5、窮地と転機
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
いつもと変わらぬ捕盗庁の勤め…そう思っていたウォルファは使節団が来ても大して関係はないだろうとあくびをした。だが、そんなのんびりした昼下がりに一人の監察部の女官が訪ねてきた。珍しく捕盗庁にはウォルファを除いてほとんど人が居らず、彼女一人で対応した。
「はい、なんのご用でしょうか?」
「私、チョン・ドンイと言うものです。監察部のトンイです。」
その名前に心当たりがあり、彼女はすぐにはっと息を飲んだ。
「トンイさんね!チャン尚宮様が推薦なさった…」
「そうです。宜しくお願いします。私、今日はある書類を従事官様にお届けしたくてこちらに来たのですが…」
ウォルファは首を横に振った。
「従事官様を含め、ファン武官様やチャン武官様などの方は、今日はある調査に行かれて不在です。」
「そうですか…」
少しだけしょんぼりしたトンイを不憫に思ったウォルファは、彼女の持っている荷物を届ければいいのかと尋ねた。すると、とたんに元気になったトンイは喜びいさんで包みを預けると、何度も会釈して去っていった。残されたウォルファは、トンイと言う女官に初めて会うにしては不思議な懐かしさを感じていた。しかしすぐに気持ちを職務に切り替えると、荷物を持ってヨンギのもとへ向かった。
一方ヒジェは、真面目な顔をして左議政オ・テソク宅から帰っている最中だった。
「…旦那様、それでは私は仰せのままに行動を始めます」
「頼んだぞ、執事。」
彼の裏の顔がようやくその頭角を現した。放蕩息子を装い続けていた彼の正体は、腹の読めない危険な悪知恵の働く策略家だったのだ。王族に取り入り、足掛かりを掴んだ彼は、今に至るまで時を待っていた。今回、都に戻ってきて最初の彼らしい仕事は、密輸商人のキム・ユンダルを介してオ・テソクに資金をまわすこと。実は今はその話の帰りだった。だが、廃屋の捜査中にヨンギが商品の隠し場所に気づいてしまい、事態はややこしい方向に進みはじめていた。その処理のため、彼は勘の鋭い邪魔な女官のトンイを消そうと目論んでいた。
─────証拠の入った包みを早くあいつから奪わねば…
既にその件についてはユンに頼んでいた。もうすぐ結果が分かる頃だ。彼は口の端を歪めた。ユンもヒジェも、その包みをウォルファが持っているとは知らず。
道を急いでいたウォルファは、誰かの視線を感じて足を早めた。後ろからはっきりと何人かの足音が聞こえてくる。彼女は持っている包みに目線を落とした。
───まさか、これが原因…?
先ほどヨンギに渡してほしいと言ってきた女官のトンイの顔を思いだし、彼女はまさかと首を横に振った。だが、その目の前にまた男が三人ほど現れた。
「…何の用ですか」
「殺れ!」
一斉に剣を抜く男たちから逃げようと彼女は振り向いた。だが、後ろにも同じように男が三人。剣術の心得などなにもないウォルファは追い詰められていた。そして、最後の手段に出た。
「助けて!お願いです!」
「誰も助けてはくれんぞ、小娘。死ね!」
その時だった。剣が振り下ろされると思い、目をつぶった彼女の背後に居た男が一人、倒れた。
「何者だ!」
「女一人に六人で何をしているのだ、全く」
ヒジェだった。彼は見たこともない真面目な顔で剣を抜くと、ウォルファの手を引いて背中に隠した。
「ヒジェ様、どうしてここに…?」
「声が聞こえてな。お前だとすぐにわかった」
「かかれ!!」
ユンの私兵ともしらないヒジェは、次々に男たちを倒し始めた。その実力は、武術鍛練会で本気を出していなかったことを示していた。
「チャン家の男を侮るでないぞ、貴様ら」
だが、相手も手練であり多勢だった。ヒジェは寄ってきた最後の雑魚に回し蹴りを見舞うと、ウォルファの手を引いて走り出した。
「チャン様、私そんなに走れません!」
「死にたくなければ走れ!捕盗庁まで逃げればこちらの勝ちだ」
通りを駆け抜けるうちに、彼女はいつの間にかヒジェの手をしっかりと握りしめている自分に気づいた。放蕩息子なはずの彼は、驚くほど真剣な顔で彼女を気遣っていた。
「あと少しだ。もう少しだけ頑張れ」
「はい……あっ…!!」
ウォルファがつまずく。そして、足をひねってしまった。人通りが少しだけ途切れた場所で倒れたので、彼は辺りを見回して追っ手が来ていないかを確認すると、ウォルファの目の前にしゃがみこんだ。
「ひねったのか…走れぬか?」
「ええ…ごめんなさい、一人で逃げてください」
「駄目だ!大体、何をして追われている」
ヒジェはその瞬間はっと我に返った。ウォルファの手の中にある包み。それが狙いだと彼は悟った。そして、それは決してヨンギに渡してはならないものだと。彼は数時間前にユンに言われた言葉を思い出した。
────もし証拠を持った者を見かけたら、すぐに切り捨てろ。
───分かっていますよ、言われなくても。私を誰だとお思いで?
安請け合いしたものの、彼はまさか相手がウォルファだとは思いもよらなかった。
────今なら、殺れる。
彼は人が見ていないことを確認すると、剣の柄に手をかけた。だが、そんな彼をウォルファがためらわせた。
「ヒジェ様、この包みを持っていってください。」
「なっ…」
「従事官様にお渡ししてください。あなたを信じます」
なんの淀みもなく見つめてくる瞳を前にして、彼は嘘をつけなかった。柄から手を何気なく離した彼は、喉から手が出るほどに欲しいその包みを押し返した。
「…これはお前が自分で持っていけ。」
「でも…」
「お前は引きずってでも連れて帰る。安心しろ、私が守る」
彼はウォルファの手をしっかり握ると、支えながら歩き始めた。だが、すぐに追っ手の声が聞こえる。ヒジェは辺りになにか隠れる場所はないかと探した。すると、向こうに茂みが見えた。一瞬戸惑った彼だったが、すぐに彼女を強引に引っ張ると、草むらの中に身を投じた。
周辺には、情を重ねる男女があまた居た。ウォルファはとんでもないところに連れ込まれたなと流石に焦りはじめた。
「ヒ、ヒジェ様。ここは流石に…」
「立ち上がるな。見つかるぞ」
起き上がろうとする彼女を慌てて押し倒したヒジェは、いかにも取り込みの最中に見せかけるために、彼女の上に覆い被さった。一気に顔の距離が近づく。ウォルファの鼓動が、早まる。
「あの…ヒジェ様…」
「何だ?ウォルファ」
二人の視線が重なる。ヒジェはやや期待に胸を踊らせながら、慣れた手つきでウォルファの頬に手を滑らせた。
「あの…それは…」
「……違うか?」
彼は静かに顔を近づけた。だが、すんなり受け入れると思っていたウォルファは、意外にも顔を背けた。
「……何故だ」
「私ではいけません。私は…私は…」
彼女は一筋、涙を流して答えた。
「私は─────西人だから。あなたを傷つけることになってしまいます」
「私がそのようなことを気にするとでも思うか?チャン・ヒジェだぞ。オクチョンの兄だぞ」
威勢を張ってはいても、彼の声は震えていた。
「ユン様は、黙ってはおりません」
「それは…」
苦々しい顔をしたヒジェは、きつく唇を噛みながら言葉を選んで返した。
「では、私が領議政になればいい。そうすれば…」
「私は、何も望みません。ただ、今少しでもあなたの側に居られるだけで、私は幸せ……」
「────何も言うな」
彼は、ウォルファを抱き締めた。強く、他の誰を抱いたときよりも強く抱き締めた。戸惑っていたウォルファも思慕の念を抑えきれず、黙って腕をヒジェの大きく優しい背中に回した。
このまま、時間が止まればいいのに。
二人はそう願いながら、日が暮れて刺客たちが諦めるのを待つのだった。
「はい、なんのご用でしょうか?」
「私、チョン・ドンイと言うものです。監察部のトンイです。」
その名前に心当たりがあり、彼女はすぐにはっと息を飲んだ。
「トンイさんね!チャン尚宮様が推薦なさった…」
「そうです。宜しくお願いします。私、今日はある書類を従事官様にお届けしたくてこちらに来たのですが…」
ウォルファは首を横に振った。
「従事官様を含め、ファン武官様やチャン武官様などの方は、今日はある調査に行かれて不在です。」
「そうですか…」
少しだけしょんぼりしたトンイを不憫に思ったウォルファは、彼女の持っている荷物を届ければいいのかと尋ねた。すると、とたんに元気になったトンイは喜びいさんで包みを預けると、何度も会釈して去っていった。残されたウォルファは、トンイと言う女官に初めて会うにしては不思議な懐かしさを感じていた。しかしすぐに気持ちを職務に切り替えると、荷物を持ってヨンギのもとへ向かった。
一方ヒジェは、真面目な顔をして左議政オ・テソク宅から帰っている最中だった。
「…旦那様、それでは私は仰せのままに行動を始めます」
「頼んだぞ、執事。」
彼の裏の顔がようやくその頭角を現した。放蕩息子を装い続けていた彼の正体は、腹の読めない危険な悪知恵の働く策略家だったのだ。王族に取り入り、足掛かりを掴んだ彼は、今に至るまで時を待っていた。今回、都に戻ってきて最初の彼らしい仕事は、密輸商人のキム・ユンダルを介してオ・テソクに資金をまわすこと。実は今はその話の帰りだった。だが、廃屋の捜査中にヨンギが商品の隠し場所に気づいてしまい、事態はややこしい方向に進みはじめていた。その処理のため、彼は勘の鋭い邪魔な女官のトンイを消そうと目論んでいた。
─────証拠の入った包みを早くあいつから奪わねば…
既にその件についてはユンに頼んでいた。もうすぐ結果が分かる頃だ。彼は口の端を歪めた。ユンもヒジェも、その包みをウォルファが持っているとは知らず。
道を急いでいたウォルファは、誰かの視線を感じて足を早めた。後ろからはっきりと何人かの足音が聞こえてくる。彼女は持っている包みに目線を落とした。
───まさか、これが原因…?
先ほどヨンギに渡してほしいと言ってきた女官のトンイの顔を思いだし、彼女はまさかと首を横に振った。だが、その目の前にまた男が三人ほど現れた。
「…何の用ですか」
「殺れ!」
一斉に剣を抜く男たちから逃げようと彼女は振り向いた。だが、後ろにも同じように男が三人。剣術の心得などなにもないウォルファは追い詰められていた。そして、最後の手段に出た。
「助けて!お願いです!」
「誰も助けてはくれんぞ、小娘。死ね!」
その時だった。剣が振り下ろされると思い、目をつぶった彼女の背後に居た男が一人、倒れた。
「何者だ!」
「女一人に六人で何をしているのだ、全く」
ヒジェだった。彼は見たこともない真面目な顔で剣を抜くと、ウォルファの手を引いて背中に隠した。
「ヒジェ様、どうしてここに…?」
「声が聞こえてな。お前だとすぐにわかった」
「かかれ!!」
ユンの私兵ともしらないヒジェは、次々に男たちを倒し始めた。その実力は、武術鍛練会で本気を出していなかったことを示していた。
「チャン家の男を侮るでないぞ、貴様ら」
だが、相手も手練であり多勢だった。ヒジェは寄ってきた最後の雑魚に回し蹴りを見舞うと、ウォルファの手を引いて走り出した。
「チャン様、私そんなに走れません!」
「死にたくなければ走れ!捕盗庁まで逃げればこちらの勝ちだ」
通りを駆け抜けるうちに、彼女はいつの間にかヒジェの手をしっかりと握りしめている自分に気づいた。放蕩息子なはずの彼は、驚くほど真剣な顔で彼女を気遣っていた。
「あと少しだ。もう少しだけ頑張れ」
「はい……あっ…!!」
ウォルファがつまずく。そして、足をひねってしまった。人通りが少しだけ途切れた場所で倒れたので、彼は辺りを見回して追っ手が来ていないかを確認すると、ウォルファの目の前にしゃがみこんだ。
「ひねったのか…走れぬか?」
「ええ…ごめんなさい、一人で逃げてください」
「駄目だ!大体、何をして追われている」
ヒジェはその瞬間はっと我に返った。ウォルファの手の中にある包み。それが狙いだと彼は悟った。そして、それは決してヨンギに渡してはならないものだと。彼は数時間前にユンに言われた言葉を思い出した。
────もし証拠を持った者を見かけたら、すぐに切り捨てろ。
───分かっていますよ、言われなくても。私を誰だとお思いで?
安請け合いしたものの、彼はまさか相手がウォルファだとは思いもよらなかった。
────今なら、殺れる。
彼は人が見ていないことを確認すると、剣の柄に手をかけた。だが、そんな彼をウォルファがためらわせた。
「ヒジェ様、この包みを持っていってください。」
「なっ…」
「従事官様にお渡ししてください。あなたを信じます」
なんの淀みもなく見つめてくる瞳を前にして、彼は嘘をつけなかった。柄から手を何気なく離した彼は、喉から手が出るほどに欲しいその包みを押し返した。
「…これはお前が自分で持っていけ。」
「でも…」
「お前は引きずってでも連れて帰る。安心しろ、私が守る」
彼はウォルファの手をしっかり握ると、支えながら歩き始めた。だが、すぐに追っ手の声が聞こえる。ヒジェは辺りになにか隠れる場所はないかと探した。すると、向こうに茂みが見えた。一瞬戸惑った彼だったが、すぐに彼女を強引に引っ張ると、草むらの中に身を投じた。
周辺には、情を重ねる男女があまた居た。ウォルファはとんでもないところに連れ込まれたなと流石に焦りはじめた。
「ヒ、ヒジェ様。ここは流石に…」
「立ち上がるな。見つかるぞ」
起き上がろうとする彼女を慌てて押し倒したヒジェは、いかにも取り込みの最中に見せかけるために、彼女の上に覆い被さった。一気に顔の距離が近づく。ウォルファの鼓動が、早まる。
「あの…ヒジェ様…」
「何だ?ウォルファ」
二人の視線が重なる。ヒジェはやや期待に胸を踊らせながら、慣れた手つきでウォルファの頬に手を滑らせた。
「あの…それは…」
「……違うか?」
彼は静かに顔を近づけた。だが、すんなり受け入れると思っていたウォルファは、意外にも顔を背けた。
「……何故だ」
「私ではいけません。私は…私は…」
彼女は一筋、涙を流して答えた。
「私は─────西人だから。あなたを傷つけることになってしまいます」
「私がそのようなことを気にするとでも思うか?チャン・ヒジェだぞ。オクチョンの兄だぞ」
威勢を張ってはいても、彼の声は震えていた。
「ユン様は、黙ってはおりません」
「それは…」
苦々しい顔をしたヒジェは、きつく唇を噛みながら言葉を選んで返した。
「では、私が領議政になればいい。そうすれば…」
「私は、何も望みません。ただ、今少しでもあなたの側に居られるだけで、私は幸せ……」
「────何も言うな」
彼は、ウォルファを抱き締めた。強く、他の誰を抱いたときよりも強く抱き締めた。戸惑っていたウォルファも思慕の念を抑えきれず、黙って腕をヒジェの大きく優しい背中に回した。
このまま、時間が止まればいいのに。
二人はそう願いながら、日が暮れて刺客たちが諦めるのを待つのだった。