7、共に生きる
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王妃ことオクチョンの部屋に呼び出されたオ・テソクは、一体何事かと気が気でない様子だった。オクチョンもしきりに机に指を何度も当てている。すると、程無くしてウォルファが現れた。ユンから面会したいといっている相手がいるとだけ聞かされていた二人は、この思いがけない登場者に言葉を失った。
「なっ…………ウォルファ………」
「お久しぶりです、王妃様。」
「何故そなたがここに居る。何を言いにきた!」
義州で仕損じたことを悔やんでいるテソクは、驚きで何も言えないオクチョンと変わって声を震わせながら激怒した。
「お言葉ですがオ・テソク様。南人の危機を救いにきた者に対して、そのような言葉掛けは如何なものかと存じますが。そもそもチャン・ヒジェ様を、甥子さまの縁談敵としてお見捨てになられたことが浅はかな行動でしたね。」
「なっ…………」
魂胆を見破られた彼は、一言も返すことができなかった。淡々とどちらを見ることもなく返事をするウォルファに、オクチョンは実に彼女が兄を助ける手だてを知っているのではないかと思い始めた彼女は、西人の罠やもしれない危険をおかしてでも、親友を信じてすがるより他はないと決意を固めた。
「……なにか案があるの?」
「ええ。ございます。…ただしこれには西人、南人の双方に譲歩していただく必要がございます。」
「ふざけるな!自ら墓穴を掘った男を何故助けねばならぬ」
私的な怨恨から一切手を貸そうとしないテソクにウォルファは腹を煮えくり返らせた。一方オクチョンはなす術無しといった顔をしており、相当窮地に追い込まれているということだけはよく見てとれる。
彼女は最後の切り札を出すより他、オクチョン以外の南人の重臣を動かすことは不可能だと悟った。そして、どこ吹く風のようにこういった。
「──では、西人はこのまま時流に乗って重臣の皆さま方の罪も追求し始めることでしょう。西人の重臣が続々と廃妃ミン氏のもとへ集まっている……それがどのような意味か、知らぬとは言わせませんよ」
「貴様!」
「左議政殿はお控えください。…ウォルファ、策を申してみなさい」
ウォルファはようやく話が動き始めたとつくづく事の運びの悪さにやきもきしながらも、本題に入った。
「皆さんが今求めているのはトンイという信憑性に欠ける女官の引き渡し。そして、その承恩尚宮への昇格に対する取り消し…ですよね?」
魂胆を見破られたために狼狽する二人を見て、彼女はますますヒジェを救う方法が成功しそうだと心のなかで微笑みを浮かべた。
「そうだ。あんな女が承恩尚宮になれば、西人の天下ではないか」
「ですが、内命婦のことに口出しするのは、この王妃である私しか出来ぬこと。私が何かすべきなのか?」
テソクまで話に興味を持ちだしたところで、ウォルファは具体的な行動を説明し始めた。
「南人はチャン・ヒジェ様救済を座り込みで訴えてください。そうすればヒジェ様への拷問は止められます。そして、王妃様は頃合いをみてチョン・ドンイを承認するのです。その代償に、ヒジェ様の釈放を要求してください」
「………私に、王様と交渉しろと申したのか?」
「はい。これしか残された方法はないと、王妃様はすでにお分かりなのでは?」
オクチョンはそれきり黙りこんでしまった。間髪入れずウォルファが最後の一押しをかける。
「これはヒジェ様だけの問題ではありません。南人全体の危機です。王妃様、左議政様、どうか英断をお願い致します。今、この瞬間にも一国の王妃の兄が侮られ、拷問にかけられているのです。これはつまり一国の王妃とその後ろ楯である南人の重臣が侮られているのと同じではないのですか?」
筋の通った説得に、二人は顔を見合わせてうなずくことしか出来ない。ウォルファはそれを見届けると、喜びを抑えて綺麗に一礼をし、ヒジェの元へと向かった。
ヒジェはソ・ヨンギとチャ・チョンスに直々の拷問と尋問を受けていた。ウォルファはその痛々しい光景に耐えかね、南人の重臣が座り込みを始めるのを声を殺して待ち続けた。
「吐け!余罪はあるか?」
「ないっ!!捕盗大将の私が貴様らなどに話すことはない!」
「捕らえられている時点で、貴様は大将の地位を失っている。そのようなことは関係ない。続けよ」
ヨンギの指示で拷問が再開された。ヒジェは再び呻き声をあげているが、事実を吐く様子はない。そんな中、彼はウォルファの姿に気がついた。苦しみの中に差した一筋の光は、弱りきっていた彼に希望と気力を与えた。
「俺は貴様らの思うようには何も吐かん!俺はただ、普通の男として、愛する人と生きてみたかっただけだ!」
その言葉に、彼女は溢れる涙を抑えることが出来なくなってしまった。たったそれだけの些細な願いでも、両班ではないからと反感を買い、後ろ楯のないせいでひどい目に遭う。
「どうして……どうして、あなただけなの……?あなたがこんな目に………」
彼女は我を忘れて刑場の兵を押し退けてヒジェの側に近づいた。彼は泣いていた。涙で目を赤く腫らしながら、彼は叫んだ。
「ウォルファ!俺のことは気にかけるな!俺は……俺は必ずやつらを見返してやる!両班でなくとも、お前を欲しても罪ではないと…そう認めさせてやる!」
「何をしている、拷問を続けよ。シム氏にはご退去願う」
「嫌。この人の側からは離れたりしない。私もここで座り込むわ!私も罰を受けます。私も、この方と……同じ罰を受けます。解放しないのなら私も捕らえなさい!私を………」
やり取りに圧巻されているファン武官や刑務官たちは、どちらの指示に従うべきなのかうろたえた。ヨンギはチョンスに目で指示を出すと、彼はウォルファを外へ連れ出すために腕をつかんだ。
「嫌!嫌よ!ヒジェ様!ヒジェ様っ!!!!この人が死んでしまうわ!やめて!お願いだから!!」
「ウォルファ!ウォルファっ………………彼女を離せ!!」
「公務執行妨害でで死にたいのか、ウォルファ。」
みかねたヨンギは剣を抜くと、ウォルファの首にその刃を向けた。その場に座り込まされた彼女だが、その視線はしっかりとぶれることなくヨンギに注がれている。
「……この人の命と証言が望みなら、私の命を先に奪ってください。」
「死を選べるほど、この男はそなたにとって価値のある者なのか?」
その質問の返答に誰もが釘付けとなった。はりつめた空気の中、彼女がゆっくりと答える。
「……はい。西人でありながら私はこの方を、愛しています。」
「……裏切り者め。兄と尚宮様が悲しむぞ」
「偽りの中で生きるうちに、私は私をいつの間にか殺していました。私は自分を取り戻します」
思いがけなくウォルファの覚悟を知ったヒジェは、朦朧とする意識の中で首を必死に横に振った。
──だめだ、ウォルファ………お前の人生までもが、険しい道に………
だが彼女はその思いにさえ気づいているのか、ヒジェに笑顔を向けてこう言った。
「大丈夫です。あなたとは党派が異なっていようとも、辿る運命は同じでありたいのです。」
「ウォルファ………」
ヒジェはここまで自分が彼女を巻き込んでしまったことに後悔の念を抱きながら空を仰いだ。ヨンギもウォルファを切り捨てるつもりはなかったのだが、後に引くこともできない。
その時だった。命をすり減らすように危険な沈黙が支配している刑場に、何人かの官吏がやって来てヒジェの拷問中止を命じた。
「今すぐチャン・ヒジェ容疑者への尋問ならびに拷問を中止せよ。南人の重臣らの訴えにより、王様が英断なさった。」
ヨンギたちはあと少しで尻尾をつかめたというのに、逃げられたという悔しさから顔を歪めた。もちろんウォルファが喜んだのは言うまでもない。だが、ヒジェはすっかり憔悴しきっており意識を失っていた。彼女は自らヒジェの縄を解くと、肩を貸しながら彼のために特別に設けられた面会室兼牢獄へ無言で向かった。その献身的な愛に誰もが心動かされたのだが、しかしまた誰も手を貸す者は独りも居なかった。
「すぐに医者を呼ぶわ」
「ありがとうございます、王妃様。」
ウォルファは政敵となってしまったオクチョンに、深々と頭を下げた。友と呼び合える仲だったにもかかわらず、親しく話すことさえ許されない立場となってしまった二人は、互いに私情を挟まずに会話をしていた。だが、意外にもそれを破ったのはオクチョンの方だった。
「───ありがとう、兄を救ってくれて。」
「王妃様……」
「あなたさえ良ければ、兄上の傍についていてやってはくれませんか?」
ウォルファはその提案に驚きつつも、確かに首を縦に振った。オクチョンは兄の寝顔を見て微笑んでこういった。
「…兄上は、幸せですね。純粋で、決して揺るがない愛を受けられて」
「……オクチョン姉様……?」
「もう、オクチョンは死んだの。純粋に王様の愛を頼っていたオクチョンは死んだの。…だから、もうその名前で呼ばないで。」
彼女は涙を目に浮かべながらそう言った。いや、実はそう彼女自身に言い聞かせていた。ウォルファは彼女の変わり様に、移り変わりのもの悲しさを感じた。そして望み通り、儀礼的な言葉を並べ立てた。
「申し訳ございません、王妃様」
「これで失礼する。」
彼女は部屋を出ていった。そしてウォルファはようやく、彼女が就きたいと思っていた王妃という座がいかに虚しいものだったのかを、改めて知った。部屋の後に残された恐ろしいほどに冷たい空虚感は、自然とウォルファの涙を誘うのだった。
オクチョンの計らいで運ばれた膳を机に置いて、ウォルファはじっとヒジェの寝顔を眺めていた。医師の診察では、体力の衰えが著しいが凡人離れした気力で持っていると伝えられた。
「……ヒジェ様……」
彼女はヒジェの後れ髪を優しく払ってやると、その額に口づけをした。すると、驚いたことにウォルファの手を目覚めた彼がつかんで引き寄せた。
「なっ…………病人はおとなしく……」
「確かに、俺は病人だな。……恋という名の、な」
彼らしくもない言葉に仰天してしまった彼女は、その手を反射的に振り払おうとした。だが、ヒジェも強く握っているため、離れない。
「これで元気になるのだ。…ああ、抱きしてめくれればもっと元気になるぞ」
「あなたは寝込んでいるくらいで丁度です!」
「なんだ。寝込んだら相手をしてくれるのか?」
「そういう問題では……」
あきれてものも言えないという様子のウォルファに、ヒジェはどうしても相手をしてほしいようで、しきりに足をばたつかせては潤んだ瞳で哀願してくる。
「頼む!ウォルファ、取って食ったりせんから…」
「嘘です。絶対嫌です。あなたとは布団の上に上がりたくはありません」
「またそのようなことを……婚姻したらどうする気だ」
その言葉に彼女の思考が停止した。
「えっ………」
「そうであろう?ん?ほら、今から慣らしてやる」
両手を広げてうなずくヒジェに丸め込まれ、危うく布団の上に上がりそうになった彼女は、すんでのところでとどまった。
「やっぱり、い、嫌です!それより王妃様から届いたお膳を召し上がってください!お元気ならご自分で食べて下さい」
それを聞くや否や、彼は寝転がった。
「……何ですか?」
「疲れた。自分で食べれん。」
───この人、本当は相当な甘えん坊なのかしら?
放っておくと駄々をこねそうな勢いの彼を見て、ウォルファは渋々布団で背中当てを作ってから起こしてやると、口許に食べ物を運んでやった。
「ほら、食べて下さい」
「これ、嫌いだ」
実は偏食の激しいヒジェは、差し出された野菜を見て顔を横にそらした。だがウォルファも負けてはいない。
「……食べなさい。病人なんでしょう?」
「病人こそ、いたわられるべきだ。嫌いな食べ物を食わされる病人がどこに居る」
「ではご自分で食べて下さるんですね?」
さすがにそれは嫌なようで、彼は渋々野菜を口にした。
実はそのやり取りをオクチョンと外でこっそり見聞きしていたヒジェの母ソンリプは、思わず吹き出してしまった。
「あのヒジェが野菜を……」
「兄上があれほどに幸せそうに女人と笑う姿は初めて見ました」
ソンリプは心から楽しそうに他人と笑うヒジェを初めて見た。そして、ふとこう思った。
「……あの子とヒジェは、運命なのかも知れませんね」
「母上。西人と南人の恋がどれ程難しいことか。それにあの子はトンイとも親交があります」
「だからこそ運命のように思えてならないのです。決して結ばれることはないというのに、これ程までにも愛を貫ける。あのヒジェが、心の底から誰かを愛したことなどなかった。それは王妃様もご存じのはず」
ヒジェの地位のことを思えば、ウォルファから引き離すのが得策だ。だが、我が子の心を考えると、恩人であり心の拠り所となっている彼女を引き離すのは酷である。そこで結局二人はただ今は見守るしかないと思い、静かにその場を後にした。
食事を終えて元気を取り戻したヒジェは、ほどなくして自分の釈放を伝えにきた部下から大将の服を受け取った。その服は、とても軽かった。それは自分が軽んじてきた主観的な誰かの命の重さであり、またそれは自らの薄っぺらい地位そのものであり存在だった。追い求めていた地位というものは自分を守ってもくれないし、むしろ自分の首を絞めるものだった。だからこそ、心奪われた時から彼はウォルファの笑顔に癒され、真の心の拠り所を知らずのうちに見いだしていたのだ。
ウォルファは何も言わず、大将の服を手にとって彼の袖に通し始めた。
「……この服は、あなたを一番着飾らせるのね」
「初めて結婚したとき、婚礼着の官服が似合わないと笑われたからな。武官服の方が似合うらしい」
「そうかも知れないわね。でも、それは見た目の問題。偽の衣でかりそめの姿を着飾るあなたより、私はむしろ先程の白服の方が良かった。」
彼女はヒジェの腰ひもを結びながらそう言った。顔を上げると、驚いた様子の彼が真正面に見える。
「……夫婦になったら、そなたに毎日服を着せてもらおう。そなたの気に入っておるこの白服からな」
「素敵ですが、着せて差し上げたいとは言っていません。」
白服を脱げば、あられもなく裸となる。その意図をわかっていながらの言葉に、彼女は改めてヒジェの意地悪さを感じた。
「夫婦になったら、別々の部屋で寝ますからね。服だけ着せに、朝起きてから部屋に伺います」
「何故だ。俺は毎晩そなたと寝たい」
口に出してから彼は別の意味にもとれるということに気づき、取り繕うことさえ出来ないほどに赤面した。
「……それは……その………だな。」
「随分愚直な、ヒジェ様らしいお言葉ですね。」
幸いにもウォルファは特に他意はないと分かっているようで、あきれながらも笑っている。それからヒジェは何も言うことが出来ず仕舞いとなってしまうのだった。
だが、たった一つだけ彼は心に決めていた。悔しい思いをするのはこの一度だけでいいと。あとはこの笑顔を守っていけるだけの力さえあればいいのだと。地位を取り戻すのではなく、このときの彼は既にウォルファとの未来を取り戻す方に重きを置き始めていた。だがもちろん、そんなことを彼女がしるはずもない。そして、それが不可能だということも、ヒジェは知らなかった。
西人がほんの少し力を取り戻した朝廷に、ヒジェは礼賓寺の署長として出勤していた。賓客をもてなすこの職務は、捕盗大将から比べれば相当の左遷だ。しかもかつて見下げていた官僚たちを接待し、その要望と我が儘を聞かねばならないことも彼の屈辱感を増させていた。
だか、だからこそヒジェは決意していた。
───必ず、俺は全てを取り戻す。あの子と笑って生きていける未来を。
そのためならどんな屈辱でも耐えてやる。心にそう決めたヒジェは迷いなく、接待を待っている官僚たちの元へ笑顔で向かっていくのだった。
オクチョンの庭では、牡丹の花が一斉に花盛りを迎えていた。
「綺麗ね……」
「はい、まるで王妃様のようですわ」
女官の言葉に浮かない気分からようやく少し抜けて微笑んだ彼女は、ふと牡丹の根本に生えている花に驚いた。
「あら。この前ちぎった菫、また生えてきているのね……」
その姿に確かな生きる力を感じた彼女は、一年前とは異なり感嘆してそのままにしておくようにと命じた。
必死で日陰であっても根本であっても咲き続ける菫は、強さだけではなくどこか儚さを魅せているようにも見える。
もうすぐで、牡丹の花が終わりを告げる時期。それはまるで、待ち受けるオクチョンの運命を暗示しているようだ。
では、菫は一体誰なのか。そしてその人物には牡丹のように華咲かす日は来るのか。
すべては、誰も知らない。しかし一つだけ確かなのは、咲いた華はいつか散り、後には種だけを残す。そしてその種は、確かに誰かの心に根付くのだ。
「なっ…………ウォルファ………」
「お久しぶりです、王妃様。」
「何故そなたがここに居る。何を言いにきた!」
義州で仕損じたことを悔やんでいるテソクは、驚きで何も言えないオクチョンと変わって声を震わせながら激怒した。
「お言葉ですがオ・テソク様。南人の危機を救いにきた者に対して、そのような言葉掛けは如何なものかと存じますが。そもそもチャン・ヒジェ様を、甥子さまの縁談敵としてお見捨てになられたことが浅はかな行動でしたね。」
「なっ…………」
魂胆を見破られた彼は、一言も返すことができなかった。淡々とどちらを見ることもなく返事をするウォルファに、オクチョンは実に彼女が兄を助ける手だてを知っているのではないかと思い始めた彼女は、西人の罠やもしれない危険をおかしてでも、親友を信じてすがるより他はないと決意を固めた。
「……なにか案があるの?」
「ええ。ございます。…ただしこれには西人、南人の双方に譲歩していただく必要がございます。」
「ふざけるな!自ら墓穴を掘った男を何故助けねばならぬ」
私的な怨恨から一切手を貸そうとしないテソクにウォルファは腹を煮えくり返らせた。一方オクチョンはなす術無しといった顔をしており、相当窮地に追い込まれているということだけはよく見てとれる。
彼女は最後の切り札を出すより他、オクチョン以外の南人の重臣を動かすことは不可能だと悟った。そして、どこ吹く風のようにこういった。
「──では、西人はこのまま時流に乗って重臣の皆さま方の罪も追求し始めることでしょう。西人の重臣が続々と廃妃ミン氏のもとへ集まっている……それがどのような意味か、知らぬとは言わせませんよ」
「貴様!」
「左議政殿はお控えください。…ウォルファ、策を申してみなさい」
ウォルファはようやく話が動き始めたとつくづく事の運びの悪さにやきもきしながらも、本題に入った。
「皆さんが今求めているのはトンイという信憑性に欠ける女官の引き渡し。そして、その承恩尚宮への昇格に対する取り消し…ですよね?」
魂胆を見破られたために狼狽する二人を見て、彼女はますますヒジェを救う方法が成功しそうだと心のなかで微笑みを浮かべた。
「そうだ。あんな女が承恩尚宮になれば、西人の天下ではないか」
「ですが、内命婦のことに口出しするのは、この王妃である私しか出来ぬこと。私が何かすべきなのか?」
テソクまで話に興味を持ちだしたところで、ウォルファは具体的な行動を説明し始めた。
「南人はチャン・ヒジェ様救済を座り込みで訴えてください。そうすればヒジェ様への拷問は止められます。そして、王妃様は頃合いをみてチョン・ドンイを承認するのです。その代償に、ヒジェ様の釈放を要求してください」
「………私に、王様と交渉しろと申したのか?」
「はい。これしか残された方法はないと、王妃様はすでにお分かりなのでは?」
オクチョンはそれきり黙りこんでしまった。間髪入れずウォルファが最後の一押しをかける。
「これはヒジェ様だけの問題ではありません。南人全体の危機です。王妃様、左議政様、どうか英断をお願い致します。今、この瞬間にも一国の王妃の兄が侮られ、拷問にかけられているのです。これはつまり一国の王妃とその後ろ楯である南人の重臣が侮られているのと同じではないのですか?」
筋の通った説得に、二人は顔を見合わせてうなずくことしか出来ない。ウォルファはそれを見届けると、喜びを抑えて綺麗に一礼をし、ヒジェの元へと向かった。
ヒジェはソ・ヨンギとチャ・チョンスに直々の拷問と尋問を受けていた。ウォルファはその痛々しい光景に耐えかね、南人の重臣が座り込みを始めるのを声を殺して待ち続けた。
「吐け!余罪はあるか?」
「ないっ!!捕盗大将の私が貴様らなどに話すことはない!」
「捕らえられている時点で、貴様は大将の地位を失っている。そのようなことは関係ない。続けよ」
ヨンギの指示で拷問が再開された。ヒジェは再び呻き声をあげているが、事実を吐く様子はない。そんな中、彼はウォルファの姿に気がついた。苦しみの中に差した一筋の光は、弱りきっていた彼に希望と気力を与えた。
「俺は貴様らの思うようには何も吐かん!俺はただ、普通の男として、愛する人と生きてみたかっただけだ!」
その言葉に、彼女は溢れる涙を抑えることが出来なくなってしまった。たったそれだけの些細な願いでも、両班ではないからと反感を買い、後ろ楯のないせいでひどい目に遭う。
「どうして……どうして、あなただけなの……?あなたがこんな目に………」
彼女は我を忘れて刑場の兵を押し退けてヒジェの側に近づいた。彼は泣いていた。涙で目を赤く腫らしながら、彼は叫んだ。
「ウォルファ!俺のことは気にかけるな!俺は……俺は必ずやつらを見返してやる!両班でなくとも、お前を欲しても罪ではないと…そう認めさせてやる!」
「何をしている、拷問を続けよ。シム氏にはご退去願う」
「嫌。この人の側からは離れたりしない。私もここで座り込むわ!私も罰を受けます。私も、この方と……同じ罰を受けます。解放しないのなら私も捕らえなさい!私を………」
やり取りに圧巻されているファン武官や刑務官たちは、どちらの指示に従うべきなのかうろたえた。ヨンギはチョンスに目で指示を出すと、彼はウォルファを外へ連れ出すために腕をつかんだ。
「嫌!嫌よ!ヒジェ様!ヒジェ様っ!!!!この人が死んでしまうわ!やめて!お願いだから!!」
「ウォルファ!ウォルファっ………………彼女を離せ!!」
「公務執行妨害でで死にたいのか、ウォルファ。」
みかねたヨンギは剣を抜くと、ウォルファの首にその刃を向けた。その場に座り込まされた彼女だが、その視線はしっかりとぶれることなくヨンギに注がれている。
「……この人の命と証言が望みなら、私の命を先に奪ってください。」
「死を選べるほど、この男はそなたにとって価値のある者なのか?」
その質問の返答に誰もが釘付けとなった。はりつめた空気の中、彼女がゆっくりと答える。
「……はい。西人でありながら私はこの方を、愛しています。」
「……裏切り者め。兄と尚宮様が悲しむぞ」
「偽りの中で生きるうちに、私は私をいつの間にか殺していました。私は自分を取り戻します」
思いがけなくウォルファの覚悟を知ったヒジェは、朦朧とする意識の中で首を必死に横に振った。
──だめだ、ウォルファ………お前の人生までもが、険しい道に………
だが彼女はその思いにさえ気づいているのか、ヒジェに笑顔を向けてこう言った。
「大丈夫です。あなたとは党派が異なっていようとも、辿る運命は同じでありたいのです。」
「ウォルファ………」
ヒジェはここまで自分が彼女を巻き込んでしまったことに後悔の念を抱きながら空を仰いだ。ヨンギもウォルファを切り捨てるつもりはなかったのだが、後に引くこともできない。
その時だった。命をすり減らすように危険な沈黙が支配している刑場に、何人かの官吏がやって来てヒジェの拷問中止を命じた。
「今すぐチャン・ヒジェ容疑者への尋問ならびに拷問を中止せよ。南人の重臣らの訴えにより、王様が英断なさった。」
ヨンギたちはあと少しで尻尾をつかめたというのに、逃げられたという悔しさから顔を歪めた。もちろんウォルファが喜んだのは言うまでもない。だが、ヒジェはすっかり憔悴しきっており意識を失っていた。彼女は自らヒジェの縄を解くと、肩を貸しながら彼のために特別に設けられた面会室兼牢獄へ無言で向かった。その献身的な愛に誰もが心動かされたのだが、しかしまた誰も手を貸す者は独りも居なかった。
「すぐに医者を呼ぶわ」
「ありがとうございます、王妃様。」
ウォルファは政敵となってしまったオクチョンに、深々と頭を下げた。友と呼び合える仲だったにもかかわらず、親しく話すことさえ許されない立場となってしまった二人は、互いに私情を挟まずに会話をしていた。だが、意外にもそれを破ったのはオクチョンの方だった。
「───ありがとう、兄を救ってくれて。」
「王妃様……」
「あなたさえ良ければ、兄上の傍についていてやってはくれませんか?」
ウォルファはその提案に驚きつつも、確かに首を縦に振った。オクチョンは兄の寝顔を見て微笑んでこういった。
「…兄上は、幸せですね。純粋で、決して揺るがない愛を受けられて」
「……オクチョン姉様……?」
「もう、オクチョンは死んだの。純粋に王様の愛を頼っていたオクチョンは死んだの。…だから、もうその名前で呼ばないで。」
彼女は涙を目に浮かべながらそう言った。いや、実はそう彼女自身に言い聞かせていた。ウォルファは彼女の変わり様に、移り変わりのもの悲しさを感じた。そして望み通り、儀礼的な言葉を並べ立てた。
「申し訳ございません、王妃様」
「これで失礼する。」
彼女は部屋を出ていった。そしてウォルファはようやく、彼女が就きたいと思っていた王妃という座がいかに虚しいものだったのかを、改めて知った。部屋の後に残された恐ろしいほどに冷たい空虚感は、自然とウォルファの涙を誘うのだった。
オクチョンの計らいで運ばれた膳を机に置いて、ウォルファはじっとヒジェの寝顔を眺めていた。医師の診察では、体力の衰えが著しいが凡人離れした気力で持っていると伝えられた。
「……ヒジェ様……」
彼女はヒジェの後れ髪を優しく払ってやると、その額に口づけをした。すると、驚いたことにウォルファの手を目覚めた彼がつかんで引き寄せた。
「なっ…………病人はおとなしく……」
「確かに、俺は病人だな。……恋という名の、な」
彼らしくもない言葉に仰天してしまった彼女は、その手を反射的に振り払おうとした。だが、ヒジェも強く握っているため、離れない。
「これで元気になるのだ。…ああ、抱きしてめくれればもっと元気になるぞ」
「あなたは寝込んでいるくらいで丁度です!」
「なんだ。寝込んだら相手をしてくれるのか?」
「そういう問題では……」
あきれてものも言えないという様子のウォルファに、ヒジェはどうしても相手をしてほしいようで、しきりに足をばたつかせては潤んだ瞳で哀願してくる。
「頼む!ウォルファ、取って食ったりせんから…」
「嘘です。絶対嫌です。あなたとは布団の上に上がりたくはありません」
「またそのようなことを……婚姻したらどうする気だ」
その言葉に彼女の思考が停止した。
「えっ………」
「そうであろう?ん?ほら、今から慣らしてやる」
両手を広げてうなずくヒジェに丸め込まれ、危うく布団の上に上がりそうになった彼女は、すんでのところでとどまった。
「やっぱり、い、嫌です!それより王妃様から届いたお膳を召し上がってください!お元気ならご自分で食べて下さい」
それを聞くや否や、彼は寝転がった。
「……何ですか?」
「疲れた。自分で食べれん。」
───この人、本当は相当な甘えん坊なのかしら?
放っておくと駄々をこねそうな勢いの彼を見て、ウォルファは渋々布団で背中当てを作ってから起こしてやると、口許に食べ物を運んでやった。
「ほら、食べて下さい」
「これ、嫌いだ」
実は偏食の激しいヒジェは、差し出された野菜を見て顔を横にそらした。だがウォルファも負けてはいない。
「……食べなさい。病人なんでしょう?」
「病人こそ、いたわられるべきだ。嫌いな食べ物を食わされる病人がどこに居る」
「ではご自分で食べて下さるんですね?」
さすがにそれは嫌なようで、彼は渋々野菜を口にした。
実はそのやり取りをオクチョンと外でこっそり見聞きしていたヒジェの母ソンリプは、思わず吹き出してしまった。
「あのヒジェが野菜を……」
「兄上があれほどに幸せそうに女人と笑う姿は初めて見ました」
ソンリプは心から楽しそうに他人と笑うヒジェを初めて見た。そして、ふとこう思った。
「……あの子とヒジェは、運命なのかも知れませんね」
「母上。西人と南人の恋がどれ程難しいことか。それにあの子はトンイとも親交があります」
「だからこそ運命のように思えてならないのです。決して結ばれることはないというのに、これ程までにも愛を貫ける。あのヒジェが、心の底から誰かを愛したことなどなかった。それは王妃様もご存じのはず」
ヒジェの地位のことを思えば、ウォルファから引き離すのが得策だ。だが、我が子の心を考えると、恩人であり心の拠り所となっている彼女を引き離すのは酷である。そこで結局二人はただ今は見守るしかないと思い、静かにその場を後にした。
食事を終えて元気を取り戻したヒジェは、ほどなくして自分の釈放を伝えにきた部下から大将の服を受け取った。その服は、とても軽かった。それは自分が軽んじてきた主観的な誰かの命の重さであり、またそれは自らの薄っぺらい地位そのものであり存在だった。追い求めていた地位というものは自分を守ってもくれないし、むしろ自分の首を絞めるものだった。だからこそ、心奪われた時から彼はウォルファの笑顔に癒され、真の心の拠り所を知らずのうちに見いだしていたのだ。
ウォルファは何も言わず、大将の服を手にとって彼の袖に通し始めた。
「……この服は、あなたを一番着飾らせるのね」
「初めて結婚したとき、婚礼着の官服が似合わないと笑われたからな。武官服の方が似合うらしい」
「そうかも知れないわね。でも、それは見た目の問題。偽の衣でかりそめの姿を着飾るあなたより、私はむしろ先程の白服の方が良かった。」
彼女はヒジェの腰ひもを結びながらそう言った。顔を上げると、驚いた様子の彼が真正面に見える。
「……夫婦になったら、そなたに毎日服を着せてもらおう。そなたの気に入っておるこの白服からな」
「素敵ですが、着せて差し上げたいとは言っていません。」
白服を脱げば、あられもなく裸となる。その意図をわかっていながらの言葉に、彼女は改めてヒジェの意地悪さを感じた。
「夫婦になったら、別々の部屋で寝ますからね。服だけ着せに、朝起きてから部屋に伺います」
「何故だ。俺は毎晩そなたと寝たい」
口に出してから彼は別の意味にもとれるということに気づき、取り繕うことさえ出来ないほどに赤面した。
「……それは……その………だな。」
「随分愚直な、ヒジェ様らしいお言葉ですね。」
幸いにもウォルファは特に他意はないと分かっているようで、あきれながらも笑っている。それからヒジェは何も言うことが出来ず仕舞いとなってしまうのだった。
だが、たった一つだけ彼は心に決めていた。悔しい思いをするのはこの一度だけでいいと。あとはこの笑顔を守っていけるだけの力さえあればいいのだと。地位を取り戻すのではなく、このときの彼は既にウォルファとの未来を取り戻す方に重きを置き始めていた。だがもちろん、そんなことを彼女がしるはずもない。そして、それが不可能だということも、ヒジェは知らなかった。
西人がほんの少し力を取り戻した朝廷に、ヒジェは礼賓寺の署長として出勤していた。賓客をもてなすこの職務は、捕盗大将から比べれば相当の左遷だ。しかもかつて見下げていた官僚たちを接待し、その要望と我が儘を聞かねばならないことも彼の屈辱感を増させていた。
だか、だからこそヒジェは決意していた。
───必ず、俺は全てを取り戻す。あの子と笑って生きていける未来を。
そのためならどんな屈辱でも耐えてやる。心にそう決めたヒジェは迷いなく、接待を待っている官僚たちの元へ笑顔で向かっていくのだった。
オクチョンの庭では、牡丹の花が一斉に花盛りを迎えていた。
「綺麗ね……」
「はい、まるで王妃様のようですわ」
女官の言葉に浮かない気分からようやく少し抜けて微笑んだ彼女は、ふと牡丹の根本に生えている花に驚いた。
「あら。この前ちぎった菫、また生えてきているのね……」
その姿に確かな生きる力を感じた彼女は、一年前とは異なり感嘆してそのままにしておくようにと命じた。
必死で日陰であっても根本であっても咲き続ける菫は、強さだけではなくどこか儚さを魅せているようにも見える。
もうすぐで、牡丹の花が終わりを告げる時期。それはまるで、待ち受けるオクチョンの運命を暗示しているようだ。
では、菫は一体誰なのか。そしてその人物には牡丹のように華咲かす日は来るのか。
すべては、誰も知らない。しかし一つだけ確かなのは、咲いた華はいつか散り、後には種だけを残す。そしてその種は、確かに誰かの心に根付くのだ。