7、二つの真実
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
久しぶりに王宮を訪れたウォルファは、禧嬪に昇格したオクチョンと談笑していた。
「禧嬪様になってしまったんですから。もう迂闊にお話しできませんわ」
「そんな悲しいこと言わないで。話は変わりますが、兄上とは仲が宜しいようね」
禧嬪の一言にウォルファはたじろいだ。ばれてしまえばユンの耳に入る恐れがあるからだ。けれど、オクチョンは笑顔でこう言った。
「大丈夫。兄上も私も公言する気はありません。私達だけの秘密にしましょう」
「禧嬪様…」
彼女は微笑むと、オクチョンの方を見た。すっかり宮殿の女性になった彼女は美しく、輝いていた。思わずうっとりするウォルファに、オクチョンは失笑した。
「人は誰でも、誰かを愛するときれいになるのよ。」
「そうですか?なのにどうして私はきれいにならないのでしょうか?」
ヒジェのことを考えながら、やはりまともな人を愛さないと難しいのではと思った彼女は、眉をひそめた。すると、オクチョンは少しだけ悲しそうな顔をした。
「それは嫌味かしら?充分きれいよ。私なんかより、ずっと幸せになれると思うわ…」
「…禧嬪様?なにか、悩みがあるのですか?」
「いえ、ないわ。ただ…王様の心がもし。もし離れてしまったら、寵愛だけを取り柄にしていた女はどうやって生きていくのかしら?」
いつもは毅然としている彼女に、一瞬の影がさした。だが、ウォルファはそれに気づいておらず、笑顔で軽い返事をした。
「それこそ大丈夫だわ。だって禧嬪様のことを王様は大切に思っていらっしゃるんですから。」
「…そうね、考えすぎだわ。王子の母として少し疲れているのかもしれないわ」
すぐにいつもの凛とした彼女に戻ったことに安心したウォルファは、それから少し言葉を交わすと会釈して帰路に着こうとした。だが、珍しくオクチョンはそんな彼女を呼び止めた。
「────ウォルファ!」
「…禧嬪様?」
「ありがとう、ウォルファ。私の友達で居てくれて」
「やだ、これが最期みたいな言い方しないでくださいよ。まだまだ友達で居られるんですから」
「そうね、ウォルファ。引き留めて悪かったわ。またいつか、ね」
そして、二人は互いの居るべき場所に戻っていった。だが、まだこのときウォルファは知らなかった。ここから南人と西人の対立が激化していき、ヒジェと彼女の恋心に影を落とし始めることを。
そして、オクチョンとウォルファには、親友として会う機会があと少ししか残されていないことも。
ウォルファが帰ったあと、オクチョンは机の中に入っている毒薬の処方箋を焼き捨てた。それは大妃を亡きものにし、彼女の王妃になるという隠された野望を実現させる第一歩を踏み出すための切り札だった。
しばらくして部屋に入ってきたヒジェに、オクチョンは静かな声でこう言った。
「…兄上。もしトンイに知られたとしても、あの子を消すのに私は躊躇しません。ですが、ウォルファには、ウォルファだけには知られてはなりません。私は彼女を手にかけることは出来ないでしょう。」
「それは…私も同じです。本当は、証拠ごとウォルファを消さなければなりませんでした。ですが、私はどうしてもあの瞳に見入られると、いつもの冷酷なヒジェになれぬのです」
彼は震える手をもう片方の手で押さえつけた。それでも手は震えたままだった。
「それは、あの子を愛しているからですか?」
「わかりません。愛とは何なのか。私には……」
何故か涙が一筋、彼の頬を伝った。オクチョンは兄が泣くところなど初めて見たものだから、びっくりしてしまった。
「あ、兄上、何故泣いているのですか?」
「それもわかりません。ですが、これから我々がやろうとしていることが、あの子の人生を変えてしまいそうで、怖いのです。」
そういって涙を拭いたヒジェは、オクチョンを鋭い眼光で見据えた。
「──ですから、必ずやり遂げねばなりません。例えいつか彼女にさえ恨まれても、私は必ず禧嬪様を王妃に就けます。」
「…何故ですか?兄上」
「それが、私があの子の手を離さずに済む唯一の方法なのです。きっと、少しの間嫌っても、あの子はいつか解ってくれるはずですから。」
いつになく真剣な兄の姿に、オクチョンはウォルファに対する思慕の念を感じずにはいられなかった。そして彼は次なる計画の準備にとりかかるべく、就善堂を後にした。
家でもう年末のことを考えながら服や髪飾りを探していたウォルファは、ある箱を開けたときに不思議な物を見つけた。それは、柔らかめの素材で出来ている石飾りで、半分に分けられているらしく、もとは丸いものだったようだ。決して高級なものでは無さそうだったが、彼女は何故こんなものがここにあるのかと疑問に思った。そして、軽い気持ちで母であるソリョンに尋ねることにした。
「ねぇ、お母様。これ、なぁに?」
「───それは…」
母は、何か聞かれてはまずい物だったのか、一瞬表情を曇らせた。だが、ウォルファに少し待っているようにとだけ伝えると、父であるシム・ジング、そして兄のウンテクまで連れて戻ってきた。ただ事ではないぞと感じた彼女は、開けてはならない扉を開けてしまった気分になった。
それから暫くすると、ジングが重い口をあけ、語りだした。
「…ウォルファ。お前は、本当の娘ではないのだ」
「─え?私が、本当の娘ではないのですか?そんな、私は…私は、確かに物心ついたときからお父様とお母様の娘でした。ああ、でも、養子という可能性はありますよね。だって全然似ていませんし。」
突然の真相に頭の中が真っ白になったウォルファは、焦りを隠すことが出来なかった。そして、今度はウンテクから衝撃の事実を告げられた。
「──ウォルファ、お前は出産の時に命を落とした私の本当の妹の出産日に、家の前に捨てられていたんだ」
目の前が真っ暗になる。
───捨て子?私が?
「では…」
「お前を拾ったのは私と父上だ。我が子をすぐに亡くした母上は嘆き悲しみ取り乱していた。身分のわからないお前を拾うのはとても勇気要ることだった。だが、母上のことや天命のように家の前に捨てられたお前を、知らぬ振りは出来なかった。母上はお前に会わせるとすぐに喜んで泣いた。この子を亡くなった子の生まれ代わりだと思って育てる、とな」
呆然としているウォルファに、今度は母が涙をこらえながら言った。
「本当の身分が、お前は平民かもしれない。両班の庶子かもしれない。はたまた、両班の正妻の娘が訳あって捨てられたのかもしれない。そして、賤民かもしれない。でも、そんなことは関係ないわ、ウォルファ」
父がそれにうなずく。
「そうだ、ウォルファ。お前が例えどんな身分であっても、もう私達家族の一員だ。かけがえのない家族なんだ。だから、気にするな。必ずどんなことがあっても、守ってやる」
複雑な表情をしたままの彼女に、母が泣きながらこう言った。
「本当は、もっと早くに言うべきだった。でも、やっぱり出来なかったの。許して、ウォルファ。おろかな母を許して。」
「お母様…」
ウォルファは俯くと、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、この石は…」
「お前が捨てられた時に持たされていた唯一の物だ。これを持っていれば、いつか家族に会えるかもしれん。もし、お前が真実を受け止められるのならばな」
父の真実という言葉が重くのしかかった。
そして、この日彼女はどうしても眠ることが出来なかった。そこで思いきって内密に夜の外出を計画することにした。侍女のチェリョンは見つからないかどうか、はらはらしっぱなしだ。
「お嬢様、見つかったらどうするのですか?」
「いいのよ、すぐ戻れば。…それに、今夜は眠れなさそうだわ」
「お嬢様…」
彼女の気持ちもあながちわかるチェリョンは、渋々外出を承知した。
外はまだ日が落ちて少しなので、妓楼や飲み屋を中心に灯りがともっていた。だが、彼女はやはり何もする気になれず、結局道端の石段に座り込んだ。
往来の声が、外国語のような気がして耳に入ってこない。ただ反芻されるのは家族の言葉だった。
──ウォルファ。お前は、本当の娘ではないのだ。
──お前は出産の時に命を落とした私の本当の妹の出産日に、家の前に捨てられていたんだ
──本当の身分が、お前は平民かもしれない。両班の庶子かもしれない。はたまた、両班の正妻の娘が訳あって捨てられたのかもしれない。そして、賤民かもしれない。
──いつか家族に会えるかもしれん。もし、お前が真実を受け止められるのならばな。
ウォルファはいつのまにか耳を押さえながら泣いていた。
───嫌。嫌。そんなの嘘よ。嘘よ。
不安、驚き、捨て子だったという出生に対する漠然とした悲しみ、そして、実の家族に捨てられたという怒り。様々な感情が沸いては複雑に絡み合う。
そんなとき、偶然にも通りかかったのはヒジェだった。彼は大粒の涙を流しながら座り込んでいるウォルファを見つけると、近くに居た侍女とおぼしきチェリョンに話しかけた。
「…何故、あの子は泣いている?」
「チ、チャン様ではありませんか!お嬢様は…聞かずにおいてあげて下さい。お願いします」
すぐにヒジェに気づいたチェリョンは、慌てて会釈すると主人に会わせまいと立ちはだかった。だが、彼はそのまま引き下がるほど弱い男ではなかった。チェリョンを押し退けると、彼はそっとウォルファの傍に寄った。
「……どうした、ウォルファ。」
「ヒジェ様……」
彼の顔を見上げたウォルファは、涙でぼやけるいつもよりずっと優しく見えるその顔を見て、気がついた。
──ああ、そうだわ。私、この人に会いたかったんだ。
だが、それ以上の言葉を続けることが出来なかった。その様子を目の当たりにしたヒジェは、これはただ事ではないなと悟ると、黙って隣に腰を下ろした。
「…ユン様のことではありませんから、ご安心下さい。」
「そうか。…あんな男のことよりもっと深刻な話なようだから、何も聞かん。だが、その代わり…何も助けてやれん代わりに、隣に居させてほしい。今日はお前の傍に居たい。」
その言葉にますます涙が溢れる。彼女は小さくこくりと頷くと、鮮やかな深紅の服を着ているヒジェの肩に寄りかかった。その紅色が自分の心にまでじわりと染みていくような気がして、彼女はますます切ない思いに駈られた。
お互い、本当に言葉を交わさなかった。いつの間にか涙は枯れてしまい、ウォルファは疲れはてたのか、ぽつんぽつんと独り言のように語り始めた。
「───私、捨て子だったみたい。シム家の実の娘が死産した日、家の前に捨てられていたの。」
「…そうか。」
通りで似ていないと思ったわけだ。ヒジェは納得した。
「それでね、私、本当の身分がわからないの。本当は、両班じゃないかもしれないの」
「…だから?」
彼はそれでも顔色一つ変えずに話を聞いた。驚いたウォルファは、もたれていた肩から離れて彼の顔をまじまじと見入った。
「…嫌じゃ、ないの?」
「何がだ」
「だって、だって…それって私が賤民の可能性だってあるのよ?」
嫌われたくない一心で、彼女は必死に言葉を選んだ。だが、その必要はなかった。彼が静かに首を横に振ったのだ。
「知らん、そんなもの。憶測に過ぎん。別にそんな確証があるわけではないだろう?ん?」
「…まぁ、そうだけれど…」
「なら、私よりましだ。私の父は中人で通訳官だったが、母は賤民の出だ。故に、私はずっとそれを背負っている。だが、今のところいい服を着て、いい暮らしをしている。それに官職だって貰っている。人は見かけや身分にはよらぬ。人生においては、中身と結果と掴んだ物が重要なのだ。それともお前は、私を賤民の母を持っているからと嫌いになるのか?」
珍しく理路整然と正論を吐くヒジェに、いつの間にかウォルファは心動かされていた。そしてまた、この男のことを好きになっていた。彼女は大きく首を横に振って否定した。
「ううん、ならないわ。…だって…」
そんなあなたの心が何よりも好きだもの。そう言いそうになって慌てて言葉をまた探すはめになる。それだけで充分だといいたげな彼は、ふっと笑うと不意に彼女を抱き寄せた。
「なっ、何を…」
「…好きだ。お前が例えもし、賤民であろうとその気持ちは変わらぬ。身分なんてふざけた物よりもずっと大切なことを、俺は知っているからな。」
突然直球で告白を受けたウォルファは、また頭の中が真っ白になった。だが、今度はつい先程まで心を埋め尽くしていたえもいわれぬ悲しみではなく、喜びがその全てを変えてしまった。ちょうどオセロの碁石がたった一つ置かれるだけで総て白に変えてしまえるように。
「…この言葉は、大将昇進まで取っておくつもりだったが…。お前はどうも、俺の気持ちをいつも狂わせるらしい」
「ヒジェ様…」
透き通るほどの笑顔を向けられたウォルファは、また溢れだす涙を止められなかった。彼女は彼の大きく温かい胸で泣いた。
「…ありがとう。」
「気にするな。何かあったらいつでも俺が助けてやる故、安心するといい。」
その言葉に、ウォルファは何かひっかかった。必死に記憶を想起させ、ようやく思い出したのは幼い頃市場で出会った名前も知らない初恋の青年のことだった。そして、その顔立ちの良い笑顔がヒジェの笑顔に重なる。
「────覚えてる?女の子のこと。」
「…ん?」
何が言いたいのか全く理解していないヒジェは、そもそもどの女の子の話だろうかと眉をひそめた。彼女はさすがに多すぎて解りづらいかと思い直し、順を追って説明することにした。
「あなたがそうね…20代前半の頃、市場で10歳くらいの幼い女の子と出会っていない?」
「10歳くらいの…」
ヒジェも必死に記憶をたどる。だが、全く今のところわからない。ウォルファは続けて説明をした。
「手には、あなたに私が清国から帰ってきた日に渡した紐と同じ色のものを持っていたわ。近所の両班の子息に絡まれていた両班のお嬢様よ。…覚えていない?」
そこまで言われ、彼はようやくはっと思い出した。
「ああ!清国に留学へ行く日の出来事だな!年齢的には幼すぎて全く興味が無かったが、あと10年後くらいにまた会いたいと思った故、覚えているぞ」
彼らしい考え方だなと一瞬冷めたウォルファだったが、そんなことは言っていられない。彼女はじっとヒジェを見つめると、彼の輪郭に添って両手を当てた。
「なっ…意外に、積極的だな」
驚きとときめきで心臓が飛び出しそうになりながらも、彼は接吻と勘違いしているらしく、ゆっくりと目を細めながら顔を近づけはじめた。彼がかなりの至近距離に迫ったとき、ウォルファは涙ながらにこう言った。
「─────あなただわ。私の運命の人。」
「緊張しているのか?…そんなことはわかっておる。ちょっと静かにしておれ。」
まだこの変態はわからないのかとあきれ果てたウォルファはため息をつくと、未婚女性である証の一本の三つ編みを上に結い上げている鮮やかな長い布の髪飾りをはずし、三編みを幼子のように下に下ろした。
「な、何をしておる」
「これでもわからない?私がその女の子なのよ、ヒジェ様」
まっすぐに見つめてくる顔に見いっていると、彼はようやく気づいた。
「…お嬢さん…そなただったのか」
「ええ、そうよ。私の初恋の人は、あなただったの。名前も知らないあなただった…。もう、会えないと思っていたわ」
懐かしそうに、そしてまた恥じらいを持ってウォルファはうつむいた。
「けれど、今は違う。こんなに近くに居たんだもの。…もう一度、あなたに初恋をするわ。もちろん、あなたがいいなら…だけれど」
完全にヒジェに堕ちたウォルファは、顔を赤らめながら尋ねた。無論、彼の答えは決まっていた。
「当たり前だろう。…良いに、決まっておる」
「本当?嬉しい!!」
無邪気に抱きついてきた彼女を抱き締めながら、ヒジェはこう言った。
「ただし、約束してくれ。私は大将になるために、どんな手段も使う。それでも、決して恐れないとな」
「ええ、わかったわ。約束する。絶対あなたの傍にいる。どんなときも、あなたをわかってあげるわ」
その言葉に安心したのか、彼はほっと一息ついた。
ウォルファは、ヒジェがこれから何を始めるのか全くわかっていなかったが、少なくとも離れ難い程に愛していることは確かだった。二人の恋は、まだ始まったばかり。きっとこれから幸せなことが沢山待っているだろうと想像すると、二人は笑顔になれずにはいられなかった。
────だが、この時彼らはまだ気づいていなかった。この頃が幸せの絶頂だということを。
「禧嬪様になってしまったんですから。もう迂闊にお話しできませんわ」
「そんな悲しいこと言わないで。話は変わりますが、兄上とは仲が宜しいようね」
禧嬪の一言にウォルファはたじろいだ。ばれてしまえばユンの耳に入る恐れがあるからだ。けれど、オクチョンは笑顔でこう言った。
「大丈夫。兄上も私も公言する気はありません。私達だけの秘密にしましょう」
「禧嬪様…」
彼女は微笑むと、オクチョンの方を見た。すっかり宮殿の女性になった彼女は美しく、輝いていた。思わずうっとりするウォルファに、オクチョンは失笑した。
「人は誰でも、誰かを愛するときれいになるのよ。」
「そうですか?なのにどうして私はきれいにならないのでしょうか?」
ヒジェのことを考えながら、やはりまともな人を愛さないと難しいのではと思った彼女は、眉をひそめた。すると、オクチョンは少しだけ悲しそうな顔をした。
「それは嫌味かしら?充分きれいよ。私なんかより、ずっと幸せになれると思うわ…」
「…禧嬪様?なにか、悩みがあるのですか?」
「いえ、ないわ。ただ…王様の心がもし。もし離れてしまったら、寵愛だけを取り柄にしていた女はどうやって生きていくのかしら?」
いつもは毅然としている彼女に、一瞬の影がさした。だが、ウォルファはそれに気づいておらず、笑顔で軽い返事をした。
「それこそ大丈夫だわ。だって禧嬪様のことを王様は大切に思っていらっしゃるんですから。」
「…そうね、考えすぎだわ。王子の母として少し疲れているのかもしれないわ」
すぐにいつもの凛とした彼女に戻ったことに安心したウォルファは、それから少し言葉を交わすと会釈して帰路に着こうとした。だが、珍しくオクチョンはそんな彼女を呼び止めた。
「────ウォルファ!」
「…禧嬪様?」
「ありがとう、ウォルファ。私の友達で居てくれて」
「やだ、これが最期みたいな言い方しないでくださいよ。まだまだ友達で居られるんですから」
「そうね、ウォルファ。引き留めて悪かったわ。またいつか、ね」
そして、二人は互いの居るべき場所に戻っていった。だが、まだこのときウォルファは知らなかった。ここから南人と西人の対立が激化していき、ヒジェと彼女の恋心に影を落とし始めることを。
そして、オクチョンとウォルファには、親友として会う機会があと少ししか残されていないことも。
ウォルファが帰ったあと、オクチョンは机の中に入っている毒薬の処方箋を焼き捨てた。それは大妃を亡きものにし、彼女の王妃になるという隠された野望を実現させる第一歩を踏み出すための切り札だった。
しばらくして部屋に入ってきたヒジェに、オクチョンは静かな声でこう言った。
「…兄上。もしトンイに知られたとしても、あの子を消すのに私は躊躇しません。ですが、ウォルファには、ウォルファだけには知られてはなりません。私は彼女を手にかけることは出来ないでしょう。」
「それは…私も同じです。本当は、証拠ごとウォルファを消さなければなりませんでした。ですが、私はどうしてもあの瞳に見入られると、いつもの冷酷なヒジェになれぬのです」
彼は震える手をもう片方の手で押さえつけた。それでも手は震えたままだった。
「それは、あの子を愛しているからですか?」
「わかりません。愛とは何なのか。私には……」
何故か涙が一筋、彼の頬を伝った。オクチョンは兄が泣くところなど初めて見たものだから、びっくりしてしまった。
「あ、兄上、何故泣いているのですか?」
「それもわかりません。ですが、これから我々がやろうとしていることが、あの子の人生を変えてしまいそうで、怖いのです。」
そういって涙を拭いたヒジェは、オクチョンを鋭い眼光で見据えた。
「──ですから、必ずやり遂げねばなりません。例えいつか彼女にさえ恨まれても、私は必ず禧嬪様を王妃に就けます。」
「…何故ですか?兄上」
「それが、私があの子の手を離さずに済む唯一の方法なのです。きっと、少しの間嫌っても、あの子はいつか解ってくれるはずですから。」
いつになく真剣な兄の姿に、オクチョンはウォルファに対する思慕の念を感じずにはいられなかった。そして彼は次なる計画の準備にとりかかるべく、就善堂を後にした。
家でもう年末のことを考えながら服や髪飾りを探していたウォルファは、ある箱を開けたときに不思議な物を見つけた。それは、柔らかめの素材で出来ている石飾りで、半分に分けられているらしく、もとは丸いものだったようだ。決して高級なものでは無さそうだったが、彼女は何故こんなものがここにあるのかと疑問に思った。そして、軽い気持ちで母であるソリョンに尋ねることにした。
「ねぇ、お母様。これ、なぁに?」
「───それは…」
母は、何か聞かれてはまずい物だったのか、一瞬表情を曇らせた。だが、ウォルファに少し待っているようにとだけ伝えると、父であるシム・ジング、そして兄のウンテクまで連れて戻ってきた。ただ事ではないぞと感じた彼女は、開けてはならない扉を開けてしまった気分になった。
それから暫くすると、ジングが重い口をあけ、語りだした。
「…ウォルファ。お前は、本当の娘ではないのだ」
「─え?私が、本当の娘ではないのですか?そんな、私は…私は、確かに物心ついたときからお父様とお母様の娘でした。ああ、でも、養子という可能性はありますよね。だって全然似ていませんし。」
突然の真相に頭の中が真っ白になったウォルファは、焦りを隠すことが出来なかった。そして、今度はウンテクから衝撃の事実を告げられた。
「──ウォルファ、お前は出産の時に命を落とした私の本当の妹の出産日に、家の前に捨てられていたんだ」
目の前が真っ暗になる。
───捨て子?私が?
「では…」
「お前を拾ったのは私と父上だ。我が子をすぐに亡くした母上は嘆き悲しみ取り乱していた。身分のわからないお前を拾うのはとても勇気要ることだった。だが、母上のことや天命のように家の前に捨てられたお前を、知らぬ振りは出来なかった。母上はお前に会わせるとすぐに喜んで泣いた。この子を亡くなった子の生まれ代わりだと思って育てる、とな」
呆然としているウォルファに、今度は母が涙をこらえながら言った。
「本当の身分が、お前は平民かもしれない。両班の庶子かもしれない。はたまた、両班の正妻の娘が訳あって捨てられたのかもしれない。そして、賤民かもしれない。でも、そんなことは関係ないわ、ウォルファ」
父がそれにうなずく。
「そうだ、ウォルファ。お前が例えどんな身分であっても、もう私達家族の一員だ。かけがえのない家族なんだ。だから、気にするな。必ずどんなことがあっても、守ってやる」
複雑な表情をしたままの彼女に、母が泣きながらこう言った。
「本当は、もっと早くに言うべきだった。でも、やっぱり出来なかったの。許して、ウォルファ。おろかな母を許して。」
「お母様…」
ウォルファは俯くと、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、この石は…」
「お前が捨てられた時に持たされていた唯一の物だ。これを持っていれば、いつか家族に会えるかもしれん。もし、お前が真実を受け止められるのならばな」
父の真実という言葉が重くのしかかった。
そして、この日彼女はどうしても眠ることが出来なかった。そこで思いきって内密に夜の外出を計画することにした。侍女のチェリョンは見つからないかどうか、はらはらしっぱなしだ。
「お嬢様、見つかったらどうするのですか?」
「いいのよ、すぐ戻れば。…それに、今夜は眠れなさそうだわ」
「お嬢様…」
彼女の気持ちもあながちわかるチェリョンは、渋々外出を承知した。
外はまだ日が落ちて少しなので、妓楼や飲み屋を中心に灯りがともっていた。だが、彼女はやはり何もする気になれず、結局道端の石段に座り込んだ。
往来の声が、外国語のような気がして耳に入ってこない。ただ反芻されるのは家族の言葉だった。
──ウォルファ。お前は、本当の娘ではないのだ。
──お前は出産の時に命を落とした私の本当の妹の出産日に、家の前に捨てられていたんだ
──本当の身分が、お前は平民かもしれない。両班の庶子かもしれない。はたまた、両班の正妻の娘が訳あって捨てられたのかもしれない。そして、賤民かもしれない。
──いつか家族に会えるかもしれん。もし、お前が真実を受け止められるのならばな。
ウォルファはいつのまにか耳を押さえながら泣いていた。
───嫌。嫌。そんなの嘘よ。嘘よ。
不安、驚き、捨て子だったという出生に対する漠然とした悲しみ、そして、実の家族に捨てられたという怒り。様々な感情が沸いては複雑に絡み合う。
そんなとき、偶然にも通りかかったのはヒジェだった。彼は大粒の涙を流しながら座り込んでいるウォルファを見つけると、近くに居た侍女とおぼしきチェリョンに話しかけた。
「…何故、あの子は泣いている?」
「チ、チャン様ではありませんか!お嬢様は…聞かずにおいてあげて下さい。お願いします」
すぐにヒジェに気づいたチェリョンは、慌てて会釈すると主人に会わせまいと立ちはだかった。だが、彼はそのまま引き下がるほど弱い男ではなかった。チェリョンを押し退けると、彼はそっとウォルファの傍に寄った。
「……どうした、ウォルファ。」
「ヒジェ様……」
彼の顔を見上げたウォルファは、涙でぼやけるいつもよりずっと優しく見えるその顔を見て、気がついた。
──ああ、そうだわ。私、この人に会いたかったんだ。
だが、それ以上の言葉を続けることが出来なかった。その様子を目の当たりにしたヒジェは、これはただ事ではないなと悟ると、黙って隣に腰を下ろした。
「…ユン様のことではありませんから、ご安心下さい。」
「そうか。…あんな男のことよりもっと深刻な話なようだから、何も聞かん。だが、その代わり…何も助けてやれん代わりに、隣に居させてほしい。今日はお前の傍に居たい。」
その言葉にますます涙が溢れる。彼女は小さくこくりと頷くと、鮮やかな深紅の服を着ているヒジェの肩に寄りかかった。その紅色が自分の心にまでじわりと染みていくような気がして、彼女はますます切ない思いに駈られた。
お互い、本当に言葉を交わさなかった。いつの間にか涙は枯れてしまい、ウォルファは疲れはてたのか、ぽつんぽつんと独り言のように語り始めた。
「───私、捨て子だったみたい。シム家の実の娘が死産した日、家の前に捨てられていたの。」
「…そうか。」
通りで似ていないと思ったわけだ。ヒジェは納得した。
「それでね、私、本当の身分がわからないの。本当は、両班じゃないかもしれないの」
「…だから?」
彼はそれでも顔色一つ変えずに話を聞いた。驚いたウォルファは、もたれていた肩から離れて彼の顔をまじまじと見入った。
「…嫌じゃ、ないの?」
「何がだ」
「だって、だって…それって私が賤民の可能性だってあるのよ?」
嫌われたくない一心で、彼女は必死に言葉を選んだ。だが、その必要はなかった。彼が静かに首を横に振ったのだ。
「知らん、そんなもの。憶測に過ぎん。別にそんな確証があるわけではないだろう?ん?」
「…まぁ、そうだけれど…」
「なら、私よりましだ。私の父は中人で通訳官だったが、母は賤民の出だ。故に、私はずっとそれを背負っている。だが、今のところいい服を着て、いい暮らしをしている。それに官職だって貰っている。人は見かけや身分にはよらぬ。人生においては、中身と結果と掴んだ物が重要なのだ。それともお前は、私を賤民の母を持っているからと嫌いになるのか?」
珍しく理路整然と正論を吐くヒジェに、いつの間にかウォルファは心動かされていた。そしてまた、この男のことを好きになっていた。彼女は大きく首を横に振って否定した。
「ううん、ならないわ。…だって…」
そんなあなたの心が何よりも好きだもの。そう言いそうになって慌てて言葉をまた探すはめになる。それだけで充分だといいたげな彼は、ふっと笑うと不意に彼女を抱き寄せた。
「なっ、何を…」
「…好きだ。お前が例えもし、賤民であろうとその気持ちは変わらぬ。身分なんてふざけた物よりもずっと大切なことを、俺は知っているからな。」
突然直球で告白を受けたウォルファは、また頭の中が真っ白になった。だが、今度はつい先程まで心を埋め尽くしていたえもいわれぬ悲しみではなく、喜びがその全てを変えてしまった。ちょうどオセロの碁石がたった一つ置かれるだけで総て白に変えてしまえるように。
「…この言葉は、大将昇進まで取っておくつもりだったが…。お前はどうも、俺の気持ちをいつも狂わせるらしい」
「ヒジェ様…」
透き通るほどの笑顔を向けられたウォルファは、また溢れだす涙を止められなかった。彼女は彼の大きく温かい胸で泣いた。
「…ありがとう。」
「気にするな。何かあったらいつでも俺が助けてやる故、安心するといい。」
その言葉に、ウォルファは何かひっかかった。必死に記憶を想起させ、ようやく思い出したのは幼い頃市場で出会った名前も知らない初恋の青年のことだった。そして、その顔立ちの良い笑顔がヒジェの笑顔に重なる。
「────覚えてる?女の子のこと。」
「…ん?」
何が言いたいのか全く理解していないヒジェは、そもそもどの女の子の話だろうかと眉をひそめた。彼女はさすがに多すぎて解りづらいかと思い直し、順を追って説明することにした。
「あなたがそうね…20代前半の頃、市場で10歳くらいの幼い女の子と出会っていない?」
「10歳くらいの…」
ヒジェも必死に記憶をたどる。だが、全く今のところわからない。ウォルファは続けて説明をした。
「手には、あなたに私が清国から帰ってきた日に渡した紐と同じ色のものを持っていたわ。近所の両班の子息に絡まれていた両班のお嬢様よ。…覚えていない?」
そこまで言われ、彼はようやくはっと思い出した。
「ああ!清国に留学へ行く日の出来事だな!年齢的には幼すぎて全く興味が無かったが、あと10年後くらいにまた会いたいと思った故、覚えているぞ」
彼らしい考え方だなと一瞬冷めたウォルファだったが、そんなことは言っていられない。彼女はじっとヒジェを見つめると、彼の輪郭に添って両手を当てた。
「なっ…意外に、積極的だな」
驚きとときめきで心臓が飛び出しそうになりながらも、彼は接吻と勘違いしているらしく、ゆっくりと目を細めながら顔を近づけはじめた。彼がかなりの至近距離に迫ったとき、ウォルファは涙ながらにこう言った。
「─────あなただわ。私の運命の人。」
「緊張しているのか?…そんなことはわかっておる。ちょっと静かにしておれ。」
まだこの変態はわからないのかとあきれ果てたウォルファはため息をつくと、未婚女性である証の一本の三つ編みを上に結い上げている鮮やかな長い布の髪飾りをはずし、三編みを幼子のように下に下ろした。
「な、何をしておる」
「これでもわからない?私がその女の子なのよ、ヒジェ様」
まっすぐに見つめてくる顔に見いっていると、彼はようやく気づいた。
「…お嬢さん…そなただったのか」
「ええ、そうよ。私の初恋の人は、あなただったの。名前も知らないあなただった…。もう、会えないと思っていたわ」
懐かしそうに、そしてまた恥じらいを持ってウォルファはうつむいた。
「けれど、今は違う。こんなに近くに居たんだもの。…もう一度、あなたに初恋をするわ。もちろん、あなたがいいなら…だけれど」
完全にヒジェに堕ちたウォルファは、顔を赤らめながら尋ねた。無論、彼の答えは決まっていた。
「当たり前だろう。…良いに、決まっておる」
「本当?嬉しい!!」
無邪気に抱きついてきた彼女を抱き締めながら、ヒジェはこう言った。
「ただし、約束してくれ。私は大将になるために、どんな手段も使う。それでも、決して恐れないとな」
「ええ、わかったわ。約束する。絶対あなたの傍にいる。どんなときも、あなたをわかってあげるわ」
その言葉に安心したのか、彼はほっと一息ついた。
ウォルファは、ヒジェがこれから何を始めるのか全くわかっていなかったが、少なくとも離れ難い程に愛していることは確かだった。二人の恋は、まだ始まったばかり。きっとこれから幸せなことが沢山待っているだろうと想像すると、二人は笑顔になれずにはいられなかった。
────だが、この時彼らはまだ気づいていなかった。この頃が幸せの絶頂だということを。