6、換局の兆し
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ウンテクはウォルファが捕盗庁から出てきたところを捕まえると、わざとユンの話をした。
「よく帰ってきたな、ウォルファ。ユン様もお喜びになっていたぞ」
「ユン様ですか……」
「ああ。早く日取りを決めて顔合わせをせねばな……」
彼女の顔に陰りが見えたことをウンテクは見逃さなかった。
「───まさか、心変わりしたのではないだろうな」
「え……いえ。違います、お兄様。ただ……まだ、早すぎます。あと一年ほど待って下らさないか、左議政様にお伺いしてくれませんか?」
彼はウォルファの目をじっと見た。そして今、大妃様が存命ということを考えると、どうせヒジェは年内に従事官にさえなれないだろうと判断した。
───一度くらい、いいか……どうせ、結婚すればもう自由を失うのだから。
ウンテクはあまり考えていない振りをして、うなずいた。
「本当?嬉しい、ありがとう!!お兄様、大好きよ」
「帰ろうか、ウォルファ」
「ええ!」
勢い余って抱きついてきた妹の頭を不器用そうに撫でると、ウンテクは帰り道を歩き始めた。上機嫌なウォルファは、明日からまたヒジェに会える喜びを噛みしめながら、少しだけ明るく見える月を見上げるのだった。
帰りに呼び出されたのはヒジェも同じだった。テソクの家に呼び出され、彼はさすがに叱られた。
「……まぁ、よい。うちの許嫁が死なずに済んだのだから」
「そうでしたか、あの子はご子息様の……」
ほんの一瞬歪んだ表情をテソクはとらえると、すぐにヒジェがウォルファのことに何かしらの興味を抱いていることを悟った。
「良い子であろう。優しく、気立ても良いし、器量は指折りに入るくらい。まさにうちのユンにふさわしい娘だ」
「ええ、そうですね。中人風情には羨ましい限りです」
「そなたも良い娘をめとるのだぞ。それが家を強くする。……ただし分相応の、だがな」
最後の言葉が、ヒジェの心に刺さった。ふと、幼い頃のことを思い出した。母親が賤民だったせいで、賤民狩りに遭ったことがある彼は、近所の子息に馬鹿にされてきた過去を持っていた。あのときの屈辱が忘れられない彼は、今もそのときのことを胸に生きているのだ。
──お前は賤民の子供だからな!偉くはなれないさ
──顔だけは良いんだから、良いところの奥様の間男にでもなればいいんじゃないか?楽できるかもな!
──一緒にするな!俺たちとお前は違うんだ。
分相応の。彼はずっと、その言葉だけは大嫌いだった。
────不相応なものを求めて何が悪い。父は確かに通訳官だった。だが今は朝廷の重役に就いている。母も賤民と言われるほど酷い出ではない。
ヒジェの中で、今までずっと放蕩息子の仮面の裏に隠してきた野心と本性、そして闇が溢れた。彼は笑顔で一言、はいと返事をするとそのまま家に帰った。
次の日、彼がやって来たのは妹のいる就善堂だった。珍しく哀しい顔をしている兄に、彼女は不安を感じずにはいられなかった。
「兄上、どうしたのですか?」
「……妹の威光を、傘に着る決心がつきました」
「え?」
「たかだか身分のせいで、馬鹿にされるのはもう疲れました。……尚宮様、この兄も同じことを目指して生きましょう」
ヒジェは静かにうなずいた。一体何がここまで兄を動かしたのかはさっぱり解らないが、オクチョンは兄が暴走しないことを祈りながら小さくため息をつき、承諾した。
「良いでしょう、兄上。ただ、恐ろしいことはしないでください」
「尚宮様。言ったはずです。汚いことは兄に任せてくださいと。それに、そうしないと手に入れられぬものもあるのです。それは尚宮様が一番ご存じなはず」
「兄上……」
ヒジェはこの時既に、あることを決心していた。そしてそれが、ここから10年以上続いていくこととなる換局政争の始まりになるとは、まだヒジェもオクチョンも気づいてはいなかった。
そして、そのことがウォルファと彼の恋さえも形を歪めてしまうほどの事件になろうとは……
ヒジェは空を見上げながら、家の縁側に座って月を眺めていた。
「ヒジェ、風邪をひきますよ」
「母上…大丈夫です。もう子供ではありませんから」
上着を持ってきたユン氏こと母のソンリプは、珍しく真面目な顔つきをしている息子の隣に座った。
「……悩んでいることでもあるのか?」
「ええ、まぁ。…母上」
「何だ、ヒジェ」
「私が清国へ留学に行く日の朝、言ったことを覚えていますか?」
それは、ヒジェが清国の言葉に堪能であることを認めた叔父のチャン・ヒョンが留学費用を出してくれ、旅立つ時に心配する母に言った言葉だった。
「────必ず、全て手にいれてみせる。王座以外のものは全て。と」
握りしめた自分の拳を見る息子の眼差しですぐ、ソンリプは本心を見抜いた。
「ヒジェ…。そなた、もしや…もしやとは思うが、好いている女人でも出来たのか?」
「ええ、そうです」
ヒジェは母が反対するであろうと思いながらも、敢えて彼はそう言った。だが、意外にもソンリプは反対しなかった。
「尚宮様─そなたの妹からは聞いていた。気になっておる娘が居て、とても良い娘なのだと。……西人のシム殿のところのご令嬢だな?」
「参りましたね、母上と尚宮様には何も隠せません……」
「手に入れればよい。そなたがこれほどに慕った女人は見たことがない」
彼は母にようやく視線を移した。その目を見てすぐに彼女は息子が既に手にいれる準備を始めていることを悟った。そしてそれが、一族の繁栄に繋がっていくことも。
こうして、ヒジェの命を懸けた愛への闘いか始まることになった。
──待っていろ、ウォルファ。俺は必ずやり遂げる。お前をこの手で、国一番の幸せな女人にしてやる。
懐からあのとき手当てしてくれた時に使った布を取り出すと、彼はそれを月明かりにかざし、そう心に誓った。
それが果てしない苦難の道であることなど、彼はまだ知るよしもなかった。
それから数日後、キム・ユンダルという密輸商人の男が逮捕され、その証拠を守り抜いたヒジェとウォルファは、その後ユンダルの処遇を任された左議政、オ・テソクから称賛を受けた。ウォルファには相応の褒美が与えられ、ヒジェには別のものが後日与えられることとなった。
「何なのかしら、あなたの褒美って」
石段に並んで座りながらそう呟いたウォルファに、ヒジェは嘘か本気かわからない声色で返事をした。
「妓楼1つ分の美女だったら良いのにな……」
「あなたって本当に、情けなくって最低な人……」
冗談めかして笑うヒジェにウォルファはまたしても呆れていた。だが、その口調は心からけなしているようには思えない。彼は立ち上がると、ウォルファに手を差し伸べ、こう言った。
「さ、行こう。異動が発表される」
「…………うん」
互いに名を名乗り合ったあの日とは違い、彼女は笑顔でヒジェの大きくたくましい手を取ると、石段から立ち上がった。
「今から異動を発表する」
ヒジェは少しだけ離れたところにいるウォルファに目配せをした。
「左捕盗庁従事官、ソ・ヨンギ。右捕盗庁従事官──」
ヒジェは息を飲んだ。この異動で従事官になれば、大将になれる可能性がぐっと高まるのだ。そして、役人の口が動いた。
「──チャン・ヒジェ」
全員に衝撃が走った。当の本人は呆然としている。ウォルファは喜びのあまり駆け寄って、彼の手を取った。
「褒美ってこのことだったのね!ヒジェ様!」
「ああ、みたいだな……」
他の人々も口々に祝辞を述べているが、彼の耳にはもう何も届かない。
──ウォルファ、俺を待っていてくれるか。約束を果たすその日まで。
じっと見つめるその瞳の向こうには、抱き締めたいと思うほどに愛している女性の姿。それも夢ではないという喜びに彼は微笑んだ。すると、まだ連絡の続きがあるらしく、役人が続きを読み始めた。
「静粛に!また右捕盗庁書庫整理長には、前任の者が職を辞したため、左捕盗庁現整理長のシム・ウォルファを任命する」
「えっ……」
丁度もう離れてしまうという哀しみにじわじわととりつかれ始めていたウォルファにとって、寝耳に水の話だった。
「おお…これからも一緒だな、ウォルファ」
「宜しくお願いします、チャン従事官様」
そっと彼女の肩に置かれたヒジェの手は、大きくて頼もしい限りだった。ひょっとすると、叶わぬ恋には終わらないかもしれない。ただその喜びが二人を支配していた。
だが、その恋が悲劇に変貌していくことを誰が一体予想しただろうか。全ては、この換局の第一歩を基に崩れ始めることになる。二人の未来も。そして、最終的には南人の未来さえも………
ウンテクは人事の知らせを聞いてすぐに驚きのあまり立ち上がった。
「何!?チャン・ヒジェが従事官に!?しかも妹も同じ配属先に!?」
「らしいぞ、ウンテク」
──しまった。
彼は完全に楽観視していた。従事官になれば、トントン拍子で大将になりかねない。
─ウォルファ……あいつは駄目だ……絶対。
そして彼は決意した。
────絶対、妹をあいつから守る。
その妹を思う決心は、後に彼の人生を変えることとなるのだが、それはまだ少し先の話である。
笑う者も、泣く者もいた人事から半年程の月日が流れた。右捕盗庁は、左捕盗庁と違って今日も騒がしかった。従事官になってかなり尊大になり始めたヒジェは、輿で通勤するだけでなく、直属の部下にも当たり始めていた。
「おい!この仕事を片付けておけと言ったはずだ。どうなっている」
「申し訳ございません…仕事が追い付かず…」
「お前の都合など知らん!!」
彼が機嫌を悪くする度、部下の男はいつも決まって同じ人物を従事官室に呼び出していた。その人は書庫でヒジェの横暴を知らず、いつものように書類を整理していた。
「…シム整理長、従事官室にこれを持って参上しろ」
「えぇ…?またですか?」
「頼む!!その間にこの書類を仕上げるから…俺はこれ以上遅らせたら、もうチャン従事官様に殺される」
ウォルファはやれやれと首を横に振った。このところ目に余る横暴さは噂に聞いていたが、彼女の前でヒジェは機嫌がよくなるせいか猫を被るので、実質被害にあったことはない。
「諫めておきましょうか?」
「止めてください!!!俺が殺されます!!」
心底震えている様子の武官に疑問を抱きながらも、彼女は書類を受けとると渋々従事官室に向かった。
部屋は明らかに仕事をしていない人の様子だった。奥には一体どこから持ってきたのか、美味しそうな茶菓子が置かれており、その前に大きな態度で座っていたヒジェがいた。彼は音もなく入ってきたウォルファの姿に驚き、あわてて座り直した。
「お、おまえか。入るなら一言くらい言わんか」
「真面目にお仕事なさっているのを邪魔したくなかったのですが……本当に怠惰なお姿」
怠惰とけなされて少しだけしょげたヒジェは、適当に懐紙に菓子を載せると、黙ってばつが悪そうにウォルファに差し出した。それから隣に置いてあった未使用の陶磁器製の湯飲みに茶を注ぐと、彼女に座るように促した。
「怠惰なのではない。左議政様に早急に相応の官職を、と直訴している最中なのだ」
「嘘ばかり。その言い訳は聞きあきました」
彼女が澄まし顔でそう言いながら菓子に手を伸ばそうとすると、ヒジェは笑顔で懐紙を自分の手元に引き寄せた。
「──気に入らぬなら、食べずともよろしい」
「まぁ、意地悪……」
二人は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。従事官になってからは忙しくなってしまったヒジェと、その雑務や仕事に追われるウォルファにとって、これが久しぶりの談笑だった。ふと、彼がさも思い付いたように言い出した。
「そうだ、ウォルファ。もうすぐ年末だな」
「そうでしたね。」
普通の返事を返した瞬間、彼女はしまったと思った。
それは、一緒に年末の祭りの夜を過ごそうという誘いだったのだ。慌ててウォルファはヒジェに正解の返事をし直した。
「ええと……そうですね。……私はたぶん今年も独りですけど」
少し、卑屈すぎたかしら……?
ウォルファは少しだけ心配したが、ヒジェは存外笑顔だった。彼は突然小指をたてると、彼女の目の前に突きだした。
「……これは?」
「約束しろ。守ってくれなければ許さんぞ」
「ええと……何の約束かしら……?」
余裕ぶっていたヒジェだったが、この質問にはさすがに狼狽した。珍しく顔を紅く染めた彼は、小さな声で返事した。
「……それは……年末……共に過ごせということだな」
素直なヒジェに驚いたウォルファは、無邪気な笑顔で返すと自分の小指を彼の小指に絡めた。
「嘘ついたら禧嬪様に言いつけるぞ、指切った」
「そなた、なかなか怖いことを言うな……」
大妃様が崩御したことにより、オクチョンの昇格に異を唱えるものが居なくなり、彼女はついに側室の中で最高の位である嬪に就くことになったのだ。人々は皆、都合がよすぎると彼女とその背後につく南人の大妃暗殺を噂していたが、ウォルファはそんなことは信じていなかった。ふと、彼女は質問を口に出した。
「ねぇ、ヒジェ様。どうして私なの?」
「ん?」
「どうして、私を選んだの?」
彼女はずっと疑問に思っていた。だがヒジェの方が今回もやはり一枚上手だった。
「そういうウォルファは、どうなんだ?」
「えっ……それは……その……」
途端に耳まで真っ赤になった彼女は、心の中で呟いた。
───だって、ヒジェ様のことを……お慕いしているから。お側に居られるだけで、幸せだから。
それが彼女の本心だった。ところがヒジェは、まだ自分の気持ちにあまり気づいていなかった。
──私は所詮、独占したいのと所有欲だな。
所有欲と愛情の違いがわからない彼は、未だに本当に彼女のことを愛しく思っているのかが、気持ちのどこかではっきりしていなかった。だが少なくとも、毎度ウォルファはヒジェの生きる速度や考えを乱してくる。普通なら気にくわないところだが、何故か彼女ならばまぁ、いいかとなってしまう自分がいる。
「わかったわかった。私があまりにいい男過ぎて困るのだな?うんうん。良き良き。」
「なっ……本当に自分好きですね」
久しぶりに冗談を交えて笑う彼を見て、ますますウォルファは大妃様を彼が暗殺するなどありえないと確信した。そして、いつまでも彼がもう飽きたと言うその日まで、傍に居られたらどれ程幸せだろうかと想像した。そんな未来を夢見ながら従事官室を後にした彼女は、すっかり冬めいてきた空を見上げ、昼の月を眺めながら微笑んだ。
冬が、待ち遠しい冬が、もうすぐやって来る。そう感じさせる日だった。
「よく帰ってきたな、ウォルファ。ユン様もお喜びになっていたぞ」
「ユン様ですか……」
「ああ。早く日取りを決めて顔合わせをせねばな……」
彼女の顔に陰りが見えたことをウンテクは見逃さなかった。
「───まさか、心変わりしたのではないだろうな」
「え……いえ。違います、お兄様。ただ……まだ、早すぎます。あと一年ほど待って下らさないか、左議政様にお伺いしてくれませんか?」
彼はウォルファの目をじっと見た。そして今、大妃様が存命ということを考えると、どうせヒジェは年内に従事官にさえなれないだろうと判断した。
───一度くらい、いいか……どうせ、結婚すればもう自由を失うのだから。
ウンテクはあまり考えていない振りをして、うなずいた。
「本当?嬉しい、ありがとう!!お兄様、大好きよ」
「帰ろうか、ウォルファ」
「ええ!」
勢い余って抱きついてきた妹の頭を不器用そうに撫でると、ウンテクは帰り道を歩き始めた。上機嫌なウォルファは、明日からまたヒジェに会える喜びを噛みしめながら、少しだけ明るく見える月を見上げるのだった。
帰りに呼び出されたのはヒジェも同じだった。テソクの家に呼び出され、彼はさすがに叱られた。
「……まぁ、よい。うちの許嫁が死なずに済んだのだから」
「そうでしたか、あの子はご子息様の……」
ほんの一瞬歪んだ表情をテソクはとらえると、すぐにヒジェがウォルファのことに何かしらの興味を抱いていることを悟った。
「良い子であろう。優しく、気立ても良いし、器量は指折りに入るくらい。まさにうちのユンにふさわしい娘だ」
「ええ、そうですね。中人風情には羨ましい限りです」
「そなたも良い娘をめとるのだぞ。それが家を強くする。……ただし分相応の、だがな」
最後の言葉が、ヒジェの心に刺さった。ふと、幼い頃のことを思い出した。母親が賤民だったせいで、賤民狩りに遭ったことがある彼は、近所の子息に馬鹿にされてきた過去を持っていた。あのときの屈辱が忘れられない彼は、今もそのときのことを胸に生きているのだ。
──お前は賤民の子供だからな!偉くはなれないさ
──顔だけは良いんだから、良いところの奥様の間男にでもなればいいんじゃないか?楽できるかもな!
──一緒にするな!俺たちとお前は違うんだ。
分相応の。彼はずっと、その言葉だけは大嫌いだった。
────不相応なものを求めて何が悪い。父は確かに通訳官だった。だが今は朝廷の重役に就いている。母も賤民と言われるほど酷い出ではない。
ヒジェの中で、今までずっと放蕩息子の仮面の裏に隠してきた野心と本性、そして闇が溢れた。彼は笑顔で一言、はいと返事をするとそのまま家に帰った。
次の日、彼がやって来たのは妹のいる就善堂だった。珍しく哀しい顔をしている兄に、彼女は不安を感じずにはいられなかった。
「兄上、どうしたのですか?」
「……妹の威光を、傘に着る決心がつきました」
「え?」
「たかだか身分のせいで、馬鹿にされるのはもう疲れました。……尚宮様、この兄も同じことを目指して生きましょう」
ヒジェは静かにうなずいた。一体何がここまで兄を動かしたのかはさっぱり解らないが、オクチョンは兄が暴走しないことを祈りながら小さくため息をつき、承諾した。
「良いでしょう、兄上。ただ、恐ろしいことはしないでください」
「尚宮様。言ったはずです。汚いことは兄に任せてくださいと。それに、そうしないと手に入れられぬものもあるのです。それは尚宮様が一番ご存じなはず」
「兄上……」
ヒジェはこの時既に、あることを決心していた。そしてそれが、ここから10年以上続いていくこととなる換局政争の始まりになるとは、まだヒジェもオクチョンも気づいてはいなかった。
そして、そのことがウォルファと彼の恋さえも形を歪めてしまうほどの事件になろうとは……
ヒジェは空を見上げながら、家の縁側に座って月を眺めていた。
「ヒジェ、風邪をひきますよ」
「母上…大丈夫です。もう子供ではありませんから」
上着を持ってきたユン氏こと母のソンリプは、珍しく真面目な顔つきをしている息子の隣に座った。
「……悩んでいることでもあるのか?」
「ええ、まぁ。…母上」
「何だ、ヒジェ」
「私が清国へ留学に行く日の朝、言ったことを覚えていますか?」
それは、ヒジェが清国の言葉に堪能であることを認めた叔父のチャン・ヒョンが留学費用を出してくれ、旅立つ時に心配する母に言った言葉だった。
「────必ず、全て手にいれてみせる。王座以外のものは全て。と」
握りしめた自分の拳を見る息子の眼差しですぐ、ソンリプは本心を見抜いた。
「ヒジェ…。そなた、もしや…もしやとは思うが、好いている女人でも出来たのか?」
「ええ、そうです」
ヒジェは母が反対するであろうと思いながらも、敢えて彼はそう言った。だが、意外にもソンリプは反対しなかった。
「尚宮様─そなたの妹からは聞いていた。気になっておる娘が居て、とても良い娘なのだと。……西人のシム殿のところのご令嬢だな?」
「参りましたね、母上と尚宮様には何も隠せません……」
「手に入れればよい。そなたがこれほどに慕った女人は見たことがない」
彼は母にようやく視線を移した。その目を見てすぐに彼女は息子が既に手にいれる準備を始めていることを悟った。そしてそれが、一族の繁栄に繋がっていくことも。
こうして、ヒジェの命を懸けた愛への闘いか始まることになった。
──待っていろ、ウォルファ。俺は必ずやり遂げる。お前をこの手で、国一番の幸せな女人にしてやる。
懐からあのとき手当てしてくれた時に使った布を取り出すと、彼はそれを月明かりにかざし、そう心に誓った。
それが果てしない苦難の道であることなど、彼はまだ知るよしもなかった。
それから数日後、キム・ユンダルという密輸商人の男が逮捕され、その証拠を守り抜いたヒジェとウォルファは、その後ユンダルの処遇を任された左議政、オ・テソクから称賛を受けた。ウォルファには相応の褒美が与えられ、ヒジェには別のものが後日与えられることとなった。
「何なのかしら、あなたの褒美って」
石段に並んで座りながらそう呟いたウォルファに、ヒジェは嘘か本気かわからない声色で返事をした。
「妓楼1つ分の美女だったら良いのにな……」
「あなたって本当に、情けなくって最低な人……」
冗談めかして笑うヒジェにウォルファはまたしても呆れていた。だが、その口調は心からけなしているようには思えない。彼は立ち上がると、ウォルファに手を差し伸べ、こう言った。
「さ、行こう。異動が発表される」
「…………うん」
互いに名を名乗り合ったあの日とは違い、彼女は笑顔でヒジェの大きくたくましい手を取ると、石段から立ち上がった。
「今から異動を発表する」
ヒジェは少しだけ離れたところにいるウォルファに目配せをした。
「左捕盗庁従事官、ソ・ヨンギ。右捕盗庁従事官──」
ヒジェは息を飲んだ。この異動で従事官になれば、大将になれる可能性がぐっと高まるのだ。そして、役人の口が動いた。
「──チャン・ヒジェ」
全員に衝撃が走った。当の本人は呆然としている。ウォルファは喜びのあまり駆け寄って、彼の手を取った。
「褒美ってこのことだったのね!ヒジェ様!」
「ああ、みたいだな……」
他の人々も口々に祝辞を述べているが、彼の耳にはもう何も届かない。
──ウォルファ、俺を待っていてくれるか。約束を果たすその日まで。
じっと見つめるその瞳の向こうには、抱き締めたいと思うほどに愛している女性の姿。それも夢ではないという喜びに彼は微笑んだ。すると、まだ連絡の続きがあるらしく、役人が続きを読み始めた。
「静粛に!また右捕盗庁書庫整理長には、前任の者が職を辞したため、左捕盗庁現整理長のシム・ウォルファを任命する」
「えっ……」
丁度もう離れてしまうという哀しみにじわじわととりつかれ始めていたウォルファにとって、寝耳に水の話だった。
「おお…これからも一緒だな、ウォルファ」
「宜しくお願いします、チャン従事官様」
そっと彼女の肩に置かれたヒジェの手は、大きくて頼もしい限りだった。ひょっとすると、叶わぬ恋には終わらないかもしれない。ただその喜びが二人を支配していた。
だが、その恋が悲劇に変貌していくことを誰が一体予想しただろうか。全ては、この換局の第一歩を基に崩れ始めることになる。二人の未来も。そして、最終的には南人の未来さえも………
ウンテクは人事の知らせを聞いてすぐに驚きのあまり立ち上がった。
「何!?チャン・ヒジェが従事官に!?しかも妹も同じ配属先に!?」
「らしいぞ、ウンテク」
──しまった。
彼は完全に楽観視していた。従事官になれば、トントン拍子で大将になりかねない。
─ウォルファ……あいつは駄目だ……絶対。
そして彼は決意した。
────絶対、妹をあいつから守る。
その妹を思う決心は、後に彼の人生を変えることとなるのだが、それはまだ少し先の話である。
笑う者も、泣く者もいた人事から半年程の月日が流れた。右捕盗庁は、左捕盗庁と違って今日も騒がしかった。従事官になってかなり尊大になり始めたヒジェは、輿で通勤するだけでなく、直属の部下にも当たり始めていた。
「おい!この仕事を片付けておけと言ったはずだ。どうなっている」
「申し訳ございません…仕事が追い付かず…」
「お前の都合など知らん!!」
彼が機嫌を悪くする度、部下の男はいつも決まって同じ人物を従事官室に呼び出していた。その人は書庫でヒジェの横暴を知らず、いつものように書類を整理していた。
「…シム整理長、従事官室にこれを持って参上しろ」
「えぇ…?またですか?」
「頼む!!その間にこの書類を仕上げるから…俺はこれ以上遅らせたら、もうチャン従事官様に殺される」
ウォルファはやれやれと首を横に振った。このところ目に余る横暴さは噂に聞いていたが、彼女の前でヒジェは機嫌がよくなるせいか猫を被るので、実質被害にあったことはない。
「諫めておきましょうか?」
「止めてください!!!俺が殺されます!!」
心底震えている様子の武官に疑問を抱きながらも、彼女は書類を受けとると渋々従事官室に向かった。
部屋は明らかに仕事をしていない人の様子だった。奥には一体どこから持ってきたのか、美味しそうな茶菓子が置かれており、その前に大きな態度で座っていたヒジェがいた。彼は音もなく入ってきたウォルファの姿に驚き、あわてて座り直した。
「お、おまえか。入るなら一言くらい言わんか」
「真面目にお仕事なさっているのを邪魔したくなかったのですが……本当に怠惰なお姿」
怠惰とけなされて少しだけしょげたヒジェは、適当に懐紙に菓子を載せると、黙ってばつが悪そうにウォルファに差し出した。それから隣に置いてあった未使用の陶磁器製の湯飲みに茶を注ぐと、彼女に座るように促した。
「怠惰なのではない。左議政様に早急に相応の官職を、と直訴している最中なのだ」
「嘘ばかり。その言い訳は聞きあきました」
彼女が澄まし顔でそう言いながら菓子に手を伸ばそうとすると、ヒジェは笑顔で懐紙を自分の手元に引き寄せた。
「──気に入らぬなら、食べずともよろしい」
「まぁ、意地悪……」
二人は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。従事官になってからは忙しくなってしまったヒジェと、その雑務や仕事に追われるウォルファにとって、これが久しぶりの談笑だった。ふと、彼がさも思い付いたように言い出した。
「そうだ、ウォルファ。もうすぐ年末だな」
「そうでしたね。」
普通の返事を返した瞬間、彼女はしまったと思った。
それは、一緒に年末の祭りの夜を過ごそうという誘いだったのだ。慌ててウォルファはヒジェに正解の返事をし直した。
「ええと……そうですね。……私はたぶん今年も独りですけど」
少し、卑屈すぎたかしら……?
ウォルファは少しだけ心配したが、ヒジェは存外笑顔だった。彼は突然小指をたてると、彼女の目の前に突きだした。
「……これは?」
「約束しろ。守ってくれなければ許さんぞ」
「ええと……何の約束かしら……?」
余裕ぶっていたヒジェだったが、この質問にはさすがに狼狽した。珍しく顔を紅く染めた彼は、小さな声で返事した。
「……それは……年末……共に過ごせということだな」
素直なヒジェに驚いたウォルファは、無邪気な笑顔で返すと自分の小指を彼の小指に絡めた。
「嘘ついたら禧嬪様に言いつけるぞ、指切った」
「そなた、なかなか怖いことを言うな……」
大妃様が崩御したことにより、オクチョンの昇格に異を唱えるものが居なくなり、彼女はついに側室の中で最高の位である嬪に就くことになったのだ。人々は皆、都合がよすぎると彼女とその背後につく南人の大妃暗殺を噂していたが、ウォルファはそんなことは信じていなかった。ふと、彼女は質問を口に出した。
「ねぇ、ヒジェ様。どうして私なの?」
「ん?」
「どうして、私を選んだの?」
彼女はずっと疑問に思っていた。だがヒジェの方が今回もやはり一枚上手だった。
「そういうウォルファは、どうなんだ?」
「えっ……それは……その……」
途端に耳まで真っ赤になった彼女は、心の中で呟いた。
───だって、ヒジェ様のことを……お慕いしているから。お側に居られるだけで、幸せだから。
それが彼女の本心だった。ところがヒジェは、まだ自分の気持ちにあまり気づいていなかった。
──私は所詮、独占したいのと所有欲だな。
所有欲と愛情の違いがわからない彼は、未だに本当に彼女のことを愛しく思っているのかが、気持ちのどこかではっきりしていなかった。だが少なくとも、毎度ウォルファはヒジェの生きる速度や考えを乱してくる。普通なら気にくわないところだが、何故か彼女ならばまぁ、いいかとなってしまう自分がいる。
「わかったわかった。私があまりにいい男過ぎて困るのだな?うんうん。良き良き。」
「なっ……本当に自分好きですね」
久しぶりに冗談を交えて笑う彼を見て、ますますウォルファは大妃様を彼が暗殺するなどありえないと確信した。そして、いつまでも彼がもう飽きたと言うその日まで、傍に居られたらどれ程幸せだろうかと想像した。そんな未来を夢見ながら従事官室を後にした彼女は、すっかり冬めいてきた空を見上げ、昼の月を眺めながら微笑んだ。
冬が、待ち遠しい冬が、もうすぐやって来る。そう感じさせる日だった。