2、会瀬の満ち欠け
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その日からヒジェは毎晩ウォルファの部屋の前の塀に来ては、鈴を投げ込んで訪問を知らせるようになった。彼女は迎えが来るまで、寝巻きにも着替えずに待ち続けた。そして今日も、チャリンという心弾む音のする鈴を合図に、まるで餌に飛び付く猫のような様子でウォルファは部屋から出てきた。
「……待ったか?」
「ええ。待ったわ。でも一年よりまし」
「そうか。……よし、来い。連れ出してやる」
ヒジェは塀の上に手を伸ばすと、ウォルファに塀に登るように指示した。彼女はいとも簡単に塀によじ登ると、ヒジェの腕の中に着地した。
「ほら、受け止めた。」
「ありがとう」
彼は地面にウォルファを下ろすと、その手を引いて夜の町を駆け出した。
「ほら、誰も俺たちを気に留めない。すばらしいな」
「ええ、みんな夜は会う人全てが秘密だらけなのよ」
「俺たちも、秘密の固まりか…」
「私たちは周りには秘密しかないわ。お互いにはないけれど」
ヒジェは幸せそうにしているウォルファが大好きだった。だからもっと喜ばせたくて、彼はある場所に彼女を案内した。そこには、薄布がついた女物の笠があった。ウォルファはまじまじと手にとってそれを見ると、疑いが混じった声で尋ねた。
「これ………私に?」
「ああ、そうだ。これなら、昼間に歩いてもばれないぞ?」
「まあ、確かに………でも、良いのかしら?万が一ばれたときには……」
「その時は、さっさとそなたを妻にする。」
「えっ?」
冗談かと思って隣を見ていると、どこから見ても真面目にしか見えないヒジェがウォルファを凝視している。彼女は恥ずかしさに笠で顔を隠すと、ちらりと隙間からヒジェの顔を見た。ほっとした彼女は一度下を向いてからもう一度前を向いた。すると、先程よりもずっと近い距離にヒジェがいる。ウォルファは思わず小さな悲鳴をあげた。
「……今さら恥ずかしがってどうする」
「だ、だって………今は……その………」
「夜だから、か?」
どことなく夜の方が魅惑的に映るヒジェが、彼女の心を高鳴らせた。赤と黒の服を来ている彼はそのままウォルファに近づくと、前触れもなく激しい口づけをした。慌てて押し退けようとしたが、その手さえ掴まれ、壁に押し当てられる。意識は既に逢瀬の幸せの中で朦朧とし、手から持っていた笠がこぼれ落ちる。
「………これ以上俺に何も望むな」
「………私に望んでいるのは、あなたでは?」
「そなたも、大人になったな………」
もう少女と言うには少々無理な年でも、童顔のウォルファはまだ少女だった。
「夜のせいです。すべては私たちを隠す暗がりが……」
時おり見え隠れする大人と子供の微妙な境目が独特な魅力を醸し出している。彼は止まれない自分を必死で押し止め、ウォルファを優しく抱き寄せた。
「………そなたはじゅうぶん、大人だ。俺が全てを求めてももう壊れないだろう。……だが、一体いつこんなに大人に?」
毅然と、そしてどこか朧気な美しさを持った彼女は、肩をすくめて笑った。細めた目元がより艶っぽく、ヒジェは思わずどきりとした。
「待ちすぎたせいです。きっと、あなたが居ない間待ち続けたからです」
「待ったら……きれいになるのか?」
「たぶん。待つときは恋をしているから。オクチョン姉さ……じゃなくて禧嬪様は昔、私に恋をするときれいになるって言っていました。だから急にきれいになった私を見て、あなたに恋してるって言われて……」
あながち間違いではないなと思ったヒジェは、美しい彼女の姿を目に焼き付けるために近づいた。
「………きれいだ。だが、熟れる前に食べてもみたかった……」
「なっ…………」
ウォルファは赤面すると後ろを向いて、彼との距離を取った。そしてこれ以上話すこともままならないほどに気恥ずかしくなったのでそのまま部屋を後にした。
そして次の日、ウンテクが出掛けたことを確認したウォルファはソリの妓楼で着替えると、昨日の笠をかぶってヒジェの前に現れた。彼は高級そうな赤と黒の服を着ている。ウォルファはかつてヒジェが捕盗庁の従事官だった頃にもらった淡い紫色のチマに、すみれの刺繍が入った水色のチョゴリで、靴は黒と赤。ヒジェは二年前と何も変わらない姿にまたもや見とれた。彼女はそんなヒジェの前で少しだけ笠についた顔を隠すための薄布を上げ、いたずらっ子のような笑顔を浮かべた。
「うん………その………綺麗だ。」
「ありがとう。」
「では、行こうか。今日は誰に気がねもせず過ごそう」
ウォルファは差し出されたヒジェの手を取り、小さく頷いた。
市場の人は一体チャン・ヒジェの隣にいる女性は誰なのと口々に噂をした。もちろん大方例の西人シム家の令嬢であろうとは憶測がついていたが、敢えて誰もそれを口に出そうとはしなかった。ウォルファはヒジェの手を離れないようにしっかり握っている。二人は川原の土手に並んで座り、ウォルファは誰もいないことを確認して笠の布を上げた。
「どう?変かしら?」
「いや、やはり俺の選んだ服なだけはある。良く映えている」
「何よそれ」
相変わらず演技か本気かわからないヒジェの自尊心の高さにあきれ返ると、彼女は懐からすっかり返しそびれていたものを取り出した。
「ほら、これ。私に預けられても困るのよ」
「……すまん」
「だったらもう二度と………」
彼女はそう言うと、ヒジェの胸に顔を埋めた。
「もう、二度と私を離したりしないで」
「ウォルファ…………」
ずっと彼女が強がっていたことに気づいたヒジェは、ようやくその寂しさと心細さに触れた。彼は線の細いウォルファの身体を壊してしまいそうなくらいに抱き締め、震える声で誓った。
「ああ………約束する。絶対、そなたを離したりせん」
「……嘘ついたら髭抜いてもいい?」
「痛そうだ」
笑顔に戻ったウォルファが彼の揉み髭を掴んで左右に引っ張り始める。さすがの彼も痛みに堪えかね七転八倒した。
「いたたたたた!!!やめろ!おい!」
「覚えておいて。私を離すっていうのは、これくらい痛いってこと!」
「わかったわかった、絶対守るから!!いたたたたたた!!!」
いつの間にかヒジェの上に馬乗りになっているウォルファは、彼の胸の上に腕を組んで寝そべった。そして気が済んだので起き上がろうとした。しかし、身体が思うように動かない。彼女ははっとして自分の腰の辺りを手でまさぐった。
「………離さぬ。」
「離して」
「約束しただろう?だから離さぬ」
がっしりと腰をヒジェの手に掴まれて身動きが取れなくなったウォルファは、一変して焦り始めた。
「やっ………ほ、他の人が見たら……どうするのですか」
「ふっ…………知らん。」
彼は意地悪な笑顔をウォルファに向けると、更に彼女の腰を自分の身体に引き寄せ、片方の足で絡み付いてきた。成す術もなくなった彼女は抵抗を止め、ヒジェに身を任せることにした。彼は諦めた頃合いを見計らって今度はウォルファの上に乗ると、優しく輪郭をなぞって笠をはずした。誰もいない死角の土手で恋人たちがすることといえば、情を交わせるくらいだというのはさすがの彼女も知っていた。今日のヒジェから止まる様子はないと思った彼女は、覚悟を決めて目を閉じた。そして、ヒジェの顔が近づき………………
「……え?」
「大丈夫だ。そなたの貞操を汚したりせぬ。俺はそなたにだけは放蕩息子でないからな」
優しく額に口づけをした。目を開けた彼女の目の前に居るのは、いつも通りの優しいヒジェだった。
「さ、行こう。今日は気兼ねせずに遊べるんだからな」
「あら、そんなあなたが大好きよ」
ウォルファはヒジェの手を取って立ち上がると、再び笠を手に取り被った。二人を阻むものは何もない。このとき彼らは本気でそう信じていた。
市場の商品を見飽きた二人は、普通の料理屋に入ると普通の商品を注文した。普段のヒジェなら特に美味しいとも思わないような食べ物でも、ウォルファと食べるとこの世で一番の物に感じた。彼はウォルファに口を開けて食べさせてほしいと言い出した。彼女は子供っぽい自分の婚約者に苦笑いすると、ねだり通りに食べ物を口に運んでやった。
「うん、やはりそなたに食べさせてもらったものは美味い」
「困ったわね……あなたにねだられると何でもしてあげたくなるわ…」
「それが俺の能力だ」
「嘘よ」
二人はそんなかつての懐かしい日々のやり取りのような会話に大笑いした。ヒジェは再び食べ物を貰おうとねだり始めたので、ウォルファはその額を指で弾いた。
「ほら、やっぱり嘘」
「そんなことはない。俺の願いは今叶っている」
「えっ?」
彼女がきょとんとした瞬間、ヒジェが彼女の注文した卵焼きの食べかけをつまんで盗み食いした。既に口のなかに入ってしまった好物を見て、ウォルファは彼を力一杯叩こうとした。
「ご馳走さま、ウォルファ」
「…………ひどい………」
「美味しかった。特にそなたの食べさしだしな」
「やだ、この変態」
二人はその後も他愛ない談笑を続けた。
その様子を、二人の男性が見ていた。それはユンとムヨルだった。ユンは目の回りを赤くしてうつむくと、大きなため息を漏らした。観察眼がするどいムヨルは、その一連の動作だけでユンがウォルファを慕っていると気づいた。彼はわざとこの貴公子を怒らせるためにこう言った。
「中人ごときにあのような美人が釣り合う世になるとは……西人の政治も乱れきったものです」
「あの娘とチャン・ヒジェは釣り合ってはおらぬ。あの子は自分の思いを見失っているだけだ」
ユンはそう言い放つと、そのままその場を後にした。残されたムヨルはヒジェについてもっと調べれば、南人の中で優位にたてるのではと思いつつ、淑媛の弱味を探すために西人の中核であるシム・ウンテクの妹のウォルファの素性も調べねばと考え、再び司憲府に戻った。
ユンは独り、自宅で飲んでいた。思い返すのはどれもずっと心が若かった頃の事だった。
彼がウォルファと出会ったのは、西人と南人の会合の時だった。シム家で開かれた会議を抜け出し、偶然ばったりと遭遇したのが彼女だった。それはあまりに甘く、ほろ苦く、彼にとって身を焦がすような恋だった。その後も何度か家に足を運び、彼はウォルファの喜ぶ姿を見たくて珍しいものや書物、更には兄の家庭教師の声を盗み聞きして覚えた清国の言葉も不完全だったので彼が教えた。彼にとって、ウォルファは少女ながらも異性だった。だが、ヒジェの出現で彼は気づいた。
「ウォルファはずっと、私のことを兄のように思っていたのか………」
一番近かったのに、一番遠い存在。それがユンにとってのウォルファだった。彼女が義州へ行ってからも、戻ってきてからも、自らが流刑になっているときでも、彼は片時もウォルファのことを忘れなかった。だが、その心の中にはいつも自分は居ない。彼女が見つめているものはいつもチャン・ヒジェで、彼女が微笑みを投げ掛けるものもまたチャン・ヒジェだった。
「中人のくせに……………!一介の通訳官と賤民の後妻の間に出来た息子のくせに………」
激しい嫉妬が彼の身を焼き尽くす。そしてようやく気がついた。
「私は………これほどに彼女を……愛していたのか……?」
自分の心に秘めた激情を知った彼だが、既にそれを与えるべき相手は、他の賤しい男の激情にほだされている。彼は声無き叫びをあげた。もちろん、この哀しみも、思いもウォルファには届かないのだった。
二人は遊び疲れ、ようやくウォルファの家にやって来た。だが既に兄は帰宅しており、ヒジェは塀から彼女を返すよりほか無かった。彼はウォルファを軽々と担ぎ上げると、そのまま別れを告げて帰ろうとした。それを引き留めたウォルファは、塀に座ったまま彼に抱きついた。
「………愛してる」
「俺もだ、ウォルファ。愛している」
彼女は今にも消え入りそうな程に不安げな顔でヒジェを見ると、恐る恐る尋ねた。
「………また今度も、会える?」
「ああ、会えるとも。……まじないをかけてやるから、近くへ来い。」
素直になんの疑いもなく顔を近づけたウォルファの無防備さに驚きながらも、ヒジェはその唇を首尾良く強引に奪った。とろけるような深い口づけに、彼女は思わず塀から落ちそうになった。唇を離したヒジェは、なにも言わずウォルファの傍から離れた。まるで二度と会えなくなるかのように何度も振り向きながら、彼は自宅に戻るのだった。
翌日、ウォルファはトンイの産んだ王子に会いに行き、部屋の片付けを手伝った。久しぶりに義理の姉妹として過ごせる時間は、二人にとって特別なものだった。
「姉さんが元気になってよかったわ」
「私が元気に?なぜそう思うのですか?」
「だって、何だか幸せそうよ?」
ヒジェたち南人を戻す入れ知恵をしたのが自分だと知らないトンイを見て、少しだけ胸がいたんだウォルファだったが、自然な笑顔を向けるとその手を伸ばして箱を手に取った。それはとても簡素だが、何か大事なものを入れているらしかった。しかし、中身は驚くほどに軽い。彼女は整理のついでだと思ってあまり気にしていないトンイに断りを入れ、何気なく箱を開けた。すると、そこには石の片割れが入っていた。彼女はその割れかた、形、色、すべてに見覚えがあった。
ウォルファはその石を手にとって震える声で尋ねた。
「───これは………誰かの遺品ですか………?」
「そうなの。母の形見なんだけれども、生き別れた姉さんがもう片割れを持っていて………」
そこまで説明すると、トンイはウォルファのあまりに青ざめ、肩を震わせる姿に違和感を覚え、恐る恐る顔を覗きこんだ。
「……姉さん?」
「────私が、姉です…」
「えっ?」
何が起きているのかさっぱり理解していないトンイは、きょとんとしながら首をかしげている。そんな彼女に理解して貰おうと、ウォルファはもう一度はっきりと告げた。
「───私が生き別れた姉なのです、淑媛様……」
トンイに衝撃が走った。まさか、自分が姉ならばいいのにと慕った人が自分の実の姉だとは。
この二人の関係が、ウォルファとヒジェの運命をより大きく歪めてしまうことになるのだが、それはまだもう少し先の話である。
「……待ったか?」
「ええ。待ったわ。でも一年よりまし」
「そうか。……よし、来い。連れ出してやる」
ヒジェは塀の上に手を伸ばすと、ウォルファに塀に登るように指示した。彼女はいとも簡単に塀によじ登ると、ヒジェの腕の中に着地した。
「ほら、受け止めた。」
「ありがとう」
彼は地面にウォルファを下ろすと、その手を引いて夜の町を駆け出した。
「ほら、誰も俺たちを気に留めない。すばらしいな」
「ええ、みんな夜は会う人全てが秘密だらけなのよ」
「俺たちも、秘密の固まりか…」
「私たちは周りには秘密しかないわ。お互いにはないけれど」
ヒジェは幸せそうにしているウォルファが大好きだった。だからもっと喜ばせたくて、彼はある場所に彼女を案内した。そこには、薄布がついた女物の笠があった。ウォルファはまじまじと手にとってそれを見ると、疑いが混じった声で尋ねた。
「これ………私に?」
「ああ、そうだ。これなら、昼間に歩いてもばれないぞ?」
「まあ、確かに………でも、良いのかしら?万が一ばれたときには……」
「その時は、さっさとそなたを妻にする。」
「えっ?」
冗談かと思って隣を見ていると、どこから見ても真面目にしか見えないヒジェがウォルファを凝視している。彼女は恥ずかしさに笠で顔を隠すと、ちらりと隙間からヒジェの顔を見た。ほっとした彼女は一度下を向いてからもう一度前を向いた。すると、先程よりもずっと近い距離にヒジェがいる。ウォルファは思わず小さな悲鳴をあげた。
「……今さら恥ずかしがってどうする」
「だ、だって………今は……その………」
「夜だから、か?」
どことなく夜の方が魅惑的に映るヒジェが、彼女の心を高鳴らせた。赤と黒の服を来ている彼はそのままウォルファに近づくと、前触れもなく激しい口づけをした。慌てて押し退けようとしたが、その手さえ掴まれ、壁に押し当てられる。意識は既に逢瀬の幸せの中で朦朧とし、手から持っていた笠がこぼれ落ちる。
「………これ以上俺に何も望むな」
「………私に望んでいるのは、あなたでは?」
「そなたも、大人になったな………」
もう少女と言うには少々無理な年でも、童顔のウォルファはまだ少女だった。
「夜のせいです。すべては私たちを隠す暗がりが……」
時おり見え隠れする大人と子供の微妙な境目が独特な魅力を醸し出している。彼は止まれない自分を必死で押し止め、ウォルファを優しく抱き寄せた。
「………そなたはじゅうぶん、大人だ。俺が全てを求めてももう壊れないだろう。……だが、一体いつこんなに大人に?」
毅然と、そしてどこか朧気な美しさを持った彼女は、肩をすくめて笑った。細めた目元がより艶っぽく、ヒジェは思わずどきりとした。
「待ちすぎたせいです。きっと、あなたが居ない間待ち続けたからです」
「待ったら……きれいになるのか?」
「たぶん。待つときは恋をしているから。オクチョン姉さ……じゃなくて禧嬪様は昔、私に恋をするときれいになるって言っていました。だから急にきれいになった私を見て、あなたに恋してるって言われて……」
あながち間違いではないなと思ったヒジェは、美しい彼女の姿を目に焼き付けるために近づいた。
「………きれいだ。だが、熟れる前に食べてもみたかった……」
「なっ…………」
ウォルファは赤面すると後ろを向いて、彼との距離を取った。そしてこれ以上話すこともままならないほどに気恥ずかしくなったのでそのまま部屋を後にした。
そして次の日、ウンテクが出掛けたことを確認したウォルファはソリの妓楼で着替えると、昨日の笠をかぶってヒジェの前に現れた。彼は高級そうな赤と黒の服を着ている。ウォルファはかつてヒジェが捕盗庁の従事官だった頃にもらった淡い紫色のチマに、すみれの刺繍が入った水色のチョゴリで、靴は黒と赤。ヒジェは二年前と何も変わらない姿にまたもや見とれた。彼女はそんなヒジェの前で少しだけ笠についた顔を隠すための薄布を上げ、いたずらっ子のような笑顔を浮かべた。
「うん………その………綺麗だ。」
「ありがとう。」
「では、行こうか。今日は誰に気がねもせず過ごそう」
ウォルファは差し出されたヒジェの手を取り、小さく頷いた。
市場の人は一体チャン・ヒジェの隣にいる女性は誰なのと口々に噂をした。もちろん大方例の西人シム家の令嬢であろうとは憶測がついていたが、敢えて誰もそれを口に出そうとはしなかった。ウォルファはヒジェの手を離れないようにしっかり握っている。二人は川原の土手に並んで座り、ウォルファは誰もいないことを確認して笠の布を上げた。
「どう?変かしら?」
「いや、やはり俺の選んだ服なだけはある。良く映えている」
「何よそれ」
相変わらず演技か本気かわからないヒジェの自尊心の高さにあきれ返ると、彼女は懐からすっかり返しそびれていたものを取り出した。
「ほら、これ。私に預けられても困るのよ」
「……すまん」
「だったらもう二度と………」
彼女はそう言うと、ヒジェの胸に顔を埋めた。
「もう、二度と私を離したりしないで」
「ウォルファ…………」
ずっと彼女が強がっていたことに気づいたヒジェは、ようやくその寂しさと心細さに触れた。彼は線の細いウォルファの身体を壊してしまいそうなくらいに抱き締め、震える声で誓った。
「ああ………約束する。絶対、そなたを離したりせん」
「……嘘ついたら髭抜いてもいい?」
「痛そうだ」
笑顔に戻ったウォルファが彼の揉み髭を掴んで左右に引っ張り始める。さすがの彼も痛みに堪えかね七転八倒した。
「いたたたたた!!!やめろ!おい!」
「覚えておいて。私を離すっていうのは、これくらい痛いってこと!」
「わかったわかった、絶対守るから!!いたたたたたた!!!」
いつの間にかヒジェの上に馬乗りになっているウォルファは、彼の胸の上に腕を組んで寝そべった。そして気が済んだので起き上がろうとした。しかし、身体が思うように動かない。彼女ははっとして自分の腰の辺りを手でまさぐった。
「………離さぬ。」
「離して」
「約束しただろう?だから離さぬ」
がっしりと腰をヒジェの手に掴まれて身動きが取れなくなったウォルファは、一変して焦り始めた。
「やっ………ほ、他の人が見たら……どうするのですか」
「ふっ…………知らん。」
彼は意地悪な笑顔をウォルファに向けると、更に彼女の腰を自分の身体に引き寄せ、片方の足で絡み付いてきた。成す術もなくなった彼女は抵抗を止め、ヒジェに身を任せることにした。彼は諦めた頃合いを見計らって今度はウォルファの上に乗ると、優しく輪郭をなぞって笠をはずした。誰もいない死角の土手で恋人たちがすることといえば、情を交わせるくらいだというのはさすがの彼女も知っていた。今日のヒジェから止まる様子はないと思った彼女は、覚悟を決めて目を閉じた。そして、ヒジェの顔が近づき………………
「……え?」
「大丈夫だ。そなたの貞操を汚したりせぬ。俺はそなたにだけは放蕩息子でないからな」
優しく額に口づけをした。目を開けた彼女の目の前に居るのは、いつも通りの優しいヒジェだった。
「さ、行こう。今日は気兼ねせずに遊べるんだからな」
「あら、そんなあなたが大好きよ」
ウォルファはヒジェの手を取って立ち上がると、再び笠を手に取り被った。二人を阻むものは何もない。このとき彼らは本気でそう信じていた。
市場の商品を見飽きた二人は、普通の料理屋に入ると普通の商品を注文した。普段のヒジェなら特に美味しいとも思わないような食べ物でも、ウォルファと食べるとこの世で一番の物に感じた。彼はウォルファに口を開けて食べさせてほしいと言い出した。彼女は子供っぽい自分の婚約者に苦笑いすると、ねだり通りに食べ物を口に運んでやった。
「うん、やはりそなたに食べさせてもらったものは美味い」
「困ったわね……あなたにねだられると何でもしてあげたくなるわ…」
「それが俺の能力だ」
「嘘よ」
二人はそんなかつての懐かしい日々のやり取りのような会話に大笑いした。ヒジェは再び食べ物を貰おうとねだり始めたので、ウォルファはその額を指で弾いた。
「ほら、やっぱり嘘」
「そんなことはない。俺の願いは今叶っている」
「えっ?」
彼女がきょとんとした瞬間、ヒジェが彼女の注文した卵焼きの食べかけをつまんで盗み食いした。既に口のなかに入ってしまった好物を見て、ウォルファは彼を力一杯叩こうとした。
「ご馳走さま、ウォルファ」
「…………ひどい………」
「美味しかった。特にそなたの食べさしだしな」
「やだ、この変態」
二人はその後も他愛ない談笑を続けた。
その様子を、二人の男性が見ていた。それはユンとムヨルだった。ユンは目の回りを赤くしてうつむくと、大きなため息を漏らした。観察眼がするどいムヨルは、その一連の動作だけでユンがウォルファを慕っていると気づいた。彼はわざとこの貴公子を怒らせるためにこう言った。
「中人ごときにあのような美人が釣り合う世になるとは……西人の政治も乱れきったものです」
「あの娘とチャン・ヒジェは釣り合ってはおらぬ。あの子は自分の思いを見失っているだけだ」
ユンはそう言い放つと、そのままその場を後にした。残されたムヨルはヒジェについてもっと調べれば、南人の中で優位にたてるのではと思いつつ、淑媛の弱味を探すために西人の中核であるシム・ウンテクの妹のウォルファの素性も調べねばと考え、再び司憲府に戻った。
ユンは独り、自宅で飲んでいた。思い返すのはどれもずっと心が若かった頃の事だった。
彼がウォルファと出会ったのは、西人と南人の会合の時だった。シム家で開かれた会議を抜け出し、偶然ばったりと遭遇したのが彼女だった。それはあまりに甘く、ほろ苦く、彼にとって身を焦がすような恋だった。その後も何度か家に足を運び、彼はウォルファの喜ぶ姿を見たくて珍しいものや書物、更には兄の家庭教師の声を盗み聞きして覚えた清国の言葉も不完全だったので彼が教えた。彼にとって、ウォルファは少女ながらも異性だった。だが、ヒジェの出現で彼は気づいた。
「ウォルファはずっと、私のことを兄のように思っていたのか………」
一番近かったのに、一番遠い存在。それがユンにとってのウォルファだった。彼女が義州へ行ってからも、戻ってきてからも、自らが流刑になっているときでも、彼は片時もウォルファのことを忘れなかった。だが、その心の中にはいつも自分は居ない。彼女が見つめているものはいつもチャン・ヒジェで、彼女が微笑みを投げ掛けるものもまたチャン・ヒジェだった。
「中人のくせに……………!一介の通訳官と賤民の後妻の間に出来た息子のくせに………」
激しい嫉妬が彼の身を焼き尽くす。そしてようやく気がついた。
「私は………これほどに彼女を……愛していたのか……?」
自分の心に秘めた激情を知った彼だが、既にそれを与えるべき相手は、他の賤しい男の激情にほだされている。彼は声無き叫びをあげた。もちろん、この哀しみも、思いもウォルファには届かないのだった。
二人は遊び疲れ、ようやくウォルファの家にやって来た。だが既に兄は帰宅しており、ヒジェは塀から彼女を返すよりほか無かった。彼はウォルファを軽々と担ぎ上げると、そのまま別れを告げて帰ろうとした。それを引き留めたウォルファは、塀に座ったまま彼に抱きついた。
「………愛してる」
「俺もだ、ウォルファ。愛している」
彼女は今にも消え入りそうな程に不安げな顔でヒジェを見ると、恐る恐る尋ねた。
「………また今度も、会える?」
「ああ、会えるとも。……まじないをかけてやるから、近くへ来い。」
素直になんの疑いもなく顔を近づけたウォルファの無防備さに驚きながらも、ヒジェはその唇を首尾良く強引に奪った。とろけるような深い口づけに、彼女は思わず塀から落ちそうになった。唇を離したヒジェは、なにも言わずウォルファの傍から離れた。まるで二度と会えなくなるかのように何度も振り向きながら、彼は自宅に戻るのだった。
翌日、ウォルファはトンイの産んだ王子に会いに行き、部屋の片付けを手伝った。久しぶりに義理の姉妹として過ごせる時間は、二人にとって特別なものだった。
「姉さんが元気になってよかったわ」
「私が元気に?なぜそう思うのですか?」
「だって、何だか幸せそうよ?」
ヒジェたち南人を戻す入れ知恵をしたのが自分だと知らないトンイを見て、少しだけ胸がいたんだウォルファだったが、自然な笑顔を向けるとその手を伸ばして箱を手に取った。それはとても簡素だが、何か大事なものを入れているらしかった。しかし、中身は驚くほどに軽い。彼女は整理のついでだと思ってあまり気にしていないトンイに断りを入れ、何気なく箱を開けた。すると、そこには石の片割れが入っていた。彼女はその割れかた、形、色、すべてに見覚えがあった。
ウォルファはその石を手にとって震える声で尋ねた。
「───これは………誰かの遺品ですか………?」
「そうなの。母の形見なんだけれども、生き別れた姉さんがもう片割れを持っていて………」
そこまで説明すると、トンイはウォルファのあまりに青ざめ、肩を震わせる姿に違和感を覚え、恐る恐る顔を覗きこんだ。
「……姉さん?」
「────私が、姉です…」
「えっ?」
何が起きているのかさっぱり理解していないトンイは、きょとんとしながら首をかしげている。そんな彼女に理解して貰おうと、ウォルファはもう一度はっきりと告げた。
「───私が生き別れた姉なのです、淑媛様……」
トンイに衝撃が走った。まさか、自分が姉ならばいいのにと慕った人が自分の実の姉だとは。
この二人の関係が、ウォルファとヒジェの運命をより大きく歪めてしまうことになるのだが、それはまだもう少し先の話である。