7、噛みしめる現実
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礼賓寺署長という肩書きになったヒジェは、今日も怒りとこめかみに出来そうな青筋を堪えながら、賓客をもてなしていた。あまりに腹が立つことがあっても、彼はすぐにウォルファの笑顔を思い出せば乗り切れる。そう気づいた彼は、人一倍真面目に仕事に精を出していた。だが、もちろん黙って横を通りすぎるやつらだけではない。それにこの日は特に運が悪かった。
最初に現れたのは、二人の掌楽院の官吏であるオ・ホヤンとその父、テプンだった。彼らはヒジェに散々出世させてもらえずこけにされたせいで、相当な恨みを持っていた。ホヤンなど、トンイが水汲み女に扮していると報告するのがあと一歩遅ければ絞殺されていたという経験をしている。二人はわざとらしくヒジェに気づくと、あっと驚く振りをした。
「おお!そなた。前見たのは……たしか、捕盗庁ではなかったか?」
「ああ………成り行きで、な」
すぐにでも掴みかかって殴り殺してやろうかとまで思ったが、ヒジェは瞬時に苦笑いを作ると、ウォルファのことを思い浮かべた。
「そうか。礼賓寺といえば、掌楽院よりも扱いが低いからな。いやーお前が出世から外れたから、世の男は皆喜んでいるだろうな!」
「何?」
聞き捨てならない言葉に引っ掛かった彼は、ホヤンを睨み付けた。その視線に怖じけづく様子もなく、彼は続けた。
「シム・ウォルファ殿だ!お前の女の。ユンは身を引いたらしいが、どうせそのうち他の男がまた寄り付いてくる。お前も大変だな、署長殿」
「何……だと?」
「では、人を待たせているので失礼する!」
ヒジェはその場に凍りついた。そして、最大の侮辱を食らったことに怒り心頭になると、反射的にその怒りを机に叩きつけた。
「くそ………あいつら………」
その間が悪いときに、今度はついこの間までヒジェより下の身分だった高級官吏たちが文句をつけにやって来た。
「おい!礼賓寺の署長!」
「はい、なんでしょうか」
「お前、料理が貧相だぞ。」
「失礼しました。以後気をつけます」
お前と呼ばれただけでも腹が立つが、それでも彼は堪えた。
───怒るな、チャン・ヒジェ。ここで怒りを表に出せば、ウォルファが悲しむ。
だが、彼らの文句はヒジェが腰を低くすればするほど、ひどくなる一方だった。彼らの中の一人が、机にあった帳簿でヒジェの帽子をはたき落とし、更にそれで肩を思いきり叩いた。
「前の署長はもっと心遣いのできる奴だったぞ?そんな輩だから、こんな馬鹿なことになるのだ」
「まぁ、仕方がないでしょう。こいつは元々従二品、捕盗大将様だったのだから」
「おお!そうだったな!それで?今は?」
彼は肩を震わせ、拳を握りしめながら殺意を隠した声で残酷な質問に答えた。
「………正三品堂下(従二品より二つ下)、です」
「おお、我々より一気に下になったわけだ。」
ヒジェは必死でこいつらの首を掻き切って殺したいという本心を押さえつつ、笑顔でこう返した。
「あちこち渡り歩き、社会勉強をしているところです」
話がここで終われば、ヒジェも収まりがついただろう。だが、最初に文句を言ってきた男がついに彼の逆鱗に触れてしまう。
「そうか……そなたと恋仲とかいう噂のシム・ウォルファ殿も、このような男と噂が立つとは…西人の名家から転落したみじめな女だ。転落者同士、さぞ似合いの夫婦になるだろう」
その言葉に毛を逆立てんばかりの勢いで憤激したヒジェは、帽子を拾うのも忘れて男に掴みかかった。その形相は正に獲物を仕留めようとする蛇。ヒジェの本性に触れた男と他の官吏たちは一瞬にして怯んだ。
「お前らはただ出されたものを食っていれば良いのだ!いや料理など、どうでもいい。俺の女に文句をつけることは許さん!」
「なにも、そこまで怒らなくとも良いではないか…」
勢いにおされ、必死に取り繕おうとする官吏に目もくれず、ヒジェは手を緩めようとはしない。
「だったら始めから怒らせるようなことを言うな!!二度とあの女の悪口を俺の前で言うな!死にたければもう一度言え!わかったか!」
ひとしきり言い終わり、ようやく恐怖から解放された官吏たちは、恐怖と侮蔑の入り交じった視線でヒジェを見つめると、そのまま時折肩越しから彼を指差し嘲笑いながら去っていった。またそれを見ていた他の官吏たちも、彼のことを指差しながら嘲笑している。ヒジェは全ての視線が耐えられなくなり、彼らしくもなくその場から逃げ去ってしまった。
その様子を見ていたのは、性悪の官吏たちだけではなかった。心配で様子を見に来ていたウォルファも、一部始終のやり取りを見ていたのだ。彼女はヒジェの傷つき様に胸を痛めると、彼の忘れ物である帽子を拾って逃げていった方向を急いで追った。案の定、そこには建物の影で石段に座りながら子供のように泣くヒジェの姿があった。ウォルファは黙って帽子を被せようとしたのだが、何故かヒジェはそれを拒んだ。
「どうして?立派じゃない。たくさんの人をおもてなしして、笑顔にさせる仕事なんでしょう?」
「あの掌楽院よりも格が低いんだぞ!?馬鹿にされ、挙げ句にはお前まで悪く言われる始末だ。これならいっそ、西人…出来るならチョン・ドンイと刺し違えた方が百倍マシだ」
そう言うヒジェに、とうとうウォルファは我慢ならずに平手打ちをかました。乾いた音が響き、ヒジェの目が大きく見開かれる。
「──どうしてそんなことを言うの!生きててって言ったじゃない!どうして死んでもいいとか、身分にこだわるの?私が居るだけでは満足しないのね?私なんて居なければ怒らずに済んだなら、もう私は消えるわ!」
泣きながらそう訴えるウォルファに、ヒジェはまた気づかされた。自分がかつて、どのような幼少期を送ってきたのかを。
物心ついたときより、母の身分のために兄妹共々賤民と称された。そして、お金がないせいで免賤してもらえないという事実から、何度も推奴たちから逃げ回った。その度に父の身体は弱っていき、妹は幾度となく妓楼に売られそうになった。そんな中で幼いヒジェに芽生えた思いは、ただ一つだった。
───この世界の掟を造っているやつ、そこに安穏とあぐらをかいているやつ。あいつら全員俺の目の前に跪かせてやる。あいつらを俺は絶対に許さない。
その野心からこの国の身分の最底辺から這い上がり、父と家族を見捨てた憎い叔父のチャン・ヒョンに語学の才能を認めてもらい、家族皆で免賤まで獲得し、清国へ留学したのだ。彼は決してただの放蕩息子ではなかった。本当は、家族思いの心優しい少年だったのだ。昔はいじめられている子供や動物を見つけては助ける心根の良い子だった。だが、そんな彼は過酷な環境を生き抜き、逆転の機を掴むために変わることを強いられたのだ。
いつしか権力と欲にとりつかれたヒジェは、己の優しさを家族にしか向けないようになっていった。容姿のおかげで言い寄ってくる女性たちも皆、自分の道具でしかない。人間など所詮使い捨てればいいものなのだ。自分の周りのやつらも、そうやって生きてきていた。
けれど、たった今ヒジェは根本的なことに気づいてしまった。それは───
「俺は………結局見返したいあいつらと、同じ生き物に成り下がってしまった………」
彼は哭いた。声が天にすべて吸いとられるような勢いで哭きつづけた。それは憤りというよりもはや、おぞましい自分が成り下がった存在とそうやって手に入れたもののあまりに希薄なことに対する、憐れみと孤独から来る悲しみの慟哭だった。
そんなヒジェの背中をさすりながら、ウォルファも泣いていた。何も言わず、彼女はただヒジェの傍についている。
「………ウォルファ……ウォルファ……ウォルファ……どうして、どうして俺はこんなに弱いんだ?」
「あなたが弱いんじゃないの。人間は皆、弱い生き物なの」
「だったらどうして、そなたは強い」
顔をあげてそう尋ねるヒジェが子供のようで愛らしく思えた彼女は、優しく微笑んで抱き締めるとこう諭した。
「違うの。私は弱いの。本当に、弱い生き物なの。あなたに比べれば、どうしようもなく弱い生き物なの。でもそんな私でも生きてるんだから、世界は案外優しいのよ」
「ウォルファ………」
この瞬間、ヒジェはその言葉にどれ程支えられたことか。喜びのあまり、彼はウォルファをしっかりと抱きしめ、普段は言わない言葉をぶつけた。
「ウォルファ……愛している。そなたを、愛している。そなたが私の選んだ人で、よかった。本当に、良かった。そなたが好きだ。愛している……愛している……」
やや照れてしまった彼女は、はにかみながらもヒジェの顔を見た。そして帽子を元通りに被せてやると、透き通るような美しくて白い指でその涙をぬぐった。
「……じゃあ、まだ頑張れる?」
「ああ、頑張ってやる。そなたが傍に居てくれるならば、俺はいくらでも頑張れる」
「そうこなくっちゃね!私はそんなヒジェ様が大好きよ。」
ウォルファは敢えて明るく振る舞った。そして彼が元通りになったことを見計らうと、また弱くならないようにその場を離れようとした。すると、そんな彼女をヒジェが引き留めた。
「………ありがとう」
「……気にしないで。私がどん底のとき、あなたが支えてくれたように、私もあなたを支え返してあげたいだけ。」
彼はもう一度ウォルファを抱き締めようとした。だが彼女はそれを振り払うと、仕事へ戻るように促した。
「何故だ。嫌か?」
「いいえ。でも、仕事中よ」
ヒジェは少し考えると、懐から帳簿を取り出して提案した。
「……夕方に迎えに行く。それまで家で待っていてくれ」
「わかりました。待っていますからね」
彼女が快諾したのを見て大喜びしたヒジェは、足取り軽く職務に戻っていった。その様子を眺めていると、彼女は先日の騒動のことを思い出さずにはいられなかった。
「……ヒジェ様……無理をなさらないで…」
敢えて彼が面会室で目覚めたときから暗い話はしてはいないが、あのときの彼は憔悴しきっていたし、弱かった。それが本当の彼ならば、自分が普段見ている彼は一体誰なのか。一体、どちらが偽物なのか。そう思う度に弱い方が正解のようにしか思えなくて、彼女はいつも胸を締め付けられるような哀しみに襲われていた。
その日は承恩尚宮となったトンイを訪ねるつもりだったので、彼女は芙蓉堂の方へ向かった。庭には待ちきれない様子のトンイが居た。彼女はウォルファの姿に気づくと、身分を忘れて駆け寄った。
「姉さん!」
「尚宮様にご挨拶申し上げます」
「そんなのいいのよ。ほら、上がって。色々話をしましょう」
トンイに手を引かれ、ウォルファは部屋に通された。こうして見てみると、ただの娘ではない才能を秘めていた彼女が、やはり相当な逸材であったことを改めて思い知る。だがそれよりウォルファは宿敵チャン・ヒジェをかばって、西人を売るような真似をしたことが後ろめたく、もどかしい気持ちだった。そんな彼女の様子に、察しの良いトンイも疑問の目を向けている。彼女は意を決してあのことを尋ねた。
「書庫でのチャン・ヒジェに対するあの行動は……」
「尚宮様、私をお恨みになってください。私は……私は、あの方と恋仲でございます」
「えっ………」
トンイはまさかの返答に困惑した。それは外で聞いていたトンイの仲間である女官のチョンイム、エジョン、そしてポン尚宮も同じだった。
「ええぇっ!!あの純情そうなお嬢様が、あ、あのチャン・ヒジェとですか!?」
ひときわ背の高いエジョンが、驚きを隠せずに大声をあげるのをみて、冷静なチョンイムが慌ててその肘を叩いた。
「声が大きいわ、エジョン。蓼食う虫も好き好きよ」
「違うわよ、チョンイム。分かってないのね。悲恋よ。これは安平大君に仕えた女官と若い文人が恋に落ちたみたいに複雑な問題よ」
噂好きのポン尚宮は他人事のように大きなもうけでも得たかのように話し始めた。そんな彼女を諌めたのは、意外にもなんとチャン・ヒジェ本人だった。
「誰が古くさい昔話のような悲恋をしていると?」
「チ、チャン・ヒジェ様…!?」
「何故こちらにおいでですか。チョン尚宮様の動きを探りにいらしたのならお引き取りを」
それぞれが驚きを表現するなか、西人の巣窟である芙蓉堂には一切似つかわしくないヒジェには、帰る様子は一切ない。むしろ話の内容が気になるようで、彼はじっとポン尚宮を睨み付けている。
「あ、あの………その………」
「いいか。俺とシム氏は恋仲だ。それを否定するつもりはない。だが、悲恋などではない。互いの立場が違う、ただそれだけだ」
毅然といい放つヒジェは、普段の彼とは違ってどこか男らしかった。だが、チョンイムには別のことの方がきになるらしい。
「ですが芙蓉堂には何故お越しになられたのですか。」
「早くに仕事が終わった故、あの子を探して来たのだ」
敵陣に女のために乗り込むとは……さすがの彼女も言葉を失った。ポン尚宮は依然ヒジェを横目で見ては殺されはしないかと震えている。そんな彼女に、ヒジェは恐ろしいくらいににっこりと微笑んだ。
「なぁに、安心しろ。彼女と恋仲だと噂が立つのは真ゆえに嫌ではない。…ただ、就善堂の女官たちには黙っておいてくれ。王妃様には芙蓉堂に行ったことを知られたくはないからな」
「はっ、はい!黙っておきます!」
「ふん。」
ヒジェがその場を離れる様子はない。彼女たちはこの状況を誰か他のものが見たりしないか、ただそれだけを心配するのだった。
部屋の中では、トンイの質問攻めが始まっていた。
「教えてください。あの方を私の承認を条件に釈放しろと南人に指示をしたのは、姉さんですね?」
「ええ。そうです。」
迷わず肯定するウォルファが信じられず、彼女はただ一言しか言えなかった。
「どうして………」
「それが結果的にあなたへ幸せを提供しましたし、私も幸せです。双方にとって得かと。それに、今回の件はただチャン・ヒジェのみが捕らえられましたが、仮に処罰されてもその他の南人たちは残ったままですが。」
理路整然としているように見えるが、ただ単に己の私欲のために取引をしていることは明らかだ。トンイは思わず怒りを露にした。
「あなたはチャン・ヒジェが義州でしたこと、内需司での横領を揉み消すために多くの人の命を握りつぶしたこと、そしてあなたの兄を配流したことを忘れたのですか?姉さん、お願い。騙されているのよ!あの男が姉さんを愛するわけがないわ。だってあなたは南人ではなくて西人なんだもの。」
「確かに私は西人です。ですが…ですが、あの方は私を愛しています!いえ、愛してはいないのかも知れません。ですが私はあの方を愛しています。それだけで良いのです。私が想ってさえいれば、それで良いのです。」
ウォルファは勢いよく立ち上がると、そういい放った。初めてこれほどの無償の愛に触れたトンイは、一体どうなっているのかが全くわからず、ただ呆然とするより他なかった。そうしているうちにウォルファは部屋から退室してしまい、彼女は我に返り慌ててウォルファの後を追った。
外に出たウォルファは、度重なる現実の重みに疲労を感じているせいか、ふらつく足取りで地面に降り立った。ヒジェはそんな彼女を見や否や、人の目も気にせずに彼女を地面に崩れ落ちる前に抱き止めた。
「どうした!?…ウォルファ?」
「あなたを取れば、人からは馬鹿だと冷たく好奇の入り交じった目で見られ、社会的に死んでしまう。けれど、あなたを見捨てれば私は本当の意味で死んでしまうの。どちらを取れと言われれば………私は…」
部屋から出てきたトンイは、固唾をのんでその言葉の続きを待った。ウォルファは涙を両目にためながら、声を絞り出すようにして言葉を続けた。
「────私は、あなたを取ります」
「ウォルファ…………」
「私の生が尽きるまで、私はあなたを選択します。あなたを、愛します。あなたの傍で生きていきます」
トンイはそれ以上何も責めることが出来なかった。むしろ、あんな言葉を投げ掛けてしまった自分が恥ずかしく思えるくらいだ。ヒジェは西人の誰にも見せたことのないような笑顔をみせると、ウォルファの手を取り、握りしめた。
「俺も、そなたの傍に居よう。決して離したりはせん。永遠という言葉は好かんが、そなたにだけは変わらぬ愛を約束しよう」
「ヒジェ様………」
「さ、行こう。仕事が早くに終わってな。」
ウォルファは立ち上がると、トンイに一礼した。彼女の目には未だに驚嘆と困惑の色が混じっていたが、明らかに他の者に対する態度とは異なるヒジェを見ると、ますます訳がわからなかった。
愛とは、そんなに人を変えるものなのか。誰もがそう思いながら、二人の背をいつまでも見つめるのだった。
ヒジェはウォルファと一定の距離を保ちながら市場を歩いていた。
「……また距離をあけるのか?」
「ええ。だって、人の目がありますから」
「嫌だ。」
彼はそう言うと、ウォルファの腕を引っ張って引き寄せると、その肩を抱いた。市場の人々は南人の放蕩息子と西人の令嬢が連れだって歩いているのを、興味津々に振り返ったりして見ている。それでも、ヒジェはもう気にも留めなかった。
「そなたが傍に居れば良い。何も手に入らずとも、最後にはそなたの笑顔がこの腕の中に残れば良い。もう何も気にせん。俺は、そなたを取り戻すために生きていく。」
その横顔は、今までウォルファが見てきたヒジェとは全く別人のものだった。あらゆる辛さを体験して決心が固まった彼は、誰よりも輝いていた。少なくとも、ウォルファにとってはそう思えるのだった。
二人が一緒なら、何も怖くはない。世界がすべて自分達のことを非難しようとも、二人が笑顔で居られるならそれは既に関係のない話だ。
「────ずっと一緒に居ような、俺達」
「どこまでもついていきます。あなたの傍を……」
二人はそう言うと、互いをしばらく見つめてから笑った。これで金輪際の別れでもあるかのようなやり取りが無性に可笑しくなったのだ。ヒジェはひとしきり笑うと、もう一度ウォルファの手をしっかりと握りしめ、二人はそのまま人混みの中へと消えていくのだった。
最初に現れたのは、二人の掌楽院の官吏であるオ・ホヤンとその父、テプンだった。彼らはヒジェに散々出世させてもらえずこけにされたせいで、相当な恨みを持っていた。ホヤンなど、トンイが水汲み女に扮していると報告するのがあと一歩遅ければ絞殺されていたという経験をしている。二人はわざとらしくヒジェに気づくと、あっと驚く振りをした。
「おお!そなた。前見たのは……たしか、捕盗庁ではなかったか?」
「ああ………成り行きで、な」
すぐにでも掴みかかって殴り殺してやろうかとまで思ったが、ヒジェは瞬時に苦笑いを作ると、ウォルファのことを思い浮かべた。
「そうか。礼賓寺といえば、掌楽院よりも扱いが低いからな。いやーお前が出世から外れたから、世の男は皆喜んでいるだろうな!」
「何?」
聞き捨てならない言葉に引っ掛かった彼は、ホヤンを睨み付けた。その視線に怖じけづく様子もなく、彼は続けた。
「シム・ウォルファ殿だ!お前の女の。ユンは身を引いたらしいが、どうせそのうち他の男がまた寄り付いてくる。お前も大変だな、署長殿」
「何……だと?」
「では、人を待たせているので失礼する!」
ヒジェはその場に凍りついた。そして、最大の侮辱を食らったことに怒り心頭になると、反射的にその怒りを机に叩きつけた。
「くそ………あいつら………」
その間が悪いときに、今度はついこの間までヒジェより下の身分だった高級官吏たちが文句をつけにやって来た。
「おい!礼賓寺の署長!」
「はい、なんでしょうか」
「お前、料理が貧相だぞ。」
「失礼しました。以後気をつけます」
お前と呼ばれただけでも腹が立つが、それでも彼は堪えた。
───怒るな、チャン・ヒジェ。ここで怒りを表に出せば、ウォルファが悲しむ。
だが、彼らの文句はヒジェが腰を低くすればするほど、ひどくなる一方だった。彼らの中の一人が、机にあった帳簿でヒジェの帽子をはたき落とし、更にそれで肩を思いきり叩いた。
「前の署長はもっと心遣いのできる奴だったぞ?そんな輩だから、こんな馬鹿なことになるのだ」
「まぁ、仕方がないでしょう。こいつは元々従二品、捕盗大将様だったのだから」
「おお!そうだったな!それで?今は?」
彼は肩を震わせ、拳を握りしめながら殺意を隠した声で残酷な質問に答えた。
「………正三品堂下(従二品より二つ下)、です」
「おお、我々より一気に下になったわけだ。」
ヒジェは必死でこいつらの首を掻き切って殺したいという本心を押さえつつ、笑顔でこう返した。
「あちこち渡り歩き、社会勉強をしているところです」
話がここで終われば、ヒジェも収まりがついただろう。だが、最初に文句を言ってきた男がついに彼の逆鱗に触れてしまう。
「そうか……そなたと恋仲とかいう噂のシム・ウォルファ殿も、このような男と噂が立つとは…西人の名家から転落したみじめな女だ。転落者同士、さぞ似合いの夫婦になるだろう」
その言葉に毛を逆立てんばかりの勢いで憤激したヒジェは、帽子を拾うのも忘れて男に掴みかかった。その形相は正に獲物を仕留めようとする蛇。ヒジェの本性に触れた男と他の官吏たちは一瞬にして怯んだ。
「お前らはただ出されたものを食っていれば良いのだ!いや料理など、どうでもいい。俺の女に文句をつけることは許さん!」
「なにも、そこまで怒らなくとも良いではないか…」
勢いにおされ、必死に取り繕おうとする官吏に目もくれず、ヒジェは手を緩めようとはしない。
「だったら始めから怒らせるようなことを言うな!!二度とあの女の悪口を俺の前で言うな!死にたければもう一度言え!わかったか!」
ひとしきり言い終わり、ようやく恐怖から解放された官吏たちは、恐怖と侮蔑の入り交じった視線でヒジェを見つめると、そのまま時折肩越しから彼を指差し嘲笑いながら去っていった。またそれを見ていた他の官吏たちも、彼のことを指差しながら嘲笑している。ヒジェは全ての視線が耐えられなくなり、彼らしくもなくその場から逃げ去ってしまった。
その様子を見ていたのは、性悪の官吏たちだけではなかった。心配で様子を見に来ていたウォルファも、一部始終のやり取りを見ていたのだ。彼女はヒジェの傷つき様に胸を痛めると、彼の忘れ物である帽子を拾って逃げていった方向を急いで追った。案の定、そこには建物の影で石段に座りながら子供のように泣くヒジェの姿があった。ウォルファは黙って帽子を被せようとしたのだが、何故かヒジェはそれを拒んだ。
「どうして?立派じゃない。たくさんの人をおもてなしして、笑顔にさせる仕事なんでしょう?」
「あの掌楽院よりも格が低いんだぞ!?馬鹿にされ、挙げ句にはお前まで悪く言われる始末だ。これならいっそ、西人…出来るならチョン・ドンイと刺し違えた方が百倍マシだ」
そう言うヒジェに、とうとうウォルファは我慢ならずに平手打ちをかました。乾いた音が響き、ヒジェの目が大きく見開かれる。
「──どうしてそんなことを言うの!生きててって言ったじゃない!どうして死んでもいいとか、身分にこだわるの?私が居るだけでは満足しないのね?私なんて居なければ怒らずに済んだなら、もう私は消えるわ!」
泣きながらそう訴えるウォルファに、ヒジェはまた気づかされた。自分がかつて、どのような幼少期を送ってきたのかを。
物心ついたときより、母の身分のために兄妹共々賤民と称された。そして、お金がないせいで免賤してもらえないという事実から、何度も推奴たちから逃げ回った。その度に父の身体は弱っていき、妹は幾度となく妓楼に売られそうになった。そんな中で幼いヒジェに芽生えた思いは、ただ一つだった。
───この世界の掟を造っているやつ、そこに安穏とあぐらをかいているやつ。あいつら全員俺の目の前に跪かせてやる。あいつらを俺は絶対に許さない。
その野心からこの国の身分の最底辺から這い上がり、父と家族を見捨てた憎い叔父のチャン・ヒョンに語学の才能を認めてもらい、家族皆で免賤まで獲得し、清国へ留学したのだ。彼は決してただの放蕩息子ではなかった。本当は、家族思いの心優しい少年だったのだ。昔はいじめられている子供や動物を見つけては助ける心根の良い子だった。だが、そんな彼は過酷な環境を生き抜き、逆転の機を掴むために変わることを強いられたのだ。
いつしか権力と欲にとりつかれたヒジェは、己の優しさを家族にしか向けないようになっていった。容姿のおかげで言い寄ってくる女性たちも皆、自分の道具でしかない。人間など所詮使い捨てればいいものなのだ。自分の周りのやつらも、そうやって生きてきていた。
けれど、たった今ヒジェは根本的なことに気づいてしまった。それは───
「俺は………結局見返したいあいつらと、同じ生き物に成り下がってしまった………」
彼は哭いた。声が天にすべて吸いとられるような勢いで哭きつづけた。それは憤りというよりもはや、おぞましい自分が成り下がった存在とそうやって手に入れたもののあまりに希薄なことに対する、憐れみと孤独から来る悲しみの慟哭だった。
そんなヒジェの背中をさすりながら、ウォルファも泣いていた。何も言わず、彼女はただヒジェの傍についている。
「………ウォルファ……ウォルファ……ウォルファ……どうして、どうして俺はこんなに弱いんだ?」
「あなたが弱いんじゃないの。人間は皆、弱い生き物なの」
「だったらどうして、そなたは強い」
顔をあげてそう尋ねるヒジェが子供のようで愛らしく思えた彼女は、優しく微笑んで抱き締めるとこう諭した。
「違うの。私は弱いの。本当に、弱い生き物なの。あなたに比べれば、どうしようもなく弱い生き物なの。でもそんな私でも生きてるんだから、世界は案外優しいのよ」
「ウォルファ………」
この瞬間、ヒジェはその言葉にどれ程支えられたことか。喜びのあまり、彼はウォルファをしっかりと抱きしめ、普段は言わない言葉をぶつけた。
「ウォルファ……愛している。そなたを、愛している。そなたが私の選んだ人で、よかった。本当に、良かった。そなたが好きだ。愛している……愛している……」
やや照れてしまった彼女は、はにかみながらもヒジェの顔を見た。そして帽子を元通りに被せてやると、透き通るような美しくて白い指でその涙をぬぐった。
「……じゃあ、まだ頑張れる?」
「ああ、頑張ってやる。そなたが傍に居てくれるならば、俺はいくらでも頑張れる」
「そうこなくっちゃね!私はそんなヒジェ様が大好きよ。」
ウォルファは敢えて明るく振る舞った。そして彼が元通りになったことを見計らうと、また弱くならないようにその場を離れようとした。すると、そんな彼女をヒジェが引き留めた。
「………ありがとう」
「……気にしないで。私がどん底のとき、あなたが支えてくれたように、私もあなたを支え返してあげたいだけ。」
彼はもう一度ウォルファを抱き締めようとした。だが彼女はそれを振り払うと、仕事へ戻るように促した。
「何故だ。嫌か?」
「いいえ。でも、仕事中よ」
ヒジェは少し考えると、懐から帳簿を取り出して提案した。
「……夕方に迎えに行く。それまで家で待っていてくれ」
「わかりました。待っていますからね」
彼女が快諾したのを見て大喜びしたヒジェは、足取り軽く職務に戻っていった。その様子を眺めていると、彼女は先日の騒動のことを思い出さずにはいられなかった。
「……ヒジェ様……無理をなさらないで…」
敢えて彼が面会室で目覚めたときから暗い話はしてはいないが、あのときの彼は憔悴しきっていたし、弱かった。それが本当の彼ならば、自分が普段見ている彼は一体誰なのか。一体、どちらが偽物なのか。そう思う度に弱い方が正解のようにしか思えなくて、彼女はいつも胸を締め付けられるような哀しみに襲われていた。
その日は承恩尚宮となったトンイを訪ねるつもりだったので、彼女は芙蓉堂の方へ向かった。庭には待ちきれない様子のトンイが居た。彼女はウォルファの姿に気づくと、身分を忘れて駆け寄った。
「姉さん!」
「尚宮様にご挨拶申し上げます」
「そんなのいいのよ。ほら、上がって。色々話をしましょう」
トンイに手を引かれ、ウォルファは部屋に通された。こうして見てみると、ただの娘ではない才能を秘めていた彼女が、やはり相当な逸材であったことを改めて思い知る。だがそれよりウォルファは宿敵チャン・ヒジェをかばって、西人を売るような真似をしたことが後ろめたく、もどかしい気持ちだった。そんな彼女の様子に、察しの良いトンイも疑問の目を向けている。彼女は意を決してあのことを尋ねた。
「書庫でのチャン・ヒジェに対するあの行動は……」
「尚宮様、私をお恨みになってください。私は……私は、あの方と恋仲でございます」
「えっ………」
トンイはまさかの返答に困惑した。それは外で聞いていたトンイの仲間である女官のチョンイム、エジョン、そしてポン尚宮も同じだった。
「ええぇっ!!あの純情そうなお嬢様が、あ、あのチャン・ヒジェとですか!?」
ひときわ背の高いエジョンが、驚きを隠せずに大声をあげるのをみて、冷静なチョンイムが慌ててその肘を叩いた。
「声が大きいわ、エジョン。蓼食う虫も好き好きよ」
「違うわよ、チョンイム。分かってないのね。悲恋よ。これは安平大君に仕えた女官と若い文人が恋に落ちたみたいに複雑な問題よ」
噂好きのポン尚宮は他人事のように大きなもうけでも得たかのように話し始めた。そんな彼女を諌めたのは、意外にもなんとチャン・ヒジェ本人だった。
「誰が古くさい昔話のような悲恋をしていると?」
「チ、チャン・ヒジェ様…!?」
「何故こちらにおいでですか。チョン尚宮様の動きを探りにいらしたのならお引き取りを」
それぞれが驚きを表現するなか、西人の巣窟である芙蓉堂には一切似つかわしくないヒジェには、帰る様子は一切ない。むしろ話の内容が気になるようで、彼はじっとポン尚宮を睨み付けている。
「あ、あの………その………」
「いいか。俺とシム氏は恋仲だ。それを否定するつもりはない。だが、悲恋などではない。互いの立場が違う、ただそれだけだ」
毅然といい放つヒジェは、普段の彼とは違ってどこか男らしかった。だが、チョンイムには別のことの方がきになるらしい。
「ですが芙蓉堂には何故お越しになられたのですか。」
「早くに仕事が終わった故、あの子を探して来たのだ」
敵陣に女のために乗り込むとは……さすがの彼女も言葉を失った。ポン尚宮は依然ヒジェを横目で見ては殺されはしないかと震えている。そんな彼女に、ヒジェは恐ろしいくらいににっこりと微笑んだ。
「なぁに、安心しろ。彼女と恋仲だと噂が立つのは真ゆえに嫌ではない。…ただ、就善堂の女官たちには黙っておいてくれ。王妃様には芙蓉堂に行ったことを知られたくはないからな」
「はっ、はい!黙っておきます!」
「ふん。」
ヒジェがその場を離れる様子はない。彼女たちはこの状況を誰か他のものが見たりしないか、ただそれだけを心配するのだった。
部屋の中では、トンイの質問攻めが始まっていた。
「教えてください。あの方を私の承認を条件に釈放しろと南人に指示をしたのは、姉さんですね?」
「ええ。そうです。」
迷わず肯定するウォルファが信じられず、彼女はただ一言しか言えなかった。
「どうして………」
「それが結果的にあなたへ幸せを提供しましたし、私も幸せです。双方にとって得かと。それに、今回の件はただチャン・ヒジェのみが捕らえられましたが、仮に処罰されてもその他の南人たちは残ったままですが。」
理路整然としているように見えるが、ただ単に己の私欲のために取引をしていることは明らかだ。トンイは思わず怒りを露にした。
「あなたはチャン・ヒジェが義州でしたこと、内需司での横領を揉み消すために多くの人の命を握りつぶしたこと、そしてあなたの兄を配流したことを忘れたのですか?姉さん、お願い。騙されているのよ!あの男が姉さんを愛するわけがないわ。だってあなたは南人ではなくて西人なんだもの。」
「確かに私は西人です。ですが…ですが、あの方は私を愛しています!いえ、愛してはいないのかも知れません。ですが私はあの方を愛しています。それだけで良いのです。私が想ってさえいれば、それで良いのです。」
ウォルファは勢いよく立ち上がると、そういい放った。初めてこれほどの無償の愛に触れたトンイは、一体どうなっているのかが全くわからず、ただ呆然とするより他なかった。そうしているうちにウォルファは部屋から退室してしまい、彼女は我に返り慌ててウォルファの後を追った。
外に出たウォルファは、度重なる現実の重みに疲労を感じているせいか、ふらつく足取りで地面に降り立った。ヒジェはそんな彼女を見や否や、人の目も気にせずに彼女を地面に崩れ落ちる前に抱き止めた。
「どうした!?…ウォルファ?」
「あなたを取れば、人からは馬鹿だと冷たく好奇の入り交じった目で見られ、社会的に死んでしまう。けれど、あなたを見捨てれば私は本当の意味で死んでしまうの。どちらを取れと言われれば………私は…」
部屋から出てきたトンイは、固唾をのんでその言葉の続きを待った。ウォルファは涙を両目にためながら、声を絞り出すようにして言葉を続けた。
「────私は、あなたを取ります」
「ウォルファ…………」
「私の生が尽きるまで、私はあなたを選択します。あなたを、愛します。あなたの傍で生きていきます」
トンイはそれ以上何も責めることが出来なかった。むしろ、あんな言葉を投げ掛けてしまった自分が恥ずかしく思えるくらいだ。ヒジェは西人の誰にも見せたことのないような笑顔をみせると、ウォルファの手を取り、握りしめた。
「俺も、そなたの傍に居よう。決して離したりはせん。永遠という言葉は好かんが、そなたにだけは変わらぬ愛を約束しよう」
「ヒジェ様………」
「さ、行こう。仕事が早くに終わってな。」
ウォルファは立ち上がると、トンイに一礼した。彼女の目には未だに驚嘆と困惑の色が混じっていたが、明らかに他の者に対する態度とは異なるヒジェを見ると、ますます訳がわからなかった。
愛とは、そんなに人を変えるものなのか。誰もがそう思いながら、二人の背をいつまでも見つめるのだった。
ヒジェはウォルファと一定の距離を保ちながら市場を歩いていた。
「……また距離をあけるのか?」
「ええ。だって、人の目がありますから」
「嫌だ。」
彼はそう言うと、ウォルファの腕を引っ張って引き寄せると、その肩を抱いた。市場の人々は南人の放蕩息子と西人の令嬢が連れだって歩いているのを、興味津々に振り返ったりして見ている。それでも、ヒジェはもう気にも留めなかった。
「そなたが傍に居れば良い。何も手に入らずとも、最後にはそなたの笑顔がこの腕の中に残れば良い。もう何も気にせん。俺は、そなたを取り戻すために生きていく。」
その横顔は、今までウォルファが見てきたヒジェとは全く別人のものだった。あらゆる辛さを体験して決心が固まった彼は、誰よりも輝いていた。少なくとも、ウォルファにとってはそう思えるのだった。
二人が一緒なら、何も怖くはない。世界がすべて自分達のことを非難しようとも、二人が笑顔で居られるならそれは既に関係のない話だ。
「────ずっと一緒に居ような、俺達」
「どこまでもついていきます。あなたの傍を……」
二人はそう言うと、互いをしばらく見つめてから笑った。これで金輪際の別れでもあるかのようなやり取りが無性に可笑しくなったのだ。ヒジェはひとしきり笑うと、もう一度ウォルファの手をしっかりと握りしめ、二人はそのまま人混みの中へと消えていくのだった。