6、理不尽な世界(加筆修正済み)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ウォルファは恐る恐る口を開いた。その重々しさは、命懸けの返答ということに気づいているからである。彼女はヒジェの顔色を伺いながら、いつもの笑顔を向けた。
「ええ、久しぶりに書庫に寄りたかったの。」
「そうか。私は仕事をする故、今日は帰る。」
丁度ヒジェを引き留めている間に、トンイは書庫の裏口へと進んでいた。だが、あいにく鍵がかかっており、彼女は身振りでウォルファに裏口は駄目だと示した。そしてヒジェが別の方向を向いている隙をみて、出入り口から逃げようと試みることにした。
だが、運悪く彼がトンイのいる方向を向きそうになった。ウォルファの立ち位置からでもよく見えるというのだから、ヒジェが振り向けば明らかに見つかってしまう。
───何とかしなきゃ…………
ヒジェの気をそらし、向きを変える方法。トンイが固唾を呑んで見守る中、咄嗟にウォルファは一歩踏み出して彼の腕を掴み、引き寄せた。そして──
「───……っ…!?」
彼女はつま先で立って背伸びをすると、ヒジェの唇に自らの唇を重ねた。唐突な行動に驚いた彼は、抱き締めようとする手さえ震えてしまい、仕事どころでは無くなってしまった。燃え上がる気持ちを抑えきれず、彼はウォルファを壁まで押しやり、長い口づけを交わした。
驚いたのはトンイも同じだ。二人が恋仲だとも知らないため、自分のために身を呈して守ったようにしか見えていない。ウォルファはそんな呆然としている彼女に、早く逃げるように手で小さく指示をした。
────姉さん、ごめんなさい。
なにも知らないトンイは罪悪感に苛まれながらも、静かに王宮から脱出するため、書庫を後にした。
あれ程に賢いヒジェのことだから、不自然さに気づいてしまったかもしれないと危惧したウォルファは、ちらりと彼の顔を見た。だが、そこにあったのはいつもの優しい普通の男であるチャン・ヒジェだった。
「……寂しかったのか?」
「ええ、寂しかった。辛かった。」
───あなたに嘘をつかなければならないことが。
しかし、そんな思いが彼に届くわけはない。ウォルファは心の中で大粒の涙を流しながら、彼の求める笑顔を返した。
「ずっと………一緒にいてくれると、今ここで約束してはくれませんか?どんな悪事にも手を染めず、飾らず、流されない。そんなあなたで居てくれませんか?」
「ウォルファ…………」
自分一人の愛で、変わると信じていた。自分のひたむきな思いが、彼の悪行に手を染めてでも権力を握りたいという野心を変えられるかもしれない。そう信じていた。だが、それは彼女の思い上がりだった。ずっと見つめていたその人は、権力を握ることでしか自分と生きられないし、そもそも権力が無くなれば忽ちに欲深い生き物に食いつくされてしまうということにずっと彼女は気づいていなかった。いや、本当は気づかないふりをしていた。身を守るため、自分と生きるために悪事さえ厭わずに身を投じるしかないチャン・ヒジェという生き物が、彼女には愚かで、そして哀しく思えた。また、相手が大きすぎる代償を払うことでしか愛を貫けない自らの境遇を呪った。
ウォルファはそんなことを考えながら、笑顔で手を振って職務に戻るヒジェをいつまでも見送っていた。
嘘をつき、ヒジェを騙したことは呪縛のようにウォルファを罪の意識に突き落とした。決して、嘘をつくべきではなかった。だが、一年前に都とその一年後に義州で彼のしたことは許されないことだった。いくらヒジェとはいえ、自らの失態をもみ消すために誰かの生を自由に命じて証拠ごと握りつぶすことは許される行いではない。
彼女は苦悩した。このまま彼に偽りの笑顔を向け続け、正しいことをするべきなのか。それとも、自分も愛する人のためにその悪行を忘却に葬るべきなのか。だがもしそんなことをすれば彼女の兄、ウンテクはどうなってしまうのか。母のイェリは依然、帰らぬ兄を待ち続けている。更に命を懸けて告発しようとしているトンイの努力はどうなってしまうのか。様々な人の苦労と悲しみ、そして無念を考えると、ウォルファはどうしてもヒジェの企みを放っておくことは出来ない。けれど、自分と生きるために仕方なく悪人に成り下がっている彼を見捨てることも出来ない。
「どうして………どうして、私は西人なの…?どうして……」
西人で無ければ良かった。南人であれば、共に生きられたのに。彼女は自分の境遇に熱い殺意を覚えながら泣き崩れた。そして、やはり結ばれたいと思ってしまう自分の欲深さにつくづく人の業を感じながら、失意と不安、そして惑いの闇に落ちていくのだった。
その数日後、都は大騒ぎになっていた。なんとトンイが王に告発した内需司の横領についての全てが明らかにされたのだ。彼女は更に、密かにトンイが王の承恩尚宮と昇格を果たしたことも驚きだったが、それよりも貼り紙にチャン・ヒジェ並びに関わった官僚数名が拷問にかけられると記されていることの方が重要だった。往来の人々は皆、天罰だと罵っている。ウォルファはヒジェに会うために宮殿への道を急ぐ中、耳を塞ぎたくなる思いでそれらを聞いていた。
「天罰よ!これはきっとそうに違いないわ」
「ああ。俺の女房を寝とったからだ」
「偉そうに生きていて、これじゃあ足りないぜ。もっと大きな罰を与えないとな」
違う。違うの。
ウォルファは通りすぎながら首を横に振った。そして、心の中でこう思った。
彼は本当はその資金を……罪滅ぼしのために私の家族の家を買い戻すため、そして大将昇進の際の賄賂に使ったのよ。確かに、犯した罪は大きいわ。でも……でも、両班でない彼が権力を手にするためには、普通の人が踏む手だてでは出来ないの。何もわかっていない。民衆も、王様も、何もあの人の気持ちを理解しようとしない。悪事に手を染めざるをえない訳を、どうして考えようとしないの?そもそもその身分でありながら、ただ純粋に愛する人との幸せを望むことが罪なの?他の両班たちや官僚はもっと酷いことをしているというのに!
「どうして……どうしてなのよ……」
ウォルファは泣きながら義禁府を訪ねた。ちょうどそこには拷問にかけられた後の憔悴しきったヒジェが居た。屈辱感を味わっている彼の表情は、苦虫を潰したような、複雑なものだった。彼女は声を掛けるのも憚られる気がして、震える手を伸ばすことさえも出来ない。だが、そんなときでもヒジェは彼女の存在に気づいていた。彼は弱々しげに微笑むと、ウォルファに今にも涙を溢れさせそうな瞳を向けた。
「ヒジェ様……」
「教えてくれ、ウォルファ。俺は、俺は……分不相応なものを求めてしまったのか?そなたを傍に置くというたったそれだけの夢さえ、俺には許されないというのか?」
その悔しさが痛いほど伝わってくる言葉に対して、彼女はヒジェを抱き締めることしかできなかった。彼は天を仰ぎながら続けた。
「……どうして、俺は……せめて俺が両班であれば良かったのに。すべての権力者を納得させるには、地位が必要なのに………」
「もう、いいじゃない。誰が認めてくれなくても、私はあなたのことを愛しているから。あなただけが私の夫となる方です。」
どこまでも直向きで誠実なウォルファの言葉に一気に涙腺がゆるんだヒジェは、大粒の涙を流し始めた。彼はウォルファの腕の中に膝から崩れると、何度も謝罪した。
「ウォルファ…………すまない。本当に……すまない」
「謝らないで。それより、笑顔でいて。ずっと、笑顔で………」
その言葉に、ようやくヒジェは気づいた。
─────大切なのは、傍に居るための地位などではなかったのだ。本当に大切なのは、愛する人の手を離さずに済むように生きる、たったそれだけのことだったのか。
けれど、もう引き返すことは出来ない。騰録類抄は既に清国へ渡された。もっと早くに気がついていれば。もっと遠い先の話を考えていれば。彼の心の中に後悔の念が現れ、それがまた彼を弱くさせた。
「すまん………本当に………これからは………もっと……そなたの笑顔を……守るから………もう、遅いかも…知れないが……」
「そんなことはありません。私は大丈夫。気にしないで。」
──遅いんだ。もう。
一度悪に染まってしまえば、もう戻れない。その事実は誰よりヒジェ自身がよく知っていた。たった一度、道を誤っただけで人間はいとも簡単に堕落していく。いや、もう既に野心を抱いたときから自分の正鵠は堕ちていたのかもしれない。
だからこそ彼は、もうウォルファを正当な方法で守ることはできないとわかっていた。一度その世界を垣間見れば、どれ程汚いことが平気でまかり通っていて、どれ程理不尽であるか。そんな輩から彼女を守るには、悲しいことではあるが、彼らと同じ悪事を働かねばならない。
ヒジェはウォルファの頬に自分の両手を添え、彼女に言い聞かせた。
「───党派など、全て棄ててでもそなたを守る。どんな手段を使ってでも、そなただけは私から奪わせはせん。例え官職を奪われ、左遷され、流刑されたとしても。私は必ず戻ってくる。必ず、そなたの元に戻る。」
「ヒジェ様………」
その決意は誰にも止められないことを、ウォルファは実感しながらも内心は不安に思いながら、小さく頷くことしか出来ないのだった。
ヒジェが拷問を受け、弱っている様子は多くの人々の関心を引いた。特に、オ・ユンはひときわ満足そうな顔をしている。ヒジェはテジュとユンに気付くと、敵意を剥き出しにしてこう言った。
「───俺が憎いのか?」
「ああ。憎いとも。中人……いや、賤民のくせに私の婚約者の気持ちを奪い去り、挙げ句に縁談まで壊した後、私より昇進した。南人の党首を継ぐのは、お前ではない。私だ」
ユンは手に持っている剣を抜いて斬りかかりたい思いを抑えて淡々と返答した。だが、人を煽る才能はヒジェの方が上だった。彼は全てを知っていると言いたげな顔で彼を見下げると、冷淡な笑みを浮かべた。
「そうか。たかだかその子犬程度の器だから、お前は婚約者の心さえ掴めず、昇進さえ出来ない。」
「……何?」
「今回の告発に西人やあの小娘だけでなく、南人の一部を率いたお前が関わっているのは知っている。………だからこそ警告しておく。次に俺が罰を受けるときは、意地でも道連れにしてやる」
その凄みの効いた言葉に、ユンは思わず後ずさりした。普段なら動じない彼なのだが、今までのヒジェがしてきた冷酷なことの数々を思い出しても、宣言通りの結果をもたらすからだ。現に今の彼の目は、獲物を狩る鷹そのもの。ユンはとんでもない相手を的に回してしまったと後悔すると同時に、決してひいてはならない戦いになりそうだと悟るのだった。
ヒジェに本格的な宣戦布告をされた後、ユンは偶然にもウォルファに出会った。今回の逮捕にユンたちが関わっておらず、ヒジェと数名の官吏のみが捕らえられたのを見て、彼女もヒジェを切り捨てたということに気づいていた。
「………ヒジェ様は、確かにあなたと比べれば何の身分もありませんし、私もそれは認めています。ですが、私はあの人の全てを愛しています。ですから、あの人を切り捨てたあなたたちの仕打ちを忘れません。」
最も慕っている人の言葉に、ユンは身を切り刻まれるような思いで返事を返した。
「…いいだろう。お前はいつか、ヒジェを選んだことを後悔するからな。」
「後悔しても、別に構いません。大切なのは、私がその道を自らの意地で選んだということ。私があの人を愛しているということです。元より、そういう保証の一切存在しない恋ですから」
彼女の固い意思には、ヒジェへの強い愛がこもっていた。本当はユン自身に向けてほしかった愛が。彼はこれが最期だと思うと、小さく初めて本音を呟いた。
「───好きだった。最初の頃の、遊びだと思ってお前に近づいたあいつよりも、ずっと真剣に愛していた。」
「……気持ちに応えられなくて、本当にごめんなさい。」
これが最初で最後の、ユンが見せた本心だった。彼女はどちらも同じまっすぐな愛なのに、選ばれてしまう残酷さに悲しみを覚えながら、やっとのことで声を絞り出した。
「私と、そして西人の重臣たちと取引をしましょう。南人の方々が口を揃えてヒジェ様を救えば、あの方は釈放されるはず。」
「……取引などされるとは。あのとき、助けなければよかった。そうすれば、そなたもあいつの手にかけられて始末されていた」
義州へ逃げるときに山道で助けたことを思い返し、ユンはふとこう言った。それほどに苦しめていたのかと改めて思い知ったウォルファは、彼の手に触れようとした。だが、その手がはねのけられる。
「やめてくれ。もう、優しくしないでくれ。同情なんて勘弁してくれ。私を愛さないなら…」
一瞬の気遣いに、ユンの瞳が見開かれる。だが彼はすぐに冷えた瞳で一瞥を送ると、そのままきびすを返して職務に戻っていった。心の中では、彼女への惜別の念をいつまでもくすぶらせながら。そんな彼をウォルファは引き留めた。
「待ちなさい。私を王妃様、そしてあなたの叔父様に会わせてちょうだい。私が、チャン・ヒジェ様をお救いし、南人を窮地から救う手だてを知っている、と。」
「………わかった。」
ユンは渋々了承すると、テジュに言って使いを寄越した。これで満足かと言いたげな顔をした彼には、もはやウォルファへの思慕は跡形もなく胸の奥深くの思い出となっていた。
「ええ、久しぶりに書庫に寄りたかったの。」
「そうか。私は仕事をする故、今日は帰る。」
丁度ヒジェを引き留めている間に、トンイは書庫の裏口へと進んでいた。だが、あいにく鍵がかかっており、彼女は身振りでウォルファに裏口は駄目だと示した。そしてヒジェが別の方向を向いている隙をみて、出入り口から逃げようと試みることにした。
だが、運悪く彼がトンイのいる方向を向きそうになった。ウォルファの立ち位置からでもよく見えるというのだから、ヒジェが振り向けば明らかに見つかってしまう。
───何とかしなきゃ…………
ヒジェの気をそらし、向きを変える方法。トンイが固唾を呑んで見守る中、咄嗟にウォルファは一歩踏み出して彼の腕を掴み、引き寄せた。そして──
「───……っ…!?」
彼女はつま先で立って背伸びをすると、ヒジェの唇に自らの唇を重ねた。唐突な行動に驚いた彼は、抱き締めようとする手さえ震えてしまい、仕事どころでは無くなってしまった。燃え上がる気持ちを抑えきれず、彼はウォルファを壁まで押しやり、長い口づけを交わした。
驚いたのはトンイも同じだ。二人が恋仲だとも知らないため、自分のために身を呈して守ったようにしか見えていない。ウォルファはそんな呆然としている彼女に、早く逃げるように手で小さく指示をした。
────姉さん、ごめんなさい。
なにも知らないトンイは罪悪感に苛まれながらも、静かに王宮から脱出するため、書庫を後にした。
あれ程に賢いヒジェのことだから、不自然さに気づいてしまったかもしれないと危惧したウォルファは、ちらりと彼の顔を見た。だが、そこにあったのはいつもの優しい普通の男であるチャン・ヒジェだった。
「……寂しかったのか?」
「ええ、寂しかった。辛かった。」
───あなたに嘘をつかなければならないことが。
しかし、そんな思いが彼に届くわけはない。ウォルファは心の中で大粒の涙を流しながら、彼の求める笑顔を返した。
「ずっと………一緒にいてくれると、今ここで約束してはくれませんか?どんな悪事にも手を染めず、飾らず、流されない。そんなあなたで居てくれませんか?」
「ウォルファ…………」
自分一人の愛で、変わると信じていた。自分のひたむきな思いが、彼の悪行に手を染めてでも権力を握りたいという野心を変えられるかもしれない。そう信じていた。だが、それは彼女の思い上がりだった。ずっと見つめていたその人は、権力を握ることでしか自分と生きられないし、そもそも権力が無くなれば忽ちに欲深い生き物に食いつくされてしまうということにずっと彼女は気づいていなかった。いや、本当は気づかないふりをしていた。身を守るため、自分と生きるために悪事さえ厭わずに身を投じるしかないチャン・ヒジェという生き物が、彼女には愚かで、そして哀しく思えた。また、相手が大きすぎる代償を払うことでしか愛を貫けない自らの境遇を呪った。
ウォルファはそんなことを考えながら、笑顔で手を振って職務に戻るヒジェをいつまでも見送っていた。
嘘をつき、ヒジェを騙したことは呪縛のようにウォルファを罪の意識に突き落とした。決して、嘘をつくべきではなかった。だが、一年前に都とその一年後に義州で彼のしたことは許されないことだった。いくらヒジェとはいえ、自らの失態をもみ消すために誰かの生を自由に命じて証拠ごと握りつぶすことは許される行いではない。
彼女は苦悩した。このまま彼に偽りの笑顔を向け続け、正しいことをするべきなのか。それとも、自分も愛する人のためにその悪行を忘却に葬るべきなのか。だがもしそんなことをすれば彼女の兄、ウンテクはどうなってしまうのか。母のイェリは依然、帰らぬ兄を待ち続けている。更に命を懸けて告発しようとしているトンイの努力はどうなってしまうのか。様々な人の苦労と悲しみ、そして無念を考えると、ウォルファはどうしてもヒジェの企みを放っておくことは出来ない。けれど、自分と生きるために仕方なく悪人に成り下がっている彼を見捨てることも出来ない。
「どうして………どうして、私は西人なの…?どうして……」
西人で無ければ良かった。南人であれば、共に生きられたのに。彼女は自分の境遇に熱い殺意を覚えながら泣き崩れた。そして、やはり結ばれたいと思ってしまう自分の欲深さにつくづく人の業を感じながら、失意と不安、そして惑いの闇に落ちていくのだった。
その数日後、都は大騒ぎになっていた。なんとトンイが王に告発した内需司の横領についての全てが明らかにされたのだ。彼女は更に、密かにトンイが王の承恩尚宮と昇格を果たしたことも驚きだったが、それよりも貼り紙にチャン・ヒジェ並びに関わった官僚数名が拷問にかけられると記されていることの方が重要だった。往来の人々は皆、天罰だと罵っている。ウォルファはヒジェに会うために宮殿への道を急ぐ中、耳を塞ぎたくなる思いでそれらを聞いていた。
「天罰よ!これはきっとそうに違いないわ」
「ああ。俺の女房を寝とったからだ」
「偉そうに生きていて、これじゃあ足りないぜ。もっと大きな罰を与えないとな」
違う。違うの。
ウォルファは通りすぎながら首を横に振った。そして、心の中でこう思った。
彼は本当はその資金を……罪滅ぼしのために私の家族の家を買い戻すため、そして大将昇進の際の賄賂に使ったのよ。確かに、犯した罪は大きいわ。でも……でも、両班でない彼が権力を手にするためには、普通の人が踏む手だてでは出来ないの。何もわかっていない。民衆も、王様も、何もあの人の気持ちを理解しようとしない。悪事に手を染めざるをえない訳を、どうして考えようとしないの?そもそもその身分でありながら、ただ純粋に愛する人との幸せを望むことが罪なの?他の両班たちや官僚はもっと酷いことをしているというのに!
「どうして……どうしてなのよ……」
ウォルファは泣きながら義禁府を訪ねた。ちょうどそこには拷問にかけられた後の憔悴しきったヒジェが居た。屈辱感を味わっている彼の表情は、苦虫を潰したような、複雑なものだった。彼女は声を掛けるのも憚られる気がして、震える手を伸ばすことさえも出来ない。だが、そんなときでもヒジェは彼女の存在に気づいていた。彼は弱々しげに微笑むと、ウォルファに今にも涙を溢れさせそうな瞳を向けた。
「ヒジェ様……」
「教えてくれ、ウォルファ。俺は、俺は……分不相応なものを求めてしまったのか?そなたを傍に置くというたったそれだけの夢さえ、俺には許されないというのか?」
その悔しさが痛いほど伝わってくる言葉に対して、彼女はヒジェを抱き締めることしかできなかった。彼は天を仰ぎながら続けた。
「……どうして、俺は……せめて俺が両班であれば良かったのに。すべての権力者を納得させるには、地位が必要なのに………」
「もう、いいじゃない。誰が認めてくれなくても、私はあなたのことを愛しているから。あなただけが私の夫となる方です。」
どこまでも直向きで誠実なウォルファの言葉に一気に涙腺がゆるんだヒジェは、大粒の涙を流し始めた。彼はウォルファの腕の中に膝から崩れると、何度も謝罪した。
「ウォルファ…………すまない。本当に……すまない」
「謝らないで。それより、笑顔でいて。ずっと、笑顔で………」
その言葉に、ようやくヒジェは気づいた。
─────大切なのは、傍に居るための地位などではなかったのだ。本当に大切なのは、愛する人の手を離さずに済むように生きる、たったそれだけのことだったのか。
けれど、もう引き返すことは出来ない。騰録類抄は既に清国へ渡された。もっと早くに気がついていれば。もっと遠い先の話を考えていれば。彼の心の中に後悔の念が現れ、それがまた彼を弱くさせた。
「すまん………本当に………これからは………もっと……そなたの笑顔を……守るから………もう、遅いかも…知れないが……」
「そんなことはありません。私は大丈夫。気にしないで。」
──遅いんだ。もう。
一度悪に染まってしまえば、もう戻れない。その事実は誰よりヒジェ自身がよく知っていた。たった一度、道を誤っただけで人間はいとも簡単に堕落していく。いや、もう既に野心を抱いたときから自分の正鵠は堕ちていたのかもしれない。
だからこそ彼は、もうウォルファを正当な方法で守ることはできないとわかっていた。一度その世界を垣間見れば、どれ程汚いことが平気でまかり通っていて、どれ程理不尽であるか。そんな輩から彼女を守るには、悲しいことではあるが、彼らと同じ悪事を働かねばならない。
ヒジェはウォルファの頬に自分の両手を添え、彼女に言い聞かせた。
「───党派など、全て棄ててでもそなたを守る。どんな手段を使ってでも、そなただけは私から奪わせはせん。例え官職を奪われ、左遷され、流刑されたとしても。私は必ず戻ってくる。必ず、そなたの元に戻る。」
「ヒジェ様………」
その決意は誰にも止められないことを、ウォルファは実感しながらも内心は不安に思いながら、小さく頷くことしか出来ないのだった。
ヒジェが拷問を受け、弱っている様子は多くの人々の関心を引いた。特に、オ・ユンはひときわ満足そうな顔をしている。ヒジェはテジュとユンに気付くと、敵意を剥き出しにしてこう言った。
「───俺が憎いのか?」
「ああ。憎いとも。中人……いや、賤民のくせに私の婚約者の気持ちを奪い去り、挙げ句に縁談まで壊した後、私より昇進した。南人の党首を継ぐのは、お前ではない。私だ」
ユンは手に持っている剣を抜いて斬りかかりたい思いを抑えて淡々と返答した。だが、人を煽る才能はヒジェの方が上だった。彼は全てを知っていると言いたげな顔で彼を見下げると、冷淡な笑みを浮かべた。
「そうか。たかだかその子犬程度の器だから、お前は婚約者の心さえ掴めず、昇進さえ出来ない。」
「……何?」
「今回の告発に西人やあの小娘だけでなく、南人の一部を率いたお前が関わっているのは知っている。………だからこそ警告しておく。次に俺が罰を受けるときは、意地でも道連れにしてやる」
その凄みの効いた言葉に、ユンは思わず後ずさりした。普段なら動じない彼なのだが、今までのヒジェがしてきた冷酷なことの数々を思い出しても、宣言通りの結果をもたらすからだ。現に今の彼の目は、獲物を狩る鷹そのもの。ユンはとんでもない相手を的に回してしまったと後悔すると同時に、決してひいてはならない戦いになりそうだと悟るのだった。
ヒジェに本格的な宣戦布告をされた後、ユンは偶然にもウォルファに出会った。今回の逮捕にユンたちが関わっておらず、ヒジェと数名の官吏のみが捕らえられたのを見て、彼女もヒジェを切り捨てたということに気づいていた。
「………ヒジェ様は、確かにあなたと比べれば何の身分もありませんし、私もそれは認めています。ですが、私はあの人の全てを愛しています。ですから、あの人を切り捨てたあなたたちの仕打ちを忘れません。」
最も慕っている人の言葉に、ユンは身を切り刻まれるような思いで返事を返した。
「…いいだろう。お前はいつか、ヒジェを選んだことを後悔するからな。」
「後悔しても、別に構いません。大切なのは、私がその道を自らの意地で選んだということ。私があの人を愛しているということです。元より、そういう保証の一切存在しない恋ですから」
彼女の固い意思には、ヒジェへの強い愛がこもっていた。本当はユン自身に向けてほしかった愛が。彼はこれが最期だと思うと、小さく初めて本音を呟いた。
「───好きだった。最初の頃の、遊びだと思ってお前に近づいたあいつよりも、ずっと真剣に愛していた。」
「……気持ちに応えられなくて、本当にごめんなさい。」
これが最初で最後の、ユンが見せた本心だった。彼女はどちらも同じまっすぐな愛なのに、選ばれてしまう残酷さに悲しみを覚えながら、やっとのことで声を絞り出した。
「私と、そして西人の重臣たちと取引をしましょう。南人の方々が口を揃えてヒジェ様を救えば、あの方は釈放されるはず。」
「……取引などされるとは。あのとき、助けなければよかった。そうすれば、そなたもあいつの手にかけられて始末されていた」
義州へ逃げるときに山道で助けたことを思い返し、ユンはふとこう言った。それほどに苦しめていたのかと改めて思い知ったウォルファは、彼の手に触れようとした。だが、その手がはねのけられる。
「やめてくれ。もう、優しくしないでくれ。同情なんて勘弁してくれ。私を愛さないなら…」
一瞬の気遣いに、ユンの瞳が見開かれる。だが彼はすぐに冷えた瞳で一瞥を送ると、そのままきびすを返して職務に戻っていった。心の中では、彼女への惜別の念をいつまでもくすぶらせながら。そんな彼をウォルファは引き留めた。
「待ちなさい。私を王妃様、そしてあなたの叔父様に会わせてちょうだい。私が、チャン・ヒジェ様をお救いし、南人を窮地から救う手だてを知っている、と。」
「………わかった。」
ユンは渋々了承すると、テジュに言って使いを寄越した。これで満足かと言いたげな顔をした彼には、もはやウォルファへの思慕は跡形もなく胸の奥深くの思い出となっていた。