12、残酷な真実
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その日、ウォルファは上機嫌だった。それは密かに注文していたヒジェの大将就任に対して贈ろうと思っている特注の短刀が送られてくる日だからだ。添えるための手紙も用紙してある彼女は、彼が喜び、驚く姿を想像して微笑んでいた。
そんな中、兄のウンテクは宮殿から走って帰宅した。その顔面は真っ青だ。彼はウォルファを探しているらしく、その手には手紙が握られていた。
「ウォルファ!!ウォルファ!!今から志ある西人の儒学者を集め、王宮前で座り込みをする。」
「え?どうして?」
突然の考えに彼女は思考を停止させた。ウンテクは焦っているらしく、気遣いをする間もなく端的に説明を始めた。
「西人の大々的な一掃を狙った南人が、理不尽な異動を命じている。その上、『謝氏南征記』の件で南人は我々を犯人に仕立て上げている。」
何が何やらさっぱり分からないウォルファだったが、一夜で政局が転換したことだけは見てとれた。だが、彼女は兄を引き留めた。
「いいじゃない!地方にでも私たちは行くわよ!それより今、家長はお兄様なのよ?そのお兄様がもし職を失うことになれば…」
「大丈夫だ。王様はきっと聞いてくださる。」
「でも、きっと駄目よ。南人に逆らってはだめ。お兄様!!お兄様!!!!」
ウンテクはウォルファの制止も聞かず、それを振り払って家を出た。後に残された彼女は呆然としていたが、すぐに王宮へ兄の後を追いかけて走り出した。
王宮では既に義禁府と捕盗庁が座り込みを行う儒学者を取り囲んでいた。その中にはもちろん、ウンテクの姿もあった。ウォルファはヒジェの姿を見つけると、駆け寄って止めるように頼み込んだ。
「ヒジェ様!お願い、今すぐ止めて。兄のしていることを止めさせて!」
「無理だ。どうすることも出来ん。」
嘘だった。本当は今のヒジェの権限を使えば、ウンテクの罪を帳消しにするくらい朝飯前のことだ。だが彼は何度も陰でウォルファとの仲を邪魔されていたこともあって、助けようとはしなかった。やがてヒジェが見守る中、義禁府がウンテクたちを捕らえ始めた。
「止めろ!離せ!王様!!今の王妃様を廃位し、仁顕廃妃様をお戻しになってください!今の朝廷は南人の天下。そして、王妃張氏は、国の母でありながら兄チャン・ヒジェの横領に目を瞑っております」
本当のことを言われたヒジェは、思わずかっとなって剣を抜いた。
「けしからんやつめ。俺とウォルファとの仲を裂くだけに留まらず、王様に嘘偽りまで吹聴する気か!?」
「捕盗大将が私情を挟むな!ウォルファ、私が間違っていた。ユン殿だろうが、ヒジェだろうが、そもそも南人にお前を嫁にやるなど有り得ない。奴等は恐ろしい罪に荷担している!私の言ったことは事実だ!廃妃様は無罪だ!!南人とは関わるな!危険だ!!」
大妃殺しのことを言われると焦ったヒジェは、ユンに目配せをして罪人を連行するように促した。
「引っ立てろ!」
「お兄様!!!!お兄様!!!!お兄様!!!!」
ヒジェに腕を掴まれながらも、ウォルファは必死で兄から兵を離そうともがいた。だが、彼女は虚しく地面に倒れこんだ。
「お兄様……お兄様…お兄様が居なかったらどうやって生きていけばいいの…?母と二人で、どうすればいいのよ…」
絶望する彼女の肩を、ヒジェは優しく抱いた。
「案ずるな。ウンテク殿はどうにもならんが、そなたは俺が養ってやる。母君の面倒も見る。」
「ヒジェ様…」
その言葉に恐ろしい意図が隠されていることも知らず、彼女はヒジェの腕の中で泣くのだった。
ウォルファが泣き疲れるまで抱き締めていたヒジェは、泣きやんだことを確認すると手を引っ張り立ち上がらせた。
「もう、大丈夫か?」
「ありがとう、ヒジェ様。でも、兄は……」
「そなたの兄だ。朝礼で減刑を求めてやる」
そんな気はさらさらない彼だったが、いかにも本心かのようにそういい放つ姿を見て、ユンは胸が痛んだ。
────あんな男に渡してはならない。例え私にもうウォルファが心を向けてくれなくても、あんな非道な奴にだけは渡せない。
そう決意した彼は、急いで義禁府へ戻った。
誰いないことを確かめてからユンは告発文をしたためると、それを矢にくくりつけてシム家の敷地へテジュに放たせた。
「ユン様。本当にこれで良かったのですか?」
「ああ、これでいいんだ。……もう愛されないことは解りきっている。だが、ヒジェには渡したくない。それだけだ」
──さようなら、ウォルファ。私の愛した人。その心が例えどこに在ろうとも、私はあなただけを愛している………
ユンの頬に一筋の涙が流れる。結局想いを伝え損ねてしまった彼は、春の暖かな風に身を切られながら、いつもの職務へ戻っていった。
家に南人に対する告発文が届いたという知らせをチェリョンから聞いたウォルファは、慌てて帰路についた。
「南人の悪事が綴られています、お嬢様。このようなことがもし本当に起きていたのなら…」
「見せて!」
彼女の頭の中で、見てはならないという警鐘が鳴り響く。だが、心のどこかでまだヒジェを信じたい気持ちが、その告発文を読めと命じている。彼女はおそるおそる目を通し始めた。
『南人の天下極むる内に企てられしこと、ここに告発せんとす。ことの発端は清国使節団におけるキム・ユンダル事件。その真相は利益を欲した南人と捕盗庁、そして義禁府の癒着により、密輸が奨励されたりしもの。また、その後の大妃の急死もこれ、南人の仕業なり。さらに此度の内需司における横領に関しても、皆南人の企てしことであり、監察部女官の失踪もその企ての一つ。故に新王妃のたてまつられしことも総じて南人による換局の意図に基づく。』
「何よ…これ…」
ウォルファは戦慄しつつも、まだ信じきれていなかった。
──ヒジェ様がそんなことするはずないわ。だってあの人は……
「ごめんなさい!私、ちょっと行ってくるわ」
告発文を家に置いて彼女は家を飛び出した。向かう先はやはり、ヒジェの元だった。
───お願い、あなたは関係ないようであって……お願い!!ヒジェ様………私の信じるヒジェ様であって。
息を切らして大将執務室に着いた彼女は、戸口から入ろうとした。だが、中から誰かの声が聞こえてくる。彼女は聞きたくないと思いながらも、耳をそばだてた。
「……厳罰に処するよう、義禁府に伝えておけ。」
───ヒジェ様、ねぇ誰を?
「はい。しかし、良いのですか?チャン様。あの男はウォルファ殿の兄君ですが……」
「構わん。元より気にくわないやつだった。あの女には私から上手く善処はしたが……とでも適当に伝えておく。あの女は私の言うことなら全て信じるからな」
信じていたものが、ウォルファの中で全て崩れ去る。優しくて時々意地悪で、でもいつも心の底から彼女のことを一途に思ってくれていたヒジェは、虚構の存在だったのだ。
騙されていたことと、あまりの仕打ちに怒りを露にしたウォルファは、取り次ぎもせずその場に上がり込んだ。
「騙していたのね!全部。全部、あのときの言葉も、笑顔も、優しさも……全部、嘘だったのね!」
「お、お前は……ウォルファ……な、なぜここにいる?」
動揺を隠しきれないヒジェは慌てて部下を外に出すと、狼狽しながらも適当なことを言い始めた。
「ああ言っておかねば、また邪魔されるからだ。あれは本心では……」
「もう嘘はお止めになって。」
驚くほど冷たい視線に耐えかねたヒジェは、ウォルファから目を背けた。彼女は淡々と単語を並べ立て始めた。
「キム・ユンダル。大妃様。内需司。チョン・ドンイ。全て、あなたたち南人の仕業ですね」
強烈な言葉を並べ立てられ、ヒジェはとうとう冷静さを失った。もはや取り繕うことさえ諦めている。
「ああするしかなかった!この俺がお前を手に入れるには、悪事に手を染めるより外……」
「言い訳は聞きたくありません。このことを黙っておく条件に、兄を返して!」
「俺と取引をするのか?俺が守ってやらないと何も出来ぬくせに!」
逆行した彼は、ウォルファの腕を掴んで壁に押し当てた。だが、彼女も負けじと抵抗する。
「離して!私に人の血と悪行で汚れたそんな手で触らないで!」
「黙れ!散々俺のことを好きだと抜かしておきながら。俺が大将になるためには何をしても嫌いにならないと約束したくせに!」
「ここまではしないと思っていたわ!!もっとまともな方法だと思っていた!!」
泣き叫ぶウォルファを黙らせたかったのか、それともまだ愛していたからなのか、彼は強引に唇を重ねた。だが、その時間はすぐに終わりを告げた。
「───痛っ…………なっ、何をした!?」
「私に触れないで。それ以上近づいたら、自害します」
彼女はなんとヒジェの唇を噛んだのだ。そして、怯んだすきに机の上の剣を引き抜き、切っ先を自分の喉に当てた。
「止めろ!ウォルファ!」
「私が死ぬところを見たくなければ、兄を解放して!今すぐ!!でなければ全て西人の方々に話します」
「貴様…………!!俺とそこまでして決別したいか。」
「今のあなたが本性なら、あなたなんて要らない。」
毅然とした態度でそういい放つと、ウォルファは部屋を後にした。ヒジェは机の書物をひっくり返して暴れると、恐ろしく冷酷な眼差しで彼女が出ていった扉を睨み付けるのだった。
ウォルファは宮殿からの知らせを祈るように待った。もちろん、逃亡することも考えてあるので荷物もまとめてある。あとは馬を用意するだけだった。
心と裏腹に明るすぎる昼が過ぎ、夜になってからその知らせは届いた。
「ウォルファ。馬の手配は間に合わなかったけれど、今すぐにお逃げ!」
血相を抱えて部屋に飛び込んできた母の顔を見て、ウォルファはヒジェの決断を悟った。
徒歩で逃げるために最小限の荷物に荷造りし直しているチェリョンの横で、イェリはウォルファに諭した。
「いいこと、ウォルファ。私のことは気にしてはだめよ。ウンテクは義州に流されるらしいから、そこへ行きなさい。陸路を行かず、船を使いなさい。何かあったときのために、チョン・イングク様に男の身分証を偽造してもらったわ。必要があれば男装を……」
「お母さま……」
愛している人に裏切られ、逃亡生活を余儀なくされることになったウォルファは、心細かった。だが、別離の悲しみを伝える間もなく、夜明けを待たずして捕盗庁と義禁府がやって来た。
「お嬢様!捕盗庁と義禁府です!すぐに裏口から荷物を持ってお逃げください。」
それを聞いた彼女は包みを持って、告発文を母に手渡した。
「お母さま。告発文は焼き捨てて。私は勘当したと言って。お願い、これだけは守ってちょうだい。あの方はお母さまも殺しかねない」
「ウォルファ…お前、ヒジェ様に一体何をしたの?」
「それはあの方に聞いて。私はもう行かなければ…」
別れの儀礼を尽くすことも出来ず、ウォルファは家を逃げるように後にした。
ちょうど入れ代わりで、怒りを煮えたぎらせるチャン・ヒジェが現れた。
「罪人の屋敷を探せ!あと、根も葉もない噂を信じ、吹聴しようとしている娘も居るはずだ。」
「チャン様。娘は勘当しました。もううちの娘ではありません」
「そうか…」
彼はイェリの言葉に少し考えると、笑って答えた。
「では、あの恩知らずな女は遠慮なく追わせてもらう。」
その残忍な表情に、それ以上なにも言えなくなった彼女は、部屋の隅で家宅捜索を見守るしかなかった。
「どこにも居ません。」
「何?逆心の証拠は?」
すると、燃やそうと試みたらしい手紙を持ったチェリョンが部屋に引きずり出された。
「奥様、申し訳ございません…」
「この手紙は……」
ヒジェは告発文の筆跡を見てすぐ、見覚えのあるものだと気づいた。だが、誰かまでは思い出せない。彼は証拠として押収すると、気が済んだらしく家を後にした。
「夜分に邪魔してすみませんでした。……あとは、女を捕まえるだけだ。探せ!女の足だ。そう遠くへは行けまい」
顔面蒼白になったイェリはそれを聞いてその場に倒れこんだ。慌てて支えたチェリョンは、自分の主人が捕まらないことだけをただ祈り、ヒジェが乗る馬の背を見つめていた。
ウォルファは山道を走っていた。
───逃げなければ。殺される……!
だが、慣れない道のせいで何度とこけてしまう。それでも彼女は必死に走り続けた。すると、目の前にユンとテジュが現れた。
「──ユン様…!!」
捕らえられると思ったウォルファは、目をつぶった。だが彼は捕らえるどころか、着替えを差し出した。
「これに着替えろ。女の姿ではばれてしまう」
「ユン様……?」
散々彼の愛を踏みにじり、応えられなかったにも関わらず、それでも自分を救おうとするユンの愛が、彼女の身に染みた。
「……ありがとう…ございます…」
「礼を言う暇があるなら、向こうで着替えろ。ここは義禁府の管轄。ヒジェは別の場所を探すから、ここを馬で通って港へ行きなさい。ただし、港では診査がある。上手くヒジェの目をやり過ごせ」
本当は抱き締めたいと思っているのに、ユンは淡々と指示を出した。そんな彼に深々と一礼すると、ウォルファは向こうの方で男の服に着替え、馬に乗って森の奥に消えていった。その後ろ姿を眺めているユンは、ぽつんと呟いた。
「最後まで、あの人は私に笑顔の一つも向けてくれなかった」
「ユン様。チャン・ヒジェにどう言い訳するのですか?」
「知らん。あいつに言い訳する筋合いはない」
心配そうにするテジュにそう言い放った彼は、ほんの一瞬だけ微笑むと、きびすを返して捜索にいそしむ振りに徹した。
港へ着いたウォルファは、ユンの言う通りヒジェが直々に審査をしているのを見て、恐れながらも列に並んだ。ふと、彼女は包みの中にあったヒジェからもらったあの紅を取り出した。
──ウォルファ、俺もそなたを愛している。
「ヒジェ様……」
男の格好をしていたせいで、すぐに通された彼女は人混みに紛れて机の上に紅入れを置いた。
──さようなら、ヒジェ様。決してもう二度と会うことはないでしょう。私の……
「愛した………人……」
船に乗り、彼女は涙を流しながら彼の姿を目で追った。
船が、出航する。すると、ようやく紅入れが置かれていることに気づいたヒジェは、既にウォルファが船に乗ったことを知った。
「おい!あの船はどこ行きだ?」
「さぁ……色々回るんで、詳しくはわかりませんね」
「くそっ…!!!おい、オ・ユン!そなた、一体どういう探しかたをした!?」
彼はユンに掴みかかった。そして、悟った。
「まさか…お前、あの子を逃がしたのか?」
「ああ。例え私に心を向けてくれなくても、お前には渡せない。お前だけは、許せない。愛が何たるかを知らず、彼女の心を弄び、傷つけ、裏切ったお前を。」
ヒジェは膝から崩れ落ちた。そして、自分がしてしまったとんでもないことに今更気づき、紅を手に持ちながら呆然とするのだった。
事実の発覚を恐れ、愛する人に激昂し、その信用を失ったことに対して武力で応えた自分。
「……何て、情けないんだ……」
もう、あの笑顔も、思い出も戻っては来ない。取り返しのつかないことをしてしまったヒジェは、兵が引き上げた後もずっと、船が消えていった方向を見つめていた。
そんな中、兄のウンテクは宮殿から走って帰宅した。その顔面は真っ青だ。彼はウォルファを探しているらしく、その手には手紙が握られていた。
「ウォルファ!!ウォルファ!!今から志ある西人の儒学者を集め、王宮前で座り込みをする。」
「え?どうして?」
突然の考えに彼女は思考を停止させた。ウンテクは焦っているらしく、気遣いをする間もなく端的に説明を始めた。
「西人の大々的な一掃を狙った南人が、理不尽な異動を命じている。その上、『謝氏南征記』の件で南人は我々を犯人に仕立て上げている。」
何が何やらさっぱり分からないウォルファだったが、一夜で政局が転換したことだけは見てとれた。だが、彼女は兄を引き留めた。
「いいじゃない!地方にでも私たちは行くわよ!それより今、家長はお兄様なのよ?そのお兄様がもし職を失うことになれば…」
「大丈夫だ。王様はきっと聞いてくださる。」
「でも、きっと駄目よ。南人に逆らってはだめ。お兄様!!お兄様!!!!」
ウンテクはウォルファの制止も聞かず、それを振り払って家を出た。後に残された彼女は呆然としていたが、すぐに王宮へ兄の後を追いかけて走り出した。
王宮では既に義禁府と捕盗庁が座り込みを行う儒学者を取り囲んでいた。その中にはもちろん、ウンテクの姿もあった。ウォルファはヒジェの姿を見つけると、駆け寄って止めるように頼み込んだ。
「ヒジェ様!お願い、今すぐ止めて。兄のしていることを止めさせて!」
「無理だ。どうすることも出来ん。」
嘘だった。本当は今のヒジェの権限を使えば、ウンテクの罪を帳消しにするくらい朝飯前のことだ。だが彼は何度も陰でウォルファとの仲を邪魔されていたこともあって、助けようとはしなかった。やがてヒジェが見守る中、義禁府がウンテクたちを捕らえ始めた。
「止めろ!離せ!王様!!今の王妃様を廃位し、仁顕廃妃様をお戻しになってください!今の朝廷は南人の天下。そして、王妃張氏は、国の母でありながら兄チャン・ヒジェの横領に目を瞑っております」
本当のことを言われたヒジェは、思わずかっとなって剣を抜いた。
「けしからんやつめ。俺とウォルファとの仲を裂くだけに留まらず、王様に嘘偽りまで吹聴する気か!?」
「捕盗大将が私情を挟むな!ウォルファ、私が間違っていた。ユン殿だろうが、ヒジェだろうが、そもそも南人にお前を嫁にやるなど有り得ない。奴等は恐ろしい罪に荷担している!私の言ったことは事実だ!廃妃様は無罪だ!!南人とは関わるな!危険だ!!」
大妃殺しのことを言われると焦ったヒジェは、ユンに目配せをして罪人を連行するように促した。
「引っ立てろ!」
「お兄様!!!!お兄様!!!!お兄様!!!!」
ヒジェに腕を掴まれながらも、ウォルファは必死で兄から兵を離そうともがいた。だが、彼女は虚しく地面に倒れこんだ。
「お兄様……お兄様…お兄様が居なかったらどうやって生きていけばいいの…?母と二人で、どうすればいいのよ…」
絶望する彼女の肩を、ヒジェは優しく抱いた。
「案ずるな。ウンテク殿はどうにもならんが、そなたは俺が養ってやる。母君の面倒も見る。」
「ヒジェ様…」
その言葉に恐ろしい意図が隠されていることも知らず、彼女はヒジェの腕の中で泣くのだった。
ウォルファが泣き疲れるまで抱き締めていたヒジェは、泣きやんだことを確認すると手を引っ張り立ち上がらせた。
「もう、大丈夫か?」
「ありがとう、ヒジェ様。でも、兄は……」
「そなたの兄だ。朝礼で減刑を求めてやる」
そんな気はさらさらない彼だったが、いかにも本心かのようにそういい放つ姿を見て、ユンは胸が痛んだ。
────あんな男に渡してはならない。例え私にもうウォルファが心を向けてくれなくても、あんな非道な奴にだけは渡せない。
そう決意した彼は、急いで義禁府へ戻った。
誰いないことを確かめてからユンは告発文をしたためると、それを矢にくくりつけてシム家の敷地へテジュに放たせた。
「ユン様。本当にこれで良かったのですか?」
「ああ、これでいいんだ。……もう愛されないことは解りきっている。だが、ヒジェには渡したくない。それだけだ」
──さようなら、ウォルファ。私の愛した人。その心が例えどこに在ろうとも、私はあなただけを愛している………
ユンの頬に一筋の涙が流れる。結局想いを伝え損ねてしまった彼は、春の暖かな風に身を切られながら、いつもの職務へ戻っていった。
家に南人に対する告発文が届いたという知らせをチェリョンから聞いたウォルファは、慌てて帰路についた。
「南人の悪事が綴られています、お嬢様。このようなことがもし本当に起きていたのなら…」
「見せて!」
彼女の頭の中で、見てはならないという警鐘が鳴り響く。だが、心のどこかでまだヒジェを信じたい気持ちが、その告発文を読めと命じている。彼女はおそるおそる目を通し始めた。
『南人の天下極むる内に企てられしこと、ここに告発せんとす。ことの発端は清国使節団におけるキム・ユンダル事件。その真相は利益を欲した南人と捕盗庁、そして義禁府の癒着により、密輸が奨励されたりしもの。また、その後の大妃の急死もこれ、南人の仕業なり。さらに此度の内需司における横領に関しても、皆南人の企てしことであり、監察部女官の失踪もその企ての一つ。故に新王妃のたてまつられしことも総じて南人による換局の意図に基づく。』
「何よ…これ…」
ウォルファは戦慄しつつも、まだ信じきれていなかった。
──ヒジェ様がそんなことするはずないわ。だってあの人は……
「ごめんなさい!私、ちょっと行ってくるわ」
告発文を家に置いて彼女は家を飛び出した。向かう先はやはり、ヒジェの元だった。
───お願い、あなたは関係ないようであって……お願い!!ヒジェ様………私の信じるヒジェ様であって。
息を切らして大将執務室に着いた彼女は、戸口から入ろうとした。だが、中から誰かの声が聞こえてくる。彼女は聞きたくないと思いながらも、耳をそばだてた。
「……厳罰に処するよう、義禁府に伝えておけ。」
───ヒジェ様、ねぇ誰を?
「はい。しかし、良いのですか?チャン様。あの男はウォルファ殿の兄君ですが……」
「構わん。元より気にくわないやつだった。あの女には私から上手く善処はしたが……とでも適当に伝えておく。あの女は私の言うことなら全て信じるからな」
信じていたものが、ウォルファの中で全て崩れ去る。優しくて時々意地悪で、でもいつも心の底から彼女のことを一途に思ってくれていたヒジェは、虚構の存在だったのだ。
騙されていたことと、あまりの仕打ちに怒りを露にしたウォルファは、取り次ぎもせずその場に上がり込んだ。
「騙していたのね!全部。全部、あのときの言葉も、笑顔も、優しさも……全部、嘘だったのね!」
「お、お前は……ウォルファ……な、なぜここにいる?」
動揺を隠しきれないヒジェは慌てて部下を外に出すと、狼狽しながらも適当なことを言い始めた。
「ああ言っておかねば、また邪魔されるからだ。あれは本心では……」
「もう嘘はお止めになって。」
驚くほど冷たい視線に耐えかねたヒジェは、ウォルファから目を背けた。彼女は淡々と単語を並べ立て始めた。
「キム・ユンダル。大妃様。内需司。チョン・ドンイ。全て、あなたたち南人の仕業ですね」
強烈な言葉を並べ立てられ、ヒジェはとうとう冷静さを失った。もはや取り繕うことさえ諦めている。
「ああするしかなかった!この俺がお前を手に入れるには、悪事に手を染めるより外……」
「言い訳は聞きたくありません。このことを黙っておく条件に、兄を返して!」
「俺と取引をするのか?俺が守ってやらないと何も出来ぬくせに!」
逆行した彼は、ウォルファの腕を掴んで壁に押し当てた。だが、彼女も負けじと抵抗する。
「離して!私に人の血と悪行で汚れたそんな手で触らないで!」
「黙れ!散々俺のことを好きだと抜かしておきながら。俺が大将になるためには何をしても嫌いにならないと約束したくせに!」
「ここまではしないと思っていたわ!!もっとまともな方法だと思っていた!!」
泣き叫ぶウォルファを黙らせたかったのか、それともまだ愛していたからなのか、彼は強引に唇を重ねた。だが、その時間はすぐに終わりを告げた。
「───痛っ…………なっ、何をした!?」
「私に触れないで。それ以上近づいたら、自害します」
彼女はなんとヒジェの唇を噛んだのだ。そして、怯んだすきに机の上の剣を引き抜き、切っ先を自分の喉に当てた。
「止めろ!ウォルファ!」
「私が死ぬところを見たくなければ、兄を解放して!今すぐ!!でなければ全て西人の方々に話します」
「貴様…………!!俺とそこまでして決別したいか。」
「今のあなたが本性なら、あなたなんて要らない。」
毅然とした態度でそういい放つと、ウォルファは部屋を後にした。ヒジェは机の書物をひっくり返して暴れると、恐ろしく冷酷な眼差しで彼女が出ていった扉を睨み付けるのだった。
ウォルファは宮殿からの知らせを祈るように待った。もちろん、逃亡することも考えてあるので荷物もまとめてある。あとは馬を用意するだけだった。
心と裏腹に明るすぎる昼が過ぎ、夜になってからその知らせは届いた。
「ウォルファ。馬の手配は間に合わなかったけれど、今すぐにお逃げ!」
血相を抱えて部屋に飛び込んできた母の顔を見て、ウォルファはヒジェの決断を悟った。
徒歩で逃げるために最小限の荷物に荷造りし直しているチェリョンの横で、イェリはウォルファに諭した。
「いいこと、ウォルファ。私のことは気にしてはだめよ。ウンテクは義州に流されるらしいから、そこへ行きなさい。陸路を行かず、船を使いなさい。何かあったときのために、チョン・イングク様に男の身分証を偽造してもらったわ。必要があれば男装を……」
「お母さま……」
愛している人に裏切られ、逃亡生活を余儀なくされることになったウォルファは、心細かった。だが、別離の悲しみを伝える間もなく、夜明けを待たずして捕盗庁と義禁府がやって来た。
「お嬢様!捕盗庁と義禁府です!すぐに裏口から荷物を持ってお逃げください。」
それを聞いた彼女は包みを持って、告発文を母に手渡した。
「お母さま。告発文は焼き捨てて。私は勘当したと言って。お願い、これだけは守ってちょうだい。あの方はお母さまも殺しかねない」
「ウォルファ…お前、ヒジェ様に一体何をしたの?」
「それはあの方に聞いて。私はもう行かなければ…」
別れの儀礼を尽くすことも出来ず、ウォルファは家を逃げるように後にした。
ちょうど入れ代わりで、怒りを煮えたぎらせるチャン・ヒジェが現れた。
「罪人の屋敷を探せ!あと、根も葉もない噂を信じ、吹聴しようとしている娘も居るはずだ。」
「チャン様。娘は勘当しました。もううちの娘ではありません」
「そうか…」
彼はイェリの言葉に少し考えると、笑って答えた。
「では、あの恩知らずな女は遠慮なく追わせてもらう。」
その残忍な表情に、それ以上なにも言えなくなった彼女は、部屋の隅で家宅捜索を見守るしかなかった。
「どこにも居ません。」
「何?逆心の証拠は?」
すると、燃やそうと試みたらしい手紙を持ったチェリョンが部屋に引きずり出された。
「奥様、申し訳ございません…」
「この手紙は……」
ヒジェは告発文の筆跡を見てすぐ、見覚えのあるものだと気づいた。だが、誰かまでは思い出せない。彼は証拠として押収すると、気が済んだらしく家を後にした。
「夜分に邪魔してすみませんでした。……あとは、女を捕まえるだけだ。探せ!女の足だ。そう遠くへは行けまい」
顔面蒼白になったイェリはそれを聞いてその場に倒れこんだ。慌てて支えたチェリョンは、自分の主人が捕まらないことだけをただ祈り、ヒジェが乗る馬の背を見つめていた。
ウォルファは山道を走っていた。
───逃げなければ。殺される……!
だが、慣れない道のせいで何度とこけてしまう。それでも彼女は必死に走り続けた。すると、目の前にユンとテジュが現れた。
「──ユン様…!!」
捕らえられると思ったウォルファは、目をつぶった。だが彼は捕らえるどころか、着替えを差し出した。
「これに着替えろ。女の姿ではばれてしまう」
「ユン様……?」
散々彼の愛を踏みにじり、応えられなかったにも関わらず、それでも自分を救おうとするユンの愛が、彼女の身に染みた。
「……ありがとう…ございます…」
「礼を言う暇があるなら、向こうで着替えろ。ここは義禁府の管轄。ヒジェは別の場所を探すから、ここを馬で通って港へ行きなさい。ただし、港では診査がある。上手くヒジェの目をやり過ごせ」
本当は抱き締めたいと思っているのに、ユンは淡々と指示を出した。そんな彼に深々と一礼すると、ウォルファは向こうの方で男の服に着替え、馬に乗って森の奥に消えていった。その後ろ姿を眺めているユンは、ぽつんと呟いた。
「最後まで、あの人は私に笑顔の一つも向けてくれなかった」
「ユン様。チャン・ヒジェにどう言い訳するのですか?」
「知らん。あいつに言い訳する筋合いはない」
心配そうにするテジュにそう言い放った彼は、ほんの一瞬だけ微笑むと、きびすを返して捜索にいそしむ振りに徹した。
港へ着いたウォルファは、ユンの言う通りヒジェが直々に審査をしているのを見て、恐れながらも列に並んだ。ふと、彼女は包みの中にあったヒジェからもらったあの紅を取り出した。
──ウォルファ、俺もそなたを愛している。
「ヒジェ様……」
男の格好をしていたせいで、すぐに通された彼女は人混みに紛れて机の上に紅入れを置いた。
──さようなら、ヒジェ様。決してもう二度と会うことはないでしょう。私の……
「愛した………人……」
船に乗り、彼女は涙を流しながら彼の姿を目で追った。
船が、出航する。すると、ようやく紅入れが置かれていることに気づいたヒジェは、既にウォルファが船に乗ったことを知った。
「おい!あの船はどこ行きだ?」
「さぁ……色々回るんで、詳しくはわかりませんね」
「くそっ…!!!おい、オ・ユン!そなた、一体どういう探しかたをした!?」
彼はユンに掴みかかった。そして、悟った。
「まさか…お前、あの子を逃がしたのか?」
「ああ。例え私に心を向けてくれなくても、お前には渡せない。お前だけは、許せない。愛が何たるかを知らず、彼女の心を弄び、傷つけ、裏切ったお前を。」
ヒジェは膝から崩れ落ちた。そして、自分がしてしまったとんでもないことに今更気づき、紅を手に持ちながら呆然とするのだった。
事実の発覚を恐れ、愛する人に激昂し、その信用を失ったことに対して武力で応えた自分。
「……何て、情けないんだ……」
もう、あの笑顔も、思い出も戻っては来ない。取り返しのつかないことをしてしまったヒジェは、兵が引き上げた後もずっと、船が消えていった方向を見つめていた。