序、三人の天乙貴人(大幅に加筆修正済み)
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そして時は流れて粛宗の治世。ウォルファは赤子からすっかり美しい娘に成長し、いつの間にか好奇心旺盛な9歳になっていた。
今日も親戚でいとこの仁敬王妃に参内するために宮中へやって来ていたのだが、ウォルファは勝手に宮中を見て回っていた。
「わぁ…」
華やかな世界に色とりどりの花が咲き乱れる宮廷。彼女はそれに見惚れながら、どんどん奥へと進んでいった。
ふと立ち止まってみると、きれいに刺繍が施された巾着が落ちている。いつの間にか針房に迷い込んでいた彼女は、それを拾い上げるとあたりを見回した。そして、13、4程の年であろう美しい女官と目が合った。彼女は泣いていたのか、僅かに目のあたりが赤い。
「…何。」
「初めまして、私シム・ウォルファ!道に迷ったの」
「……どこかのお嬢様でしょ。あっちに出れば帰れるわ」
「ありがとう。…これ、あなたの?」
「え…」
ぶっきらぼうな返事をした女官に対して、ウォルファは先程拾った巾着を差し出した。驚いた女官はこれをどこで拾ったのかと聞きたげな顔をしている。
「さっき向こうで拾ったの。あなたのもの?」
「そう…だけど」
気まずそうにそれを受け取った女官は、気落ちした顔で地面を睨みつけている。ウォルファは勝手に彼女の隣に座ると、顔を覗き込んでこう言った。
「どうしたの?なんで泣いてるの?」
「…あなたに関係ないし、私泣いてないから。」
慌てて顔を隠そうとする彼女にウォルファは続けた。
「ううん、泣いてるよ。かわいいのに、そんな顔してちゃ幸せも逃げちゃうよ」
女官は少し考えると、渋々立ち上がった。
「…ありがとう。弱虫は夢を叶えられないって、チャン・ヒョンおじさんが言ってたもの。」
「チャン・ヒョンおじさんは知らないけど、いいと思う!」
「えっ?」
女官は驚きで大きくて愛らしい目を丸くした。
「だって、弱虫でもいいと思うから。泣きたいときは泣けばいいじゃない。それでまた次から頑張ればいいの!」
満面の花咲くような笑顔でそう言ったウォルファに、女官はまた驚かされた。そして、どこまでも華やかで笑顔を絶やさない少女に、彼女はついに名乗った。
「…オクチョン。チャン・オクチョン。それが私の名前。あなたは?」
「私はウォルファ!シム・ウォルファよ!今9歳なの!」
「9歳?私、13なんだけど…」
意外にもかなり年下の娘に諫められたことを恥ずかしく思ったオクチョンは顔をしかめた。
これがウォルファと後世で朝鮮三大悪女と呼ばれることになるチャン・オクチョン———二人目の天乙貴人であり後の禧嬪張氏の出会いである。
それから三年後。ウォルファはいつものように町を歩いていた。まだ11歳というのに、その美貌はすでに多くの人の目を惹き付けてやまなかった。彼女は手芸屋の前で立ち止まると、色とりどりの紐に見いった。
「お嬢様、何をお探しなのですか?」
「オクチョン姉様ににあげるの!この前宮殿のお料理を分けてくれたから」
彼女は真剣に見いると、親友であり姉のような存在であるチャン・オクチョンに何を作ってあげようかと悩み始めた。
「お嬢様ったら!もぉ。こうなると長いんですから」
そう言ったのだが、聞こえるわけがない。彼女の乳母イム・ヘウォンの娘で侍女のチェリョンはあきれてその場をはずした。
「決めた!これにするわ!…チェリョン?」
辺りを見回しても彼女の姿はない。ウォルファはいつものことかとため息をつくと、渋々頼りない乳母姉妹を探し始めた。
「チェリョン?どこにいるの?」
彼女があたりを見渡していると、一人の男が切れてしまった草履を直している姿が目に入った。彼女は恐る恐る近づくと、手拭いを取り出してそっと男に差し出した。
「…どうぞ」
「ありがとうございます……!?」
顔を上げた賤民らしき姿の男は、ウォルファの顔を見て目を丸くした。そう、この人こそがチェ・ヒョウォン、ウォルファの実の父なのだ。彼は思いがけず自分の娘と出会ったことに驚きつつも手拭いを受け取った。
「どうしましたか?賤民に両班の子女が声をかけ、助けることは罪ではありませんから。おびえないでください。」
「そうですか…」
ヒョウォンは目頭が熱くなり、涙がこぼれるのを必死で抑えている。そんなことは知るはずもないウォルファは、そのまま一礼するとチェリョンを探しに戻って行ってしまった。
ヒョウォンは遠すぎる娘の後姿を目に焼き付けようと、ずっとその背中を見続けている。すると、隣に同じく11歳ほどの娘が彼の隣にやってきた。
「父さん!」
「ああ、トンイ。どうしたんだ?」
「草履、大丈夫?」
心配そうに父を見るウォルファの実の妹―――トンイに笑いかけると、ヒョウォンは彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だ。さて、行こうか」
「はい!」
産まれたままの定めを受ける少女トンイ──────後の崔氏淑嬪であり三人目の天乙貴人と、ねじれた定めを受ける少女ウォルファ。どちらが幸福なのか、それは推し図り難いものである。
ウォルファは相変わらずチェリョンを探していた。
「もう、どこ行ったのよ…チェリョンったら。」
その時だ。前から両班の年上の少年が三人ほどやってきた。ウォルファは乱暴で苦手な彼らが嫌いですぐに物陰に隠れた。
「あ!ウォルファじゃないか。隠れてないで俺たちと遊ぼうぜ」
すぐに見つかった彼女は手を捕まれ、強引に連れていかれそうになった。彼女は慌ててその手を振り払おうとするが、多勢に無勢で委縮してしまった。すると、その後ろから誰かの声がした。
「手を離してやれ。嫌がっているじゃないか」
「何だと?」
少年たちはすぐに振り返った。そこには中人の青年が立っていた。すると3人のうちの一人が彼のことを知っているらしく、ひどく怯えた様子で逃げ出した。他の二人も友達を追いかけて逃げ去ってしまった。
「大丈夫か?怪我は?」
思いの外に背が高く、端正な顔立ちをしている青年にウォルファは思わず言葉を失った。自分の魅力に気づいているからなのか、彼は少し意地悪そうに笑うと手をさしのべた。
「………ありがとうございます」
「礼は良い。それより名前を教えてはくれぬか?」
「名前を……?」
「ああ。」
目は笑っていないが、一見人のよさそうな笑顔で彼はそう尋ねた。ウォルファが名を名乗ろうとしたときだった。向こうの方から声がした。
「若様!船が行ってしまいます!お早く!」
「わかったわかった。」
彼は残念そうに肩をすくめると、そのままなにも聞かずに行こうとした。だが、不意になにか思い付いたように振り返った。
「ああ、そうだ。また何かあったら、私が居ればいつでも助けてやる故、安心するといい。これは今日の思い出にでも受け取りなさい、可愛いお嬢さん」
「これは…?」
ウォルファは首をかしげながら青年からもらった包みを見つめた。
「紅だ。私にはそなたより少し年上の妹がいるのだが、渡そうと思って注文したら二つも届いてしまってな。」
彼はそう言うと、紅の蓋を開けて彼女の唇にそっと塗ってやった。慣れた手つきで塗り終えると彼は微笑んで、唖然とするウォルファの手の甲にそっとくちづけをした。
「若様!チャン様!何をされているのですか」
「ああ、ステク。すまんな、あまりに可愛らしいお嬢さんでつい…」
ステクと呼ばれた付き人らしき男は、青年のことを幼いウォルファが見とれているのに気付くと、彼の肩を荷物でたたいた。
「あいたた…何をする!」
「いくら放蕩息子でも、とうとう見境さえ無くなったのですか?年端もいかぬ少女を甘言で誘惑しないでください。さ、行きますよ!」
渋々ステクの後をついていこうとする青年の姿を見て、ようやく我に返ったウォルファはその裾をつかんで叫んだ。
「ウォルファです!私は、ウォルファです!」
青年はその声に目を丸くすると、彼女の目の前にしゃがみ込んだ。
「ほう…ウォルファ、と申すのか…見た目に相応しく可愛い名だ。わかった、覚えておこう。私が清国から戻り、縁があればまた会おう。」
彼は微笑むと、ウォルファの頭を優しくなでた。そして、とうとう青年は本当に去っていった。残されたウォルファは、ただ呆然と立ち尽くしている。
「お嬢様!!すみません!!……お嬢様?」
「素敵な人…」
「え?」
チェリョンには全く意味がわからなかったが、なにかがあったことだけは理解できた。彼女はそれ以上追及することなく、主人の前を歩き始めた。
「あ、待って!」
ウォルファはチェリョンを引き留めて手芸屋の方を指差した。
「まだお会計がすんでいないの」
「はいはい、わかりましたよ。これで買ってきてくださいな」
「ありがとう」
彼女はチェリョンからお金を受けとると、商品を手にとって代金と引き換えた。そしてその心の中には、紅を塗ってくれた青年への淡い恋心が芽生えているのだった。
青年は大きく伸びをすると、船着き場の空気を吸い込んだ。
「チャン様、先ほどの娘は…」
「無論、知り合いではない。だがしかし…あれほどの美人だ、きっと6年もすれば良い女子になるだろうな」
「チャン様!」
チャン様と呼ばれた青年、チャン・ヒジェはウォルファの顔つきを思い出しながら物思いにふけっていた。すると、偶然隣にいたキム・ファンが彼に話しかけた。
「そこの若様。」
「…誰だあれ」
「さあ…」
訝しむヒジェたちをよそに、ファンは目を丸くしてこういった。
「殺印相生格の持ち主か」
「俺が殺印相生格と?自らの手で出世の道を切り開き、大成すると?」
「はい。ただしその栄華を長く続けたくば、星の定めであっても天乙貴人の娘には気を付けるように。」
ヒジェは半ば冗談程度にその言葉を受け取ると、ステクの肩をたたいて笑った。
「俺と惹きあう星が、天乙貴人の娘だと?そんな高貴な娘が定めなら、妻と離縁してよかったやもしれんな、ステク」
「離縁を話のダシにするのはおやめください。」
「わかった、道士殿。その忠告を胸に留め置こう。だが…その女子は可愛いか?」
「チャン様!」
明らかに本気にしていないヒジェにあきれ返ったステクは、再び荷物で彼を殴ろうと身構えた。だがファンは微笑むと、おもむろに船着き場の傍らに咲いているスミレの花を取ると、彼に差し出した。
「その女性と、誠に結ばれたいと思うならそうなさってください。きっとあなた様の人生において、身にも心にも比較できないほどの最良の幸せを与えてくださるでしょう。その女性は誰よりも美しく、清らかな心の持ち主です。丁度、このスミレの花のような…」
「スミレか…しおらしく綺麗な人なのだな。」
「きっと、そうでしょう。私の読みはいつも当たりますから」
ファンはそういうと、さっさとどこかへ行ってしまった。残されたヒジェはスミレの花を眺めながら、どこかにいる自分の運命の女性に思いを馳せるのだった。
スミレの花を模した刺繍をしながら、ウォルファは外を眺めた。
──────また、あの人に会えますように。
その切なる淡い初恋は今日確かに、幼い彼女にだけの秘密となった。
今日も親戚でいとこの仁敬王妃に参内するために宮中へやって来ていたのだが、ウォルファは勝手に宮中を見て回っていた。
「わぁ…」
華やかな世界に色とりどりの花が咲き乱れる宮廷。彼女はそれに見惚れながら、どんどん奥へと進んでいった。
ふと立ち止まってみると、きれいに刺繍が施された巾着が落ちている。いつの間にか針房に迷い込んでいた彼女は、それを拾い上げるとあたりを見回した。そして、13、4程の年であろう美しい女官と目が合った。彼女は泣いていたのか、僅かに目のあたりが赤い。
「…何。」
「初めまして、私シム・ウォルファ!道に迷ったの」
「……どこかのお嬢様でしょ。あっちに出れば帰れるわ」
「ありがとう。…これ、あなたの?」
「え…」
ぶっきらぼうな返事をした女官に対して、ウォルファは先程拾った巾着を差し出した。驚いた女官はこれをどこで拾ったのかと聞きたげな顔をしている。
「さっき向こうで拾ったの。あなたのもの?」
「そう…だけど」
気まずそうにそれを受け取った女官は、気落ちした顔で地面を睨みつけている。ウォルファは勝手に彼女の隣に座ると、顔を覗き込んでこう言った。
「どうしたの?なんで泣いてるの?」
「…あなたに関係ないし、私泣いてないから。」
慌てて顔を隠そうとする彼女にウォルファは続けた。
「ううん、泣いてるよ。かわいいのに、そんな顔してちゃ幸せも逃げちゃうよ」
女官は少し考えると、渋々立ち上がった。
「…ありがとう。弱虫は夢を叶えられないって、チャン・ヒョンおじさんが言ってたもの。」
「チャン・ヒョンおじさんは知らないけど、いいと思う!」
「えっ?」
女官は驚きで大きくて愛らしい目を丸くした。
「だって、弱虫でもいいと思うから。泣きたいときは泣けばいいじゃない。それでまた次から頑張ればいいの!」
満面の花咲くような笑顔でそう言ったウォルファに、女官はまた驚かされた。そして、どこまでも華やかで笑顔を絶やさない少女に、彼女はついに名乗った。
「…オクチョン。チャン・オクチョン。それが私の名前。あなたは?」
「私はウォルファ!シム・ウォルファよ!今9歳なの!」
「9歳?私、13なんだけど…」
意外にもかなり年下の娘に諫められたことを恥ずかしく思ったオクチョンは顔をしかめた。
これがウォルファと後世で朝鮮三大悪女と呼ばれることになるチャン・オクチョン———二人目の天乙貴人であり後の禧嬪張氏の出会いである。
それから三年後。ウォルファはいつものように町を歩いていた。まだ11歳というのに、その美貌はすでに多くの人の目を惹き付けてやまなかった。彼女は手芸屋の前で立ち止まると、色とりどりの紐に見いった。
「お嬢様、何をお探しなのですか?」
「オクチョン姉様ににあげるの!この前宮殿のお料理を分けてくれたから」
彼女は真剣に見いると、親友であり姉のような存在であるチャン・オクチョンに何を作ってあげようかと悩み始めた。
「お嬢様ったら!もぉ。こうなると長いんですから」
そう言ったのだが、聞こえるわけがない。彼女の乳母イム・ヘウォンの娘で侍女のチェリョンはあきれてその場をはずした。
「決めた!これにするわ!…チェリョン?」
辺りを見回しても彼女の姿はない。ウォルファはいつものことかとため息をつくと、渋々頼りない乳母姉妹を探し始めた。
「チェリョン?どこにいるの?」
彼女があたりを見渡していると、一人の男が切れてしまった草履を直している姿が目に入った。彼女は恐る恐る近づくと、手拭いを取り出してそっと男に差し出した。
「…どうぞ」
「ありがとうございます……!?」
顔を上げた賤民らしき姿の男は、ウォルファの顔を見て目を丸くした。そう、この人こそがチェ・ヒョウォン、ウォルファの実の父なのだ。彼は思いがけず自分の娘と出会ったことに驚きつつも手拭いを受け取った。
「どうしましたか?賤民に両班の子女が声をかけ、助けることは罪ではありませんから。おびえないでください。」
「そうですか…」
ヒョウォンは目頭が熱くなり、涙がこぼれるのを必死で抑えている。そんなことは知るはずもないウォルファは、そのまま一礼するとチェリョンを探しに戻って行ってしまった。
ヒョウォンは遠すぎる娘の後姿を目に焼き付けようと、ずっとその背中を見続けている。すると、隣に同じく11歳ほどの娘が彼の隣にやってきた。
「父さん!」
「ああ、トンイ。どうしたんだ?」
「草履、大丈夫?」
心配そうに父を見るウォルファの実の妹―――トンイに笑いかけると、ヒョウォンは彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だ。さて、行こうか」
「はい!」
産まれたままの定めを受ける少女トンイ──────後の崔氏淑嬪であり三人目の天乙貴人と、ねじれた定めを受ける少女ウォルファ。どちらが幸福なのか、それは推し図り難いものである。
ウォルファは相変わらずチェリョンを探していた。
「もう、どこ行ったのよ…チェリョンったら。」
その時だ。前から両班の年上の少年が三人ほどやってきた。ウォルファは乱暴で苦手な彼らが嫌いですぐに物陰に隠れた。
「あ!ウォルファじゃないか。隠れてないで俺たちと遊ぼうぜ」
すぐに見つかった彼女は手を捕まれ、強引に連れていかれそうになった。彼女は慌ててその手を振り払おうとするが、多勢に無勢で委縮してしまった。すると、その後ろから誰かの声がした。
「手を離してやれ。嫌がっているじゃないか」
「何だと?」
少年たちはすぐに振り返った。そこには中人の青年が立っていた。すると3人のうちの一人が彼のことを知っているらしく、ひどく怯えた様子で逃げ出した。他の二人も友達を追いかけて逃げ去ってしまった。
「大丈夫か?怪我は?」
思いの外に背が高く、端正な顔立ちをしている青年にウォルファは思わず言葉を失った。自分の魅力に気づいているからなのか、彼は少し意地悪そうに笑うと手をさしのべた。
「………ありがとうございます」
「礼は良い。それより名前を教えてはくれぬか?」
「名前を……?」
「ああ。」
目は笑っていないが、一見人のよさそうな笑顔で彼はそう尋ねた。ウォルファが名を名乗ろうとしたときだった。向こうの方から声がした。
「若様!船が行ってしまいます!お早く!」
「わかったわかった。」
彼は残念そうに肩をすくめると、そのままなにも聞かずに行こうとした。だが、不意になにか思い付いたように振り返った。
「ああ、そうだ。また何かあったら、私が居ればいつでも助けてやる故、安心するといい。これは今日の思い出にでも受け取りなさい、可愛いお嬢さん」
「これは…?」
ウォルファは首をかしげながら青年からもらった包みを見つめた。
「紅だ。私にはそなたより少し年上の妹がいるのだが、渡そうと思って注文したら二つも届いてしまってな。」
彼はそう言うと、紅の蓋を開けて彼女の唇にそっと塗ってやった。慣れた手つきで塗り終えると彼は微笑んで、唖然とするウォルファの手の甲にそっとくちづけをした。
「若様!チャン様!何をされているのですか」
「ああ、ステク。すまんな、あまりに可愛らしいお嬢さんでつい…」
ステクと呼ばれた付き人らしき男は、青年のことを幼いウォルファが見とれているのに気付くと、彼の肩を荷物でたたいた。
「あいたた…何をする!」
「いくら放蕩息子でも、とうとう見境さえ無くなったのですか?年端もいかぬ少女を甘言で誘惑しないでください。さ、行きますよ!」
渋々ステクの後をついていこうとする青年の姿を見て、ようやく我に返ったウォルファはその裾をつかんで叫んだ。
「ウォルファです!私は、ウォルファです!」
青年はその声に目を丸くすると、彼女の目の前にしゃがみ込んだ。
「ほう…ウォルファ、と申すのか…見た目に相応しく可愛い名だ。わかった、覚えておこう。私が清国から戻り、縁があればまた会おう。」
彼は微笑むと、ウォルファの頭を優しくなでた。そして、とうとう青年は本当に去っていった。残されたウォルファは、ただ呆然と立ち尽くしている。
「お嬢様!!すみません!!……お嬢様?」
「素敵な人…」
「え?」
チェリョンには全く意味がわからなかったが、なにかがあったことだけは理解できた。彼女はそれ以上追及することなく、主人の前を歩き始めた。
「あ、待って!」
ウォルファはチェリョンを引き留めて手芸屋の方を指差した。
「まだお会計がすんでいないの」
「はいはい、わかりましたよ。これで買ってきてくださいな」
「ありがとう」
彼女はチェリョンからお金を受けとると、商品を手にとって代金と引き換えた。そしてその心の中には、紅を塗ってくれた青年への淡い恋心が芽生えているのだった。
青年は大きく伸びをすると、船着き場の空気を吸い込んだ。
「チャン様、先ほどの娘は…」
「無論、知り合いではない。だがしかし…あれほどの美人だ、きっと6年もすれば良い女子になるだろうな」
「チャン様!」
チャン様と呼ばれた青年、チャン・ヒジェはウォルファの顔つきを思い出しながら物思いにふけっていた。すると、偶然隣にいたキム・ファンが彼に話しかけた。
「そこの若様。」
「…誰だあれ」
「さあ…」
訝しむヒジェたちをよそに、ファンは目を丸くしてこういった。
「殺印相生格の持ち主か」
「俺が殺印相生格と?自らの手で出世の道を切り開き、大成すると?」
「はい。ただしその栄華を長く続けたくば、星の定めであっても天乙貴人の娘には気を付けるように。」
ヒジェは半ば冗談程度にその言葉を受け取ると、ステクの肩をたたいて笑った。
「俺と惹きあう星が、天乙貴人の娘だと?そんな高貴な娘が定めなら、妻と離縁してよかったやもしれんな、ステク」
「離縁を話のダシにするのはおやめください。」
「わかった、道士殿。その忠告を胸に留め置こう。だが…その女子は可愛いか?」
「チャン様!」
明らかに本気にしていないヒジェにあきれ返ったステクは、再び荷物で彼を殴ろうと身構えた。だがファンは微笑むと、おもむろに船着き場の傍らに咲いているスミレの花を取ると、彼に差し出した。
「その女性と、誠に結ばれたいと思うならそうなさってください。きっとあなた様の人生において、身にも心にも比較できないほどの最良の幸せを与えてくださるでしょう。その女性は誰よりも美しく、清らかな心の持ち主です。丁度、このスミレの花のような…」
「スミレか…しおらしく綺麗な人なのだな。」
「きっと、そうでしょう。私の読みはいつも当たりますから」
ファンはそういうと、さっさとどこかへ行ってしまった。残されたヒジェはスミレの花を眺めながら、どこかにいる自分の運命の女性に思いを馳せるのだった。
スミレの花を模した刺繍をしながら、ウォルファは外を眺めた。
──────また、あの人に会えますように。
その切なる淡い初恋は今日確かに、幼い彼女にだけの秘密となった。