11、残酷な選択
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隠れ家にたどり着いたウォルファは、愛人と落ち合うために与えたとしか考えられない何でも揃えてある部屋を隅々まで探し、布団を引っ張り出してきた。
「とりあえず、しばらくはこれで寝ましょう。食材などはテヒさんの執事が届けてくれるそうです」
「………一枚しかないのか?枕は二つあるというのに」
「これを買い与えたのは、テヒさんの愛人さんですから……仕方がありませんよ」
ヒジェは深刻な事態というのに気の抜けた話だと失笑すると、布団を敷くのを手伝った。
「ちょっと。歪んでますよ」
ウォルファが注意をすると、彼はさも面倒くさそうに手を横に振った。
「ん?面倒くさい。どうせ一晩寝れば原型は留めないのだから、気にすることはない」
「どういう寝方をすればそうなるんです………あ………」
それが夜伽の話だと気づいて、彼女は顔を一気に紅潮させた。そしてもう一度顔をあげると、そこには帽子を取り、官服の前をはだけさせたヒジェがいた。ウォルファは身の危険を感じ、咄嗟に後ずさりした。
「何故逃げる。俺はそっちで寝るつもりはない」
「え?どうして?」
「あほか。捕まったときにそなたと寝ていたら、こっちは国法でなくウンテクに殺されるわい」
最もらしい言葉にウォルファは微笑みをもらすと、言葉に甘えて寝巻き姿で布団に入った。するとヒジェは寝付けないらしく、体をもぞもぞさせて彼女の隣に転がった。
「……寝れぬ」
「私もです。………本当に、これで大丈夫なのかしら……?」
「わからん。俺も全く見当がつかん」
彼女は布団から手を出すと、ヒジェの手を握ってこう呟いた。
「………怖い。」
「俺もだ。怖い。だが、そなたとなら怖くはない。どんなに暗い夜だろうと、不安な月明かりだろうと、俺はさなたが居れば、それでいい」
彼は震えるウォルファの手に自らの手を重ねると、強く握りしめた。そしてこう言った。
「母上にステクを通じて連絡は入れてある。きっとすぐにより安全な場所へ二人で移れる。そうだ、清国へ行こう。あそこなら安全だ」
「……ええ」
気休めでも今は幸せに思える二人は、静かに目を閉じた。この悪夢が覚めればいいと思いはしない。ただ、目が覚めても互いが側に居てくれればそれでいい。そんな切な願いを込めて、二人は眠りに落ちた。
目が覚めると、やはりウォルファは側にいた。ヒジェは安心すると、可愛らしく寝息を立てる彼女を優しく抱き締めた。すると、温かさにウォルファが目を覚ました。
「………う……ん…」
「おはよう、ウォルファ。」
「ヒジェ様……」
目が覚めると目の前に想う人がいる。どれ程望んだことか。ウォルファは感極まって思わずヒジェを布団にあげた。彼は慌ててウォルファの顔から目をそらした。その頬は女性を目の前にした少年のように真っ赤だ。
「………朝から俺を布団に上げるな」
「どうして?」
きょとんとする無防備な彼女に呆れ返ったヒジェは、ぶっきらぼうに答えた。
「危ないからだ。そなたを………」
「そんなことしない。あなたは私のヒジェ様だもの。そうでしょ?」
そうとも言い切れない彼はため息をつくと、わざとウォルファの腕を押さえつけて、強引に唇を奪った。
「………これでも、そう言い切れるか?」
得意気な顔をしているヒジェに、彼女は澄ました顔で答えた。
「言える。だってあなたの顔、真っ赤だもの」
「だっ、だ、誰が真っ赤だ!俺は至って冷静だ」
彼女は笑みをもらすと、思い付いたようにこう言った。
「まるで、新婚みたいね」
「この状態で今言うか……?」
「この状態だから言うのよ。ねえ。二人で逃げたらどうするの?」
「そりゃあ……誰ももう反対しないのだから結婚するだろう」
ヒジェは照れながらそう言うと、髭をしきりに触りだした。
「……その………子供は、何人にする?」
「そんなのあなたの好きにすればいいじゃない。私は子供は大好きよ」
前妻とも作るのは好きだったが育てるのは苦手だったと言いかけて、ヒジェは口を慌ててつぐんだ。それは単に不謹慎だからではない。ウォルファとの子供なら、愛情を持てるような気がしたからだ。彼は父性あふれる笑顔でウォルファの頬を撫でると、空いた手で彼女の手を握った。
「ああ。そなたとの子なら、何人でもよい。」
「本当?どちらに似るのかが楽しみね。」
「男なら顔は俺に似ないとな。」
誇らしげに答えるヒジェに異議を唱えたそうなウォルファは、あっさりと否定した。
「ええ?可哀想だわ」
「何?俺みたいに女が勝手に寄ってくる美形に育つからか?」
「そんなこと言ってないわ」
二人はいつのまにか笑いだしていた。こんな風に他愛もない会話をしていて危機感がないように思えるが、本当は全てに対して怯えていた。けれど、その恐怖を隠すために互いに馬鹿な話をして笑い合っているのだ。不安をどちらかが言い出したら、きっとどうしようもない絶望が襲う。希望を持ち続けないと生きていけない状況に置かれた二人は、心の強さを試されているのだ。
「……ねぇ、私たち………」
「……ん?」
「……やっぱり何でもない。」
「…そうか。」
ウォルファが何かを言いかけてやめた。ヒジェもその続きを敢えて聞こうとはしなかった。
すると、聞き慣れた声が外から聞こえてきた。ウォルファがそっと外を覗くと、ヒジェの母ソンリプがステクと共に居た。ヒジェは誤解されないように官服を着て二人を部屋に通すと、事の次第を伝えた。
「そうだったのね……ウォルファ、よくヒジェを守ってくれた。今宮廷は大騒ぎだ。ヒジェを探すためにそなたの兄たちは躍起になってそなたを探している。」
「心得ております。ヒジェ様を私は必ずお守りします」
「いや、そうではなく………」
深刻な顔をした彼女はステクに小さく合図すると、とたんにオ・テソクと共に私兵が部屋に入ってきた。ウォルファは彼らに猿つぐわをかまされると、後ろ手に縛り上げられた。
「一体何をするのですか!オ・テソク様、ウォルファを離してください!」
「今そなたの居場所を知っているのはこの女だけだ。こやつを始末すれば事態が収集する頃までに、そなたは官軍に捕まらずに済む。全て濡れ衣だと説明すればよい」
その言葉はつまり、南人の皆がヒジェたちの罪を免除するのに協力する代わり、全てを知っているウォルファを殺すということを意味していた。恐怖の色に顔を染める彼女を奪い返そうと必死に手を伸ばすヒジェは、何度もその名前を叫んだ。
「やめろ!ウォルファ!ウォルファ!!」
「ヒジェ!今は王妃様をお助けせねば。あの子はそなたを探す西人が証拠のために救うであろう」
「嫌です!そのような気休めを仰って、本当は南人はウォルファを殺すつもりなのですね?私が南人を犠牲にしかねない狂恋に身を投じているから、王妃様が命じましたね!妹であれど、これだけは許しません!」
「ヒジェ!いい加減分別をつけよ!」
一喝する母に怯まず、ヒジェは両目から涙を流しながら説得を続けた。
「母上はご存じでしょう?私の……私の唯一愛した方だと…………選べません。自らの保身とあの子の命なんて。そんなこと、あの子の命を取るに決まっています」
「だが相手が悪かった。南人の両班ならまだしも、西人など………何故あのような娘を気に召した」
「あの子が西人の娘だったからです。あの子は俺の機嫌を取ったり、身分を気にしたりはしなかった。何故なら党派が違うから。俺を知らなかったから」
「ではこれからは別の女を愛するのだな。いつものそなたなら出来るであろう。諦めよ」
「出来ません!あの子しか……俺はあの子しか愛せません。もう、誰も…」
母親になって初めて強がり続けていた息子が声をあげて泣き崩れる姿を見たソンリプは、彼の愛があまりに深かったことを思い知った。一方、隣で一部始終を見ていたステクは、こっそりと部屋を後にするとチェリョンの元へ向かった。彼は主人の帰りをうなだれて待つチェリョンに塀をよじ登って声をかけると、端的に説明し始めた。
「今すぐ、オ・テソク様の家にウォルファお嬢様を救いに行くんだ。そうすれば助かる。チャン様の居場所を唯一知る西人の者だから口封じに殺されるらしい」
「ええっ!?お嬢様が殺される?」
するとその声を聞き付けたウンテクとヨンギがやって来て、その事実性を問い詰めた。
「本当か?妹が、オ・テソク様の屋敷に閉じ込められていて、口封じに殺されるのか?」
「そうです。事実です。」
真剣なステクの顔を見て疑う余地もないことを悟ったウンテクは、絶望のため息をもらした。ヨンギがすかさず彼の冷静さを取り戻そうと声をかけた。
「なんと……すぐに行動せねば」
「そうですね。うちの私兵を使えば穏便に済むでしょう」
こうしてソンリプの読み通り、西人の者たちがウォルファの救出に動き出した。ステクはそれを伝えるためにヒジェの元へ戻り報告した。
「チャン様、シム殿とヨンギ殿がウォルファを救うために動き始めました」
「そうか………ならば安心だな。」
「チャン様、問題はここからです。あいつらはお嬢様を餌にしてあなたを連れ出そうとするでしょう。ですが、決して乗ってはなりません。お嬢様もチャン様も、両方が助かるにはいくらかの犠牲は払わねば。」
ヒジェはその苦言に顔をしかめると、壁に目をやりながらこう言った。
「……その犠牲がどの程度なのかを確かめてから、承諾しよう」
「承知しました」
そしてステクが出ていくと、ヒジェはただウォルファの無事を祈り続けるのだった。
その頃テソクの家の一角では、西人の救出が来るという僅かな希望のためにウォルファが時間を稼いでいた。
「あなたも、私が怖いの?」
「ああ、怖い。うちの甥の心を奪っておきながら、あの放蕩息子であり冷酷なチャン・ヒジェをあれほどにまで惚れさせたのだからな。まさに傾国の美女だ」
彼女はその言葉に不敵な笑みをもらした。
「私が国を壊滅させるとは……誠にそうでしょうか。むしろ逆なのでは?南人が国を壊滅に追い込むのではありませんか?」
「何?」
渾身の凄みを効かせてテソクを睨みつけたウォルファは、勝ち誇ったような声でそう言った。怒り心頭になった彼は、私兵に彼女の後始末を命じると、そのまま部屋を後にした。彼らは手早く剣を抜くと、ウォルファの首筋に切っ先をあてがった。
「……惜しいな、こんな上玉を殺すなんて」
「でもこいつはチャン・ヒジェの女だろう?生娘な訳がない」
その言葉に頭に来たウォルファは、彼らを睨み付けると力強く言い放った。
「いいえ、あの方は決して私に手をつけなかったわ。放蕩息子であっても、私にだけは違った。だから私もあの方を信じるの」
「こいつ…………やっぱりチャン・ヒジェの女だ。両班のお嬢様のくせに肝が座っていやがる。死ね!」
激昂した私兵の一人が剣を振り下ろす。ウォルファは今度こそヒジェのために死ねるなら本望だと思い、覚悟を決めた。だが剣は彼女の首をかっきらず、地面に落ちた。
「シム様の命で、お助けに上がりました」
「お兄様の私兵ね……賭けてみるものだわ……」
縄を解かれたウォルファは立ち上がると、一目散に屋敷を後にした。この知らせはヒジェのもとにもすぐに届き、彼は胸を撫で下ろした。
「よかった………死なずに済んだのか………」
「そうですね。西人の手にあれば、命は保証されるはずです」
彼は床に寝転がると、あの紐飾りを取り出して眺めた。
「……俺とそなたの糸は、誰にも切らせぬ。誰にも……」
その切なる願いが届いたのか、運命は二人を引き離そうとはしなかった。だが、それはむしろ離れていた方が幸せだと言えるかも知れないほどに過酷で、今まで以上に辛い人生のほんの始まりにしかすぎないものになるとは、今のヒジェは知らない。
家に帰されると思っていたウォルファは、家と別方向の道に連れていかれていることに気づき、不審に思っていた。すると、しばらく歩いていると王宮の前に出た。そこでようやく彼女は、ウンテクたちが考えていることを知った。
「私をどうするつもりなの?」
「申し訳ございません、お嬢様!若旦那様には逆らえませんでした。義禁府へご同行願います」
「義禁府………」
そこへ行くということはつまり、国家反逆の重罪人として裁かれるということを意味していた。全てがヒジェを誘き出すための舞台であることに怒りを覚えたウォルファは、せめてもの抵抗として自らの足で歩いて尋問場へ入った。すると、そこには拷問にかけられているユンとテジュの姿もあった。彼女は痛ましいその姿に、主犯のヒジェも捕らえられればこれでは済まないと悟り、必ず義州での秘密を守り通そうと決意した。
そして彼女は美しい白い布と赤い刺繍を基調にしたチマチョゴリを身にまとったまま、尋問場の石畳に座り、裁きを受ける覚悟をたたえた瞳で真っ直ぐに前を向いた。その場にかけつけたトンイは、その異常な殺伐とした雰囲気に言葉を失った。
「ウォルファ姉さん!」
「尚宮様…これが私の選択です」
そう言った彼女の瞳は、驚くほど澄んでいた。自らの想いを偽ることなく行動したウォルファはこの日、本当の意味での自由を得たのだった。しかしそれが想像を絶するほどの険しい道であることを、彼女はまだ知るよしもない。
目を閉じたウォルファは、ヒジェが来ないようにと祈り続けた。その願いは切に、そして純粋に人々の心に響いていた。だが、西人たちはこれで引き下がらなかった。彼らはウォルファの口からヒジェの揺るがない証拠を得たくて必死だった。そして、定刻までに逃亡中のヒジェが姿を現さねば刑罰を加えると触を出した。彼女はそれでも決して口を割らなかった。
「私から聞き出そうなどと思い上がらないで下さい。決して思い通りの証言はしません」
「そうか………ならば声を失うと聞けば、どうする?」
「声………?」
ウォルファの表情が一瞬揺らいだ。尋問を担当しているチョンスはそれを見逃さなかった。
「あなたはチャン・ヒジェが定刻に来なければ、声を失います。薬を飲んで意識を朦朧とさせたあと、執行人に命じて声帯を切らせていただきます。ほとんどの者は出血多量で死に至るそうですが……チャン・ヒジェには、果たしてあなたの声と命に勝る価値がありますか?」
彼女は黙りこんで石畳を見つめた。
声と命か、愛する男か。
───それが私の罪への代償なのですね。
空を仰いだ彼女の瞳に、一羽の鳥が映る。
「───鳥は、一体何故翼を持つのでしょうか。私は何故、理不尽な愛を知ってしまったのでしょうか」
「ここでもつれた糸を絶ちきるんだ。お前が何も死ぬ必要はない」
究極の選択の間で板挟みになる妹を見ていられず、ウンテクはなんとか救おうとして説得を試みた。だが、ウォルファは哀しいほどに美しい笑顔でこう答えた。
「ですが、翼を失えば鳥は鳥ではなくなります。私も愛を捨てれば私ではなくなります。ですから、おろかな妹をお許しください、お兄様。」
その返事を聞いた彼は、怒りをむき出しにしてウォルファの肩をゆさぶった。
「ああ、馬鹿だ!馬鹿だ!お前というやつは……チャン・ヒジェが来ることを期待しているのならやめておけ!あいつは来ない!きっと周りを言い訳にしてお前を見捨てる!そういうやつなんだ!ウォルファ、だからやめろ!やめるんだ!本当のことを明らかにしろ!!あいつを捨てるんだ!」
「無理です!あの方が私に与えてくれた愛は、他の誰に向けたものよりも深かった。ですから、裏切るわけにはいきません。」
意思の固さにもうどうしようもないことを悟ったウンテクは、目を閉じると政治家としでではなく、兄としてこう言った。
「あいつと生きていく道を歩く限り後悔するぞ、きっと。」
「それが私の運命なら、それも良いでしょう」
そう言い放ったウォルファの瞳にもう後悔は残っていなかった。
「とりあえず、しばらくはこれで寝ましょう。食材などはテヒさんの執事が届けてくれるそうです」
「………一枚しかないのか?枕は二つあるというのに」
「これを買い与えたのは、テヒさんの愛人さんですから……仕方がありませんよ」
ヒジェは深刻な事態というのに気の抜けた話だと失笑すると、布団を敷くのを手伝った。
「ちょっと。歪んでますよ」
ウォルファが注意をすると、彼はさも面倒くさそうに手を横に振った。
「ん?面倒くさい。どうせ一晩寝れば原型は留めないのだから、気にすることはない」
「どういう寝方をすればそうなるんです………あ………」
それが夜伽の話だと気づいて、彼女は顔を一気に紅潮させた。そしてもう一度顔をあげると、そこには帽子を取り、官服の前をはだけさせたヒジェがいた。ウォルファは身の危険を感じ、咄嗟に後ずさりした。
「何故逃げる。俺はそっちで寝るつもりはない」
「え?どうして?」
「あほか。捕まったときにそなたと寝ていたら、こっちは国法でなくウンテクに殺されるわい」
最もらしい言葉にウォルファは微笑みをもらすと、言葉に甘えて寝巻き姿で布団に入った。するとヒジェは寝付けないらしく、体をもぞもぞさせて彼女の隣に転がった。
「……寝れぬ」
「私もです。………本当に、これで大丈夫なのかしら……?」
「わからん。俺も全く見当がつかん」
彼女は布団から手を出すと、ヒジェの手を握ってこう呟いた。
「………怖い。」
「俺もだ。怖い。だが、そなたとなら怖くはない。どんなに暗い夜だろうと、不安な月明かりだろうと、俺はさなたが居れば、それでいい」
彼は震えるウォルファの手に自らの手を重ねると、強く握りしめた。そしてこう言った。
「母上にステクを通じて連絡は入れてある。きっとすぐにより安全な場所へ二人で移れる。そうだ、清国へ行こう。あそこなら安全だ」
「……ええ」
気休めでも今は幸せに思える二人は、静かに目を閉じた。この悪夢が覚めればいいと思いはしない。ただ、目が覚めても互いが側に居てくれればそれでいい。そんな切な願いを込めて、二人は眠りに落ちた。
目が覚めると、やはりウォルファは側にいた。ヒジェは安心すると、可愛らしく寝息を立てる彼女を優しく抱き締めた。すると、温かさにウォルファが目を覚ました。
「………う……ん…」
「おはよう、ウォルファ。」
「ヒジェ様……」
目が覚めると目の前に想う人がいる。どれ程望んだことか。ウォルファは感極まって思わずヒジェを布団にあげた。彼は慌ててウォルファの顔から目をそらした。その頬は女性を目の前にした少年のように真っ赤だ。
「………朝から俺を布団に上げるな」
「どうして?」
きょとんとする無防備な彼女に呆れ返ったヒジェは、ぶっきらぼうに答えた。
「危ないからだ。そなたを………」
「そんなことしない。あなたは私のヒジェ様だもの。そうでしょ?」
そうとも言い切れない彼はため息をつくと、わざとウォルファの腕を押さえつけて、強引に唇を奪った。
「………これでも、そう言い切れるか?」
得意気な顔をしているヒジェに、彼女は澄ました顔で答えた。
「言える。だってあなたの顔、真っ赤だもの」
「だっ、だ、誰が真っ赤だ!俺は至って冷静だ」
彼女は笑みをもらすと、思い付いたようにこう言った。
「まるで、新婚みたいね」
「この状態で今言うか……?」
「この状態だから言うのよ。ねえ。二人で逃げたらどうするの?」
「そりゃあ……誰ももう反対しないのだから結婚するだろう」
ヒジェは照れながらそう言うと、髭をしきりに触りだした。
「……その………子供は、何人にする?」
「そんなのあなたの好きにすればいいじゃない。私は子供は大好きよ」
前妻とも作るのは好きだったが育てるのは苦手だったと言いかけて、ヒジェは口を慌ててつぐんだ。それは単に不謹慎だからではない。ウォルファとの子供なら、愛情を持てるような気がしたからだ。彼は父性あふれる笑顔でウォルファの頬を撫でると、空いた手で彼女の手を握った。
「ああ。そなたとの子なら、何人でもよい。」
「本当?どちらに似るのかが楽しみね。」
「男なら顔は俺に似ないとな。」
誇らしげに答えるヒジェに異議を唱えたそうなウォルファは、あっさりと否定した。
「ええ?可哀想だわ」
「何?俺みたいに女が勝手に寄ってくる美形に育つからか?」
「そんなこと言ってないわ」
二人はいつのまにか笑いだしていた。こんな風に他愛もない会話をしていて危機感がないように思えるが、本当は全てに対して怯えていた。けれど、その恐怖を隠すために互いに馬鹿な話をして笑い合っているのだ。不安をどちらかが言い出したら、きっとどうしようもない絶望が襲う。希望を持ち続けないと生きていけない状況に置かれた二人は、心の強さを試されているのだ。
「……ねぇ、私たち………」
「……ん?」
「……やっぱり何でもない。」
「…そうか。」
ウォルファが何かを言いかけてやめた。ヒジェもその続きを敢えて聞こうとはしなかった。
すると、聞き慣れた声が外から聞こえてきた。ウォルファがそっと外を覗くと、ヒジェの母ソンリプがステクと共に居た。ヒジェは誤解されないように官服を着て二人を部屋に通すと、事の次第を伝えた。
「そうだったのね……ウォルファ、よくヒジェを守ってくれた。今宮廷は大騒ぎだ。ヒジェを探すためにそなたの兄たちは躍起になってそなたを探している。」
「心得ております。ヒジェ様を私は必ずお守りします」
「いや、そうではなく………」
深刻な顔をした彼女はステクに小さく合図すると、とたんにオ・テソクと共に私兵が部屋に入ってきた。ウォルファは彼らに猿つぐわをかまされると、後ろ手に縛り上げられた。
「一体何をするのですか!オ・テソク様、ウォルファを離してください!」
「今そなたの居場所を知っているのはこの女だけだ。こやつを始末すれば事態が収集する頃までに、そなたは官軍に捕まらずに済む。全て濡れ衣だと説明すればよい」
その言葉はつまり、南人の皆がヒジェたちの罪を免除するのに協力する代わり、全てを知っているウォルファを殺すということを意味していた。恐怖の色に顔を染める彼女を奪い返そうと必死に手を伸ばすヒジェは、何度もその名前を叫んだ。
「やめろ!ウォルファ!ウォルファ!!」
「ヒジェ!今は王妃様をお助けせねば。あの子はそなたを探す西人が証拠のために救うであろう」
「嫌です!そのような気休めを仰って、本当は南人はウォルファを殺すつもりなのですね?私が南人を犠牲にしかねない狂恋に身を投じているから、王妃様が命じましたね!妹であれど、これだけは許しません!」
「ヒジェ!いい加減分別をつけよ!」
一喝する母に怯まず、ヒジェは両目から涙を流しながら説得を続けた。
「母上はご存じでしょう?私の……私の唯一愛した方だと…………選べません。自らの保身とあの子の命なんて。そんなこと、あの子の命を取るに決まっています」
「だが相手が悪かった。南人の両班ならまだしも、西人など………何故あのような娘を気に召した」
「あの子が西人の娘だったからです。あの子は俺の機嫌を取ったり、身分を気にしたりはしなかった。何故なら党派が違うから。俺を知らなかったから」
「ではこれからは別の女を愛するのだな。いつものそなたなら出来るであろう。諦めよ」
「出来ません!あの子しか……俺はあの子しか愛せません。もう、誰も…」
母親になって初めて強がり続けていた息子が声をあげて泣き崩れる姿を見たソンリプは、彼の愛があまりに深かったことを思い知った。一方、隣で一部始終を見ていたステクは、こっそりと部屋を後にするとチェリョンの元へ向かった。彼は主人の帰りをうなだれて待つチェリョンに塀をよじ登って声をかけると、端的に説明し始めた。
「今すぐ、オ・テソク様の家にウォルファお嬢様を救いに行くんだ。そうすれば助かる。チャン様の居場所を唯一知る西人の者だから口封じに殺されるらしい」
「ええっ!?お嬢様が殺される?」
するとその声を聞き付けたウンテクとヨンギがやって来て、その事実性を問い詰めた。
「本当か?妹が、オ・テソク様の屋敷に閉じ込められていて、口封じに殺されるのか?」
「そうです。事実です。」
真剣なステクの顔を見て疑う余地もないことを悟ったウンテクは、絶望のため息をもらした。ヨンギがすかさず彼の冷静さを取り戻そうと声をかけた。
「なんと……すぐに行動せねば」
「そうですね。うちの私兵を使えば穏便に済むでしょう」
こうしてソンリプの読み通り、西人の者たちがウォルファの救出に動き出した。ステクはそれを伝えるためにヒジェの元へ戻り報告した。
「チャン様、シム殿とヨンギ殿がウォルファを救うために動き始めました」
「そうか………ならば安心だな。」
「チャン様、問題はここからです。あいつらはお嬢様を餌にしてあなたを連れ出そうとするでしょう。ですが、決して乗ってはなりません。お嬢様もチャン様も、両方が助かるにはいくらかの犠牲は払わねば。」
ヒジェはその苦言に顔をしかめると、壁に目をやりながらこう言った。
「……その犠牲がどの程度なのかを確かめてから、承諾しよう」
「承知しました」
そしてステクが出ていくと、ヒジェはただウォルファの無事を祈り続けるのだった。
その頃テソクの家の一角では、西人の救出が来るという僅かな希望のためにウォルファが時間を稼いでいた。
「あなたも、私が怖いの?」
「ああ、怖い。うちの甥の心を奪っておきながら、あの放蕩息子であり冷酷なチャン・ヒジェをあれほどにまで惚れさせたのだからな。まさに傾国の美女だ」
彼女はその言葉に不敵な笑みをもらした。
「私が国を壊滅させるとは……誠にそうでしょうか。むしろ逆なのでは?南人が国を壊滅に追い込むのではありませんか?」
「何?」
渾身の凄みを効かせてテソクを睨みつけたウォルファは、勝ち誇ったような声でそう言った。怒り心頭になった彼は、私兵に彼女の後始末を命じると、そのまま部屋を後にした。彼らは手早く剣を抜くと、ウォルファの首筋に切っ先をあてがった。
「……惜しいな、こんな上玉を殺すなんて」
「でもこいつはチャン・ヒジェの女だろう?生娘な訳がない」
その言葉に頭に来たウォルファは、彼らを睨み付けると力強く言い放った。
「いいえ、あの方は決して私に手をつけなかったわ。放蕩息子であっても、私にだけは違った。だから私もあの方を信じるの」
「こいつ…………やっぱりチャン・ヒジェの女だ。両班のお嬢様のくせに肝が座っていやがる。死ね!」
激昂した私兵の一人が剣を振り下ろす。ウォルファは今度こそヒジェのために死ねるなら本望だと思い、覚悟を決めた。だが剣は彼女の首をかっきらず、地面に落ちた。
「シム様の命で、お助けに上がりました」
「お兄様の私兵ね……賭けてみるものだわ……」
縄を解かれたウォルファは立ち上がると、一目散に屋敷を後にした。この知らせはヒジェのもとにもすぐに届き、彼は胸を撫で下ろした。
「よかった………死なずに済んだのか………」
「そうですね。西人の手にあれば、命は保証されるはずです」
彼は床に寝転がると、あの紐飾りを取り出して眺めた。
「……俺とそなたの糸は、誰にも切らせぬ。誰にも……」
その切なる願いが届いたのか、運命は二人を引き離そうとはしなかった。だが、それはむしろ離れていた方が幸せだと言えるかも知れないほどに過酷で、今まで以上に辛い人生のほんの始まりにしかすぎないものになるとは、今のヒジェは知らない。
家に帰されると思っていたウォルファは、家と別方向の道に連れていかれていることに気づき、不審に思っていた。すると、しばらく歩いていると王宮の前に出た。そこでようやく彼女は、ウンテクたちが考えていることを知った。
「私をどうするつもりなの?」
「申し訳ございません、お嬢様!若旦那様には逆らえませんでした。義禁府へご同行願います」
「義禁府………」
そこへ行くということはつまり、国家反逆の重罪人として裁かれるということを意味していた。全てがヒジェを誘き出すための舞台であることに怒りを覚えたウォルファは、せめてもの抵抗として自らの足で歩いて尋問場へ入った。すると、そこには拷問にかけられているユンとテジュの姿もあった。彼女は痛ましいその姿に、主犯のヒジェも捕らえられればこれでは済まないと悟り、必ず義州での秘密を守り通そうと決意した。
そして彼女は美しい白い布と赤い刺繍を基調にしたチマチョゴリを身にまとったまま、尋問場の石畳に座り、裁きを受ける覚悟をたたえた瞳で真っ直ぐに前を向いた。その場にかけつけたトンイは、その異常な殺伐とした雰囲気に言葉を失った。
「ウォルファ姉さん!」
「尚宮様…これが私の選択です」
そう言った彼女の瞳は、驚くほど澄んでいた。自らの想いを偽ることなく行動したウォルファはこの日、本当の意味での自由を得たのだった。しかしそれが想像を絶するほどの険しい道であることを、彼女はまだ知るよしもない。
目を閉じたウォルファは、ヒジェが来ないようにと祈り続けた。その願いは切に、そして純粋に人々の心に響いていた。だが、西人たちはこれで引き下がらなかった。彼らはウォルファの口からヒジェの揺るがない証拠を得たくて必死だった。そして、定刻までに逃亡中のヒジェが姿を現さねば刑罰を加えると触を出した。彼女はそれでも決して口を割らなかった。
「私から聞き出そうなどと思い上がらないで下さい。決して思い通りの証言はしません」
「そうか………ならば声を失うと聞けば、どうする?」
「声………?」
ウォルファの表情が一瞬揺らいだ。尋問を担当しているチョンスはそれを見逃さなかった。
「あなたはチャン・ヒジェが定刻に来なければ、声を失います。薬を飲んで意識を朦朧とさせたあと、執行人に命じて声帯を切らせていただきます。ほとんどの者は出血多量で死に至るそうですが……チャン・ヒジェには、果たしてあなたの声と命に勝る価値がありますか?」
彼女は黙りこんで石畳を見つめた。
声と命か、愛する男か。
───それが私の罪への代償なのですね。
空を仰いだ彼女の瞳に、一羽の鳥が映る。
「───鳥は、一体何故翼を持つのでしょうか。私は何故、理不尽な愛を知ってしまったのでしょうか」
「ここでもつれた糸を絶ちきるんだ。お前が何も死ぬ必要はない」
究極の選択の間で板挟みになる妹を見ていられず、ウンテクはなんとか救おうとして説得を試みた。だが、ウォルファは哀しいほどに美しい笑顔でこう答えた。
「ですが、翼を失えば鳥は鳥ではなくなります。私も愛を捨てれば私ではなくなります。ですから、おろかな妹をお許しください、お兄様。」
その返事を聞いた彼は、怒りをむき出しにしてウォルファの肩をゆさぶった。
「ああ、馬鹿だ!馬鹿だ!お前というやつは……チャン・ヒジェが来ることを期待しているのならやめておけ!あいつは来ない!きっと周りを言い訳にしてお前を見捨てる!そういうやつなんだ!ウォルファ、だからやめろ!やめるんだ!本当のことを明らかにしろ!!あいつを捨てるんだ!」
「無理です!あの方が私に与えてくれた愛は、他の誰に向けたものよりも深かった。ですから、裏切るわけにはいきません。」
意思の固さにもうどうしようもないことを悟ったウンテクは、目を閉じると政治家としでではなく、兄としてこう言った。
「あいつと生きていく道を歩く限り後悔するぞ、きっと。」
「それが私の運命なら、それも良いでしょう」
そう言い放ったウォルファの瞳にもう後悔は残っていなかった。