11、嵐を呼ぶ王命
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夜が更ける前に帰ってきたウォルファは、大晦日は仕事だったと適当に吹聴し、眠りにつこうとした。だが、ヒジェの言葉や声、そして顔が鮮明に思い出せるせいで、なかなか寝付けない。
───そなたに出会って、そなたに恋をした。
あのときのヒジェの言葉は本心だった。そしてその事実が余計、彼女の心を熱くした。
────そなたが傍でずっと笑っていてくれる未来を掴むためには、その手を離さずに済む方法でしか実現できない。
「ヒジェ様…」
想い、想われることがこれ程幸せなこととは知らなかったウォルファは、幸福の熱に浮かされながら眠りにつくのだった。
それから数ヵ月後、ウォルファはオクチョンの部屋に居た。行幸中の王様に会えない彼女の寂しさを紛らすために、ウォルファが自らやって来たのだ。
「兄上が、会うたびそなたの事ばかり言うのだ。何とかしてくれぬか?」
「全く…あの方は何でも禧嬪様に言ってしまう癖があるようです」
二人はにこやかに茶菓子を食べながら談笑していた。ふと、彼女はせっかく宮殿に来たのだから、トンイに会っていこうと思い付いた。
就善堂の牡丹が蕾を膨らませ始める季節。彼女はその花をいつもオクチョンらしいと思っていた。
そんなことを考えながら監察部へ足を運んだウォルファは、そこで驚愕の事実を知った。
「トンイは……行方不明です。亡くなったらしいです」
「え……」
───あのトンイが?トンイが死んだ?
目の前が真っ暗になった。ついこの間、姉妹のように話したばかりだったのに。
───ウォルファさんが姉さんだったらいいのに。
ウォルファは涙を流した。せっかく本当の姉妹だったら良かったのにと思える相手を見つけたのに。
彼女は泣いた。こんなにも簡単に人は死んでしまうのかと。
葉の上に載った朝露のような命。これが初めて彼女が味わった喪失の哀しみだった。
その頃チャン・ヒジェは、とある場所に来ていた。それはトンイが遺留品を残した渓谷だった。彼は冷徹な眼差しで川の流れを眺めている。
「何もありません、従事官様。あの女官は亡くなったようです」
「そうか。死体が上がれば、他殺だとばれる。適当にあとは任せたぞ」
「はい。」
そう、トンイを殺したのは他ならぬヒジェだったのだ。彼は度々自らの悪事を暴こうとかぎ回るトンイが邪魔だったのだ。今回も内需司での横領の証拠を掴まれていたので、彼は焦っていた。そして驚くことにそこには妹のオクチョンも荷担していた。王と度々面会し、仲を深めていくトンイに反感を抱き続けた結果、彼女の正鵠はついに墜ちたのだ。
彼らの仕事は終わった。あとは換局を起こし、オクチョンが悲願の王妃就任を遂げれば、ヒジェら南人の天下。そして、彼は王妃の兄、または未来の世子の叔父という絶大きわまりない権力を手にするだけだ。
そうすれば、ウォルファの手を離さずに済む。これが彼の下した決断だった。
───あとはこれを彼女にさえ悟られなければ、完璧だ。
ヒジェは不敵な笑みを隠さずにはいられなかった。
そう、これ程にまで完璧な計略の漏れのきっかけとなる人物が、まさかウォルファ自身になろうとは、今の彼には知る由もなかった。
ウォルファがトンイの消息不明に対して嘆いているころ、朝廷では大妃暗殺の疑いをかけられた結果、王妃の座を廃位に追い込まれた仁顕元王妃が宮殿を去ったことが大問題へと発展していた。オ・テソク率いる南人は皆、オクチョンを王妃にしようと計略を練っていた。だが、西人はこれに猛反発。粛宗の心は二つの党派の間で揺れ動いていた。
「王様、私のことならお気になさらず。」
オクチョンは野望を胸に秘めながら王にそうささやいた。世子の母となる彼女の所属党派である南人を西人と同等にしておくのは、彼にとっても悩ましいことだった。また、トンイに寵愛を注いでいるとはいえ、粛宗の中ではまだオクチョンも一人の女性として健在だった。
部屋へ戻った彼は、頭を抱えた。
───このままでは、本当に南人の天下。急進派である彼らだが、政治的手腕は西人より格段上だ。
そして、彼は一つの結論を導き出した。
「────決めた。今の朝廷の派閥を収めるためには、禧嬪を王妃とするよりほかはない。故に急遽、明後日に任命式を行う」
ハン内官にそう伝えた彼は、ついに換局へと動き出す決意を固めるのだった。
そして翌日。西人派が反対する間もなく、粛宗は王命を発令した。その知らせを聞いたウンテクは、ついに来たかとため息をついた。だが、何故か父ジングはさほど驚いている様子はない。
「父上。驚かないのですか?」
「ああ。むしろ喜ばしいことだ。国母の座も埋まり、娘の婚礼相手も決まるからな」
ジングがヒジェのことを知っているはずがないと思い込んでいた彼は、ユンのことなのだろうか。それにしてはおかしいと思うくらいで、特に言及はしなかった。だが、早くユンとの縁談の話をつけねば、厄介なことになるやもと考えた彼は、密かにユンのもとへ手紙をよこすのだった。
就任式が終わった後、オクチョンはウォルファをよびだした。
「そなたに会いたかった。見せたいものがあって…」
「きれいですよ、王妃様。そのお姿を拝見できただけで充分です。」
だが、彼女はその言葉を否定して横に首を振ると、ウォルファの手を引いて中庭へ連れて行った。そこには宣旨を持って立つ、大将の服を着たヒジェの姿があった。
「ヒジェ…様?」
「聞いてくれ、ウォルファ。先程王様が人事異動を発表なさった。私は、正一品捕盗大将に任命された」
「え…?大将…?あなたが?」
状況が呑み込めない彼女はうろたえた。だが、目の前には確かに大将の格好をしたヒジェがいる。
「ああ…私たち、ようやく…ようやく離れずに済むのね」
「そうだ。」
彼の笑顔が涙でゆがむ。ウォルファはずっと焦がれ、夢にまで見たその温かく広い胸に飛び込んだ。
「ずっと言わせてくれなかった言葉、今言うわ。…愛してる。」
その言葉に思わず感極まったヒジェは、声を詰まらせながら返事をした。
「なんて…うれしい言葉だ。ウォルファ、俺もそなたを愛している。」
そして、壊れんばかりに力強く彼はウォルファをだきしめた。さすがに苦しくて彼女は身をよじった。
「…痛いです。」
「別に、減るものではなかろう。もう、離さん。決して、離さん。」
「ヒジェ様…」
やや間があって、彼女はヒジェの背中に手をまわした。
「ん?どうした?」
あのときの宣言をせがんでいるのかと勘違いした彼は、オクチョンたちが察して部屋へ戻ったことを確認すると、ゆっくり顔を近づけた。
「えっ、あの…」
「…本当は、心底求めておるくせに」
戸惑うウォルファの首筋を優しくなでると、彼はその唇を彼女に重ねた。
互いの間を、幸福な瞬間が支配する。二人はいつまでもこんな幸せが続くと信じて、今まで伝えることができなかった想いをその刹那に込めた。
そんな二人の姿を、間が悪くユンは見ていた。彼は目の前が真っ暗になるのを必死でこらえ、なんとか二本の足で立っている。
「ウォルファ…お前が選んでいたのは、最初から私ではなく…」
────ヒジェだったのか。
自分に向けられるはずだった恋い焦がれている人の笑顔も、愛の言葉も奪われ、党内での立場も、そして階級さえも上回られてしまったユンは絶望にうちひしがれた。
────どうして、あんな男に…
彼はウンテクから受け取った婚礼を催促する手紙を握りしめると、せめて形だけでも渡したくはないという願いを込めて、もう一度だけ彼女の名前を呼び、その場を後にした。
ヒジェが捕盗大将に任じられてからすぐ、ウォルファは何故か兄に辞職させられてしまった。それからというもの、家から出ることはままならなくなり、彼女はいつも塀の外を部屋から眺めることしか出来なかった。ある日の夜、彼女がいつものように縁側に座って空を見上げていると、塀の外から鈴がついた紐細工が投げ入れられた。拾ってみると、それは市場でヒジェと出会ったときにウォルファが渡した紐で作られていた。もう一度塀を見上げると、そこにはすっかり両班顔負けの高貴な服装に身を包んだヒジェが座っていた。月明かりを背中に受け、こちらに微笑みかける彼があまりに素敵で、ウォルファは夜であることも忘れて駆け寄った。
「ウォルファ。来たぞ」
「ヒジェ様!」
塀から降りて縁側に座ったヒジェは、誰もいないことを確認して彼女を抱き締めた。
「逢いたかった。これ程に恋しいと思うのが、私の気持ちの深さだ」
「ええ、私も。1日が千日にも感じられたわ。でももう大丈夫。あなたが今ここにいるから、1日は数時間。あなたに触れているこの時間は星の瞬きよりも短い間。」
普通の女に言われればまどろっこしいと苛立つ表現でさえ、ウォルファの声なら心地よく感じられるヒジェは、その声を誰にも聞かせたくないかのように唐突に唇を奪った。
「…好きだ。」
「私もよ、ヒジェ様。あなたと私の邪魔をする者は、例え家族でも許さない。」
指と指を絡ませあいながら、二人は何度も愛を語り合った。正に至福のひととき。しばらくして、彼女が大きなあくびをしたので、ヒジェはその余韻に浸りながらも、優しく寝室へ戻るように促した。そして恋人たちはまた明日逢えることを期待しながら、それぞれの戻るべき場所へ消えていくのだった。
翌朝、眠い目をこすって起きてきたウォルファは、いつになく真剣な様子の兄に驚き、目を完全に覚ました。床には何かの日取りが書かれた紙が置かれてある。彼女は恐る恐る訊ねた。
「…お兄様、これはなぁに…?」
「決まっているだろう。お前とユン様との来る結婚の日取りだ。」
絶句するウォルファが何か言う前に、父のジングが怒り心頭で部屋へ飛び込んできた。
「ウンテク!!この馬鹿息子!!ヒジェ様は捕盗大将なのだぞ!?それに妹に気乗りのしない結婚を勧めて、お前は心が痛まぬのか!?」
「父上が何と言おうと、チャン・ヒジェは駄目です。」
ウンテクも食い下がる。すると、ジングは意外な事実を彼に突きつけた。
「お前、ヒジェ様が大将に成られた経緯を知らんようだな。西人からの推薦者を募り、あの人事を通したのはこの私だ!」
「お父様が、私とヒジェ様のために…?」
「そうだ。あの男は放蕩息子などではない。それは私が自分の目で見て確かめた!」
あまりの突拍子もない事実に、ウンテクは言葉を失った。だが、その話はまた別だと彼は取り繕おうとした。
その時だった。
「───お父様!?」
ジングが胸を押さえて倒れる。慌てて侍女のチェリョンが医者を呼びに走る。ややあって父に駆け寄ったウォルファは、必死に呼び掛けた。
「お父様!!お父様!!!!お母様!お父様が!!」
「父上!父上!!しっかりしてください!!父上!!」
「旦那様─どうして、ああ、あなた、ジング様!」
呼び掛けのせいで混沌とする屋敷に医者がやって来たとき、既にジングは虫の息だった。それでも彼は、どうしてもとヒジェを呼ぶように伝えた。
慌てて屋敷に駆けつけたヒジェは、ジングの床の隣に座り、手を握った。
「……ああ、ヒジェ殿……せめて、あなたを婿殿と……呼びたかった……。娘の、晴れ着姿…」
「ジング様、大丈夫ですよ。きっと見れます。ですから、そんなこと仰らないで下さい。大将に私を推されたあなたにまだ、恩返しが出来ていません。」
そう元気付けるヒジェに、彼は力なく首を横に振った。
「……いえ、娘があなたから貰った笑顔と一途な想いが、恩返しです。…それより、ヒジェ殿。」
彼は最期の力を振り絞ってヒジェの手を握った。
「娘を…ウォルファを……頼みます。あの子はきっと…うちの馬鹿息子では……守ることは出来ません。あなたのために険しい道を歩もうと決意したあの子を……あの子を……どうか守ってやってください……」
そこまで言い切ると、彼は疲れたように眠り始めた。死期が近いことは、医者でもないヒジェにさえ痛いほど伝わってきていた。彼は部屋を出ると、ウォルファに傍に居てやるよう促した。
「私は、父上の臨終の際に間に合わなかったことが未だに悔やまれる。故に、そなたも家の者と共にお側へ行ってあげなさい」
「……はい。」
今にも大粒の涙を流しそうな瞳で俯くと、彼女は家族を呼び出して部屋に入った。
ウォルファが来たと聞き、ジングは目を開いた。
「おお……ウォルファ………私の娘…私の……可愛い娘……」
「お父様、…ありがとう。お父様のこと、私は大好きよ。だから…だから、死なないで……」
「…馬鹿者。逆縁でないのだから、私は本望だ。」
涙を堪えきれず、むせ返る彼女の頭を優しく撫でると、ジングは穏やかな表情を見せた。
「──幸せ…だった…あり…がとう。」
そして、彼は眠るように息を引き取った。心臓が老化で衰えたために起きた、衰弱が原因だ。症状は以前からあったらしく、彼は自分の死期を悟っていたらしい。だから娘の想いを成就させるために、党派を裏切ってまでヒジェを推薦したのだ。
婚儀の件は、当然の如く延期。そしてウォルファは喪に服す期間が終わってからも、浮かない顔をしていた。
ヒジェはそんな彼女を元気付けるため、ずっと傍に寄り添い続けた。
「……ありがとう、ヒジェ様。」
「いいんだ。私との婚礼について考えるのは、心の哀しみが癒えてからでよい。」
彼は大きな手でウォルファの頬を撫でた。小さくうなずいた彼女は、また父との思い出に静かに浸り始めるのだった。
牡丹が蕾から花を咲かせ始めた。だがその根本に小さく咲いている菫は、牡丹に養分を奪われているせいなのか、ややしおれ始めている。オクチョンは憐れな菫を眺めた。少し間があって、彼女はそれを引き抜いて捨ててしまいなさいと命じた。
咲き誇る華と、散りゆく華。同時に咲くことはできない宿命のウォルファたちの運命は、残酷にも刻一刻と破滅へ向かい始めていた。
小鳥たちが春の訪れを歌う穏やかな昼下がり。それは実のところは二人の未来を歌っていたのかもしれない。
───そなたに出会って、そなたに恋をした。
あのときのヒジェの言葉は本心だった。そしてその事実が余計、彼女の心を熱くした。
────そなたが傍でずっと笑っていてくれる未来を掴むためには、その手を離さずに済む方法でしか実現できない。
「ヒジェ様…」
想い、想われることがこれ程幸せなこととは知らなかったウォルファは、幸福の熱に浮かされながら眠りにつくのだった。
それから数ヵ月後、ウォルファはオクチョンの部屋に居た。行幸中の王様に会えない彼女の寂しさを紛らすために、ウォルファが自らやって来たのだ。
「兄上が、会うたびそなたの事ばかり言うのだ。何とかしてくれぬか?」
「全く…あの方は何でも禧嬪様に言ってしまう癖があるようです」
二人はにこやかに茶菓子を食べながら談笑していた。ふと、彼女はせっかく宮殿に来たのだから、トンイに会っていこうと思い付いた。
就善堂の牡丹が蕾を膨らませ始める季節。彼女はその花をいつもオクチョンらしいと思っていた。
そんなことを考えながら監察部へ足を運んだウォルファは、そこで驚愕の事実を知った。
「トンイは……行方不明です。亡くなったらしいです」
「え……」
───あのトンイが?トンイが死んだ?
目の前が真っ暗になった。ついこの間、姉妹のように話したばかりだったのに。
───ウォルファさんが姉さんだったらいいのに。
ウォルファは涙を流した。せっかく本当の姉妹だったら良かったのにと思える相手を見つけたのに。
彼女は泣いた。こんなにも簡単に人は死んでしまうのかと。
葉の上に載った朝露のような命。これが初めて彼女が味わった喪失の哀しみだった。
その頃チャン・ヒジェは、とある場所に来ていた。それはトンイが遺留品を残した渓谷だった。彼は冷徹な眼差しで川の流れを眺めている。
「何もありません、従事官様。あの女官は亡くなったようです」
「そうか。死体が上がれば、他殺だとばれる。適当にあとは任せたぞ」
「はい。」
そう、トンイを殺したのは他ならぬヒジェだったのだ。彼は度々自らの悪事を暴こうとかぎ回るトンイが邪魔だったのだ。今回も内需司での横領の証拠を掴まれていたので、彼は焦っていた。そして驚くことにそこには妹のオクチョンも荷担していた。王と度々面会し、仲を深めていくトンイに反感を抱き続けた結果、彼女の正鵠はついに墜ちたのだ。
彼らの仕事は終わった。あとは換局を起こし、オクチョンが悲願の王妃就任を遂げれば、ヒジェら南人の天下。そして、彼は王妃の兄、または未来の世子の叔父という絶大きわまりない権力を手にするだけだ。
そうすれば、ウォルファの手を離さずに済む。これが彼の下した決断だった。
───あとはこれを彼女にさえ悟られなければ、完璧だ。
ヒジェは不敵な笑みを隠さずにはいられなかった。
そう、これ程にまで完璧な計略の漏れのきっかけとなる人物が、まさかウォルファ自身になろうとは、今の彼には知る由もなかった。
ウォルファがトンイの消息不明に対して嘆いているころ、朝廷では大妃暗殺の疑いをかけられた結果、王妃の座を廃位に追い込まれた仁顕元王妃が宮殿を去ったことが大問題へと発展していた。オ・テソク率いる南人は皆、オクチョンを王妃にしようと計略を練っていた。だが、西人はこれに猛反発。粛宗の心は二つの党派の間で揺れ動いていた。
「王様、私のことならお気になさらず。」
オクチョンは野望を胸に秘めながら王にそうささやいた。世子の母となる彼女の所属党派である南人を西人と同等にしておくのは、彼にとっても悩ましいことだった。また、トンイに寵愛を注いでいるとはいえ、粛宗の中ではまだオクチョンも一人の女性として健在だった。
部屋へ戻った彼は、頭を抱えた。
───このままでは、本当に南人の天下。急進派である彼らだが、政治的手腕は西人より格段上だ。
そして、彼は一つの結論を導き出した。
「────決めた。今の朝廷の派閥を収めるためには、禧嬪を王妃とするよりほかはない。故に急遽、明後日に任命式を行う」
ハン内官にそう伝えた彼は、ついに換局へと動き出す決意を固めるのだった。
そして翌日。西人派が反対する間もなく、粛宗は王命を発令した。その知らせを聞いたウンテクは、ついに来たかとため息をついた。だが、何故か父ジングはさほど驚いている様子はない。
「父上。驚かないのですか?」
「ああ。むしろ喜ばしいことだ。国母の座も埋まり、娘の婚礼相手も決まるからな」
ジングがヒジェのことを知っているはずがないと思い込んでいた彼は、ユンのことなのだろうか。それにしてはおかしいと思うくらいで、特に言及はしなかった。だが、早くユンとの縁談の話をつけねば、厄介なことになるやもと考えた彼は、密かにユンのもとへ手紙をよこすのだった。
就任式が終わった後、オクチョンはウォルファをよびだした。
「そなたに会いたかった。見せたいものがあって…」
「きれいですよ、王妃様。そのお姿を拝見できただけで充分です。」
だが、彼女はその言葉を否定して横に首を振ると、ウォルファの手を引いて中庭へ連れて行った。そこには宣旨を持って立つ、大将の服を着たヒジェの姿があった。
「ヒジェ…様?」
「聞いてくれ、ウォルファ。先程王様が人事異動を発表なさった。私は、正一品捕盗大将に任命された」
「え…?大将…?あなたが?」
状況が呑み込めない彼女はうろたえた。だが、目の前には確かに大将の格好をしたヒジェがいる。
「ああ…私たち、ようやく…ようやく離れずに済むのね」
「そうだ。」
彼の笑顔が涙でゆがむ。ウォルファはずっと焦がれ、夢にまで見たその温かく広い胸に飛び込んだ。
「ずっと言わせてくれなかった言葉、今言うわ。…愛してる。」
その言葉に思わず感極まったヒジェは、声を詰まらせながら返事をした。
「なんて…うれしい言葉だ。ウォルファ、俺もそなたを愛している。」
そして、壊れんばかりに力強く彼はウォルファをだきしめた。さすがに苦しくて彼女は身をよじった。
「…痛いです。」
「別に、減るものではなかろう。もう、離さん。決して、離さん。」
「ヒジェ様…」
やや間があって、彼女はヒジェの背中に手をまわした。
「ん?どうした?」
あのときの宣言をせがんでいるのかと勘違いした彼は、オクチョンたちが察して部屋へ戻ったことを確認すると、ゆっくり顔を近づけた。
「えっ、あの…」
「…本当は、心底求めておるくせに」
戸惑うウォルファの首筋を優しくなでると、彼はその唇を彼女に重ねた。
互いの間を、幸福な瞬間が支配する。二人はいつまでもこんな幸せが続くと信じて、今まで伝えることができなかった想いをその刹那に込めた。
そんな二人の姿を、間が悪くユンは見ていた。彼は目の前が真っ暗になるのを必死でこらえ、なんとか二本の足で立っている。
「ウォルファ…お前が選んでいたのは、最初から私ではなく…」
────ヒジェだったのか。
自分に向けられるはずだった恋い焦がれている人の笑顔も、愛の言葉も奪われ、党内での立場も、そして階級さえも上回られてしまったユンは絶望にうちひしがれた。
────どうして、あんな男に…
彼はウンテクから受け取った婚礼を催促する手紙を握りしめると、せめて形だけでも渡したくはないという願いを込めて、もう一度だけ彼女の名前を呼び、その場を後にした。
ヒジェが捕盗大将に任じられてからすぐ、ウォルファは何故か兄に辞職させられてしまった。それからというもの、家から出ることはままならなくなり、彼女はいつも塀の外を部屋から眺めることしか出来なかった。ある日の夜、彼女がいつものように縁側に座って空を見上げていると、塀の外から鈴がついた紐細工が投げ入れられた。拾ってみると、それは市場でヒジェと出会ったときにウォルファが渡した紐で作られていた。もう一度塀を見上げると、そこにはすっかり両班顔負けの高貴な服装に身を包んだヒジェが座っていた。月明かりを背中に受け、こちらに微笑みかける彼があまりに素敵で、ウォルファは夜であることも忘れて駆け寄った。
「ウォルファ。来たぞ」
「ヒジェ様!」
塀から降りて縁側に座ったヒジェは、誰もいないことを確認して彼女を抱き締めた。
「逢いたかった。これ程に恋しいと思うのが、私の気持ちの深さだ」
「ええ、私も。1日が千日にも感じられたわ。でももう大丈夫。あなたが今ここにいるから、1日は数時間。あなたに触れているこの時間は星の瞬きよりも短い間。」
普通の女に言われればまどろっこしいと苛立つ表現でさえ、ウォルファの声なら心地よく感じられるヒジェは、その声を誰にも聞かせたくないかのように唐突に唇を奪った。
「…好きだ。」
「私もよ、ヒジェ様。あなたと私の邪魔をする者は、例え家族でも許さない。」
指と指を絡ませあいながら、二人は何度も愛を語り合った。正に至福のひととき。しばらくして、彼女が大きなあくびをしたので、ヒジェはその余韻に浸りながらも、優しく寝室へ戻るように促した。そして恋人たちはまた明日逢えることを期待しながら、それぞれの戻るべき場所へ消えていくのだった。
翌朝、眠い目をこすって起きてきたウォルファは、いつになく真剣な様子の兄に驚き、目を完全に覚ました。床には何かの日取りが書かれた紙が置かれてある。彼女は恐る恐る訊ねた。
「…お兄様、これはなぁに…?」
「決まっているだろう。お前とユン様との来る結婚の日取りだ。」
絶句するウォルファが何か言う前に、父のジングが怒り心頭で部屋へ飛び込んできた。
「ウンテク!!この馬鹿息子!!ヒジェ様は捕盗大将なのだぞ!?それに妹に気乗りのしない結婚を勧めて、お前は心が痛まぬのか!?」
「父上が何と言おうと、チャン・ヒジェは駄目です。」
ウンテクも食い下がる。すると、ジングは意外な事実を彼に突きつけた。
「お前、ヒジェ様が大将に成られた経緯を知らんようだな。西人からの推薦者を募り、あの人事を通したのはこの私だ!」
「お父様が、私とヒジェ様のために…?」
「そうだ。あの男は放蕩息子などではない。それは私が自分の目で見て確かめた!」
あまりの突拍子もない事実に、ウンテクは言葉を失った。だが、その話はまた別だと彼は取り繕おうとした。
その時だった。
「───お父様!?」
ジングが胸を押さえて倒れる。慌てて侍女のチェリョンが医者を呼びに走る。ややあって父に駆け寄ったウォルファは、必死に呼び掛けた。
「お父様!!お父様!!!!お母様!お父様が!!」
「父上!父上!!しっかりしてください!!父上!!」
「旦那様─どうして、ああ、あなた、ジング様!」
呼び掛けのせいで混沌とする屋敷に医者がやって来たとき、既にジングは虫の息だった。それでも彼は、どうしてもとヒジェを呼ぶように伝えた。
慌てて屋敷に駆けつけたヒジェは、ジングの床の隣に座り、手を握った。
「……ああ、ヒジェ殿……せめて、あなたを婿殿と……呼びたかった……。娘の、晴れ着姿…」
「ジング様、大丈夫ですよ。きっと見れます。ですから、そんなこと仰らないで下さい。大将に私を推されたあなたにまだ、恩返しが出来ていません。」
そう元気付けるヒジェに、彼は力なく首を横に振った。
「……いえ、娘があなたから貰った笑顔と一途な想いが、恩返しです。…それより、ヒジェ殿。」
彼は最期の力を振り絞ってヒジェの手を握った。
「娘を…ウォルファを……頼みます。あの子はきっと…うちの馬鹿息子では……守ることは出来ません。あなたのために険しい道を歩もうと決意したあの子を……あの子を……どうか守ってやってください……」
そこまで言い切ると、彼は疲れたように眠り始めた。死期が近いことは、医者でもないヒジェにさえ痛いほど伝わってきていた。彼は部屋を出ると、ウォルファに傍に居てやるよう促した。
「私は、父上の臨終の際に間に合わなかったことが未だに悔やまれる。故に、そなたも家の者と共にお側へ行ってあげなさい」
「……はい。」
今にも大粒の涙を流しそうな瞳で俯くと、彼女は家族を呼び出して部屋に入った。
ウォルファが来たと聞き、ジングは目を開いた。
「おお……ウォルファ………私の娘…私の……可愛い娘……」
「お父様、…ありがとう。お父様のこと、私は大好きよ。だから…だから、死なないで……」
「…馬鹿者。逆縁でないのだから、私は本望だ。」
涙を堪えきれず、むせ返る彼女の頭を優しく撫でると、ジングは穏やかな表情を見せた。
「──幸せ…だった…あり…がとう。」
そして、彼は眠るように息を引き取った。心臓が老化で衰えたために起きた、衰弱が原因だ。症状は以前からあったらしく、彼は自分の死期を悟っていたらしい。だから娘の想いを成就させるために、党派を裏切ってまでヒジェを推薦したのだ。
婚儀の件は、当然の如く延期。そしてウォルファは喪に服す期間が終わってからも、浮かない顔をしていた。
ヒジェはそんな彼女を元気付けるため、ずっと傍に寄り添い続けた。
「……ありがとう、ヒジェ様。」
「いいんだ。私との婚礼について考えるのは、心の哀しみが癒えてからでよい。」
彼は大きな手でウォルファの頬を撫でた。小さくうなずいた彼女は、また父との思い出に静かに浸り始めるのだった。
牡丹が蕾から花を咲かせ始めた。だがその根本に小さく咲いている菫は、牡丹に養分を奪われているせいなのか、ややしおれ始めている。オクチョンは憐れな菫を眺めた。少し間があって、彼女はそれを引き抜いて捨ててしまいなさいと命じた。
咲き誇る華と、散りゆく華。同時に咲くことはできない宿命のウォルファたちの運命は、残酷にも刻一刻と破滅へ向かい始めていた。
小鳥たちが春の訪れを歌う穏やかな昼下がり。それは実のところは二人の未来を歌っていたのかもしれない。