいた者に連絡を入れた彼は、明日の早朝に都を発てるよう準備しろとチェリョンたちに命じた。彼女は一体何があるのかと気になったが、静かに納得している様子の主人を見て安心したのか、言われるがままに荷造りを始めた。
ヒジェは、独り月を眺めていた。そして、ウォルファとの出会いから今に至るまでを懐古していた。
若い頃、初めて市場で子供だった彼女に出会ったとき、あと数年後に出会いたいと思った。とても可愛らしくて、幼子に興味のないヒジェでもつい妹よりも可愛らしいのではと思ってしまうほどだった。
その子が、まさかあれほど彼の欲望を惹き付けるまでに美しく成長するとは。
───はい、何でしょうか
怪訝そうな声も、透き通って美しかった。彼はあのときに握った手の柔らかさを今でも鮮明に覚えていた。更に彼女と交わした言葉の一言一句もすべて覚えていた。
───捕盗庁で従二品になったら。そうすれば、構わんか?中人で南人の私でも、そなたを愛しても?
どうしても彼女を傍に置きたかったヒジェは、いつの間にか当初の妹を王妃にして出世し、偉くなって自分を馬鹿にしてきたやつらを見返したいという夢は、ウォルファの手を離さずに済むように、守れるような権力がほしいというものに変わっていた。もちろん、彼女の答えは彼の期待していた通りだった。
それから従事官、大将と昇進し、彼女を愛して守り抜く権利も得た。
──ずっと言わせてくれなかった言葉、今言うわ。…愛してる。
あのときのウォルファの言葉ほど、ヒジェを喜ばせるものはなかった。この手は決して離さない。そう心に誓っていた。なのに、あの頃の自分がどれ程彼女を愛していたかに気づいていなかったせいで、一度彼はウォルファを手放してしまった。
それでも、彼女は後悔するヒジェと同じ思いで待っていてくれた。義州に居るときも、孤独にいつ終わるかもわからない流刑中の自分を待つために、偽って地方に居るときも。誰よりもきっと今、ヒジェを失ったと思って泣いているのは、傷ついているのは他でもないウォルファ自身だと、彼も気づいていた。だが、やはりトンイと同じ血を分けた彼女を今まで通りに見ることは難しく、そして恐ろしく思えた。彼は並々に注いだ酒を煽ると、深いため息をついて明日、自分はどうすべきかを考えながら再び月に目を戻すのだった。
翌朝、ウンテクはヒジェの動向をしっかり見張るようにとチョンスに命じると、貞明公主の誕生祭の宴に向かった。実は彼は、それさえも見通してヒジェにすべてを打ち明けたのだ。例えウォルファのことをやはり諦めきれず地方へ向かう彼女を追おうとしても、この最高齢の王族の宴を放棄すれば職務放棄で刑罰を受けることは免れないからだ。彼はヒジェがそこまでして憎い女性の血が流れているウォルファを追いかけないだろうと確信を抱いていた。無論、使用人たちには固く口止めをしているので、そもそも彼が地方官吏の元に彼女が婚姻のために都を出ることさえ知ることは難しいだろう。彼はようやくヒジェと妹の因縁が解けたことに満足すると、晴々しい笑顔を作り、会場へ入った。
チェリョンは荷造りのために様々な箱を開けていた。すると、一通の手紙が偶然目に留まった。彼女は何気なくそれを開けると、軽く目を通した。しかし、徐々にその顔からは色が消えていく。その内容を読んだチェリョンは、主人が地方に嫁ぐということが何を意味するかをよく理解していた。
「………ステクさん………!」
せっかく思いが通じたステクとの永遠の別離は、彼女にとって耐えがたいものだった。彼女は慌てて部屋を出たが、そこにはウォルファが立っていた。初めて見る主人の冷たい表情に、チェリョンは手紙を持って身構えた。
「お嬢様、お通しください」
「嫌よ。だめ。あなたが残りたいなら、残りなさい。でも、チャン・ヒジェの家に行くのは許さない。私はもう、あの人を悲しませたくないの」
本心に逆らおうとするウォルファの意図がわからず、チェリョンは叫んだ。
「そんな!お嬢様も本当はヒジェ様と離れたくないのでしょう?」
「離れたくない。離れたくなかった!でも、仕方がないの。無理なのよ。」
呆然と立ち尽くすチェリョンが諦めたことを確認し、ウォルファはその場を後にした。だが彼女が立ち去って少ししてから、チェリョンはこっそり屋敷を出ると、ステクの元へ向かった。
屋敷にもいないステクを探し、チェリョンは宮殿の近くの呑み屋で彼をようやく見つけた。息を切らしてやって来たその様子を見たステクは、ただならぬことが起きたのだなと悟ると、彼女に話すように促した。
「お嬢様が………お嬢様がっ………地方へ行き、長官の息子と婚姻するそうです…!」
「何?」
「早く、ヒジェ様にお知らせしないと………!もう発つ頃です」
ステクは手短に礼を言うと、大慌てで宮殿に走った。執務室で身支度をしていたヒジェに、一言も入れず部屋に入ってきたステクは、一気に知り得たことを伝えた。だが、ヒジェは顔色ひとつ変えずに帽子の角度を直して部屋を出ようとした。
「チャン様!このままで良いのですか?諦めるのですか?」
「うるさい!終わったのだ!俺とあの子の恋は、終わったのだ!」
「何があったのですか!」
「お前に分かるか?この気持ちが。この苦しみが。胸をえぐられるような痛みが!受け入れたくても受け入れられないこの虚しさが!」
そう叫んだヒジェの声は、悲痛に歪んでいた。本当は受け入れたい。けれどそれが出来ないことも、彼は知っていた。党派を越えた愛など、結局不可能だったのだ。
肩を落とすステクを置いて、ヒジェは宴の会場へやって来た。その様子を見たウンテクは、万事図った通りに進んでいることに満足した。すると、彼の異様な落胆様に気づいたユンが、意外にも彼に声をかけた。
「どうした。あの子の心を手に入れて機嫌が良いと思っていたのだが…」
「手に入れた?馬鹿な。俺はあの子を何一つ分かっていなかった。」
何かあったことを悟ったユンは、ヒジェを人気のない場所に連れていくと、事の次第を聞き出そうとした。
「一体どうした。ウォルファに何があった。あの子の何を知った」
「お前は知らんだろうが、ウォルファが捨て子だったことは俺は依存より知っていた。だが…………その双子の妹が今になって分かったのだ。」
「……誰だ、それは」
捨て子だったことにも驚きだが、それよりも誰が彼女の妹であるかが気になり、ユンはヒジェの顔を覗き込んだ。いつもなら自信ありげな嫌味を次から次へと言う唇が、恐怖に震えていることに気づいたユンは、その正体がとんでもない人だったのだなと悟った。ヒジェは目を涙で赤く腫らしながら、やっとのことで声を絞り出した。
「───チョン・ドンイ」
流石のユンも、これには驚いた。そして、ヒジェが苦しむ理由も理解した。
トンイは彼の妹、オクチョンにとって王の寵愛を奪った恋敵であり、ヒジェにとっては度々邪魔をしてくる目障りな存在だ。賤民の血を継いでいるだけでもご法度というのに、殺したいほどに憎んでいる相手の血を継いでもいることは、受け入れ難いことだった。だが、ユンはもうひとつのヒジェの想いを見逃さなかった。
それは党派を捨ててでも受け入れたいという、政治家としてではなく一人の男としての想いだった。もちろんそんなことをすれば、発覚しときには南人から追い出される可能性も充分にある。オクチョンは後ろ楯を失い、彼は妹の王妃になり、自分の子を王にするという夢を潰してしまいかねない。彼は、現実を受け入れてウォルファを愛せるか愛せないかではなく、一人の男として生きるか、政治家として生きるかを迷っていたのだ。どちらも取ることはできない。危険な賭けだ。
だが、ユンはこのまま黙っていればウォルファがヒジェと結ばれないことも気づいていた。彼の心に巣食う悪がささやいた。
───黙っていれば、ウォルファとヒジェは結ばれないぞ、ユン。そうすればお前も負けたことにならない。
また、彼はこうも言っている。
───党派を捨てるようなことを選ばせるのはあまりに酷ではないか。そんなことをすれば、禧嬪様は失脚。お前も無事では済まないやもしれない。なんの特にもならないことをするのか?
ユンはそこまで話を聞くと、黙ってきびすを返した。そして、何も言わずに立ち去ろうとした。だが、不意にウォルファの笑顔が蘇った。それは、自分に向けられたものではなかった。ヒジェがトンイを憎んでいるように、ユンが憎む、中人と賤民の混血であるチャン・ヒジェに向けられたものだった。けれどその笑顔はユンの心をいつも痛ませていたが、かつてじぶんにも向けられていたことを思い出した。
それは、ウォルファに初めて清国の言葉を教えたときだった。
───ユン様はすごいのね!武術もできて、お勉強もできて、清国のお言葉もできて!私、ユン様みたいなお兄様がいい!
まだあのときは子供らしさが残っていたが、確かにあの笑顔は、ユンだけに向けられたものだった。彼はその笑顔を守りたい一心で、義州への逃亡も手助けしたし、流刑中もテジュを付けていた。目的はヒジェと同じだった。ただ違うのは、愛を向けられたかそうでないかだけだ。
ユンは考えた。ウォルファの笑顔を守るにはどうすればいいのか。彼女を笑顔にできる人は、誰なのか。それは…………
「───ヒジェ!」
「……なんだ」
「ウォルファのことは黙っておく。それに、出来る限りのことはしてやる。………だから、行ってこい。今日から私が望むのは、彼女の心ではない。彼女の幸せだ」
突然の申し出に、ヒジェは目を丸くした。普段の彼なら疑い食って追及するところだが、今日はそれどころではなかった。彼は空を仰いで決意すると、宴の催される方向とは逆の向きに歩き出した。ふと、彼は足を止めてユンに一言だけ投げ掛けた。
「…………礼を言う。」
「必ず幸せにしろ。不幸にさせれば、お前を殺す」
その言葉を聞き届けたヒジェは、帽子を外して走り出した。今の彼はウォルファを連れ戻す、ただそれだけを考えていた。
──狂恋だろうと、馬鹿だろうと、気が触れただろうと、好きに呼べばいい。俺は、俺は………愛に生きる。政治家としてではなく、一人の男として生きたい。
これが彼の導き出した結論だった。何度も足を取られて転ぶが、ヒジェはそんなことはもう気にしてはいなかった。今はただひとつ、手遅れでないことだけを祈っていた。
その頃ウォルファを乗せた輿は、港に差し掛かっていた。来ないでくれと願いながらも僅かな未練を残している自分を叱りながら、彼女は輿に揺られていた。すると、懐かしい声がした。
「ウォルファーーーーーー!!」
「………!?輿を止めて!」
声が走った疲れで枯れているが、確かにヒジェの声だった。ウォルファは輿から転がるようにして降りると、彼の元に駆け寄った。疲労のあまり彼女の腕に倒れこむヒジェを支えると、ウォルファはチェリョンを叱りつけた。
「だからお伝えしてはいけないと言ったのに!!何をしているの!大切な宴を放棄すれば、刑罰は免れないわ!それに、私はこの人の傍にいる資格はないのに……」
「それは違う……それは……」
ヒジェはその言葉をあえぎながら否定すると、息を整えてこう言った。
「……確かに、そなたは俺が憎む女の血を分けている。だが、俺はそなたを愛している。確かに、聞いたときは受け入れられないと思っていた。だが、こんな下らんことでこの恋を終わらせてたまるか。自分の運命は自分で決める。だったら俺は、今でもそなたと共に生きたいと思っている。」
意外な答えに驚いたウォルファは、掛けねばならない言葉よりも先に涙が溢れるのを止められない。ヒジェは彼女の頭を肩にもたせかけると、優しくその頭を撫でた。
「……確かに、俺は狂っているかもしれない。だが、このチャン・ヒジェを狂わせるほどまで愛させたのも、ウォルファ。そなたただ一人だ」
いよいよ号泣しはじめたウォルファの耳元で、ヒジェは囁いた。
「愛している。」
無言で彼を抱き締めるウォルファは、言葉にしない返事を返していた。
二人はようやく、すべてのしがらみを捨てる覚悟を決めた。だがそれこそがとんでもなく険しい道の始まりであることを、すぐに知ることになるのだった。
「トンイ…………私の妹…!!」
「ウォルファ姉さん………私の姉さん…!!」
兄と父を剣契の事件で失ってから、トンイは血縁の者はもう居らず天涯孤独だと思っていた。だからこそ、尚更姉と慕うウォルファが現れたことに喜びを隠せなかった。二人は泣きながら抱き合うと、様々なことを語った。ウォルファは捨てられたいきさつ、拾われたときの話を語り、トンイは剣契の事件に触れないように上手く父ヒョウォンと兄トンジュの話、そして二人から聞いた母の話をした。
「父と兄さんは、とても優しい人でした。父は聡明で、私に字を教えてくれました。書物も教えてくれて、私に監察部で生きていける能力をくれたのは父です。兄は楽士でした。私にヘグムの弾き方を教えてくれた、とても優れた演奏家でした。」
ウォルファはそれを聞き、自分が何故聞いただけである程度清国の言葉を理解できるようになり、妓生顔負けの演奏が出来るのかを悟った。彼女はそれをそのままトンイに話すと、彼女はまた涙を流しながらうなずいた。
「そうよ、きっと兄さんと父さんの血よ……そして、母さんはとても賤民にしておくにはあまりに勿体無いくらいに綺麗だったそうよ。」
「それはあなたにしか遺伝してないわ」
「いいえ、姉さんの方が………」
二人は互いの何処か似ている顔を見合わせると、声をあげて笑った。あの日、書類を持ってきたときにトンイがウォルファに感じた似ているという感情は、間違いではなかったのだ。彼女は息子の存在を含め、自分が独りではないという喜びに包まれ、喜びが溢れるのだった。
一方その話を聞いたウンテクは、ウォルファとトンイに箝口令を敷いた。更に母のイェリにだけ事実を告げ、他のものには一切口外することを禁じた。彼はあるひとつのことを恐れていた。それは凌上罪という目上の身分である──この場合では両班を身分的に偽って軽んじたということにされることになりかねないからだ。弱った南人はただでも両班連続殺人事件について西人を攻撃しているのに、これ以上ぼろを出しては危険だ。彼は頭を抱えると、これからどうべきかを悩み、心を痛めた。
ウォルファは自らの出自を知ってからというものの、ヒジェを避けるようになった。トンイを殺したいほどに憎んでいる彼に、どうしても会うことができなかった。彼女は初めて市場で出会ったとき、店主にヒジェが渡した手紙を見て、素直にあの頃に戻りたいと願った。
───この広い都の中で出会えたのも何かの縁。必ずまた、そなたと私は会えるだろう。
「そうね……縁だった。……出会ってはならない縁でした」
彼女は手紙を抱き締めて泣いた。今まで党派を越えた恋は難しいと感じてはいたが、きっと大丈夫だと信じていた。だが、今はもう違う。きっとヒジェはすべてを知れば拒絶するだろう。
産まれて初めて、ウォルファは自分がウォルファであることを呪った。そして、それでも尚ヒジェを思って泣く己の心が実に身勝手に思えるのだった。
ウンテクは、すべてに決着をつけるためにある場所へ来ていた。それは、チャン・ヒジェの家だった。彼はヒジェの部屋に通されると、毅然とした態度で座った。程無くして何事かと血相変えてやって来たヒジェは、神妙な面持ちで座った。
しばらく沈黙がその場を支配していたが、ウンテクがそれを破った。
「…………何度も妹から手を引けと、俺は言ったよな?」
「ああ、言ったな。だが今も俺は引く気はない」
「それはどうかな?───例え、慕う女が憎い淑媛の双子の実の姉でもか?」
「な………何?」
意外な言葉にヒジェは己の耳を疑った。そして、不意にある日のウォルファの告白を思い出した。あのとき、彼女は泣いていた。その訳を聞くと、自分が捨て子だということを知ったと言っていた。
────好きだ。お前が例えもし、賤民であろうとその気持ちは変わらぬ。身分なんてふざけた物よりもずっと大切なことを、俺は知っているからな。
ヒジェは自らの運のなさに嘆いた。
────ああ、言ったとも。賤民であっても、そなたを愛することはできる。だが……だが……!!!トンイ──あの憎き女の血を分けたお前は愛せない………!!!
彼は何も言わず、ウンテクに退室するように促した。ウンテクは確かにヒジェの心を折ったかどうかをまじまじと見極めると、そのまま手応えを感じて部屋を後にした。あとは早くウォルファを地方の官僚に嫁がせるだけだ。既に目星をつけておいた者に連絡を入れた彼は、明日の早朝に都を発てるよう準備しろとチェリョンたちに命じた。彼女は一体何があるのかと気になったが、静かに納得している様子の主人を見て安心したのか、言われるがままに荷造りを始めた。
ヒジェは、独り月を眺めていた。そして、ウォルファとの出会いから今に至るまでを懐古していた。
若い頃、初めて市場で子供だった彼女に出会ったとき、あと数年後に出会いたいと思った。とても可愛らしくて、幼子に興味のないヒジェでもつい妹よりも可愛らしいのではと思ってしまうほどだった。
その子が、まさかあれほど彼の欲望を惹き付けるまでに美しく成長するとは。
───はい、何でしょうか
怪訝そうな声も、透き通って美しかった。彼はあのときに握った手の柔らかさを今でも鮮明に覚えていた。更に彼女と交わした言葉の一言一句もすべて覚えていた。
───捕盗庁で従二品になったら。そうすれば、構わんか?中人で南人の私でも、そなたを愛しても?
どうしても彼女を傍に置きたかったヒジェは、いつの間にか当初の妹を王妃にして出世し、偉くなって自分を馬鹿にしてきたやつらを見返したいという夢は、ウォルファの手を離さずに済むように、守れるような権力がほしいというものに変わっていた。もちろん、彼女の答えは彼の期待していた通りだった。
それから従事官、大将と昇進し、彼女を愛して守り抜く権利も得た。
──ずっと言わせてくれなかった言葉、今言うわ。…愛してる。
あのときのウォルファの言葉ほど、ヒジェを喜ばせるものはなかった。この手は決して離さない。そう心に誓っていた。なのに、あの頃の自分がどれ程彼女を愛していたかに気づいていなかったせいで、一度彼はウォルファを手放してしまった。
それでも、彼女は後悔するヒジェと同じ思いで待っていてくれた。義州に居るときも、孤独にいつ終わるかもわからない流刑中の自分を待つために、偽って地方に居るときも。誰よりもきっと今、ヒジェを失ったと思って泣いているのは、傷ついているのは他でもないウォルファ自身だと、彼も気づいていた。だが、やはりトンイと同じ血を分けた彼女を今まで通りに見ることは難しく、そして恐ろしく思えた。彼は並々に注いだ酒を煽ると、深いため息をついて明日、自分はどうすべきかを考えながら再び月に目を戻すのだった。
翌朝、ウンテクはヒジェの動向をしっかり見張るようにとチョンスに命じると、貞明公主の誕生祭の宴に向かった。実は彼は、それさえも見通してヒジェにすべてを打ち明けたのだ。例えウォルファのことをやはり諦めきれず地方へ向かう彼女を追おうとしても、この最高齢の王族の宴を放棄すれば職務放棄で刑罰を受けることは免れないからだ。彼はヒジェがそこまでして憎い女性の血が流れているウォルファを追いかけないだろうと確信を抱いていた。無論、使用人たちには固く口止めをしているので、そもそも彼が地方官吏の元に彼女が婚姻のために都を出ることさえ知ることは難しいだろう。彼はようやくヒジェと妹の因縁が解けたことに満足すると、晴々しい笑顔を作り、会場へ入った。
チェリョンは荷造りのために様々な箱を開けていた。すると、一通の手紙が偶然目に留まった。彼女は何気なくそれを開けると、軽く目を通した。しかし、徐々にその顔からは色が消えていく。その内容を読んだチェリョンは、主人が地方に嫁ぐということが何を意味するかをよく理解していた。
「………ステクさん………!」
せっかく思いが通じたステクとの永遠の別離は、彼女にとって耐えがたいものだった。彼女は慌てて部屋を出たが、そこにはウォルファが立っていた。初めて見る主人の冷たい表情に、チェリョンは手紙を持って身構えた。
「お嬢様、お通しください」
「嫌よ。だめ。あなたが残りたいなら、残りなさい。でも、チャン・ヒジェの家に行くのは許さない。私はもう、あの人を悲しませたくないの」
本心に逆らおうとするウォルファの意図がわからず、チェリョンは叫んだ。
「そんな!お嬢様も本当はヒジェ様と離れたくないのでしょう?」
「離れたくない。離れたくなかった!でも、仕方がないの。無理なのよ。」
呆然と立ち尽くすチェリョンが諦めたことを確認し、ウォルファはその場を後にした。だが彼女が立ち去って少ししてから、チェリョンはこっそり屋敷を出ると、ステクの元へ向かった。
屋敷にもいないステクを探し、チェリョンは宮殿の近くの呑み屋で彼をようやく見つけた。息を切らしてやって来たその様子を見たステクは、ただならぬことが起きたのだなと悟ると、彼女に話すように促した。
「お嬢様が………お嬢様がっ………地方へ行き、長官の息子と婚姻するそうです…!」
「何?」
「早く、ヒジェ様にお知らせしないと………!もう発つ頃です」
ステクは手短に礼を言うと、大慌てで宮殿に走った。執務室で身支度をしていたヒジェに、一言も入れず部屋に入ってきたステクは、一気に知り得たことを伝えた。だが、ヒジェは顔色ひとつ変えずに帽子の角度を直して部屋を出ようとした。
「チャン様!このままで良いのですか?諦めるのですか?」
「うるさい!終わったのだ!俺とあの子の恋は、終わったのだ!」
「何があったのですか!」
「お前に分かるか?この気持ちが。この苦しみが。胸をえぐられるような痛みが!受け入れたくても受け入れられないこの虚しさが!」
そう叫んだヒジェの声は、悲痛に歪んでいた。本当は受け入れたい。けれどそれが出来ないことも、彼は知っていた。党派を越えた愛など、結局不可能だったのだ。
肩を落とすステクを置いて、ヒジェは宴の会場へやって来た。その様子を見たウンテクは、万事図った通りに進んでいることに満足した。すると、彼の異様な落胆様に気づいたユンが、意外にも彼に声をかけた。
「どうした。あの子の心を手に入れて機嫌が良いと思っていたのだが…」
「手に入れた?馬鹿な。俺はあの子を何一つ分かっていなかった。」
何かあったことを悟ったユンは、ヒジェを人気のない場所に連れていくと、事の次第を聞き出そうとした。
「一体どうした。ウォルファに何があった。あの子の何を知った」
「お前は知らんだろうが、ウォルファが捨て子だったことは俺は依存より知っていた。だが…………その双子の妹が今になって分かったのだ。」
「……誰だ、それは」
捨て子だったことにも驚きだが、それよりも誰が彼女の妹であるかが気になり、ユンはヒジェの顔を覗き込んだ。いつもなら自信ありげな嫌味を次から次へと言う唇が、恐怖に震えていることに気づいたユンは、その正体がとんでもない人だったのだなと悟った。ヒジェは目を涙で赤く腫らしながら、やっとのことで声を絞り出した。
「───チョン・ドンイ」
流石のユンも、これには驚いた。そして、ヒジェが苦しむ理由も理解した。
トンイは彼の妹、オクチョンにとって王の寵愛を奪った恋敵であり、ヒジェにとっては度々邪魔をしてくる目障りな存在だ。賤民の血を継いでいるだけでもご法度というのに、殺したいほどに憎んでいる相手の血を継いでもいることは、受け入れ難いことだった。だが、ユンはもうひとつのヒジェの想いを見逃さなかった。
それは党派を捨ててでも受け入れたいという、政治家としてではなく一人の男としての想いだった。もちろんそんなことをすれば、発覚しときには南人から追い出される可能性も充分にある。オクチョンは後ろ楯を失い、彼は妹の王妃になり、自分の子を王にするという夢を潰してしまいかねない。彼は、現実を受け入れてウォルファを愛せるか愛せないかではなく、一人の男として生きるか、政治家として生きるかを迷っていたのだ。どちらも取ることはできない。危険な賭けだ。
だが、ユンはこのまま黙っていればウォルファがヒジェと結ばれないことも気づいていた。彼の心に巣食う悪がささやいた。
───黙っていれば、ウォルファとヒジェは結ばれないぞ、ユン。そうすればお前も負けたことにならない。
また、彼はこうも言っている。
───党派を捨てるようなことを選ばせるのはあまりに酷ではないか。そんなことをすれば、禧嬪様は失脚。お前も無事では済まないやもしれない。なんの特にもならないことをするのか?
ユンはそこまで話を聞くと、黙ってきびすを返した。そして、何も言わずに立ち去ろうとした。だが、不意にウォルファの笑顔が蘇った。それは、自分に向けられたものではなかった。ヒジェがトンイを憎んでいるように、ユンが憎む、中人と賤民の混血であるチャン・ヒジェに向けられたものだった。けれどその笑顔はユンの心をいつも痛ませていたが、かつてじぶんにも向けられていたことを思い出した。
それは、ウォルファに初めて清国の言葉を教えたときだった。
───ユン様はすごいのね!武術もできて、お勉強もできて、清国のお言葉もできて!私、ユン様みたいなお兄様がいい!
まだあのときは子供らしさが残っていたが、確かにあの笑顔は、ユンだけに向けられたものだった。彼はその笑顔を守りたい一心で、義州への逃亡も手助けしたし、流刑中もテジュを付けていた。目的はヒジェと同じだった。ただ違うのは、愛を向けられたかそうでないかだけだ。
ユンは考えた。ウォルファの笑顔を守るにはどうすればいいのか。彼女を笑顔にできる人は、誰なのか。それは…………
「───ヒジェ!」
「……なんだ」
「ウォルファのことは黙っておく。それに、出来る限りのことはしてやる。………だから、行ってこい。今日から私が望むのは、彼女の心ではない。彼女の幸せだ」
突然の申し出に、ヒジェは目を丸くした。普段の彼なら疑い食って追及するところだが、今日はそれどころではなかった。彼は空を仰いで決意すると、宴の催される方向とは逆の向きに歩き出した。ふと、彼は足を止めてユンに一言だけ投げ掛けた。
「…………礼を言う。」
「必ず幸せにしろ。不幸にさせれば、お前を殺す」
その言葉を聞き届けたヒジェは、帽子を外して走り出した。今の彼はウォルファを連れ戻す、ただそれだけを考えていた。
──狂恋だろうと、馬鹿だろうと、気が触れただろうと、好きに呼べばいい。俺は、俺は………愛に生きる。政治家としてではなく、一人の男として生きたい。
これが彼の導き出した結論だった。何度も足を取られて転ぶが、ヒジェはそんなことはもう気にしてはいなかった。今はただひとつ、手遅れでないことだけを祈っていた。
その頃ウォルファを乗せた輿は、港に差し掛かっていた。来ないでくれと願いながらも僅かな未練を残している自分を叱りながら、彼女は輿に揺られていた。すると、懐かしい声がした。
「ウォルファーーーーーー!!」
「………!?輿を止めて!」
声が走った疲れで枯れているが、確かにヒジェの声だった。ウォルファは輿から転がるようにして降りると、彼の元に駆け寄った。疲労のあまり彼女の腕に倒れこむヒジェを支えると、ウォルファはチェリョンを叱りつけた。
「だからお伝えしてはいけないと言ったのに!!何をしているの!大切な宴を放棄すれば、刑罰は免れないわ!それに、私はこの人の傍にいる資格はないのに……」
「それは違う……それは……」
ヒジェはその言葉をあえぎながら否定すると、息を整えてこう言った。
「……確かに、そなたは俺が憎む女の血を分けている。だが、俺はそなたを愛している。確かに、聞いたときは受け入れられないと思っていた。だが、こんな下らんことでこの恋を終わらせてたまるか。自分の運命は自分で決める。だったら俺は、今でもそなたと共に生きたいと思っている。」
意外な答えに驚いたウォルファは、掛けねばならない言葉よりも先に涙が溢れるのを止められない。ヒジェは彼女の頭を肩にもたせかけると、優しくその頭を撫でた。
「……確かに、俺は狂っているかもしれない。だが、このチャン・ヒジェを狂わせるほどまで愛させたのも、ウォルファ。そなたただ一人だ」
いよいよ号泣しはじめたウォルファの耳元で、ヒジェは囁いた。
「愛している。」
無言で彼を抱き締めるウォルファは、言葉にしない返事を返していた。
二人はようやく、すべてのしがらみを捨てる覚悟を決めた。だがそれこそがとんでもなく険しい道の始まりであることを、すぐに知ることになるのだった。