【第一部】1、偶然が導く縁(加筆修正済)
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それからときは流れ、6年の月日がたった。
「毎度ありがとうね、お嬢さん」
「いいのよ!ここの紐の色が好きなの!」
いつものように手芸用の紐を買ったシム・ウォルファは齢17の立派な女性に成長していた。もう会計を頼むこともなく、彼女は自分で代金を支払った。あれから何度か助けてくれた青年のことを思い出す日もあったが、気がつけばもう顔も声も忘れてしまっていた。
彼女は店を後にしてすこし細い通りに入った。その時だった。子供のときのように前から男がやってきた。しかし、今度は一人だ。見かけない顔をいぶかしげに見ていると、男はしまりのない顔で近寄ってきた。
「お嬢さん」
声もかなり軟派な雰囲気の男は、しかし背が高く、ウォルファが見上げないと顔もまともに見れない程だった。彼女は恐る恐る距離を取りながら答えた。
「………はい、何でしょうか」
「怪しいものではない。………ん?」
男は気まずそうに地面を眺めるウォルファの顔立ちをよく観察し始めた。雪のように白い肌に、ややふっくらした薄紅色の唇。そして何より服の上からも分かる程好い肉付き。男────チャン・ヒジェはすっかり放蕩息子を拗らせ、あの時の娘の名前も出会ったことさえも忘れていた。彼はつい先ほどまで人妻と寝たにも関わらず、もう次の標的を見定めていた。
彼は音もなくずいっとウォルファのすぐそばに寄った。驚いた彼女がいかにも初々しい反応をみせたので、彼はますますその気になりはじめた。ヒジェはおもむろに彼女の手を握ると、早々に口説き始めた。
「あの………近いです」
「そうだな。別に構わんだろう?ん?」
熱烈な求愛に初めて接したウォルファは耳まで顔を真っ赤に染めて、言葉を発するのもやっとの様子だ。ヒジェはこの様子を悦しむように見いると、すっかり気に入ったらしく、更に情熱的に迫った。彼が息が肌にかかるほどの近さで囁くと、いよいよウォルファは反応に戸惑った。あと一息で名前を聞けそうなところまで押し切れると彼が確信したときだった。ヒジェは聞きなれた男の声に過敏に反応をした。
「探せ!絶対殺してやる!」
「お嬢さん、私を少し助けてくれませんかね?」
「え?」
ウォルファが冷静に戻るやいなや、彼はすぐそばの布屋の奥に彼女を連れ込み、商品の裏に隠れた。
「離してください。何故あなたは追われているのですか?」
ヒジェは何も返事をせずうまくはぐらかすと、黙って彼女の肩を抱いた。どうしようもない状況で彼女は結局押し黙ることしかできなかった。
しばらくして男たちの声も足音もすっかりなくなり、ようやくヒジェから解放されたウォルファは肩から手を無理やり振り払うと、すたすたと歩き始めた。あわててあとから彼がついてくる。しかし、それは男たちの罠だった。ヒジェはあっさり前を阻まれると、退くも進むも出来ない状況に追い込まれた。
「てめえ、さっきは逃げられたが、もう逃がさねぇ!ぶっ殺せ!」
「勘弁しろ!誤解だろうに。」
少し離れたところからその様子を観察していたウォルファは、道端に彼女でも持てそうな、かつそこそこしっかりした壺が落ちてあることに気づいた。彼女はそれを手に持つと、こっそり主格の男らしき奴に投げつけ、怯んだすきにそのままヒジェの腕を引っ付かんで駆け出した。ヒジェは女性に手を引かれて走らされたことはただの一度もなかったので、思わず彼女の勇気と度胸に感心した。
大通りに逃げ込むと、ようやく追っ手が来ていないことが確認でき、ウォルファはほっと胸を撫で下ろした。しかし、今度はヒジェがすっとんきょうな声をあげた。
「あれ、なんとまあ。」
「今度はなんなんですか。……やだ、変態!!」
「腰ひもをなくしたようです」
みやると、着衣をはだけさせて下着をほぼ丸出しにしているヒジェが目にはいる。流石のウォルファも、今度は別の意味で顔を赤らめながら、後ろを向いた。
「減るものではなかろうに。どうせそのうち誰かのをみることになると思うが?」
「減ります!なにかが今確実に減りました!」
そう言いつつも、彼女は懐から先程買ったばかりの紐を取りだし、後ろを向きながらヒジェに手渡した。
「…手芸用ですが、これでも使ってください!でないと私がそちらを向けません!」
「ああ、すまんな。ほれ、これで良いぞ」
格好を整えた彼は改めてしまりのない顔をしながら笑った。服をきちんとしていようがしていまいがあまり変わりがないヒジェにウォルファはもはやため息さえつくことができなかった。するとおもむろにヒジェは彼女の手をとると、また先程の続きを始めた。
「…こう見えてもうちはそこそこの家でな。詫びにでもなにか買ってやろう。な?」
ウォルファはやれやれと肩をすくめると、手を振りほどいて少しだけ歩くとこう返事をした。
「一度家の者にもう少し出歩くと申してから戻りますわ。」
ヒジェは心のなかでしめたと思った。
────かかった。
こうして二人は近くの店の前で待ち合わせると、ひとまずその場を別れた。
「黙ってきちんとしていればそれなりの美男なのよね…」
ウォルファは侮られないように適当につけた口実である帰宅を済ませると、少しだけ身なりを整えて市場へ向かった。
ちょうどその頃、ヒジェは母であるユン氏に捕まっていた。
「この道楽息子!さっさと家に帰ってきなさい!」
「は、母上…わかりましたよ。おい、そこの者。筆と紙を貸してくれぬか?」
「ヒジェ!!」
ヒジェは甲高い母の声を無視して紙に先程あった女性への置き手紙を書きはじめた。手慣れた様子で書き終わると、彼はそれを店主に渡した。
「そなた。これをもうすぐ人を探してやって来る美人に渡してやってくれ。たぶんすぐわかるだろう」
言われるがままに手紙を受け取った店主は、襟を掴まれて引きずられていくヒジェの姿を呆然と見ることしか出来なかった。
しばらくしてウォルファがやって来ると、店主はすぐに先程の男が言っていた女性だと気づき、彼女に手紙を渡した。
『この広い都の中で出会えたのも何かの縁。必ずまた、そなたと私は会えるだろう。』
「…要はすっぽかされたのね、私。」
読み終わって深いため息をついた彼女は、少しでも淡い期待を抱いてしまった自分につくづくあきれてしまうのだった。
夕食を食べていると、兄のシム・ウンテクが思い出したように話し出した。
「ああそうだ、ウォルファ。都にチャン・ヒジェが戻ってきたことは知っているか?」
「チャン・ヒジェといえば、チャン尚宮様のお兄様ですよね。それがどうかしましたか?」
ウォルファは市場で会った男とヒジェが同一人物であることに気づく様子はない。もちろん昼のことをしらないウンテクは、彼女が悪い男に騙されないように悪評をところ狭しと並べ立てた。
「帰ってきて早々に、人妻と寝たらしい。」
「ええ!!?なんて人…」
「しかも示談で済ませたらしい。」
「最低ですわ」
「しかもそのあとすぐに枝楼で大枚はたいてだな…」
「わかりました!!もう結構です。とりあえずとんでもない方だとは良くわかりましたわ」
ウォルファは顔の前で手を振ってもう充分だと示した。してやったりと笑うウンテクは、満足げにあたたかな雑炊をすすると、一枚の書状を彼女の鼻先につきだした。
「…これは?」
「オ・テソク様からだ。まぁ、事実上甥のユン様からただがな」
目を通してみてウォルファは驚いた。縁談の話だったからだ。以前からユンがことあるごとに話しかけてきたり、物をくれたりはしていたのだが、まさか左議政直々に申し入れがあるとは思っても見なかったのだ。ウンテクはあらかた彼女が目を通したことを確認すると、さっと取り上げた。
「…返事はまだだ。ユンをうまく釣ったまま、チャン・ヒジェも釣れ」
「え?」
彼女はますます目が点になった。遊び人だとあれほど悪口を言っていた兄の口からまさか、チャン・ヒジェの名が上がると検討がつかなかったからだ。
「二人で競わせれば、お前に箔がつく。」
「そういう問題ですか?私、遊び人は嫌いです」
すっかりすねてしまったウォルファの肩をウンテクはちょんと叩くと、にこにこしながら両手を合わせた。
「頼む!ヒジェの方は、本気にさせるだけでいい。真面目なユンを最後に取ればいい。」
とどのつまり、自分の昇進のことを打診してのことかと彼女は悟ると、今日で二度目のため息をつくのだった。
しかし、ウンテクはまだ気づいていなかった。このチャン・ヒジェとの接点を妹が持つことにより、大きな事件に巻き込まれていく原因になるとは…
翌日、宮殿の書庫を参照する仕事を済ませたウォルファは、その足でオクチョンの元へ向かった。
「チャン尚宮姉様、お元気ですか?」
「ええ、ウォルファ。ただ、もう前のようにあなたにオクチョン姉様と呼んでもらえないことが残念です」
オクチョンは春の木漏れ日を漏らしたように笑うと、彼女に思い出したように話し出した。
「我が兄が帰ってきたのはご存知?」
「ええ、都では色々と噂は聞いておりますよ。…失礼ですが、耳に飛び込んでくる話が、本当に姉様の兄上様のしそうにも無いことばかりで、困惑しております。」
彼女はウォルファがそう眉をひそめるのを見て、つい吹き出してしまった。
「どうしてお笑いになられるのですか?」
「兄上もお可哀想に…私の兄ならきっとそなたを気に入るはずなのだが…」
「あらご勘弁!!私まだ殿方に見初められる気はありませんからね」
とは言ってみたものの、オ・ユンが熱をあげているという噂を広げてしまっているため、あまり説得力がない。彼女は苦虫を噛み潰したような顔をすると、懐から紐細工を取り出した。
「これ、差し上げます。作ったの」
「まぁ…ありがとう。あなたは本当に器用ね、ウォルファ。たった一本の紐でここまで美しいものを作れるとは…」
「ですが、今回は二本も買うはめになってしまいました」
「あら、どうして?」
彼女はオクチョンが興味津々なので、後悔しつつも昨日の市場での出来事を渋々話し始めた。全て語り終わる頃には、オクチョンはすっかり男の正体が誰か解ったらしく、笑いを堪えきれなくなっていた。不思議に思ったウォルファは、すこし膨れっ面をしながら尋ねた。
「…可笑しいことは何一つありませんよ。ただ私が損をしただけの話です。」
「そうかしら?私にはその男にそなたが好意を抱いているように思えるけれど…」
一瞬顔をひきつらせたと思うと、ウォルファはすぐに両手を顔の前で振って全力で否定した。
「やだ!!確かに黙っていればなかなかいい男でしたけど!」
「けど…?」
「けど、やはり軟派すぎます」
「では、軟派でなければ可能性があるのですか?」
「…まぁ。」
それを聞くとオクチョンは嬉しそうに微笑み、何度も頷いた。何が何やらさっぱりわかっていないウォルファは、とりあえず兄が帰ってきて嬉しいのだなと解釈すると、そのまま部屋を後にした。
チャン・ヒジェは、妹であるオクチョンに新しい仕事について相談しようと考え、宮中に再び参内していた。すると、向こうから目を疑う女性が歩いてくる。彼は目を凝らして見て気づいた。
────昨日の市場での女か!!
名前を聞きそびれたわ、どこの娘なのかも知らないわで、彼は流石に天下のチャン・ヒジェも良い獲物を逃したなと後悔していたところだったのだ。彼は身なりを整えると、前よりはまともな顔をして彼女の前に現れた。もちろん、驚いたのはウォルファも同じだった。
「─────昨日の人ね!」
「おお!!奇遇だな。…その格好は?」
「私は両班なのですが、どうしても仕事がしたくて、捕盗庁の書類整理係をしています」
「ふぅん…」
そのとき、ウォルファは余計なことを言ってしまったと気づいた。男に捕盗庁勤めだということを迂闊にも漏らしてしまったのだ。しかし、彼女はまだ左捕盗庁か右捕盗庁かを明かしていないだけましかと思うことにした。だが、ヒジェも馬鹿ではなかった。
「…右か?左か?」
「へ…?左捕盗庁です…」
彼はそれを聞いて満足げに笑った。その顔があまりに不敵すぎて、彼女は身震いせざるを得なかった。彼は服を結んでいる紐の端を持ち上げると、何か言いたげににやにやした。すぐにウォルファはそれが昨日の紐だと気づいた。
「今返そうか?ん?」
「要りません!!差し上げます!さようなら!」
そう言い切って彼女は早足でその場を後にした。残されたヒジェは、百戦錬磨の確かな手応えを感じながらも、また名前を聞きそびれたことに気づいて頭を抱えるのだった。
オクチョンに面会すると、ヒジェは彼女が身に付けている紐細工と自分の腰ひもが同じ色をしていることに気がついた。もちろん、彼女も同じことに気づいていた。
「…兄上、その紐はやはり…」
「尚宮様、その紐細工は一体誰から…」
やはり、先ほどウォルファが言っていた"黙っていれば"いい男というのは兄のことかとオクチョンは確信した。一方、ヒジェは先ほどの女性が妹のかなり旧知の知り合いらしいということまで悟った。先に説明し出したのはオクチョンの方だった。
「兄上。トンイとは別の、とても良い子がいるのですが」
「…その紐細工をくれた女性ですか?」
「ええ。兄上が市場でからかった女性ですよ」
彼は思わず不思議な縁を感じずにはいられなかった。広い都で出会うことも奇遇、宮殿で再会することも奇遇、そしてなにより妹の知り合いというところもまた奇遇。だが、ヒジェには群を抜いて奇遇なことがまだあった。
「それではもう、私の仕事について相談する必要はありませんね」
「え…?」
「明日から私、オ・テソク様の計らいで、左捕盗庁の武官として赴任することになりました」
彼は目を細めてにんまり笑うと、あまりの偶然の重なりように驚いて言葉を失っている妹に、静かに何度も頷くのだった…
ウォルファは宮殿を出てすぐ、不可解で嬉しくもない再会に頭を悩ませていた。
「何なのよ、あの変態男…あんなのに付きまとわれてもうれしくないわ!」
彼女は思わず地面を蹴ってそう叫んだ。ふと、ウォルファは木に靴を引っかけてしまった女の子が泣いていることに気づいた。心優しい彼女はすぐに駆け寄ると、自分の悩みも忘れて目の前にしゃがみこんで女の子の顔を覗き込んだ。
「どうしたの~?困ってるならお姉ちゃんに言ってみるのはどうかしら?」
「あのね…靴を投げられちゃって、木に載っちゃったの。でも誰も取ってくれなくて…」
ウォルファはそれをきいてオクチョンとの出会いを思い出した。
頭がよくて可愛らしいオクチョンはいつも女官の間でいじめられており、ウォルファと出会った日も陰で泣いていた。
『どうしたの?なんで泣いてるの?』
『…あなたに関係ないし、私泣いてないから。』
『ううん、泣いてるよ。かわいいのに、そんな顔してちゃ幸せも逃げちゃうよ』
オクチョンは少し考えると、渋々立ち上がった。
『…ありがとう。弱虫は夢を叶えられないって、チャン・ヒョンおじさんが言ってたもの。』
『いいと思う!』
『えっ?』
オクチョンは驚きで大きくて愛らしい目を丸くした。
『だって、弱虫でもいいと思うから。泣きたいときは泣けばいいじゃない。それでまた次から頑張ればいいの!』
ウォルファの考えに触れた幼いころのオクチョンは、それを聞いて微笑むのだった。
ウォルファはそんなことを考えながらいつの間にか木の上に登っていた。彼女は易々と靴を取ると、それを木の上から渡した。
「はい!もう投げたりしないように言っておくのよ。」
「うん!ありがとう、お姉ちゃん!」
嬉しそうに何度もお辞儀をする女の子の背中を充実感を以って見送ったウォルファは、辺りを見渡した。
「さて、どこから降りようかしら…」
彼女はおそるおそる足を伸ばした。すると、次の瞬間体勢を崩して木から手を放してしまった。下は地面。落ちれば大けがだ。
しかし彼女が落ちたのは地面ではなく、なんとヒジェの腕の中だった。彼は本当にまたもや偶然ウォルファの近くを通っており、木の下を通ったのもまた偶然だった。
「な、何をしておる!?木から何故そなたが落ちてきた」
彼女はしばらくヒジェの顔に見惚れていた。締まりのない顔と思っていたヒジェだったが、何の準備もない彼は意外にも返って見栄えのいい顔をしていた。自分に彼女が見惚れていることに気づいているヒジェは、敢えて真面目な顔で尋ねた。
「…おい、大丈夫か?」
「う、うふふ…大丈夫で…しょうね。」
正気に戻ったウォルファは気まずさのあまり顔をそらしてしまった。ヒジェに地面へ下ろしてもらうと、彼女は服を整えて一礼をした。
「…ありがとうございます。何とお礼を申し上げたらいいことか。」
「そうか。怪我がないならそれでいい。…それより、ここで何を?」
「女の子の靴が投げられて、それが木に引っかかっていたのを取ってあげたんです。それで、降りようとしていたら足を滑らせて…」
ヒジェは心の中でやさしい娘なのだなと感心しながらも、冷めた顔で言った。
「ふぅん…お嬢さん、安易に範疇を超えた人助けなんぞするものではないぞ。そんなことを続けていたらいつか死ぬ。」
「よ、余計なお世話です!ならばあなたも私を避けば良かったではありませんか。」
「まあ、そうだな。」
彼はむきになるウォルファに作り笑いを投げかけると、その頭を掌で軽くたたいた。
「だが、これも悪くない。またそなたに会えたのだからな。」
「それがあなたなりのお世辞の言い方なんですね。」
心の中を見透かされたヒジェは慌てて否定した。
「そんな!本心だ。これ程に心がきれいな男に世辞が言えると思うか?」
「はい、言えます。だってすごく汚い心の持ち主のようなので。」
そう言うと、彼女は踵を返して職場に戻ろうとした。
「失礼な…おい!待て!こら!!」
そんな彼女の腕をつかむと、ヒジェは目の前に立ちふさがった。
「助けてやったんだから、礼をしてもらおう」
「ふん。礼?最初に助けたのはどちらか覚えていないのですか?」
ヒジェは先日のことを思い出して黙り込んでしまった。だがウォルファは少し考えると、あの時の約束がまだ果たされていないことを思い出した。
「あ、でも。私まだあなたに約束をほったらかされたままだわ。もしそれをまだお望みなら、仕事を今すぐに切り上げて着替えてきますので…ご一緒にいかがですか?」
相手の反応をこわごわと伺うウォルファとはちがって、ヒジェは一つ返事で首を縦に振った。
こうして二人は数奇な運命の下でようやく第一歩を踏み出すのだった。
着替えて浮足立つ足取りを抑えながら、ウォルファは捕盗庁を後にした。約束の場所には今度こそヒジェが立っている。彼女は静かに彼の隣に立つと、軽く指でその肩をつついた。他の女を物色していたヒジェは、我に返ると隣にいる彼女を見た。
大きくて澄んだ聡明そうな目。長くて美しいまつ毛に、同じ色をしてる形良い眉。更には小動物のような人懐っこさがある笑顔。ヒジェの女慣れした心は、そんな純粋無垢な少女の儚い美しさに、不覚にも一瞬で捉えられてしまった。彼は咳ばらいをすると、不用心にときめく心から目を背けるように彼女から視線を逸らした。
「…来たか。」
「はい。あなたと違って約束は守りますから。」
「なんとひどい言い草だ。私も今こうしてここにいるではないか。」
二人は互いの言葉に笑いをこらえきれず、吹き出した。
「面白い方。私そういうの嫌いではありませんよ。」
「私も、会話が面白い女は嫌いではない。」
その言葉を聞いたウォルファは、きょとんとした顔でヒジェを見た。
「私が?面白いですか?」
「ああ。面白い。他の誰とも違う魅力がある。自分でもそうは思わぬか?男ならかなり良い位につけたやもしれんな」
二人は歩きながら会話を始めた。ウォルファがヒジェに反論する。
「いいえ。そうは思いません。私が女だから———女の感性があるから面白いのです。それぞれの感性は置かれた状況で異なりますから、私がもし男ならまた別の違った書や人に影響されているとおもいます。ですから、同じ仕上がりにはなりませんよ。」
ヒジェはそれを聞いて思わず感心した。
「ほう…そなた、なかなか自分の意見をしっかりと持つ女なのだな。」
その言葉を受け、ウォルファは急に声を弱めた。
「…兄にもっと女らしくなれ。自己主張はするなとよくしかられます。殿方はみな、自己主張をする意志の強い女は嫌いなのだとか。あなたも今の発言で私が嫌になられたのなら、はっきり仰ってくださいね!駄目なところは直しますから。」
そうだなと言われる、嫌われてしまう。そう思ったウォルファはヒジェの顔を見るのが怖くて固く目を閉じた。だが、意外にもヒジェはさらりとこう返した。
「そうか?私はいいと思うが。そなたの聡明さは鼻につくものでもないし、何より聡明さにも勝って可愛らしい。だから嫌いではない。むしろ好きだ。」
自分の疎まれる部分、恥ずかしいと思う部分を褒められ、ウォルファは赤面した。意外にも何も計算せず、本心で言ったヒジェはその反応に驚いた。
「…どうした?」
「うふふ、悪い人ですね。そうやって何人の女性を泣かせてきたんですか?」
あまりに嬉しくつい素直に礼を言えないウォルファは敢えてそう返した。ヒジェはまた機知に富んだ返事に舌を巻くと、心の底からの笑顔を向けるのだった。
「毎度ありがとうね、お嬢さん」
「いいのよ!ここの紐の色が好きなの!」
いつものように手芸用の紐を買ったシム・ウォルファは齢17の立派な女性に成長していた。もう会計を頼むこともなく、彼女は自分で代金を支払った。あれから何度か助けてくれた青年のことを思い出す日もあったが、気がつけばもう顔も声も忘れてしまっていた。
彼女は店を後にしてすこし細い通りに入った。その時だった。子供のときのように前から男がやってきた。しかし、今度は一人だ。見かけない顔をいぶかしげに見ていると、男はしまりのない顔で近寄ってきた。
「お嬢さん」
声もかなり軟派な雰囲気の男は、しかし背が高く、ウォルファが見上げないと顔もまともに見れない程だった。彼女は恐る恐る距離を取りながら答えた。
「………はい、何でしょうか」
「怪しいものではない。………ん?」
男は気まずそうに地面を眺めるウォルファの顔立ちをよく観察し始めた。雪のように白い肌に、ややふっくらした薄紅色の唇。そして何より服の上からも分かる程好い肉付き。男────チャン・ヒジェはすっかり放蕩息子を拗らせ、あの時の娘の名前も出会ったことさえも忘れていた。彼はつい先ほどまで人妻と寝たにも関わらず、もう次の標的を見定めていた。
彼は音もなくずいっとウォルファのすぐそばに寄った。驚いた彼女がいかにも初々しい反応をみせたので、彼はますますその気になりはじめた。ヒジェはおもむろに彼女の手を握ると、早々に口説き始めた。
「あの………近いです」
「そうだな。別に構わんだろう?ん?」
熱烈な求愛に初めて接したウォルファは耳まで顔を真っ赤に染めて、言葉を発するのもやっとの様子だ。ヒジェはこの様子を悦しむように見いると、すっかり気に入ったらしく、更に情熱的に迫った。彼が息が肌にかかるほどの近さで囁くと、いよいよウォルファは反応に戸惑った。あと一息で名前を聞けそうなところまで押し切れると彼が確信したときだった。ヒジェは聞きなれた男の声に過敏に反応をした。
「探せ!絶対殺してやる!」
「お嬢さん、私を少し助けてくれませんかね?」
「え?」
ウォルファが冷静に戻るやいなや、彼はすぐそばの布屋の奥に彼女を連れ込み、商品の裏に隠れた。
「離してください。何故あなたは追われているのですか?」
ヒジェは何も返事をせずうまくはぐらかすと、黙って彼女の肩を抱いた。どうしようもない状況で彼女は結局押し黙ることしかできなかった。
しばらくして男たちの声も足音もすっかりなくなり、ようやくヒジェから解放されたウォルファは肩から手を無理やり振り払うと、すたすたと歩き始めた。あわててあとから彼がついてくる。しかし、それは男たちの罠だった。ヒジェはあっさり前を阻まれると、退くも進むも出来ない状況に追い込まれた。
「てめえ、さっきは逃げられたが、もう逃がさねぇ!ぶっ殺せ!」
「勘弁しろ!誤解だろうに。」
少し離れたところからその様子を観察していたウォルファは、道端に彼女でも持てそうな、かつそこそこしっかりした壺が落ちてあることに気づいた。彼女はそれを手に持つと、こっそり主格の男らしき奴に投げつけ、怯んだすきにそのままヒジェの腕を引っ付かんで駆け出した。ヒジェは女性に手を引かれて走らされたことはただの一度もなかったので、思わず彼女の勇気と度胸に感心した。
大通りに逃げ込むと、ようやく追っ手が来ていないことが確認でき、ウォルファはほっと胸を撫で下ろした。しかし、今度はヒジェがすっとんきょうな声をあげた。
「あれ、なんとまあ。」
「今度はなんなんですか。……やだ、変態!!」
「腰ひもをなくしたようです」
みやると、着衣をはだけさせて下着をほぼ丸出しにしているヒジェが目にはいる。流石のウォルファも、今度は別の意味で顔を赤らめながら、後ろを向いた。
「減るものではなかろうに。どうせそのうち誰かのをみることになると思うが?」
「減ります!なにかが今確実に減りました!」
そう言いつつも、彼女は懐から先程買ったばかりの紐を取りだし、後ろを向きながらヒジェに手渡した。
「…手芸用ですが、これでも使ってください!でないと私がそちらを向けません!」
「ああ、すまんな。ほれ、これで良いぞ」
格好を整えた彼は改めてしまりのない顔をしながら笑った。服をきちんとしていようがしていまいがあまり変わりがないヒジェにウォルファはもはやため息さえつくことができなかった。するとおもむろにヒジェは彼女の手をとると、また先程の続きを始めた。
「…こう見えてもうちはそこそこの家でな。詫びにでもなにか買ってやろう。な?」
ウォルファはやれやれと肩をすくめると、手を振りほどいて少しだけ歩くとこう返事をした。
「一度家の者にもう少し出歩くと申してから戻りますわ。」
ヒジェは心のなかでしめたと思った。
────かかった。
こうして二人は近くの店の前で待ち合わせると、ひとまずその場を別れた。
「黙ってきちんとしていればそれなりの美男なのよね…」
ウォルファは侮られないように適当につけた口実である帰宅を済ませると、少しだけ身なりを整えて市場へ向かった。
ちょうどその頃、ヒジェは母であるユン氏に捕まっていた。
「この道楽息子!さっさと家に帰ってきなさい!」
「は、母上…わかりましたよ。おい、そこの者。筆と紙を貸してくれぬか?」
「ヒジェ!!」
ヒジェは甲高い母の声を無視して紙に先程あった女性への置き手紙を書きはじめた。手慣れた様子で書き終わると、彼はそれを店主に渡した。
「そなた。これをもうすぐ人を探してやって来る美人に渡してやってくれ。たぶんすぐわかるだろう」
言われるがままに手紙を受け取った店主は、襟を掴まれて引きずられていくヒジェの姿を呆然と見ることしか出来なかった。
しばらくしてウォルファがやって来ると、店主はすぐに先程の男が言っていた女性だと気づき、彼女に手紙を渡した。
『この広い都の中で出会えたのも何かの縁。必ずまた、そなたと私は会えるだろう。』
「…要はすっぽかされたのね、私。」
読み終わって深いため息をついた彼女は、少しでも淡い期待を抱いてしまった自分につくづくあきれてしまうのだった。
夕食を食べていると、兄のシム・ウンテクが思い出したように話し出した。
「ああそうだ、ウォルファ。都にチャン・ヒジェが戻ってきたことは知っているか?」
「チャン・ヒジェといえば、チャン尚宮様のお兄様ですよね。それがどうかしましたか?」
ウォルファは市場で会った男とヒジェが同一人物であることに気づく様子はない。もちろん昼のことをしらないウンテクは、彼女が悪い男に騙されないように悪評をところ狭しと並べ立てた。
「帰ってきて早々に、人妻と寝たらしい。」
「ええ!!?なんて人…」
「しかも示談で済ませたらしい。」
「最低ですわ」
「しかもそのあとすぐに枝楼で大枚はたいてだな…」
「わかりました!!もう結構です。とりあえずとんでもない方だとは良くわかりましたわ」
ウォルファは顔の前で手を振ってもう充分だと示した。してやったりと笑うウンテクは、満足げにあたたかな雑炊をすすると、一枚の書状を彼女の鼻先につきだした。
「…これは?」
「オ・テソク様からだ。まぁ、事実上甥のユン様からただがな」
目を通してみてウォルファは驚いた。縁談の話だったからだ。以前からユンがことあるごとに話しかけてきたり、物をくれたりはしていたのだが、まさか左議政直々に申し入れがあるとは思っても見なかったのだ。ウンテクはあらかた彼女が目を通したことを確認すると、さっと取り上げた。
「…返事はまだだ。ユンをうまく釣ったまま、チャン・ヒジェも釣れ」
「え?」
彼女はますます目が点になった。遊び人だとあれほど悪口を言っていた兄の口からまさか、チャン・ヒジェの名が上がると検討がつかなかったからだ。
「二人で競わせれば、お前に箔がつく。」
「そういう問題ですか?私、遊び人は嫌いです」
すっかりすねてしまったウォルファの肩をウンテクはちょんと叩くと、にこにこしながら両手を合わせた。
「頼む!ヒジェの方は、本気にさせるだけでいい。真面目なユンを最後に取ればいい。」
とどのつまり、自分の昇進のことを打診してのことかと彼女は悟ると、今日で二度目のため息をつくのだった。
しかし、ウンテクはまだ気づいていなかった。このチャン・ヒジェとの接点を妹が持つことにより、大きな事件に巻き込まれていく原因になるとは…
翌日、宮殿の書庫を参照する仕事を済ませたウォルファは、その足でオクチョンの元へ向かった。
「チャン尚宮姉様、お元気ですか?」
「ええ、ウォルファ。ただ、もう前のようにあなたにオクチョン姉様と呼んでもらえないことが残念です」
オクチョンは春の木漏れ日を漏らしたように笑うと、彼女に思い出したように話し出した。
「我が兄が帰ってきたのはご存知?」
「ええ、都では色々と噂は聞いておりますよ。…失礼ですが、耳に飛び込んでくる話が、本当に姉様の兄上様のしそうにも無いことばかりで、困惑しております。」
彼女はウォルファがそう眉をひそめるのを見て、つい吹き出してしまった。
「どうしてお笑いになられるのですか?」
「兄上もお可哀想に…私の兄ならきっとそなたを気に入るはずなのだが…」
「あらご勘弁!!私まだ殿方に見初められる気はありませんからね」
とは言ってみたものの、オ・ユンが熱をあげているという噂を広げてしまっているため、あまり説得力がない。彼女は苦虫を噛み潰したような顔をすると、懐から紐細工を取り出した。
「これ、差し上げます。作ったの」
「まぁ…ありがとう。あなたは本当に器用ね、ウォルファ。たった一本の紐でここまで美しいものを作れるとは…」
「ですが、今回は二本も買うはめになってしまいました」
「あら、どうして?」
彼女はオクチョンが興味津々なので、後悔しつつも昨日の市場での出来事を渋々話し始めた。全て語り終わる頃には、オクチョンはすっかり男の正体が誰か解ったらしく、笑いを堪えきれなくなっていた。不思議に思ったウォルファは、すこし膨れっ面をしながら尋ねた。
「…可笑しいことは何一つありませんよ。ただ私が損をしただけの話です。」
「そうかしら?私にはその男にそなたが好意を抱いているように思えるけれど…」
一瞬顔をひきつらせたと思うと、ウォルファはすぐに両手を顔の前で振って全力で否定した。
「やだ!!確かに黙っていればなかなかいい男でしたけど!」
「けど…?」
「けど、やはり軟派すぎます」
「では、軟派でなければ可能性があるのですか?」
「…まぁ。」
それを聞くとオクチョンは嬉しそうに微笑み、何度も頷いた。何が何やらさっぱりわかっていないウォルファは、とりあえず兄が帰ってきて嬉しいのだなと解釈すると、そのまま部屋を後にした。
チャン・ヒジェは、妹であるオクチョンに新しい仕事について相談しようと考え、宮中に再び参内していた。すると、向こうから目を疑う女性が歩いてくる。彼は目を凝らして見て気づいた。
────昨日の市場での女か!!
名前を聞きそびれたわ、どこの娘なのかも知らないわで、彼は流石に天下のチャン・ヒジェも良い獲物を逃したなと後悔していたところだったのだ。彼は身なりを整えると、前よりはまともな顔をして彼女の前に現れた。もちろん、驚いたのはウォルファも同じだった。
「─────昨日の人ね!」
「おお!!奇遇だな。…その格好は?」
「私は両班なのですが、どうしても仕事がしたくて、捕盗庁の書類整理係をしています」
「ふぅん…」
そのとき、ウォルファは余計なことを言ってしまったと気づいた。男に捕盗庁勤めだということを迂闊にも漏らしてしまったのだ。しかし、彼女はまだ左捕盗庁か右捕盗庁かを明かしていないだけましかと思うことにした。だが、ヒジェも馬鹿ではなかった。
「…右か?左か?」
「へ…?左捕盗庁です…」
彼はそれを聞いて満足げに笑った。その顔があまりに不敵すぎて、彼女は身震いせざるを得なかった。彼は服を結んでいる紐の端を持ち上げると、何か言いたげににやにやした。すぐにウォルファはそれが昨日の紐だと気づいた。
「今返そうか?ん?」
「要りません!!差し上げます!さようなら!」
そう言い切って彼女は早足でその場を後にした。残されたヒジェは、百戦錬磨の確かな手応えを感じながらも、また名前を聞きそびれたことに気づいて頭を抱えるのだった。
オクチョンに面会すると、ヒジェは彼女が身に付けている紐細工と自分の腰ひもが同じ色をしていることに気がついた。もちろん、彼女も同じことに気づいていた。
「…兄上、その紐はやはり…」
「尚宮様、その紐細工は一体誰から…」
やはり、先ほどウォルファが言っていた"黙っていれば"いい男というのは兄のことかとオクチョンは確信した。一方、ヒジェは先ほどの女性が妹のかなり旧知の知り合いらしいということまで悟った。先に説明し出したのはオクチョンの方だった。
「兄上。トンイとは別の、とても良い子がいるのですが」
「…その紐細工をくれた女性ですか?」
「ええ。兄上が市場でからかった女性ですよ」
彼は思わず不思議な縁を感じずにはいられなかった。広い都で出会うことも奇遇、宮殿で再会することも奇遇、そしてなにより妹の知り合いというところもまた奇遇。だが、ヒジェには群を抜いて奇遇なことがまだあった。
「それではもう、私の仕事について相談する必要はありませんね」
「え…?」
「明日から私、オ・テソク様の計らいで、左捕盗庁の武官として赴任することになりました」
彼は目を細めてにんまり笑うと、あまりの偶然の重なりように驚いて言葉を失っている妹に、静かに何度も頷くのだった…
ウォルファは宮殿を出てすぐ、不可解で嬉しくもない再会に頭を悩ませていた。
「何なのよ、あの変態男…あんなのに付きまとわれてもうれしくないわ!」
彼女は思わず地面を蹴ってそう叫んだ。ふと、ウォルファは木に靴を引っかけてしまった女の子が泣いていることに気づいた。心優しい彼女はすぐに駆け寄ると、自分の悩みも忘れて目の前にしゃがみこんで女の子の顔を覗き込んだ。
「どうしたの~?困ってるならお姉ちゃんに言ってみるのはどうかしら?」
「あのね…靴を投げられちゃって、木に載っちゃったの。でも誰も取ってくれなくて…」
ウォルファはそれをきいてオクチョンとの出会いを思い出した。
頭がよくて可愛らしいオクチョンはいつも女官の間でいじめられており、ウォルファと出会った日も陰で泣いていた。
『どうしたの?なんで泣いてるの?』
『…あなたに関係ないし、私泣いてないから。』
『ううん、泣いてるよ。かわいいのに、そんな顔してちゃ幸せも逃げちゃうよ』
オクチョンは少し考えると、渋々立ち上がった。
『…ありがとう。弱虫は夢を叶えられないって、チャン・ヒョンおじさんが言ってたもの。』
『いいと思う!』
『えっ?』
オクチョンは驚きで大きくて愛らしい目を丸くした。
『だって、弱虫でもいいと思うから。泣きたいときは泣けばいいじゃない。それでまた次から頑張ればいいの!』
ウォルファの考えに触れた幼いころのオクチョンは、それを聞いて微笑むのだった。
ウォルファはそんなことを考えながらいつの間にか木の上に登っていた。彼女は易々と靴を取ると、それを木の上から渡した。
「はい!もう投げたりしないように言っておくのよ。」
「うん!ありがとう、お姉ちゃん!」
嬉しそうに何度もお辞儀をする女の子の背中を充実感を以って見送ったウォルファは、辺りを見渡した。
「さて、どこから降りようかしら…」
彼女はおそるおそる足を伸ばした。すると、次の瞬間体勢を崩して木から手を放してしまった。下は地面。落ちれば大けがだ。
しかし彼女が落ちたのは地面ではなく、なんとヒジェの腕の中だった。彼は本当にまたもや偶然ウォルファの近くを通っており、木の下を通ったのもまた偶然だった。
「な、何をしておる!?木から何故そなたが落ちてきた」
彼女はしばらくヒジェの顔に見惚れていた。締まりのない顔と思っていたヒジェだったが、何の準備もない彼は意外にも返って見栄えのいい顔をしていた。自分に彼女が見惚れていることに気づいているヒジェは、敢えて真面目な顔で尋ねた。
「…おい、大丈夫か?」
「う、うふふ…大丈夫で…しょうね。」
正気に戻ったウォルファは気まずさのあまり顔をそらしてしまった。ヒジェに地面へ下ろしてもらうと、彼女は服を整えて一礼をした。
「…ありがとうございます。何とお礼を申し上げたらいいことか。」
「そうか。怪我がないならそれでいい。…それより、ここで何を?」
「女の子の靴が投げられて、それが木に引っかかっていたのを取ってあげたんです。それで、降りようとしていたら足を滑らせて…」
ヒジェは心の中でやさしい娘なのだなと感心しながらも、冷めた顔で言った。
「ふぅん…お嬢さん、安易に範疇を超えた人助けなんぞするものではないぞ。そんなことを続けていたらいつか死ぬ。」
「よ、余計なお世話です!ならばあなたも私を避けば良かったではありませんか。」
「まあ、そうだな。」
彼はむきになるウォルファに作り笑いを投げかけると、その頭を掌で軽くたたいた。
「だが、これも悪くない。またそなたに会えたのだからな。」
「それがあなたなりのお世辞の言い方なんですね。」
心の中を見透かされたヒジェは慌てて否定した。
「そんな!本心だ。これ程に心がきれいな男に世辞が言えると思うか?」
「はい、言えます。だってすごく汚い心の持ち主のようなので。」
そう言うと、彼女は踵を返して職場に戻ろうとした。
「失礼な…おい!待て!こら!!」
そんな彼女の腕をつかむと、ヒジェは目の前に立ちふさがった。
「助けてやったんだから、礼をしてもらおう」
「ふん。礼?最初に助けたのはどちらか覚えていないのですか?」
ヒジェは先日のことを思い出して黙り込んでしまった。だがウォルファは少し考えると、あの時の約束がまだ果たされていないことを思い出した。
「あ、でも。私まだあなたに約束をほったらかされたままだわ。もしそれをまだお望みなら、仕事を今すぐに切り上げて着替えてきますので…ご一緒にいかがですか?」
相手の反応をこわごわと伺うウォルファとはちがって、ヒジェは一つ返事で首を縦に振った。
こうして二人は数奇な運命の下でようやく第一歩を踏み出すのだった。
着替えて浮足立つ足取りを抑えながら、ウォルファは捕盗庁を後にした。約束の場所には今度こそヒジェが立っている。彼女は静かに彼の隣に立つと、軽く指でその肩をつついた。他の女を物色していたヒジェは、我に返ると隣にいる彼女を見た。
大きくて澄んだ聡明そうな目。長くて美しいまつ毛に、同じ色をしてる形良い眉。更には小動物のような人懐っこさがある笑顔。ヒジェの女慣れした心は、そんな純粋無垢な少女の儚い美しさに、不覚にも一瞬で捉えられてしまった。彼は咳ばらいをすると、不用心にときめく心から目を背けるように彼女から視線を逸らした。
「…来たか。」
「はい。あなたと違って約束は守りますから。」
「なんとひどい言い草だ。私も今こうしてここにいるではないか。」
二人は互いの言葉に笑いをこらえきれず、吹き出した。
「面白い方。私そういうの嫌いではありませんよ。」
「私も、会話が面白い女は嫌いではない。」
その言葉を聞いたウォルファは、きょとんとした顔でヒジェを見た。
「私が?面白いですか?」
「ああ。面白い。他の誰とも違う魅力がある。自分でもそうは思わぬか?男ならかなり良い位につけたやもしれんな」
二人は歩きながら会話を始めた。ウォルファがヒジェに反論する。
「いいえ。そうは思いません。私が女だから———女の感性があるから面白いのです。それぞれの感性は置かれた状況で異なりますから、私がもし男ならまた別の違った書や人に影響されているとおもいます。ですから、同じ仕上がりにはなりませんよ。」
ヒジェはそれを聞いて思わず感心した。
「ほう…そなた、なかなか自分の意見をしっかりと持つ女なのだな。」
その言葉を受け、ウォルファは急に声を弱めた。
「…兄にもっと女らしくなれ。自己主張はするなとよくしかられます。殿方はみな、自己主張をする意志の強い女は嫌いなのだとか。あなたも今の発言で私が嫌になられたのなら、はっきり仰ってくださいね!駄目なところは直しますから。」
そうだなと言われる、嫌われてしまう。そう思ったウォルファはヒジェの顔を見るのが怖くて固く目を閉じた。だが、意外にもヒジェはさらりとこう返した。
「そうか?私はいいと思うが。そなたの聡明さは鼻につくものでもないし、何より聡明さにも勝って可愛らしい。だから嫌いではない。むしろ好きだ。」
自分の疎まれる部分、恥ずかしいと思う部分を褒められ、ウォルファは赤面した。意外にも何も計算せず、本心で言ったヒジェはその反応に驚いた。
「…どうした?」
「うふふ、悪い人ですね。そうやって何人の女性を泣かせてきたんですか?」
あまりに嬉しくつい素直に礼を言えないウォルファは敢えてそう返した。ヒジェはまた機知に富んだ返事に舌を巻くと、心の底からの笑顔を向けるのだった。