4、それぞれの決意
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捕盗庁へ行くと、すぐにウォルファは武官たちから冷たい目で見られることになった。それは西人が落ち目だからなのか、それとも彼女の兄が流刑の身だからなのかはよく分からないが、少なくとも初めて味わう視線には間違いなかった。もちろんすぐに通してくれる訳もなく、ウォルファはそもそも取り次ぎの時点で足止めを食らった。
「名前は。」
「シム・ウォルファです」
「何の用だ。」
「大将様に呼ばれました」
「……ふぅん。」
大将に用事があると言うと、二人の武官はウォルファの姿を遊び女でも見るかのような目付きで観察し始めた。
「……何ですか」
「大将様の女か。高貴でもなさそうだし、一晩遊んで棄てられるクチだな」
「なっ…………」
「生意気な小娘だな。あの遊び人の大将様だ。ちょっと味見しても怒らねぇよな」
彼らはそう言うと、彼女の腕を掴んで無理矢理唇を押し当てようとした。すると、ものすごい剣幕をしたヒジェが、大将の格好で剣を抜いて颯爽と現れた。
「────他の女なら、いくらでもくれてやる。……だが、この女だけは駄目だ。」
「テッ……大将様………」
「失礼しました……お、お許しください!!」
その異様な殺気に戦いた二人は、慌ててウォルファから離れて深々と頭を下げた。だが、ヒジェの怒りは収まらなかった。
「貴様ら………この女子を誰と心得る。亡き仁敬王妃様の姪子であるシム家の令嬢だ。」
「な、こ、この女がですか?」
ウォルファのことをぞんざいな示し方をされ、怒りの沸点が最高潮に達してしまった彼は、持っていた剣の切っ先を男の首に突きつけた。
「………黙れ。」
「け、剣をおしまいになられては……?」
「知るか。お前が私を怒らせたのだろうが」
「ヒジェ様、もうやめて……」
「死ね。命をもって償え。」
止めなければ血が流れると悟ったウォルファが止めようとするものの、彼は冷淡な声でそう言うと、迷わず剣を振り下ろした。
「ひっ…………」
「今度は…な。」
恐怖のあまり失禁した武官の、切られた羽根飾りがその場に舞い上がる。
「さ、行こう。」
「え、ええ……」
先程と打って変わって、急にいつもの笑顔に戻ったヒジェはウォルファの背に手を回すと、部屋へ来るようにといざなった。そして、忘れていたとでも言うように武官二人に向き直ってこう宣言した。
「ああ、そうだ。あと、こやつは俺の特別な女だ。気を付けろ。貴様らのよごれた指一本でも触れたら命は無いと思え。……わかったか?」
「は、はい……」
二人が理解したと見てとたんに機嫌が良くなると、彼は足取り軽く執務室へウォルファと共に入っていった。 残された武官たちは、一体西人と南人の男女が仲睦まじくなってどうするつもりなのだろうか、という疑問だけを拭いきれずにいつまでも彼らが消えていった方向を眺めているのだった。
執務室に入るやいなや、ヒジェはウォルファに口づけしようと迫った。だが、彼女はそれをかわすと一歩引いて話始めた。
「……あなたを信じるべきか迷いました。そもそも、待ってくれているのかも分かりませんでした。ですが、もう一度だけ、あなたを信じてみます。その機会を得るために、私は戻ってきました」
「ウォルファ………」
「もう一度だけ、あなたを信じても構いませんか?」
ヒジェは無言で彼女を抱き締めた。そして、震える声でこう言った。
「……当然だ。ああ、当然だ。機会など…それは私が乞うべきことだ」
「ヒジェ様………」
「やっと……やっとそなたを離さずに済む。」
彼は涙を流しながら、照れ臭そうにしているウォルファの顔を夢でないことを確認するために覗きこむと、再び強く抱きしめた。
「約束する。そなたを守る。そなただけは必ず、この換局の嵐から守ってやる」
彼は決意を込めた眼差しで正面を見つめた。互いを信じること。それだけで生きていけるのだと強く感じたウォルファは、いつまでもヒジェの暖かな、ずっと恋い焦がれていた胸に顔を埋めていた。
一方、早くもウォルファをずっと密かに探し続けていたオ・ユンの元にも彼女が都に戻ったことが知らせとして届いていた。彼は慌てて義禁府の服装のまま駆け出すと、ウォルファが居ると言われている場所にやって来た。
薄々、気づいてはいた。だが、彼は認めたくなかった。
「ヒジェ様……」
「ウォルファ。愛している」
捕盗庁の庭で抱き合うヒジェとウォルファを目撃してしまったユンは、大きく目を見開いたまま立ち尽くしている。ホン・テジュはそんな彼を引きずってでもその場から立ち去らせようとしている。だが、彼は動かない。その拳は強く握りしめられており、鋭い眼差しを湛えた瞳は一点にヒジェの幸せそうな顔に注がれている。
「………奪ってやる。南人の中での地位も、次期兵曹判相の座も……そして領議政となる未来も。貴様の幸せと輝かしい未来の全てを奪ってやる…………」
───お前がかつて、私から婚約者の想いと捕盗大将の地位を掠め取っていった仕返しに。
目の周りを怒りで赤く染めているユンは唇をきつくかみながら、そう自分の心に誓った。
きびすを返して職務に戻ろうとする彼のその瞳に涙が溜まっていたことを、ただ一人テジュだけは知っていた。
ヒジェと共に家に向かうと、ウォルファは母の容態をうかがった。すると、いつもなら元気なチェリョンが浮かない顔で首を横に振った。
「ウンテク若様とお嬢様が居なくなってから、生活のために旦那様や若様たちとの思い出だった家を売り払い、落ち込んでしまって…それから旦那様もお亡くなりになってしまった悲しみと、一生お嬢様たちに会えないかもしれない不安がどっと押し寄せて、ずっと床に臥せったままなんです。医者にもかかれませんし、薬も買えません。」
「そうだったのね……」
「今まで黙っていて申し訳ございませんでした。お嬢様に全てお伝えしたら、危険を冒してでも帰ってきそうだったので…」
ヒジェはその悲壮なやり取りを聞いていて、改めて罪悪感に苛まれる。ウォルファは包みをチェリョンに渡した。
「これ、送れなかった今月の仕送りの分よ。……それでもずっと足りていなかったの?」
「奥様は、お嬢様が慣れない生活で苦しい思いをして貯めたお金で生きていたくないと……ずっと使わずに置いてあるんです」
「そんな……」
ウォルファは母の気持ちに思わず胸が熱くなるのを感じていた。俯いている彼女を優しく慰める代わりに、ヒジェは無言で手形を手渡した。
「……これは?」
「そなたが苦しんで貯めた金を使えぬのなら、私が汚れたことをして貯めた金なら使えるだろう」
「こんな大金、いけません。頂けません」
金額を見て卒倒するチェリョンから手形を奪い取ったウォルファは、綺麗に伸ばしてヒジェに突き返した。だが彼も負けていない。彼はチェリョンを睨み付けると、有無を言わせない高圧さで命じた。
「医者を今すぐ呼んでこい。これを見せて費用はチャン・ヒジェ持ちだと伝えよ。」
「か、かしこまりました……」
「ヒジェ様!困ります…」
いささか強引すぎる好意にさすがのウォルファも戸惑いを隠せない。ヒジェは謹み深い彼女にますます愛しさを感じ、優しくその頭を撫でた。
「……母君の体調が回復する一番の方法を知っておる。医者に見てもらい、少しだけ気力が付くまで毎日通おう。」
「ヒジェ様。そこまで気を使わないでください」
すると彼はばつが悪そうに顔をしかめると、地面を足でいじり始めた。
「……こうなったのも、全て私のせいだ。私があのとき、そなたを守ってやれたらこんなことにならなかった。私にせめて、愚かかもしれないが罪滅ぼしをさせてくれ。」
心の底からの謝罪に胸打たれたウォルファは、微笑みながら彼の背中に抱きついた。
「……ありがとうございます。ですが、あまりに謝罪の品が大きすぎます。今はなにもお返しできませんが、いつか必ずこのご恩はお返しします」
その言葉を聞いて、彼はわざと少しだけ悩んでから返事をした。
「では、愛で頼む。ずっと私の大好きなそなたでいてくれさえすれば、それで良い。」
「それは勿論です。ずっと、私は貴方のものです」
それを聞きたかったとでも言いたげに彼は満面の笑みを浮かべると、ウォルファの手を取って素早く口づけをした。驚いた彼女は、目を丸くして何度もまばたきを繰り返している。その様子がまた愛しくて、ヒジェは再び口づけをした。今度は、長くて味わい深い口づけだった。
「……忘れるな。そなたを守るという約束も、婚姻の約束も、まだ有効だぞ」
「えっ………」
焦りなのか、喜びなのか、彼女は思わず顔をそらした。けれど、その顔が確かにはにかみながらも笑っていることを見逃さなかったヒジェは、自分がまだ本当に大切なものを失っていないという事実に対して、喜びにうち震えるのだった。
医者から処方された薬を飲んだイェリはみるみる回復に向かっていった。毎日欠かさず薬と食材を置いていってくれるヒジェに、ウォルファやイェリだけでなく、家の残り少ない使用人たちも感謝の念を向けるようになっていった。
「今日もすみませんね、チャン殿。」
「いやいや。気になさらないで下さい。ウォルファの母君なら、私の母も同然です」
「お世辞がお上手なのね」
「何?」
三人のやり取りを聞いていて、チェリョンとチャ・ステクも思わず微笑んでしまうくらいに幸せな光景がそこにあった。
「……お二人が婚姻されたらどれ程幸せなことか」
「そうですよね!きっと素敵な夫婦になりますよね!」
そう呟いたハンの手を取って彼女は大はしゃぎした。少しして、自分が手を勝手に握っていることに気づき、恥ずかしさにかられたチェリョンは慌てて彼の手を離した。
「……あの……すみません」
「いいんですよ、お気になさらず。これからもチャン様の思い付きで恋文を届けたりしますが、イム殿にお渡しすれば良いですか?」
イム殿と呼ばれて、チェリョンは自分の名前がイム・チェリョンだからかと気づいた。彼女はやや不満そうに首を横に振った。
「チェリョンさんとかで良いです。イム殿じゃあ誰かわからなくなります」
「そうですか。では、また来ますね」
ヒジェが話を終えた様子だったので、彼はそう言うとそのまま主人の後について帰ってしまった。残されたチェリョンは、ステクの背中を見ながら夢心地で微笑んでいる。その様子を見たウォルファは、一目で彼にチェリョンが惚れたことに気づいた。
「あら、チェリョン。素敵な殿方でも見たような顔してるわね」
「お、お嬢様!!ステクさんって、明日も来るんですかね?」
「……たぶん」
「そうですか……」
にやけながらそう言うチェリョンに彼女は苦笑いすると、今日の夕食は何にしようかと考えながら厨房へ向かうのだった。
一方チャン家に戻った後、冷静そうに見えていたステクもチェリョンのことを気にかけていた。その様子をやや引き気味に見ていたヒジェは、つい彼のことをからかった。
「お?そなたもとうとうそんな気持ちを抱ける相手を見つけたわけだな」
「い、いえ!とんでもない。」
「まぁ、良い。お陰でそなたを恋文の使いに出来る口実が出来た」
「えっ……チ、チャン様!!」
明らかに楽しんでいる自分の主人に呆れながらも、少しの喜びを感じながらステクは慌てて彼の後についていった。
その次の日、ウォルファとイェリ、そしてチェリョンはヒジェに呼び出され、待ち合わせ場所に向かっていた。既に待ちきれずにそわそわしているヒジェを見つけ、ウォルファは大きく手を振った。
「ヒジェ様ー!!」
「おお!来たか!こっちだ、早く!」
こちらに来るのも待ちきれない様子で走ってきたヒジェは、彼女の手を取ってある場所へ走り出した。
「どうしたんですか?──ここは…っ」
連れてこられたウォルファは懐かしい場所に驚いた。それは、母が生活のために売り払った自分のかつての家だった。売り出してすぐに買い手が付いたという話だったのだが、何かがおかしい。人の気配がないのだ。
「一体、何を……」
「────今日すぐにでも引っ越すがいい。名義は既に移してある」
「えっ……?」
得意気に笑うヒジェを見て、彼女はようやく事の全貌を悟った。家を売りに出してすぐに購入したのは、なんとヒジェだったのだ。彼女は慌てて母とチェリョンを呼んだ。
「お母様!チェリョン!来て!家に帰れるわよ!」
「えっ?どういう…………」
「そんなこと出来るはずが……お嬢様、まさか………」
「そのまさかなのよ!」
喜びのあまり呆然としている二人からヒジェに向き直ったウォルファは、涙ぐみながら頭を深々と下げた。
「───ありがとう……ございます。本当に…どうやってこのご恩を返せばいいか……」
「お、おい。顔を上げないか。元はと言えば、私が悪いのだ。これくらい……」
「大好きよ………ううん、そんなのじゃ足りない。愛してる。言葉では足りないくらい、あなたを愛してるわ。」
彼女は勢いよくヒジェの胸に飛び込こむと、強く抱き締めた。その愛が、少しずつ政治と騙しあいで冷えきっていたヒジェの心を、優しく暖めていく。今までに見せたことのない微笑みをこぼす主人の表情に、ステクは驚いていた。そして、心からこの二人の幸せを願った。
幸せな日々は、今度こそ誰にも奪わせない。改めて固く決意したヒジェは、ウォルファの温もりに、この笑顔を守るためならどんな手段でも厭わないだろうと感じていた。
その手段が、既にヒジェの幸せを少しずつ侵食し始めていることを、彼はまだ知らなかった。
───必ず、俺がそなたを守る。そのためには、何としてでも世子様を承認してもらわねば。
彼はウォルファの背中を引き寄せると、散りゆく牡丹の花びらを眺めながら目を細めるのだった。
「名前は。」
「シム・ウォルファです」
「何の用だ。」
「大将様に呼ばれました」
「……ふぅん。」
大将に用事があると言うと、二人の武官はウォルファの姿を遊び女でも見るかのような目付きで観察し始めた。
「……何ですか」
「大将様の女か。高貴でもなさそうだし、一晩遊んで棄てられるクチだな」
「なっ…………」
「生意気な小娘だな。あの遊び人の大将様だ。ちょっと味見しても怒らねぇよな」
彼らはそう言うと、彼女の腕を掴んで無理矢理唇を押し当てようとした。すると、ものすごい剣幕をしたヒジェが、大将の格好で剣を抜いて颯爽と現れた。
「────他の女なら、いくらでもくれてやる。……だが、この女だけは駄目だ。」
「テッ……大将様………」
「失礼しました……お、お許しください!!」
その異様な殺気に戦いた二人は、慌ててウォルファから離れて深々と頭を下げた。だが、ヒジェの怒りは収まらなかった。
「貴様ら………この女子を誰と心得る。亡き仁敬王妃様の姪子であるシム家の令嬢だ。」
「な、こ、この女がですか?」
ウォルファのことをぞんざいな示し方をされ、怒りの沸点が最高潮に達してしまった彼は、持っていた剣の切っ先を男の首に突きつけた。
「………黙れ。」
「け、剣をおしまいになられては……?」
「知るか。お前が私を怒らせたのだろうが」
「ヒジェ様、もうやめて……」
「死ね。命をもって償え。」
止めなければ血が流れると悟ったウォルファが止めようとするものの、彼は冷淡な声でそう言うと、迷わず剣を振り下ろした。
「ひっ…………」
「今度は…な。」
恐怖のあまり失禁した武官の、切られた羽根飾りがその場に舞い上がる。
「さ、行こう。」
「え、ええ……」
先程と打って変わって、急にいつもの笑顔に戻ったヒジェはウォルファの背に手を回すと、部屋へ来るようにといざなった。そして、忘れていたとでも言うように武官二人に向き直ってこう宣言した。
「ああ、そうだ。あと、こやつは俺の特別な女だ。気を付けろ。貴様らのよごれた指一本でも触れたら命は無いと思え。……わかったか?」
「は、はい……」
二人が理解したと見てとたんに機嫌が良くなると、彼は足取り軽く執務室へウォルファと共に入っていった。 残された武官たちは、一体西人と南人の男女が仲睦まじくなってどうするつもりなのだろうか、という疑問だけを拭いきれずにいつまでも彼らが消えていった方向を眺めているのだった。
執務室に入るやいなや、ヒジェはウォルファに口づけしようと迫った。だが、彼女はそれをかわすと一歩引いて話始めた。
「……あなたを信じるべきか迷いました。そもそも、待ってくれているのかも分かりませんでした。ですが、もう一度だけ、あなたを信じてみます。その機会を得るために、私は戻ってきました」
「ウォルファ………」
「もう一度だけ、あなたを信じても構いませんか?」
ヒジェは無言で彼女を抱き締めた。そして、震える声でこう言った。
「……当然だ。ああ、当然だ。機会など…それは私が乞うべきことだ」
「ヒジェ様………」
「やっと……やっとそなたを離さずに済む。」
彼は涙を流しながら、照れ臭そうにしているウォルファの顔を夢でないことを確認するために覗きこむと、再び強く抱きしめた。
「約束する。そなたを守る。そなただけは必ず、この換局の嵐から守ってやる」
彼は決意を込めた眼差しで正面を見つめた。互いを信じること。それだけで生きていけるのだと強く感じたウォルファは、いつまでもヒジェの暖かな、ずっと恋い焦がれていた胸に顔を埋めていた。
一方、早くもウォルファをずっと密かに探し続けていたオ・ユンの元にも彼女が都に戻ったことが知らせとして届いていた。彼は慌てて義禁府の服装のまま駆け出すと、ウォルファが居ると言われている場所にやって来た。
薄々、気づいてはいた。だが、彼は認めたくなかった。
「ヒジェ様……」
「ウォルファ。愛している」
捕盗庁の庭で抱き合うヒジェとウォルファを目撃してしまったユンは、大きく目を見開いたまま立ち尽くしている。ホン・テジュはそんな彼を引きずってでもその場から立ち去らせようとしている。だが、彼は動かない。その拳は強く握りしめられており、鋭い眼差しを湛えた瞳は一点にヒジェの幸せそうな顔に注がれている。
「………奪ってやる。南人の中での地位も、次期兵曹判相の座も……そして領議政となる未来も。貴様の幸せと輝かしい未来の全てを奪ってやる…………」
───お前がかつて、私から婚約者の想いと捕盗大将の地位を掠め取っていった仕返しに。
目の周りを怒りで赤く染めているユンは唇をきつくかみながら、そう自分の心に誓った。
きびすを返して職務に戻ろうとする彼のその瞳に涙が溜まっていたことを、ただ一人テジュだけは知っていた。
ヒジェと共に家に向かうと、ウォルファは母の容態をうかがった。すると、いつもなら元気なチェリョンが浮かない顔で首を横に振った。
「ウンテク若様とお嬢様が居なくなってから、生活のために旦那様や若様たちとの思い出だった家を売り払い、落ち込んでしまって…それから旦那様もお亡くなりになってしまった悲しみと、一生お嬢様たちに会えないかもしれない不安がどっと押し寄せて、ずっと床に臥せったままなんです。医者にもかかれませんし、薬も買えません。」
「そうだったのね……」
「今まで黙っていて申し訳ございませんでした。お嬢様に全てお伝えしたら、危険を冒してでも帰ってきそうだったので…」
ヒジェはその悲壮なやり取りを聞いていて、改めて罪悪感に苛まれる。ウォルファは包みをチェリョンに渡した。
「これ、送れなかった今月の仕送りの分よ。……それでもずっと足りていなかったの?」
「奥様は、お嬢様が慣れない生活で苦しい思いをして貯めたお金で生きていたくないと……ずっと使わずに置いてあるんです」
「そんな……」
ウォルファは母の気持ちに思わず胸が熱くなるのを感じていた。俯いている彼女を優しく慰める代わりに、ヒジェは無言で手形を手渡した。
「……これは?」
「そなたが苦しんで貯めた金を使えぬのなら、私が汚れたことをして貯めた金なら使えるだろう」
「こんな大金、いけません。頂けません」
金額を見て卒倒するチェリョンから手形を奪い取ったウォルファは、綺麗に伸ばしてヒジェに突き返した。だが彼も負けていない。彼はチェリョンを睨み付けると、有無を言わせない高圧さで命じた。
「医者を今すぐ呼んでこい。これを見せて費用はチャン・ヒジェ持ちだと伝えよ。」
「か、かしこまりました……」
「ヒジェ様!困ります…」
いささか強引すぎる好意にさすがのウォルファも戸惑いを隠せない。ヒジェは謹み深い彼女にますます愛しさを感じ、優しくその頭を撫でた。
「……母君の体調が回復する一番の方法を知っておる。医者に見てもらい、少しだけ気力が付くまで毎日通おう。」
「ヒジェ様。そこまで気を使わないでください」
すると彼はばつが悪そうに顔をしかめると、地面を足でいじり始めた。
「……こうなったのも、全て私のせいだ。私があのとき、そなたを守ってやれたらこんなことにならなかった。私にせめて、愚かかもしれないが罪滅ぼしをさせてくれ。」
心の底からの謝罪に胸打たれたウォルファは、微笑みながら彼の背中に抱きついた。
「……ありがとうございます。ですが、あまりに謝罪の品が大きすぎます。今はなにもお返しできませんが、いつか必ずこのご恩はお返しします」
その言葉を聞いて、彼はわざと少しだけ悩んでから返事をした。
「では、愛で頼む。ずっと私の大好きなそなたでいてくれさえすれば、それで良い。」
「それは勿論です。ずっと、私は貴方のものです」
それを聞きたかったとでも言いたげに彼は満面の笑みを浮かべると、ウォルファの手を取って素早く口づけをした。驚いた彼女は、目を丸くして何度もまばたきを繰り返している。その様子がまた愛しくて、ヒジェは再び口づけをした。今度は、長くて味わい深い口づけだった。
「……忘れるな。そなたを守るという約束も、婚姻の約束も、まだ有効だぞ」
「えっ………」
焦りなのか、喜びなのか、彼女は思わず顔をそらした。けれど、その顔が確かにはにかみながらも笑っていることを見逃さなかったヒジェは、自分がまだ本当に大切なものを失っていないという事実に対して、喜びにうち震えるのだった。
医者から処方された薬を飲んだイェリはみるみる回復に向かっていった。毎日欠かさず薬と食材を置いていってくれるヒジェに、ウォルファやイェリだけでなく、家の残り少ない使用人たちも感謝の念を向けるようになっていった。
「今日もすみませんね、チャン殿。」
「いやいや。気になさらないで下さい。ウォルファの母君なら、私の母も同然です」
「お世辞がお上手なのね」
「何?」
三人のやり取りを聞いていて、チェリョンとチャ・ステクも思わず微笑んでしまうくらいに幸せな光景がそこにあった。
「……お二人が婚姻されたらどれ程幸せなことか」
「そうですよね!きっと素敵な夫婦になりますよね!」
そう呟いたハンの手を取って彼女は大はしゃぎした。少しして、自分が手を勝手に握っていることに気づき、恥ずかしさにかられたチェリョンは慌てて彼の手を離した。
「……あの……すみません」
「いいんですよ、お気になさらず。これからもチャン様の思い付きで恋文を届けたりしますが、イム殿にお渡しすれば良いですか?」
イム殿と呼ばれて、チェリョンは自分の名前がイム・チェリョンだからかと気づいた。彼女はやや不満そうに首を横に振った。
「チェリョンさんとかで良いです。イム殿じゃあ誰かわからなくなります」
「そうですか。では、また来ますね」
ヒジェが話を終えた様子だったので、彼はそう言うとそのまま主人の後について帰ってしまった。残されたチェリョンは、ステクの背中を見ながら夢心地で微笑んでいる。その様子を見たウォルファは、一目で彼にチェリョンが惚れたことに気づいた。
「あら、チェリョン。素敵な殿方でも見たような顔してるわね」
「お、お嬢様!!ステクさんって、明日も来るんですかね?」
「……たぶん」
「そうですか……」
にやけながらそう言うチェリョンに彼女は苦笑いすると、今日の夕食は何にしようかと考えながら厨房へ向かうのだった。
一方チャン家に戻った後、冷静そうに見えていたステクもチェリョンのことを気にかけていた。その様子をやや引き気味に見ていたヒジェは、つい彼のことをからかった。
「お?そなたもとうとうそんな気持ちを抱ける相手を見つけたわけだな」
「い、いえ!とんでもない。」
「まぁ、良い。お陰でそなたを恋文の使いに出来る口実が出来た」
「えっ……チ、チャン様!!」
明らかに楽しんでいる自分の主人に呆れながらも、少しの喜びを感じながらステクは慌てて彼の後についていった。
その次の日、ウォルファとイェリ、そしてチェリョンはヒジェに呼び出され、待ち合わせ場所に向かっていた。既に待ちきれずにそわそわしているヒジェを見つけ、ウォルファは大きく手を振った。
「ヒジェ様ー!!」
「おお!来たか!こっちだ、早く!」
こちらに来るのも待ちきれない様子で走ってきたヒジェは、彼女の手を取ってある場所へ走り出した。
「どうしたんですか?──ここは…っ」
連れてこられたウォルファは懐かしい場所に驚いた。それは、母が生活のために売り払った自分のかつての家だった。売り出してすぐに買い手が付いたという話だったのだが、何かがおかしい。人の気配がないのだ。
「一体、何を……」
「────今日すぐにでも引っ越すがいい。名義は既に移してある」
「えっ……?」
得意気に笑うヒジェを見て、彼女はようやく事の全貌を悟った。家を売りに出してすぐに購入したのは、なんとヒジェだったのだ。彼女は慌てて母とチェリョンを呼んだ。
「お母様!チェリョン!来て!家に帰れるわよ!」
「えっ?どういう…………」
「そんなこと出来るはずが……お嬢様、まさか………」
「そのまさかなのよ!」
喜びのあまり呆然としている二人からヒジェに向き直ったウォルファは、涙ぐみながら頭を深々と下げた。
「───ありがとう……ございます。本当に…どうやってこのご恩を返せばいいか……」
「お、おい。顔を上げないか。元はと言えば、私が悪いのだ。これくらい……」
「大好きよ………ううん、そんなのじゃ足りない。愛してる。言葉では足りないくらい、あなたを愛してるわ。」
彼女は勢いよくヒジェの胸に飛び込こむと、強く抱き締めた。その愛が、少しずつ政治と騙しあいで冷えきっていたヒジェの心を、優しく暖めていく。今までに見せたことのない微笑みをこぼす主人の表情に、ステクは驚いていた。そして、心からこの二人の幸せを願った。
幸せな日々は、今度こそ誰にも奪わせない。改めて固く決意したヒジェは、ウォルファの温もりに、この笑顔を守るためならどんな手段でも厭わないだろうと感じていた。
その手段が、既にヒジェの幸せを少しずつ侵食し始めていることを、彼はまだ知らなかった。
───必ず、俺がそなたを守る。そのためには、何としてでも世子様を承認してもらわねば。
彼はウォルファの背中を引き寄せると、散りゆく牡丹の花びらを眺めながら目を細めるのだった。