3、再び交わる道
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いつまでたってもウォルファと合流できないとウンテクから連絡をもらったソリは、不安な気持ちで妓楼の前に立っていた。すると、向こうから手負いのヒジェを支えながら、やっとのことで歩いているウォルファが現れた。彼女は慌てて執事と手の空いている妓生たちを呼ぶと、代わりにヒジェを部屋に運ぶように指示をした。だが、ウォルファは彼を他の者の手に渡すことを拒んだ。
「私は大丈夫です。この人は私が運びますから、お医者様を呼んでください。お願いします」
「でも………」
「急いでください!この人が死んでしまう!」
今まで一度も声を荒げたことのなかった彼女の怒号に、一同は驚いたが、すぐに事の重大さを悟った彼らは頼まれた通り、医者を呼び、部屋を手配し始めた。
布団にヒジェを寝かせたウォルファは、脈をとった。
「だめ……弱っている……」
胸元の傷を見てみると、やや熱を帯び始めている。心なしか汗をかいているヒジェを見て、医者ではないソリでさえ、危険な状況であることに勘づいている。
ウォルファはヒジェの顔を眺めながら、彼女に一言一言漏らしながら語り始めた。
「……私のせいなのです。私をかばって……この方は……」
「ウォルファ。あなたのせいではないわ。だってこの人の意思でしたんだもの」
「いいえ。私がおとなしくしていれば……もっとあのとき、素直になっていれば……」
涙を流しながらそう呟く彼女の肩を優しく抱いたソリは、黙って寄り添った。
しばらくして医者がやって来ると、彼は難色を示した。すると、彼は手の施しようがないと言いそうな顔で首を横に振った。藁をもすがる思いで、ウォルファは持っている装飾品や金品を全て差し出して頭を下げた。
「お願い致します!この方は……この方は、国の要人です。どうしても死んでもらっては困るのです」
「…しかし……」
「お願い致します!」
「ちょっと、ウォルファ……?」
両班の身分も忘れて彼女は深々と頭を下げた。その姿を見た医者は、渋々治療を始めた。ほっと胸を撫で下ろす彼女に、ソッキョンは心を痛めた。
「……ソリさん。あの子、ずっと眠りながら泣いていたの、知っていますか?」
「え?そうなの?」
「……恐らく、あの殿方のことを想って、泣いていたのでしょうね」
何も知らなかったソリは、その事実に驚いた。そして、ウンテクが言っていた事件について思い出した。
「…そういえば都から逃げてきたのは、見初められた高官の方から怒りを買ったと聞いたわ」
「あのチャン・ヒジェ様がお怒りになれば、そりゃあ命の危険も感じて逃げたくもなるかもしれないわね」
二人はそんな会話を重ね、改めてヒジェに寄り添って看病をするウォルファを見た。
「でも、変ね。それが事実なら…私は助けずに見捨てますけどね」
「馬鹿ね、ソッキョン。あの二人は…相当複雑だけど、確かに愛し合っている。」
ソリの言葉にソッキョンは反論した。
「だから変なんですよ。所属党派も違うのに、どうしてここまで愛し合えるのかがわからないんです」
彼女はそこまで言い切ると、再びウォルファの表情に視線を戻した。そのヒジェに対する眼差しは、政敵に向けるものでも、自分の兄と家を没落に追いやった憎い男に向けるものでもなかった。そこにはただ、純粋な思慕の念が込められている。
「──愛及屋烏(あいきゅうおくう)ね」
「え?」
「以前にウォルファが言っていたわ。愛する人の家にとまった鳥さえ愛しいように、愛する人の全て──例えそれが国を売るような罪でさえ、愛せるものだと」
「愛及屋烏……」
あのとき、それを聞いたソリは何故か納得してしまった。彼女も実は、罪人と言われることになった人を愛していた。一生で一度だけ、誰かを愛した彼女は今もその想いを秘めている。亡くなってしまったその人。そして、成就することは奇跡と思えるほど難しいウォルファの恋。再びその言葉を思い出したソリは、どうしても自分と彼女を重ねてしまうのだ。そもそも妓生となる運命だったソリにとって、端から幸せというのは程遠い存在。だが、ウォルファは……
「あの子には……幸せになって欲しい……」
彼女は涙をこらえることが出来ず、離れで泣いた。そして、この二人の幸せを心から望むのだった。
ウォルファは、ヒジェの傍を片時も離れなかった。汗をかいているときはぬぐってやり、熱が酷いときは水を浸した手拭いを額にかけてやっていた。そして、彼が眠っているときでも決して彼女は目を閉じようとはしなかった。さすがに疲れていそうな彼女を気遣い、ソッキョンが代わろうかと提案した。だが、どうしても傍に居たいと返事をしたので、それ以上言ってはこなかった。ウォルファはヒジェの髪を撫で、髭に優しく触れながらささやいた。
「ヒジェ様。目が覚めるまで、あなたの傍に居ます。ですから、生きることを諦めないで」
彼女がそう言うと、わずかにヒジェが手を握り返した気がした。驚いた彼女は、思わず後退りした。
「……聞こえてるの…?」
だが、そんなはずもなく彼は依然眠ったままだった。ほっとしたウォルファは、雑炊を作る間ソリに看病を頼むと、ようやく朝になってから部屋を離れ、厨房の方へ向かった。
雑炊を作って部屋へ持っていこうとしたウォルファの元に、慌てた様子のソッキョンがやって来た。彼女は早口でこう言った。
「チャン様が目を覚ましたそうよ。会いに行ってやりなさいよ」
「え……」
だが、目を丸くして肩を震わせる彼女から出てきた言葉は驚くべきものだった。
「……私、都へ帰ります。兄も心配しているでしょうし、母の看病をしなければ」
「ウォルファ!会わなくていいの?本当にそう思っているの?」
雑炊を置いて出ていこうとする彼女の肩をつかんで、ソッキョンは揺さぶった。だが、彼女の意思は曲がることはなかった。
「あの人は、私の傍に居てはいけないんです。私を傍に置こうとすればするほど、あの人は……あの人は、罪を重ねてしまう。そのうち本当に国を売るような大罪を犯してしまいかねません。ですから、私はあの方の目の前から金輪際消えることが、本当の愛であると思っています。」
理路整然と言われ、彼女はそれっきりなにも言えなくなってしまった。ウォルファは彼女に雑炊を手渡すと、代わりにソッキョンが作ったと言って欲しいと言い残し、本当に妓楼を後にしてしまった。
ソッキョンに呼び出されて事の顛末を聞いたソリは、そう大して驚きを見せなかった。
「あの子なら、やりかねない。だって、彼女こそが短小精悍なんだから」
「ソリさん……チャン様にはどう説明を…」
「聞く耳を持つべからず。話す口を持つべからず。それが妓生の掟。忘れたの?」
うろたえるソッキョンに、彼女は冷たく言い放った。それはつまり、何もヒジェには言うなという暗黙の指示を意味していた。
部屋に入ると、すっかりとは言えないがやや元気さを取り戻したヒジェが、座りながら雑炊を食べていた。
「美味いな。誰が作った?」
「……ソッキョンです」
そう言った瞬間、ヒジェの目がとたんに冷淡な眼差しに変化した。
「───嘘だな。この味を俺が知らないわけがない。この味は、捕盗庁でウォルファが作っていた雑炊と同じ味だ!あの子はどこにいる!?どこだ!」
冷静さを失いわめくヒジェを見て、ソッキョンは目を瞑った。それは確かに彼への答えになっていたので、ソリは慌てて取り繕おうとしたが、遅かった。ヒジェは上着を羽織り、適当に結ぶと着の身着のままで傷の癒えていない身体を押して、馬に乗って港へ走り出した。
───ウォルファ、駄目だ。そなたは……そなたはもう、既に俺の心を奪ってしまった。そなたこそ、勝手に人のものを取りおって…
馬から転げ落ちるように降りた彼は、必死でウォルファの姿を探した。だが、どこにも見当たらない。それもそのはず。彼女はこれ以上兄やトンイに迷惑をかけたくなかったので、彼らより先に都へ戻ることをヒジェに悟られるわけにはいかなかったのだ。けれど、運命はいたずらなものである。ふらついて号泣し始める彼を見ていられなくなったウォルファは、渋々船を降りた。
「───私の負けですね。……泣かないで。そんなに泣いては、私の顔が見えないわよ」
「な……何故………何故、ここに…?」
すっとんきょうな声をあげるヒジェに失笑した彼女は、微笑んでしゃがみこんだ。
「だって、あなたがあまりにお可哀想だから。…兄と違い、流刑の身でもないので都へ戻ります。」
「そうか…」
都へと聞いて一気に顔を明るくした彼を見て、これで正しかったのだろうかと思いながら、ウォルファはうつむいた。トンイとウンテクが都へ戻るための小細工であることも知らないヒジェは、手放しに喜びを露にした。
「では!では、あれだな。都へ戻ったらすぐに、母君のところへ行ってから私の元を訪ねるがいい。捕盗大将の執務室に、そなたの名前を言えば通されるようにしておこう。」
傷の痛みも忘れて抱きつくヒジェの背に手を回しながらも、ウォルファは不安に思っていた。
やがて出航の時間が来てしまい、ウォルファは船に乗った。出航の合図が聞こえても尚、手を振って笑顔を浮かべている彼を見て、彼女は幸せと不安の入り交じった思いをかみしめるのだった。
妓楼へ戻ったヒジェは、神妙な面持ちをしているソリに驚いた。
「……どうした」
「以前、短小精悍とお答えしました。あれは、私の妓楼を小さいと馬鹿にする奴が現れたら、鼻をへし折ってやれと言って、あの子が教えてくれたのです。」
「そうだったのか…」
「ですが、まさかあの子も、散々逃げ回ってもまだ想い続けていたチャン様の鼻をへし折ってしまうはめになるとは、思ってもみなかったでしょうね」
彼女はそこまで言うと、ヒジェの反応をうかがった。妙な態度をすれば、すぐにでもウォルファに告げ口し、別れるように薦めるつもりだった。そもそもソリは、この放蕩息子にしか見えない彼を信用してはいなかった。だが、ヒジェは予想に反して笑顔のままだ。
「……ああ、そうだな」
感慨深く頷く彼の背を見て、ソリはますます訳が分からなくなっていた。
───ウォルファ。あなたは一体、彼の何を愛しているの?そして、どれがこの男の素顔なの……?
恐怖を覚えつつもやや不安の取れた彼女は、黙ってその姿を眺めていた。そして、二人を待ち受ける未来に身震いしながらも、幸せを願うのだった。
都に着いたウォルファは、早々と家に帰還した。家といっても、以前のものは売りに出してしまったので、今は庶民とそう代わりのない家だ。ウンテクの計らいで先に帰っていたチェリョンは、彼女の姿を見るやいなや、母のイェリを呼んだ。
「奥さま!!お嬢様がお戻りです!」
その声を聞いたイェリは、病の身体であることを忘れて愛娘に駆け寄った。
「……ウォルファが?ああ、ウォルファ!!私の可愛い娘!ヒジェ様のお怒りは……」
「もう、大丈夫です。あの方が戻るように勧めてくださったんです」
「そう……あの換局で都もすっかり変わってしまったわ。何より、南人の天下なのよ。王妃様になってから、オクチョン様もお前の知っている方ではなくなってしまった。」
「……でしょうね」
権力がいかに、人を変えてしまうのか。それはウォルファが一番よく知っていた。だからこそ、必死に何らかの形で愛を貫こうともがくヒジェに、ウォルファは最後の機会を与えたのだ。そして、それは自分にとっても、ヒジェを罪の道から戻すための最後の機会だった。彼女は彼に言われた通り母との再会を果たすと、汚れてはいないが派手でもなく、美しくもない服に着替えて彼の元へ歩きだした。
「私は大丈夫です。この人は私が運びますから、お医者様を呼んでください。お願いします」
「でも………」
「急いでください!この人が死んでしまう!」
今まで一度も声を荒げたことのなかった彼女の怒号に、一同は驚いたが、すぐに事の重大さを悟った彼らは頼まれた通り、医者を呼び、部屋を手配し始めた。
布団にヒジェを寝かせたウォルファは、脈をとった。
「だめ……弱っている……」
胸元の傷を見てみると、やや熱を帯び始めている。心なしか汗をかいているヒジェを見て、医者ではないソリでさえ、危険な状況であることに勘づいている。
ウォルファはヒジェの顔を眺めながら、彼女に一言一言漏らしながら語り始めた。
「……私のせいなのです。私をかばって……この方は……」
「ウォルファ。あなたのせいではないわ。だってこの人の意思でしたんだもの」
「いいえ。私がおとなしくしていれば……もっとあのとき、素直になっていれば……」
涙を流しながらそう呟く彼女の肩を優しく抱いたソリは、黙って寄り添った。
しばらくして医者がやって来ると、彼は難色を示した。すると、彼は手の施しようがないと言いそうな顔で首を横に振った。藁をもすがる思いで、ウォルファは持っている装飾品や金品を全て差し出して頭を下げた。
「お願い致します!この方は……この方は、国の要人です。どうしても死んでもらっては困るのです」
「…しかし……」
「お願い致します!」
「ちょっと、ウォルファ……?」
両班の身分も忘れて彼女は深々と頭を下げた。その姿を見た医者は、渋々治療を始めた。ほっと胸を撫で下ろす彼女に、ソッキョンは心を痛めた。
「……ソリさん。あの子、ずっと眠りながら泣いていたの、知っていますか?」
「え?そうなの?」
「……恐らく、あの殿方のことを想って、泣いていたのでしょうね」
何も知らなかったソリは、その事実に驚いた。そして、ウンテクが言っていた事件について思い出した。
「…そういえば都から逃げてきたのは、見初められた高官の方から怒りを買ったと聞いたわ」
「あのチャン・ヒジェ様がお怒りになれば、そりゃあ命の危険も感じて逃げたくもなるかもしれないわね」
二人はそんな会話を重ね、改めてヒジェに寄り添って看病をするウォルファを見た。
「でも、変ね。それが事実なら…私は助けずに見捨てますけどね」
「馬鹿ね、ソッキョン。あの二人は…相当複雑だけど、確かに愛し合っている。」
ソリの言葉にソッキョンは反論した。
「だから変なんですよ。所属党派も違うのに、どうしてここまで愛し合えるのかがわからないんです」
彼女はそこまで言い切ると、再びウォルファの表情に視線を戻した。そのヒジェに対する眼差しは、政敵に向けるものでも、自分の兄と家を没落に追いやった憎い男に向けるものでもなかった。そこにはただ、純粋な思慕の念が込められている。
「──愛及屋烏(あいきゅうおくう)ね」
「え?」
「以前にウォルファが言っていたわ。愛する人の家にとまった鳥さえ愛しいように、愛する人の全て──例えそれが国を売るような罪でさえ、愛せるものだと」
「愛及屋烏……」
あのとき、それを聞いたソリは何故か納得してしまった。彼女も実は、罪人と言われることになった人を愛していた。一生で一度だけ、誰かを愛した彼女は今もその想いを秘めている。亡くなってしまったその人。そして、成就することは奇跡と思えるほど難しいウォルファの恋。再びその言葉を思い出したソリは、どうしても自分と彼女を重ねてしまうのだ。そもそも妓生となる運命だったソリにとって、端から幸せというのは程遠い存在。だが、ウォルファは……
「あの子には……幸せになって欲しい……」
彼女は涙をこらえることが出来ず、離れで泣いた。そして、この二人の幸せを心から望むのだった。
ウォルファは、ヒジェの傍を片時も離れなかった。汗をかいているときはぬぐってやり、熱が酷いときは水を浸した手拭いを額にかけてやっていた。そして、彼が眠っているときでも決して彼女は目を閉じようとはしなかった。さすがに疲れていそうな彼女を気遣い、ソッキョンが代わろうかと提案した。だが、どうしても傍に居たいと返事をしたので、それ以上言ってはこなかった。ウォルファはヒジェの髪を撫で、髭に優しく触れながらささやいた。
「ヒジェ様。目が覚めるまで、あなたの傍に居ます。ですから、生きることを諦めないで」
彼女がそう言うと、わずかにヒジェが手を握り返した気がした。驚いた彼女は、思わず後退りした。
「……聞こえてるの…?」
だが、そんなはずもなく彼は依然眠ったままだった。ほっとしたウォルファは、雑炊を作る間ソリに看病を頼むと、ようやく朝になってから部屋を離れ、厨房の方へ向かった。
雑炊を作って部屋へ持っていこうとしたウォルファの元に、慌てた様子のソッキョンがやって来た。彼女は早口でこう言った。
「チャン様が目を覚ましたそうよ。会いに行ってやりなさいよ」
「え……」
だが、目を丸くして肩を震わせる彼女から出てきた言葉は驚くべきものだった。
「……私、都へ帰ります。兄も心配しているでしょうし、母の看病をしなければ」
「ウォルファ!会わなくていいの?本当にそう思っているの?」
雑炊を置いて出ていこうとする彼女の肩をつかんで、ソッキョンは揺さぶった。だが、彼女の意思は曲がることはなかった。
「あの人は、私の傍に居てはいけないんです。私を傍に置こうとすればするほど、あの人は……あの人は、罪を重ねてしまう。そのうち本当に国を売るような大罪を犯してしまいかねません。ですから、私はあの方の目の前から金輪際消えることが、本当の愛であると思っています。」
理路整然と言われ、彼女はそれっきりなにも言えなくなってしまった。ウォルファは彼女に雑炊を手渡すと、代わりにソッキョンが作ったと言って欲しいと言い残し、本当に妓楼を後にしてしまった。
ソッキョンに呼び出されて事の顛末を聞いたソリは、そう大して驚きを見せなかった。
「あの子なら、やりかねない。だって、彼女こそが短小精悍なんだから」
「ソリさん……チャン様にはどう説明を…」
「聞く耳を持つべからず。話す口を持つべからず。それが妓生の掟。忘れたの?」
うろたえるソッキョンに、彼女は冷たく言い放った。それはつまり、何もヒジェには言うなという暗黙の指示を意味していた。
部屋に入ると、すっかりとは言えないがやや元気さを取り戻したヒジェが、座りながら雑炊を食べていた。
「美味いな。誰が作った?」
「……ソッキョンです」
そう言った瞬間、ヒジェの目がとたんに冷淡な眼差しに変化した。
「───嘘だな。この味を俺が知らないわけがない。この味は、捕盗庁でウォルファが作っていた雑炊と同じ味だ!あの子はどこにいる!?どこだ!」
冷静さを失いわめくヒジェを見て、ソッキョンは目を瞑った。それは確かに彼への答えになっていたので、ソリは慌てて取り繕おうとしたが、遅かった。ヒジェは上着を羽織り、適当に結ぶと着の身着のままで傷の癒えていない身体を押して、馬に乗って港へ走り出した。
───ウォルファ、駄目だ。そなたは……そなたはもう、既に俺の心を奪ってしまった。そなたこそ、勝手に人のものを取りおって…
馬から転げ落ちるように降りた彼は、必死でウォルファの姿を探した。だが、どこにも見当たらない。それもそのはず。彼女はこれ以上兄やトンイに迷惑をかけたくなかったので、彼らより先に都へ戻ることをヒジェに悟られるわけにはいかなかったのだ。けれど、運命はいたずらなものである。ふらついて号泣し始める彼を見ていられなくなったウォルファは、渋々船を降りた。
「───私の負けですね。……泣かないで。そんなに泣いては、私の顔が見えないわよ」
「な……何故………何故、ここに…?」
すっとんきょうな声をあげるヒジェに失笑した彼女は、微笑んでしゃがみこんだ。
「だって、あなたがあまりにお可哀想だから。…兄と違い、流刑の身でもないので都へ戻ります。」
「そうか…」
都へと聞いて一気に顔を明るくした彼を見て、これで正しかったのだろうかと思いながら、ウォルファはうつむいた。トンイとウンテクが都へ戻るための小細工であることも知らないヒジェは、手放しに喜びを露にした。
「では!では、あれだな。都へ戻ったらすぐに、母君のところへ行ってから私の元を訪ねるがいい。捕盗大将の執務室に、そなたの名前を言えば通されるようにしておこう。」
傷の痛みも忘れて抱きつくヒジェの背に手を回しながらも、ウォルファは不安に思っていた。
やがて出航の時間が来てしまい、ウォルファは船に乗った。出航の合図が聞こえても尚、手を振って笑顔を浮かべている彼を見て、彼女は幸せと不安の入り交じった思いをかみしめるのだった。
妓楼へ戻ったヒジェは、神妙な面持ちをしているソリに驚いた。
「……どうした」
「以前、短小精悍とお答えしました。あれは、私の妓楼を小さいと馬鹿にする奴が現れたら、鼻をへし折ってやれと言って、あの子が教えてくれたのです。」
「そうだったのか…」
「ですが、まさかあの子も、散々逃げ回ってもまだ想い続けていたチャン様の鼻をへし折ってしまうはめになるとは、思ってもみなかったでしょうね」
彼女はそこまで言うと、ヒジェの反応をうかがった。妙な態度をすれば、すぐにでもウォルファに告げ口し、別れるように薦めるつもりだった。そもそもソリは、この放蕩息子にしか見えない彼を信用してはいなかった。だが、ヒジェは予想に反して笑顔のままだ。
「……ああ、そうだな」
感慨深く頷く彼の背を見て、ソリはますます訳が分からなくなっていた。
───ウォルファ。あなたは一体、彼の何を愛しているの?そして、どれがこの男の素顔なの……?
恐怖を覚えつつもやや不安の取れた彼女は、黙ってその姿を眺めていた。そして、二人を待ち受ける未来に身震いしながらも、幸せを願うのだった。
都に着いたウォルファは、早々と家に帰還した。家といっても、以前のものは売りに出してしまったので、今は庶民とそう代わりのない家だ。ウンテクの計らいで先に帰っていたチェリョンは、彼女の姿を見るやいなや、母のイェリを呼んだ。
「奥さま!!お嬢様がお戻りです!」
その声を聞いたイェリは、病の身体であることを忘れて愛娘に駆け寄った。
「……ウォルファが?ああ、ウォルファ!!私の可愛い娘!ヒジェ様のお怒りは……」
「もう、大丈夫です。あの方が戻るように勧めてくださったんです」
「そう……あの換局で都もすっかり変わってしまったわ。何より、南人の天下なのよ。王妃様になってから、オクチョン様もお前の知っている方ではなくなってしまった。」
「……でしょうね」
権力がいかに、人を変えてしまうのか。それはウォルファが一番よく知っていた。だからこそ、必死に何らかの形で愛を貫こうともがくヒジェに、ウォルファは最後の機会を与えたのだ。そして、それは自分にとっても、ヒジェを罪の道から戻すための最後の機会だった。彼女は彼に言われた通り母との再会を果たすと、汚れてはいないが派手でもなく、美しくもない服に着替えて彼の元へ歩きだした。