5、儚い幸せ
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ヒジェのお陰で元の家に戻ることができたウォルファは、少ししてから母から包みを手渡された。
「…これは?」
「開けてみなさい。」
開けてみると、そこには大晦日にヒジェから貰った服と買ってもらった髪飾りや防寒具が全て入っていた。
「全部売ったのではなかったのですか?」
「これだけはどうしても売りたくなかったの。」
ウォルファは包みを抱き締めると、喜びを顕にして母に頭を下げた。
「ありがとうございます…本当に、ありがとうございます」
「今はまだこれを着られる程の生活ではないけれど、もし家門が再興されたら…そのときは一番初めにこの服を着なさい。そして、ヒジェ様との婚姻を許していただくために挨拶へ行きましょう」
思いがけない形で婚姻の許可をもらったウォルファは更に驚いた。だが驚く暇もなく、彼女にソリからの使いがやって来た。ソッキョンは都での知り合いであるクモンと共に買い戻した家を見に来るついでに、ソリからの遊びに来るようにという伝言を伝えに来たのだ。もちろん彼女は快諾した。
妓楼への道を歩きながら、彼女たちは久しぶりに会話を交わしていた。クモンともすぐに打ち解けたウォルファは、都でも心細くならないだろうなと胸を撫で下ろしている。
「ソリさんがお店を構えたなら、絶対に行かないと。」
「ウォルファは相変わらず着飾らなくても綺麗ね。羨ましいわ」
「そうですか?」
ウォルファの名前を聞いてすぐ、クモンがああと思い出したように言った。
「この子がウォルファね。あのチャン・ヒジェがくびったけの。」
「そうなのよ。こんな純な顔して意外にモテるのよ」
何故ヒジェの名前が出てくるのかがさっぱり分からなかった彼女は、クモンに慌てて聞き直した。
「あの…何故、ヒジェ様のお話が…?」
「あらやだ。ヒジェ様が妓楼でお待ちなのよ。」
妓楼の入り口に入った瞬間にそんなことを言われたので、ウォルファは自分の格好に愕然とした。
「え……そう言ってくだされば着替えたのに……」
あたふたしている背後から、嬉しそうなヒジェが現れる。紫に黒という、なんとも彼らしい色の服で現れたヒジェは、人の目も憚らずにウォルファを抱き上げた。
「なっ………突然止めてください!下ろしてください。」
「嫌だ。下ろしたら帰りそうな勢いだからな。」
「ヒジェ様!」
横ではクモンとソッキョン、そしていつのまにかやって来たソリが失笑している。ウォルファは気恥ずかしさと困惑を交えながら顔を赤らめている。見た目によらずどこから一体そんな力が出てくるのか、ヒジェは彼女を軽々横抱きにすると、妓楼の外れにある楼閣へ彼女を連れていった。
「ほれ、下ろしてやる。」
「相変わらず意地悪ですね。」
「愛情の裏返しと言ってくれ」
ようやく下ろしてもらえたウォルファは、自分の地味な格好とヒジェの明らかに高貴そうな格好を見比べて、落胆した。だが、ヒジェは気にする様子もない。彼は注文を伺おうとしているクモンとソッキョンに尋ねた。。
「おい、ウォルファを好きに着飾らせていいぞ。ただし、嫉妬して変な格好はさせるなよ?」
「承知しました。ウォルファ、おいで」
「えっ、何をされるんです…え??ち、ちょっと!!」
ほくそ笑むヒジェを残して、ウォルファは二人に連れられ衣裳室に放り込まれるのだった。
戻ってきたウォルファは、白を基調にした紫のすみれの刺繍が入ったチマに、同じく白金の刺繍が入った紫のチョゴリを身につけ、編み込んで横に結い上げる流行りの髪型に明るい赤の布を着けて現れた。あまりの美しさにヒジェは驚きで言葉を失ってしまった。それが似合っていないからなのかと思い込んだウォルファは、心配そうに彼の顔をのぞきこんだ。
「……変なら戻しますよ?」
「阿呆。似合いすぎて困るくらいだ。……綺麗だぞ、ウォルファ。」
「えっ……そ、そうです…か?」
照れる彼女が愛らしく思えたヒジェは、その手に優しく触れると自分の隣に座らせた。
「伽耶琴を弾いてくれぬか?実は少しだけ狛笛が吹けるようになった。そなたと合わせたくて、急いで練習したのだが…」
そのヒジェの言葉が嬉しくて、ウォルファは頭にのせた髪の重さも忘れて首をすぐに縦に振り、承諾した。
急いで練習したという割には上手いヒジェと、相変わらず妓生顔負けの腕を持つウォルファは、互いの音を聞きながら音色を奏で始めた。その音の美しさは、驚いた妓生たちが接客をほったらかして聞き入るほどのもので、ソリたちも驚嘆するばかりだ。
ほんの少しだけ相手の顔を見たウォルファは、清々しげに微笑むヒジェに笑い返すと、より情熱的に弦を弾き始めた。
その音は妓楼の外まで届いており、ヒジェが居ると聞いて偵察に来たテヒとその取り巻きたちの耳にも入っていた。
「こんなに上手い演奏者がいるのね…」
「一体、誰が合奏しているのかしら」
テヒは半ば好奇心で人がたかっている塀を覗いた。するとそこには………
「───どうして、ヒジェ様がここにいるのよ……」
「あの隣の女は誰なのかしら」
「テヒさんを差し置いて……ちょっと、テヒさん!どこ行くのよ!」
呆然とする間も与えず、テヒはさっさと自分の店に戻ろうとしていた。慌てて後ろから取り巻きが付いてくる。
───あんな妓生より私の方がよっぽど良い女だわ。どこの誰なのかが解ったら徹底的に叩いてやる。
数奇にもウォルファのことを格好とヒジェの性格から妓生と誤解してしまっているテヒは、ソリの店の営業をどうやって妨害してやろうかと考え始めていた。
そんなことも知らないヒジェとウォルファは、合奏の手を止めて語り合っている。
「なかなかの腕ではないか。皆聞き惚れていたぞ?…まぁ、最も私の端正な顔立ちに見とれている奴の方が多いと思うが…」
「端正だなんて。どこにでも居そうな顔のくせに」
「何?ちょっと人が可愛がるとすぐに…」
得意気な発言をあっさり否定され、拗ねたせいで頬をつねってくるヒジェを笑ってかわしながら、ウォルファは庭と楼閣中を逃げ回りだした。
「逃がすものか。捕まえて仕置きを加えてやる」
「捕まえられるものならやってみなさいよ……あら、危ないところだった」
「うぬぬ…………俺が本気を出せばそなたなどすぐにでも捕まえられるわい!」
動きづらそうな格好なのにすばしっこいウォルファを追い回しているうちに、本気になったヒジェが必死で手を伸ばしてくる。流石に驚いた彼女も柱を挟んでの応戦を始めた。
「俺を本気で追わせるとは…覚悟せい!」
「お断りだわ。女一人も捕まえられない人が捕盗大将だなんて、恐ろしい限りね」
「こいつ………」
流石に懲らしめてやらねばと思った彼は、柱の影に隠れてウォルファが隙を見せないかどうかを伺った。すると丁度彼の狙い通り、ウォルファがヒジェを探して柱の裏側を覗きこんだ。この機会を逃すものかと彼女に素早く近づいたヒジェは、そのまま唇を重ねた。戸惑いと驚き、そして何より彼の思う壺に嵌まってしまったという敗北感がウォルファを一気に襲った。だが、ヒジェが離れる様子はない。むしろ両手を引っ張って彼女を引き寄せると、そのまま腰に手を回して逃げられないように身を固めさせて、再び口づけをした。今度は長く、そして今までのものとは全く異なるものだった。
「………驚いたか?これが本当の接吻だ。覚えておけ」
「そっ…………あっ………そう。べ、別に驚いていませんからね。そういう反応が見たいなら………っ───!」
明らかに動揺している様子を見て、ますますからかいたいと思ったヒジェはもう一度、深く、そして大人の味のする接吻をした。強引に自分の舌で彼女唇をこじ開けてじっくりと官能的な甘さを味わいながら、ヒジェはますます自分が燃え上がっていることに気づいた。ここで踏みとどまらねばという思いから唇を離した彼は、放心状態となっている彼女の頭を肩に寄りかからせると、彼は己の幸せに心から感謝をした。
「………どんな苦難があっても、私は……貴方の傍に居ますからね。世界の人が皆あなたの敵になっても、私が最後まであなたのことを理解してあげます。ですから、これ以上権力のために罪を重ねないでください。」
ウォルファは彼の温もりを感じながら、その手を相手に絡ませてそう言った。もちろん返事は無かったのだが、ヒジェが微かに強く握り返したような気がしたので、それが返事の代わりなのだろうと彼女は思うことにした。
この時、なぜもっと追求しなかったのか。そのことが彼女を生涯に渡って苦しめることになるのだが、それはまだ少し先の話である。ここで諭したところで、ヒジェが悪事に手を染めるきっかけはこれ以外にも起きたのかもしれないが、このときの彼にはまだ少なくとも国を売るような大罪を犯しているという自覚があり、引き返せる段階だったことは、確かである。
翌日、禧嬪改め王妃となったオクチョンに会うために王宮にやって来たウォルファは、いつもと違う宮殿の雰囲気にすぐ気づいた。だが、具体的に何がおかしいのかはわからない。彼女はオクチョンの元へ行くのを忘れて、嫌な予感のする方向へと足を進めた。すると、そこには大勢の義禁府と、捕盗庁の兵が集まっており、誰かを探している様子だった。ウォルファは注意深く耳をそばだてた。
「ここに洗濯女に成りすましたチョン・ドンイが紛れ込んでいる。捕らえ次第、殺害せよ」
「逃がせばただではおかん。逃亡の手助けをした者、または見逃した者は同様に切り捨てろ」
そう指示を出しているのは、オ・ユン、そしてチャン・ヒジェだった。その身も凍るような指示内容に耳を疑いつつも、トンイを救わねばと思い立ったウォルファは、急いで彼女を探し始めた。
一方、さすがのトンイも逃げ場を失い、途方にくれていた。すると、丁度そこへウォルファがやって来た。
「姉さん!」
「今は再会を喜んでいる場合じゃないわ。ひとまず書庫へ逃げなさい。ここの書庫には火災になったときに書物を運び出せるように王宮の外側へ出られる裏口がついてあるの。さぁ、早く!」
偶然の再会に喜ぶトンイをあしらうと、ウォルファは彼女と書庫へ向かった。だが裏口を指し示し、書庫に入った彼女に、更に奥へ進むよう言おうとしたときだった。背後にただならぬ気配を感じたウォルファは、恐る恐る振り返った。そこに居たのは───
「───こんなところで何をしておる。」
今にも瞳だけで獲物を射殺しそうな剣幕のヒジェだった。手には鞘から抜いた剣を持っており、すさまじい殺意のただよう表情から、彼女がトンイを逃がしているという疑いが向けられていることはすぐにわかった。
「ヒ、ヒジェ様……何をされているのですか?」
「ああ……ネズミ取りだ。我々の周囲をうろちょろする、邪魔で鬱陶しいドブネズミを駆除している最中でな。」
言葉遣いに人情と哀れみの欠片もこもっていないことを悟ったウォルファは、ヒジェのもう一つの素顔がいかに恐ろしかったかを思いだし、身震いした。
───駄目。ここでばれてはトンイも私も殺されてしまう……!
恐ろしいくらいに勘の鋭いヒジェは、なんと書庫の中にまで入ってきた。その場の空気がウォルファの肌に刺さる。
「ネズミを駆除するには、まずネズミを捕まえねば……な。苦しみを与えて殺すのは、その後だ。」
「ネズミに、慈悲は与えないのですか?」
思わず口から余計なことを滑らせたと後悔した彼女は、慌てて口をつぐんだ。だが、彼がその言葉を聞き逃すはずはなく、別人のように冷淡な笑顔を浮かべてウォルファの方に向き直り、こう言った。
「慈悲など俺は他人にはかけん。………だがウォルファ、そなたは別だ。そなただけはいつも俺の味方で居てくれるからな。そして何より、俺はそなたを狂おしいほどに愛している。」
底知れぬ権力者の狂気に触れたウォルファは、その場に凍りついてしまった。その様子を本棚の奥から息を潜めて見ていたトンイも、一向に剣を納めず警戒を解かないヒジェに危機を感じていた。だが、一歩も動くことができない。下手に動けばウォルファを危険にさらすことになりかねないからだ。
「……何を怯えている?隠していることが無ければ、そなたはただここに本を読みに来ただけだ。……違うか?」
この返事には命が懸かっている。その一言の重さを思い知った彼女は、表情と目の奥に宿る不安を悟られぬように目を閉じると、恐怖に震える唇を恐る恐る開くのだった───。
「…これは?」
「開けてみなさい。」
開けてみると、そこには大晦日にヒジェから貰った服と買ってもらった髪飾りや防寒具が全て入っていた。
「全部売ったのではなかったのですか?」
「これだけはどうしても売りたくなかったの。」
ウォルファは包みを抱き締めると、喜びを顕にして母に頭を下げた。
「ありがとうございます…本当に、ありがとうございます」
「今はまだこれを着られる程の生活ではないけれど、もし家門が再興されたら…そのときは一番初めにこの服を着なさい。そして、ヒジェ様との婚姻を許していただくために挨拶へ行きましょう」
思いがけない形で婚姻の許可をもらったウォルファは更に驚いた。だが驚く暇もなく、彼女にソリからの使いがやって来た。ソッキョンは都での知り合いであるクモンと共に買い戻した家を見に来るついでに、ソリからの遊びに来るようにという伝言を伝えに来たのだ。もちろん彼女は快諾した。
妓楼への道を歩きながら、彼女たちは久しぶりに会話を交わしていた。クモンともすぐに打ち解けたウォルファは、都でも心細くならないだろうなと胸を撫で下ろしている。
「ソリさんがお店を構えたなら、絶対に行かないと。」
「ウォルファは相変わらず着飾らなくても綺麗ね。羨ましいわ」
「そうですか?」
ウォルファの名前を聞いてすぐ、クモンがああと思い出したように言った。
「この子がウォルファね。あのチャン・ヒジェがくびったけの。」
「そうなのよ。こんな純な顔して意外にモテるのよ」
何故ヒジェの名前が出てくるのかがさっぱり分からなかった彼女は、クモンに慌てて聞き直した。
「あの…何故、ヒジェ様のお話が…?」
「あらやだ。ヒジェ様が妓楼でお待ちなのよ。」
妓楼の入り口に入った瞬間にそんなことを言われたので、ウォルファは自分の格好に愕然とした。
「え……そう言ってくだされば着替えたのに……」
あたふたしている背後から、嬉しそうなヒジェが現れる。紫に黒という、なんとも彼らしい色の服で現れたヒジェは、人の目も憚らずにウォルファを抱き上げた。
「なっ………突然止めてください!下ろしてください。」
「嫌だ。下ろしたら帰りそうな勢いだからな。」
「ヒジェ様!」
横ではクモンとソッキョン、そしていつのまにかやって来たソリが失笑している。ウォルファは気恥ずかしさと困惑を交えながら顔を赤らめている。見た目によらずどこから一体そんな力が出てくるのか、ヒジェは彼女を軽々横抱きにすると、妓楼の外れにある楼閣へ彼女を連れていった。
「ほれ、下ろしてやる。」
「相変わらず意地悪ですね。」
「愛情の裏返しと言ってくれ」
ようやく下ろしてもらえたウォルファは、自分の地味な格好とヒジェの明らかに高貴そうな格好を見比べて、落胆した。だが、ヒジェは気にする様子もない。彼は注文を伺おうとしているクモンとソッキョンに尋ねた。。
「おい、ウォルファを好きに着飾らせていいぞ。ただし、嫉妬して変な格好はさせるなよ?」
「承知しました。ウォルファ、おいで」
「えっ、何をされるんです…え??ち、ちょっと!!」
ほくそ笑むヒジェを残して、ウォルファは二人に連れられ衣裳室に放り込まれるのだった。
戻ってきたウォルファは、白を基調にした紫のすみれの刺繍が入ったチマに、同じく白金の刺繍が入った紫のチョゴリを身につけ、編み込んで横に結い上げる流行りの髪型に明るい赤の布を着けて現れた。あまりの美しさにヒジェは驚きで言葉を失ってしまった。それが似合っていないからなのかと思い込んだウォルファは、心配そうに彼の顔をのぞきこんだ。
「……変なら戻しますよ?」
「阿呆。似合いすぎて困るくらいだ。……綺麗だぞ、ウォルファ。」
「えっ……そ、そうです…か?」
照れる彼女が愛らしく思えたヒジェは、その手に優しく触れると自分の隣に座らせた。
「伽耶琴を弾いてくれぬか?実は少しだけ狛笛が吹けるようになった。そなたと合わせたくて、急いで練習したのだが…」
そのヒジェの言葉が嬉しくて、ウォルファは頭にのせた髪の重さも忘れて首をすぐに縦に振り、承諾した。
急いで練習したという割には上手いヒジェと、相変わらず妓生顔負けの腕を持つウォルファは、互いの音を聞きながら音色を奏で始めた。その音の美しさは、驚いた妓生たちが接客をほったらかして聞き入るほどのもので、ソリたちも驚嘆するばかりだ。
ほんの少しだけ相手の顔を見たウォルファは、清々しげに微笑むヒジェに笑い返すと、より情熱的に弦を弾き始めた。
その音は妓楼の外まで届いており、ヒジェが居ると聞いて偵察に来たテヒとその取り巻きたちの耳にも入っていた。
「こんなに上手い演奏者がいるのね…」
「一体、誰が合奏しているのかしら」
テヒは半ば好奇心で人がたかっている塀を覗いた。するとそこには………
「───どうして、ヒジェ様がここにいるのよ……」
「あの隣の女は誰なのかしら」
「テヒさんを差し置いて……ちょっと、テヒさん!どこ行くのよ!」
呆然とする間も与えず、テヒはさっさと自分の店に戻ろうとしていた。慌てて後ろから取り巻きが付いてくる。
───あんな妓生より私の方がよっぽど良い女だわ。どこの誰なのかが解ったら徹底的に叩いてやる。
数奇にもウォルファのことを格好とヒジェの性格から妓生と誤解してしまっているテヒは、ソリの店の営業をどうやって妨害してやろうかと考え始めていた。
そんなことも知らないヒジェとウォルファは、合奏の手を止めて語り合っている。
「なかなかの腕ではないか。皆聞き惚れていたぞ?…まぁ、最も私の端正な顔立ちに見とれている奴の方が多いと思うが…」
「端正だなんて。どこにでも居そうな顔のくせに」
「何?ちょっと人が可愛がるとすぐに…」
得意気な発言をあっさり否定され、拗ねたせいで頬をつねってくるヒジェを笑ってかわしながら、ウォルファは庭と楼閣中を逃げ回りだした。
「逃がすものか。捕まえて仕置きを加えてやる」
「捕まえられるものならやってみなさいよ……あら、危ないところだった」
「うぬぬ…………俺が本気を出せばそなたなどすぐにでも捕まえられるわい!」
動きづらそうな格好なのにすばしっこいウォルファを追い回しているうちに、本気になったヒジェが必死で手を伸ばしてくる。流石に驚いた彼女も柱を挟んでの応戦を始めた。
「俺を本気で追わせるとは…覚悟せい!」
「お断りだわ。女一人も捕まえられない人が捕盗大将だなんて、恐ろしい限りね」
「こいつ………」
流石に懲らしめてやらねばと思った彼は、柱の影に隠れてウォルファが隙を見せないかどうかを伺った。すると丁度彼の狙い通り、ウォルファがヒジェを探して柱の裏側を覗きこんだ。この機会を逃すものかと彼女に素早く近づいたヒジェは、そのまま唇を重ねた。戸惑いと驚き、そして何より彼の思う壺に嵌まってしまったという敗北感がウォルファを一気に襲った。だが、ヒジェが離れる様子はない。むしろ両手を引っ張って彼女を引き寄せると、そのまま腰に手を回して逃げられないように身を固めさせて、再び口づけをした。今度は長く、そして今までのものとは全く異なるものだった。
「………驚いたか?これが本当の接吻だ。覚えておけ」
「そっ…………あっ………そう。べ、別に驚いていませんからね。そういう反応が見たいなら………っ───!」
明らかに動揺している様子を見て、ますますからかいたいと思ったヒジェはもう一度、深く、そして大人の味のする接吻をした。強引に自分の舌で彼女唇をこじ開けてじっくりと官能的な甘さを味わいながら、ヒジェはますます自分が燃え上がっていることに気づいた。ここで踏みとどまらねばという思いから唇を離した彼は、放心状態となっている彼女の頭を肩に寄りかからせると、彼は己の幸せに心から感謝をした。
「………どんな苦難があっても、私は……貴方の傍に居ますからね。世界の人が皆あなたの敵になっても、私が最後まであなたのことを理解してあげます。ですから、これ以上権力のために罪を重ねないでください。」
ウォルファは彼の温もりを感じながら、その手を相手に絡ませてそう言った。もちろん返事は無かったのだが、ヒジェが微かに強く握り返したような気がしたので、それが返事の代わりなのだろうと彼女は思うことにした。
この時、なぜもっと追求しなかったのか。そのことが彼女を生涯に渡って苦しめることになるのだが、それはまだ少し先の話である。ここで諭したところで、ヒジェが悪事に手を染めるきっかけはこれ以外にも起きたのかもしれないが、このときの彼にはまだ少なくとも国を売るような大罪を犯しているという自覚があり、引き返せる段階だったことは、確かである。
翌日、禧嬪改め王妃となったオクチョンに会うために王宮にやって来たウォルファは、いつもと違う宮殿の雰囲気にすぐ気づいた。だが、具体的に何がおかしいのかはわからない。彼女はオクチョンの元へ行くのを忘れて、嫌な予感のする方向へと足を進めた。すると、そこには大勢の義禁府と、捕盗庁の兵が集まっており、誰かを探している様子だった。ウォルファは注意深く耳をそばだてた。
「ここに洗濯女に成りすましたチョン・ドンイが紛れ込んでいる。捕らえ次第、殺害せよ」
「逃がせばただではおかん。逃亡の手助けをした者、または見逃した者は同様に切り捨てろ」
そう指示を出しているのは、オ・ユン、そしてチャン・ヒジェだった。その身も凍るような指示内容に耳を疑いつつも、トンイを救わねばと思い立ったウォルファは、急いで彼女を探し始めた。
一方、さすがのトンイも逃げ場を失い、途方にくれていた。すると、丁度そこへウォルファがやって来た。
「姉さん!」
「今は再会を喜んでいる場合じゃないわ。ひとまず書庫へ逃げなさい。ここの書庫には火災になったときに書物を運び出せるように王宮の外側へ出られる裏口がついてあるの。さぁ、早く!」
偶然の再会に喜ぶトンイをあしらうと、ウォルファは彼女と書庫へ向かった。だが裏口を指し示し、書庫に入った彼女に、更に奥へ進むよう言おうとしたときだった。背後にただならぬ気配を感じたウォルファは、恐る恐る振り返った。そこに居たのは───
「───こんなところで何をしておる。」
今にも瞳だけで獲物を射殺しそうな剣幕のヒジェだった。手には鞘から抜いた剣を持っており、すさまじい殺意のただよう表情から、彼女がトンイを逃がしているという疑いが向けられていることはすぐにわかった。
「ヒ、ヒジェ様……何をされているのですか?」
「ああ……ネズミ取りだ。我々の周囲をうろちょろする、邪魔で鬱陶しいドブネズミを駆除している最中でな。」
言葉遣いに人情と哀れみの欠片もこもっていないことを悟ったウォルファは、ヒジェのもう一つの素顔がいかに恐ろしかったかを思いだし、身震いした。
───駄目。ここでばれてはトンイも私も殺されてしまう……!
恐ろしいくらいに勘の鋭いヒジェは、なんと書庫の中にまで入ってきた。その場の空気がウォルファの肌に刺さる。
「ネズミを駆除するには、まずネズミを捕まえねば……な。苦しみを与えて殺すのは、その後だ。」
「ネズミに、慈悲は与えないのですか?」
思わず口から余計なことを滑らせたと後悔した彼女は、慌てて口をつぐんだ。だが、彼がその言葉を聞き逃すはずはなく、別人のように冷淡な笑顔を浮かべてウォルファの方に向き直り、こう言った。
「慈悲など俺は他人にはかけん。………だがウォルファ、そなたは別だ。そなただけはいつも俺の味方で居てくれるからな。そして何より、俺はそなたを狂おしいほどに愛している。」
底知れぬ権力者の狂気に触れたウォルファは、その場に凍りついてしまった。その様子を本棚の奥から息を潜めて見ていたトンイも、一向に剣を納めず警戒を解かないヒジェに危機を感じていた。だが、一歩も動くことができない。下手に動けばウォルファを危険にさらすことになりかねないからだ。
「……何を怯えている?隠していることが無ければ、そなたはただここに本を読みに来ただけだ。……違うか?」
この返事には命が懸かっている。その一言の重さを思い知った彼女は、表情と目の奥に宿る不安を悟られぬように目を閉じると、恐怖に震える唇を恐る恐る開くのだった───。