1、二人の望み
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陽も傾き出した午後。 まだ納品がすべて完了していないにも関わらず、シン・ドンチャンは部下たちに仕事を一任して大行首室へ走り込んでいた。
「大行首様!」
「なんだ!騒々しい。問題か?」
ミン・ドンジュが顔をしかめながらそう尋ねた。だがそんなことはお構いなしに、両手一杯に抱えた報告書を一気に叩きつけると、トンチャンは満面の笑みで会釈した。
「では、これで帰らせていただきます」
「……は?」
「仕事はこれでお仕舞いですから、今日は帰ります!ではまた明日!お疲れさまでした!ご機嫌麗しゅう!」
明らかに楽しそうなトンチャンの様子を見て、ドンジュは目が点になった。それもそのはずだ。これが初めてではなく、ある日を境にずっとこの調子なのだ。
いずれ聞かねばならないな。そう思いながら、ドンジュは彼が置いていった書類の一枚目を手に取るのだった。
商団の通路を駆け抜けながら、トンチャンは適当に部下たちへの挨拶をこなしていた。その様子を見たチョンドンは、詮索もかねてわざと彼を引き留めた。
「兄貴!お帰りですか?」
すると、トンチャンは嫌そうな顔をしながらチョンドンを押し退けながら答えた。
「おう。邪魔だ」
「えっ?あっ、ちょっと兄貴!」
チョンドンが再び引き留める間も無く、トンチャンは商団を後にしてしまった。同じくヒャンユンたちから彼の調査を依頼されているマンスも、首をかしげている。
「なんなんですかね?兄貴」
「さぁ。でも……あの表情は……」
彼が一番人生において幸せだった時期と同じ顔をしていると言おうとしたチョンドンを遮るように、黒蝶団から潜入しているヨンソンが二人の頭を帳簿の角で叩いた。
「お前たち、仕事をしろ」
「ええっ!?ちょっと、ヨンソン兄貴!」
失笑を漏らしているヨンソンを見ながら、その理由がわからずチョンドンとマンスは再び首をかしげるのだった。
市場の人混みを縫いながら、トンチャンは通りを全力疾走していた。人混みを抜けてからは山道を息切れしながら駆け上がり、目的地につく頃にはすっかり夕方になっていた。
そんな風にしてたどり着いたのは、黒蝶団の本拠地だった。
「おう、ギョムか」
「また随分と走ってきたんだな。その体型だと汗もなかなか引かないだろう」
「まぁ、入団してからはちょっとだけ痩せたけどな」
トンチャンは苦笑いしながら、同じく護衛武士のギョムと談笑した。そしてそのまま部屋に入ると、置かれている黒蝶団の服に着替え始めた。蝶の刻印がされている鉢巻きを巻き、漆黒の武術服に着替えると、彼はその足で練習場へ向かった。
既にギョムを含めて数名の団員が来ており、皆それぞれの会話を楽しんでいた。団員の一人であるソジンが、トンチャンをあだ名で呼んだ。
「おっ、サス(韓国語で射手という意味)!」
「おう。元気か?」
ソジンはトンチャンの問いに、やや大袈裟にげんなりしながら答えた。
「これが元気に見えるか?普段は捕盗庁の下っ端武官なんだぞ?」
「よく抜けてこれたな」
「どうせ仕事はサボって部下に全部やらせてる質だろ」
「それは言わないって話だろ!」
短刀の手入れをしながら、団員の中では最も冷静なスンギが呟いた。トンチャンはそんなやり取りは置いておいてと言いたげに、一同に尋ねた。
「今日は何するんだ?」
「ええとな。今日はカン様もいないから、自主鍛練だとさ。お前、今夜の警護だったっけ?」
「ああ。別邸で団長の警護だ。明日が休みだから、たぶん別邸で寝る」
その話にソジンが食いついた。
「えっ!?別邸の警護なのか?いいなぁ、俺も警護がいい」
「なんでだよ」
「なんでもな、賄い飯が美味いらしい。」
賄い飯と聞いて、トンチャンの腹が鳴りそうになる。だが、それ以上にヒャンユンと二人きりになれる方が、彼の中ではご馳走なのだ。
そんな他愛もないやり取りを続けている中に、大きな包みを持ったヒャンユン──────ファン・ナビ団長が現れた。
「待ったかしら?」
「いえ!……その包み、どうされたんです?」
ヒャンユンは照れ臭そうに笑うと、包みを開いた。中から出てきたのは、焼き肉と握り飯とナムル、それからチヂミだった。
「素素樓の余った食材で作ってきたの。召し上がれ」
「いただきます、ナビさん!」
「いやぁ、美味いなぁ……」
皆が焼き肉に手を出している中、トンチャンはチヂミを両手にもって頬張っている。ヒャンユンはふわりと微笑んで、そっと彼の隣に何気なく留まった。
「……今夜、宜しくね」
「え、ええ」
団員ですら知らない二人の秘密。それは、二人が恋人同士であるということだった。両班の令嬢と平民の曰牌。そんな身分違いの恋は今まで以上に危険で甘い関係として、不思議と鼓動を速めていた。だからこそ、夜に行われる別邸の警護だけが二人の逢瀬の時間だった。
食事を終えると、団員たちはヒャンユンが見守るなかで鍛練を始めた。皆精鋭が集っている中でも、短期間とはいえカン・ソノに教えを授かったトンチャンの腕は別格だった。彼女は立ち上がると、一人ずつ剣の手合わせを始めた。最後に残ったトンチャンは、ヒャンユンに向き直ると不敵な笑みを向けた。
「手加減はしないから」
「俺も、心を盗む勢いで挑みますよ」
その一言にときめいた瞬間、既にトンチャンは剣を抜いて手合わせを始めていた。ヒャンユンも遅れをとらぬように鞘から半分ほど刃を出し、トンチャンの一振りを受け止めた。
一回りしながら鞘から完全に剣を抜くと、ヒャンユンは華麗に舞うような足取りで刃を繰り出した。一振りが重くて強いトンチャンと違って、ヒャンユンの一振りには粉雪が地に舞い落ちるような軽やかさがあった。それでいて予測のできない動き───初めて会ったときと同じ、蝶のような動きはトンチャンを予想以上に手こずらせた。それでも、トンチャンは幸せだった。端から見れば全うな手合わせでも、彼にとっては密かな戯れに隠した至福の一時なのだ。それがヒャンユンにとっても同じ意味を持つことを祈りながら、彼は剣を一閃して微笑んだ。
手合わせが終わり、トンチャンは今日あった出来事を報告すべく団長室へ向かった。ヒャンユンは大尹派の裏書きのある手形を帳簿にまとめたり、各方の密偵の報告に目を通していた。
「団長。トンチャンです」
その声が聞こえた瞬間、気だるそうなヒャンユンの瞳に光が差し込んだ。机に忍ばせた手鏡を取り出すと、彼女は自分の顔を一通り確認してさっと何事もなかったかのようにしまった。そして部屋に飛び込んできたトンチャンに対しては、他の部下に接するような態度で返事した。
「ああ、報告ならそちらに置いておいて。目を通しておく」
「え、あ……はい」
もっと恋人らしく甘い会話を楽しみにしていたトンチャンは、落胆を隠せずにいた。暫くの間床を眺めて何かを考えていた彼は、不意に思い付いたように笑みを溢して部屋を後にした。また良からぬことでも考え付いたのかと思いつつも、ヒャンユンはトンチャンの次の行動に興味を抱いた。
少しして、再びトンチャンの声が外から聞こえてきた。
「団長。トンチャンです」
ヒャンユンは首をかしげて顔をあげると、嬉しそうな彼の顔をまじまじと眺めた。
「あの……まだあることを忘れていました。では、置いておきますね」
「え、ええ。どうぞ」
報告書類をもう一通置いていったトンチャンは、足取り軽やかに再び部屋から出ていった。それからまたしばらくして、トンチャンがやって来た。ようやく魂胆に気づいたヒャンユンは、彼が部屋の戸を開けるより先に戸を開けた。思いがけない近さにトンチャンは息を飲んだ。
「……どういうつもり?」
「えっ、あっ……その……」
ヒャンユンが一歩踏み出すと、トンチャンが一歩下がる。初めて気まずくなったあの時と同じ状況に微笑むと、彼女は頬を赤らめて呟いた。
「……あと半時辰で終わりますから、弓場でお待ち下さい」
それを聞いたトンチャンの顔に、笑顔の花が満開に咲いた。
「はい!お待ちしております!」
今度こそ本当に部屋を後にしようとした彼の背に向かって、ヒャンユンは引き留めた。
「あの……二人でいるときは、今まで通りの話し方をして欲しいの…ですが」
「……いいのか?」
こくりとヒャンユンが小さく頷く。思いがけない望みに喜びを隠しきれなくなり、トンチャンは想い人を抱き締めた。
「わかったよ、ヒャンユン」
「トンチャン、愛してる」
「俺もだよ」
もっと近くに抱き寄せようとして肩に手を回した瞬間、ギョムが執務室に入室してきた。慌てて離れた二人は何事もなかったかのようにそっぽを向いたが、その口許は小さく甘い秘密に笑みを浮かべるのだった。
用事を全て片付け、トンチャンのためだけに選んだチマチョゴリに着替えたヒャンユンは弓場への道を急いだ。案の定、待ちくたびれたトンチャンは弓の手入れをしている。安心できる気配に気づいたトンチャンは、弓を置いて立ち上がって彼女の方に駆け寄ってきた。
「団長!」
「トンチャン……今までずっとここに?」
「ええ。あなたこそ、随分と早いじゃないですか」
「急いできたのよ。あなたに早く──」
「早く俺に逢いたくて?」
口許を緩めながら不敵に笑うトンチャンが憎らしくて、ヒャンユンはつい一言付け足した。
「……早く仕事を与えたくて」
それでもトンチャンは相変わらずの態度でヒャンユンに臨んだ。しかも今度は彼女の腰を抱き寄せて微笑みかけた。
「なっ……」
「お前が愛しくて堪らないよ。少し時間があるから、俺が弓でも教えてやるよ」
「結構です!……まぁ、共に射合うならいい……けど」
最初からこの答えを望んでいたと言わんばかりに笑うと、トンチャンはヒャンユンに弓を差し出した。
「じゃあ、お前のお手並み拝見と行くか」
「全く……どこまでもふてぶてしい人ね」
「そうじゃなきゃ禁断の恋なんて出来やしねぇよ」
トンチャンは冗談を溢しながらも、真剣な面持ちで弓を引いた。腕力では劣るヒャンユンが、これくらいは出来ると言いたげに矢を放つ。矢はまっすぐ飛び、ほぼ中心を貫いた。だがそのすぐ後を追うようにして放たれたトンチャンの矢の方が、遥かに正確さを極めているではないか。勝ち目はやはり無さそうだとすっかりしょげてしまったヒャンユンは、肩をすくめて恋人の方を見た。
「……尊敬するわ」
「お?俺の女が妥協していいのか?」
俺の女と言われて僅かに口許が綻んだヒャンユンだったが、すぐに小馬鹿にされていると気づいて口をへの字に曲げた。
「だって、あなたは弓矢にかけては天才よ。勝てるわけが──」
「だったら、俺が教えてやるよ」
その一言を言い終わるより前に、トンチャンの身体はヒャンユンのすぐ後ろにぴったりとくっついていた。驚きと恥じらいで呆然としている小さくて白い手に、大きくてたくましい自分の手を添えたトンチャンは、そのまま弓を共に引いた。耳許で囁きながら、彼はヒャンユンにコツを教えている。
「──力を抜いてみろ。そうだ、そのまま集中しろ」
この状況でどうやって集中しろと言うのか。ヒャンユンは幸福ともどかしさを同時に噛み締めながら、信じた位置で矢を射た。
矢は見事トンチャンのように中央を射抜いた。ヒャンユンは思わず飛び上がって後ろを向くと、一年前のように無邪気な姿で彼に抱きついた。
「やったぁ!出来たわ!みて!ほら!」
「だろ?やれば出来るんだよ」
とても嬉しそうなヒャンユンの姿を見て、トンチャンは不意に昔のことを思い出した。
「……お前にそうやってもう一度笑ってほしくて、俺はこちら側の人間になることを選んだんだ」
「トンチャン……」
ヒャンユンは思い人を見つめながら、その言葉の裏に隠された数々の傷と抱えきれない苦しみを感じ取った。そんなとき、ヒャンユンはいつもその痛みを感じようとしていた。すべてが終わるまで決して癒されることのない痛み。或いは終わっても癒しが来ることは永遠にないのかもしれない。それでもヒャンユンはトンチャンの背に頬を寄せ、目を閉じた。
「……あなたが私のせいで苦しむのは嫌。心が離れていくのも嫌。なのに同時に、傷ついてほしくないとも思ってる。私から離れるべきだとも思ってる」
ヒャンユンの頬を、涙が伝う。やっとのことで弱音を絞り出した彼女の感情は、もう止まらなかった。
「どうすればいいの?私は一体どうすれば?あなたともう離れたくない。一年前のように笑いたい。なのに……なのに……全てはもう戻らない気がしてならないの」
「ヒャンユン……」
大丈夫。必ず全部戻るから。そう言ってやりたいのに、何故か言葉が素直に出てこない。振り返ったトンチャンは、どうにもならない運命のせいで傷ついている愛する人を、ただ抱き締めてやることしかできない自分を責めた。
その様子を遠くから眺めていたカン・ソノは、苦々しい表情で拳を握りしめていた。出来ることなら今すぐチョン・ナンジョンやユン・ウォニョンの首を掻き切って、大罪に問われてでもヒャンユンを苦しみから解き放ってやりたかった。だが反ってそんな浅はかな計画は、負担になるだけだと彼自身もよくわかっていた。
だからこそ温めていた計画を実行するときが来た。トンチャンの腕の中で苦しみをぶつけるヒャンユンを見つめながら、ソノは決意を固めるのだった。
それが後に二人を窮地に追い込むとは知らず。
トンチャンと共に別邸に帰宅したヒャンユンを、チョヒは偶然にも目にした。親しげに笑い合い、冗談をいいながらも幸せそうに笑っているその人は間違いなくトンチャン──彼女の初恋の人だった。今までに一度も見せたことのない素顔を見せつけられ、無言の失恋をしたように感じて無意識のうちにチョヒは唇を噛み締めた。
「シン兄様……」
どうしようもなく辛くなって、チョヒは溢れそうな涙をやっとのことで押さえた。体探民の訓練が辛いときでも弱音を吐かなかったのに、どうして今日はこんなに弱いのだろうか。夕暮れ時に染まる空を見上げてチョヒは悟った。
まだ恋をしていたのだ、と。片時もあの人のことを忘れたことは無かったのだと。
「どうして……どうして……」
絶望が心を黒く塗りつぶした。ふと足元の池に映る自分を見て、彼女の絶望の色はますます深く染まった。
水面に映っていた自分は冴えない色の武術服を着ていて、トンチャンの愛する人は艶やかで誰もが羨む服を着ていた。髪もくくり上げ、手入れをしていない毛先はぼろぼろ。しかも久しぶりの再会も、男と間違えられたまま。自分が急に惨めに思えて、チョヒは泣いた。立ち尽くしたまま泣いた。
そんな彼女を見ていた人物が一人、門の柱に隠れてため息をついた。
「チョヒ……」
ソジンだった。手にはヒャンユンからの差し入れで貰った焼き肉が、一切手を付けていない状態で包まれている。彼は躊躇いながらも、少しだけ足を踏み出した。すぐにチョヒは気配に気づくと、慌てて涙を拭いて背後を振り返った。心の中には僅かにトンチャンではないかという希望が差していたが、すぐにそれは闇に閉ざされた。
「なんだ……ソジンだったのね」
「なんだ、って……いや、その……貰った差し入れを一緒に食べようと思ってさ」
別にいいと言おうとして、チョヒは焼き肉であることに匂いで察した。大好物に胃袋は逆らえず、彼女は首を小さく縦に振るのだった。
ものすごい勢いで焼き肉を平らげていくチョヒを眺めて腹を満たしてしまったソジンは、唖然としながらその食べっぷりを見ていた。不意に視線に気づき、チョヒは手を止めた。
「あ……」
「いや、全然気にしてないから。食べたいだけ食べたらいいよ」
またもや無言で頷くと、チョヒは食事を再開した。ソジンは微笑みながら彼女に尋ねた。
「美味しい?」
「うん。美味い」
「君らしい感想だよ、チョヒ」
その言葉に顔をあげたチョヒは、自信なさげにこう切り出した。
「……私、やっぱり女らしくないよね。食べ方も言葉遣いも、それに見た目も……」
「そんなことはない!」
言い終わる前に、慌ててソジンは否定した。不可解な空気がその場に流れる。
「チョヒは綺麗だよ。充分女性としての魅力があると思う。少なくとも、僕はそう思う」
無駄だとはわかっていたが、そう思うという部分にありったけの思慕を込めたソジンは満足げに笑いかけた。そんな彼を見て、ほんの僅かにチョヒも笑うのだった。
ヒャンユンはトンチャンが控える楼閣の縁側に並んで座っていた。小さな足とがっしりしたトンチャンの足が並んでいる様子を見て、不意に彼は昔のことを思い返した。
「覚えてるか?服を買ってやって、靴を履かせてやったこと」
「うん、覚えてる」
ヒャンユンは微笑むと、懐から蝶の髪飾りを取り出して眺めた。
「……挿さないのか?」
「だめ。今はまだ、何者でもないヒャンユンだから。あなたと共に時間を過ごした私じゃないから」
哀しげにそう言ったヒャンユンをしばらく見つめたトンチャンは、不意に彼女の手から髪飾りをとった。驚いたヒャンユンが顔をあげる。
「動くな。じっとしてろ」
そう言うと、トンチャンはヒャンユンがかつてしていたように彼女の頭に髪飾りを挿した。そして目を細めて笑った。
「うん、これでいい。少なくとも今は、俺と時間を共にして愛を捧げたお前になった」
「トンチャン……」
「お前が好きだよ。どんなお前でも、どんな運命になっても、お前が好きだ」
涙が込み上げてきそうになって、ヒャンユンは慌ててそっぽを向いた。それから少しして、小さな声で呟いた。
「……絵を、描きたい」
「いいんじゃないか?で、何を描くんだ?」
「────あなたの、絵。」
ヒャンユンはそう言うと、トンチャンの手を取って楼閣の床に座らせて向かい合った。どこからか持ってこさせた紙と筆が目の前に広げられ、二人の間の天の川となっている。
筆を執る前にヒャンユンは、今まで思い出すことでしか描くことのできなかった輪郭や頬を、もっとしっかり記憶に留めておきたいと思って指を添えた。ゆっくりと撫で降りていく感触に、トンチャンは息を呑んだ。男らしく頼もしい額、筋の通った綺麗な鼻、そして少しふっくらとした唇の順に触れていくと、今度は輪郭に両手で触れた。自分の鼓動が聞こえてしまいそうなくらいに跳ね上がっているトンチャンは、既に息を止めて視線を泳がせている。
「……動かないで」
「あ……はい」
口づけをしたい思いを必死で抑えて、トンチャンは耐えることしかできなかった。彼女の身体からは、昔と同じ良い香りがしていた。それだけが、既に大人の色香に包まれているヒャンユンがトンチャンの知る人として残した唯一の証だった。
気が済んだのか、トンチャンから離れて筆を執るとヒャンユンは迷いなく筆を走らせ始めた。緻密な細さで描き上がっていく自分の顔に感心したトンチャンは、その手慣れた筆さばきの中に空白の一年間を見た。
ヒャンユンは顔を上げて、目の前の愛する人を見つめた。今まで、見たくとも見ることができなかった人がそこに居た。これ以上に望むものはない。そんな想いが絵を埋めていった。
完成した絵をみて、トンチャンは描いている最中よりも大きなため息を漏らした。
「すごいなぁ……俺にそっくりだ」
「凡庸な顔が一番描きやすいのよ」
「凡庸?お前ってやつは……」
トンチャンは絵を置くと、照れ隠しに顔を背けているヒャンユンを捕まえた。背中から抱き締められた彼女は、泣きそうになるのを堪えて微笑んだ。
「ありがとう、ヒャンユン。お前が与えてくれたその全てが、俺の生きる意味だよ」
「トンチャン……この手を離さないと、約束してくれる?」
「当たり前だ。離すわけがない」
出来ない約束かもしれない。けれどトンチャンが言えば何故か、全てが実現する気がした。ヒャンユンは振り返って抱きつくと、彼を見上げて微笑んだ。
「大好き。トンチャン、あなたが大好き」
「俺もだよ、ヒャンユン。世界で一番、お前が好きだ」
ヒャンユンは満足げに立ち上がると、楼閣を降りてこう言った。
「ねぇ、私の護衛をしてくれる?」
「もちろん。何処に居ようとも守るぜ」
自信ありげなトンチャンが可笑しくて、ヒャンユンは笑った。声を上げて笑った。その笑い声は別邸中に響き、様子を見に来ていたイ・ジョンミョンとヨンフェにも届いていた。身分差のある者が妹に無礼な物の言い方をしているのを止めようとしているヨンフェを、ジョンミョンは片手で制した。
「父上!あの者は平民。しかも曰牌ですよ?」
「それでも構わん。あの子の幸せはどちらにせよ、こちら──両班の世界にはない」
「父上……」
「あの子の未来が不安でしかない。これから身分違いの恋に、どれ程傷つくことか……」
二人の恋人が見つめあい、微笑み合っている。たったそれだけで罪に問われる世の中に生きていることを、ジョンミョンは産まれて初めて息苦しいと思うのだった。
ヒャンユンは馬を持ち出してきて、トンチャンに遠乗りをしようとせがんでいた。困り果てたトンチャンは、ついに明け方には戻るという約束でヒャンユンを馬に乗せようとした。すると、彼女は先に乗るように促してきた。
「どうぞ。背中に掴まるわ」
「えぇ……?大丈夫か?」
「私を誰だと思ってるの?ヒャンユンよ」
ヒャンユンはチョングムの真似をしてみせると、笑顔でトンチャンを催促した。渋々先に鞍にまたがると、トンチャンは足をかけて無理矢理上ろうとするヒャンユンに無言で手を差し出した。少し考えてから、彼女は大きくてしっかりとした手を掴んで引き上げてもらうことにした。
「掴まってろよ」
「……わかってる」
馬の腹を蹴ると、トンチャンは背中にヒャンユンの感触を感じながら馬を走らせた。風をきって走り抜ける感覚に、ヒャンユンは目を閉じて身を委ねている。
トンチャンが選んだ場所は、都を見下ろす高台にある丘だった。ヒャンユンを降ろすと、二人は草の上に並んで腰かけた。
「あぁ、気持ちよかった。頬にあんな速さで風が過るなんて」
「普通、女の子は馬になんて乗らないもんな」
「じゃあ、今日のことは一生忘れない。あなたの背中にしがみついていられたことも、風で頬が冷えたこの感覚も。覚えておくわ」
視線を景色の方に戻したヒャンユンは、トンチャンの肩に頭をもたせかけた。少しずつ、夜が明けていく。
「なぁ、ヒャンユン」
「なぁに?」
「俺、お前の傍に居られて本当に良かったよ」
「何よ、急に。これからもずっと一緒よ」
「ああ。そうしたいよ」
何気ないこの会話に隠されたトンチャンの決意を知るのは、ヒャンユンにはまだ少し先の話である。ふと、二人が眺める夜明けの空を流れ星が横切った。
「あっ……流れ星!」
「馬鹿。願い事をするんだよ」
「速すぎるもん。無理よ」
ヒャンユンが膨れっ面をしていると、また一筋流れた。二人は慌てて目を閉じると、思い思いの願い事を星に込めた。
『──トンチャンが長生きすることができますように。そして出来ることなら、この人と一生涯添い遂げられますように』
『──ヒャンユンの人生に、今まで苦労した分だけ幸せが溢れますように。たとえそこに、俺が居なくとも』
二つの願いが空に吸い込まれていく。新しい一日が、もうすぐそこに来ていた。
「大行首様!」
「なんだ!騒々しい。問題か?」
ミン・ドンジュが顔をしかめながらそう尋ねた。だがそんなことはお構いなしに、両手一杯に抱えた報告書を一気に叩きつけると、トンチャンは満面の笑みで会釈した。
「では、これで帰らせていただきます」
「……は?」
「仕事はこれでお仕舞いですから、今日は帰ります!ではまた明日!お疲れさまでした!ご機嫌麗しゅう!」
明らかに楽しそうなトンチャンの様子を見て、ドンジュは目が点になった。それもそのはずだ。これが初めてではなく、ある日を境にずっとこの調子なのだ。
いずれ聞かねばならないな。そう思いながら、ドンジュは彼が置いていった書類の一枚目を手に取るのだった。
商団の通路を駆け抜けながら、トンチャンは適当に部下たちへの挨拶をこなしていた。その様子を見たチョンドンは、詮索もかねてわざと彼を引き留めた。
「兄貴!お帰りですか?」
すると、トンチャンは嫌そうな顔をしながらチョンドンを押し退けながら答えた。
「おう。邪魔だ」
「えっ?あっ、ちょっと兄貴!」
チョンドンが再び引き留める間も無く、トンチャンは商団を後にしてしまった。同じくヒャンユンたちから彼の調査を依頼されているマンスも、首をかしげている。
「なんなんですかね?兄貴」
「さぁ。でも……あの表情は……」
彼が一番人生において幸せだった時期と同じ顔をしていると言おうとしたチョンドンを遮るように、黒蝶団から潜入しているヨンソンが二人の頭を帳簿の角で叩いた。
「お前たち、仕事をしろ」
「ええっ!?ちょっと、ヨンソン兄貴!」
失笑を漏らしているヨンソンを見ながら、その理由がわからずチョンドンとマンスは再び首をかしげるのだった。
市場の人混みを縫いながら、トンチャンは通りを全力疾走していた。人混みを抜けてからは山道を息切れしながら駆け上がり、目的地につく頃にはすっかり夕方になっていた。
そんな風にしてたどり着いたのは、黒蝶団の本拠地だった。
「おう、ギョムか」
「また随分と走ってきたんだな。その体型だと汗もなかなか引かないだろう」
「まぁ、入団してからはちょっとだけ痩せたけどな」
トンチャンは苦笑いしながら、同じく護衛武士のギョムと談笑した。そしてそのまま部屋に入ると、置かれている黒蝶団の服に着替え始めた。蝶の刻印がされている鉢巻きを巻き、漆黒の武術服に着替えると、彼はその足で練習場へ向かった。
既にギョムを含めて数名の団員が来ており、皆それぞれの会話を楽しんでいた。団員の一人であるソジンが、トンチャンをあだ名で呼んだ。
「おっ、サス(韓国語で射手という意味)!」
「おう。元気か?」
ソジンはトンチャンの問いに、やや大袈裟にげんなりしながら答えた。
「これが元気に見えるか?普段は捕盗庁の下っ端武官なんだぞ?」
「よく抜けてこれたな」
「どうせ仕事はサボって部下に全部やらせてる質だろ」
「それは言わないって話だろ!」
短刀の手入れをしながら、団員の中では最も冷静なスンギが呟いた。トンチャンはそんなやり取りは置いておいてと言いたげに、一同に尋ねた。
「今日は何するんだ?」
「ええとな。今日はカン様もいないから、自主鍛練だとさ。お前、今夜の警護だったっけ?」
「ああ。別邸で団長の警護だ。明日が休みだから、たぶん別邸で寝る」
その話にソジンが食いついた。
「えっ!?別邸の警護なのか?いいなぁ、俺も警護がいい」
「なんでだよ」
「なんでもな、賄い飯が美味いらしい。」
賄い飯と聞いて、トンチャンの腹が鳴りそうになる。だが、それ以上にヒャンユンと二人きりになれる方が、彼の中ではご馳走なのだ。
そんな他愛もないやり取りを続けている中に、大きな包みを持ったヒャンユン──────ファン・ナビ団長が現れた。
「待ったかしら?」
「いえ!……その包み、どうされたんです?」
ヒャンユンは照れ臭そうに笑うと、包みを開いた。中から出てきたのは、焼き肉と握り飯とナムル、それからチヂミだった。
「素素樓の余った食材で作ってきたの。召し上がれ」
「いただきます、ナビさん!」
「いやぁ、美味いなぁ……」
皆が焼き肉に手を出している中、トンチャンはチヂミを両手にもって頬張っている。ヒャンユンはふわりと微笑んで、そっと彼の隣に何気なく留まった。
「……今夜、宜しくね」
「え、ええ」
団員ですら知らない二人の秘密。それは、二人が恋人同士であるということだった。両班の令嬢と平民の曰牌。そんな身分違いの恋は今まで以上に危険で甘い関係として、不思議と鼓動を速めていた。だからこそ、夜に行われる別邸の警護だけが二人の逢瀬の時間だった。
食事を終えると、団員たちはヒャンユンが見守るなかで鍛練を始めた。皆精鋭が集っている中でも、短期間とはいえカン・ソノに教えを授かったトンチャンの腕は別格だった。彼女は立ち上がると、一人ずつ剣の手合わせを始めた。最後に残ったトンチャンは、ヒャンユンに向き直ると不敵な笑みを向けた。
「手加減はしないから」
「俺も、心を盗む勢いで挑みますよ」
その一言にときめいた瞬間、既にトンチャンは剣を抜いて手合わせを始めていた。ヒャンユンも遅れをとらぬように鞘から半分ほど刃を出し、トンチャンの一振りを受け止めた。
一回りしながら鞘から完全に剣を抜くと、ヒャンユンは華麗に舞うような足取りで刃を繰り出した。一振りが重くて強いトンチャンと違って、ヒャンユンの一振りには粉雪が地に舞い落ちるような軽やかさがあった。それでいて予測のできない動き───初めて会ったときと同じ、蝶のような動きはトンチャンを予想以上に手こずらせた。それでも、トンチャンは幸せだった。端から見れば全うな手合わせでも、彼にとっては密かな戯れに隠した至福の一時なのだ。それがヒャンユンにとっても同じ意味を持つことを祈りながら、彼は剣を一閃して微笑んだ。
手合わせが終わり、トンチャンは今日あった出来事を報告すべく団長室へ向かった。ヒャンユンは大尹派の裏書きのある手形を帳簿にまとめたり、各方の密偵の報告に目を通していた。
「団長。トンチャンです」
その声が聞こえた瞬間、気だるそうなヒャンユンの瞳に光が差し込んだ。机に忍ばせた手鏡を取り出すと、彼女は自分の顔を一通り確認してさっと何事もなかったかのようにしまった。そして部屋に飛び込んできたトンチャンに対しては、他の部下に接するような態度で返事した。
「ああ、報告ならそちらに置いておいて。目を通しておく」
「え、あ……はい」
もっと恋人らしく甘い会話を楽しみにしていたトンチャンは、落胆を隠せずにいた。暫くの間床を眺めて何かを考えていた彼は、不意に思い付いたように笑みを溢して部屋を後にした。また良からぬことでも考え付いたのかと思いつつも、ヒャンユンはトンチャンの次の行動に興味を抱いた。
少しして、再びトンチャンの声が外から聞こえてきた。
「団長。トンチャンです」
ヒャンユンは首をかしげて顔をあげると、嬉しそうな彼の顔をまじまじと眺めた。
「あの……まだあることを忘れていました。では、置いておきますね」
「え、ええ。どうぞ」
報告書類をもう一通置いていったトンチャンは、足取り軽やかに再び部屋から出ていった。それからまたしばらくして、トンチャンがやって来た。ようやく魂胆に気づいたヒャンユンは、彼が部屋の戸を開けるより先に戸を開けた。思いがけない近さにトンチャンは息を飲んだ。
「……どういうつもり?」
「えっ、あっ……その……」
ヒャンユンが一歩踏み出すと、トンチャンが一歩下がる。初めて気まずくなったあの時と同じ状況に微笑むと、彼女は頬を赤らめて呟いた。
「……あと半時辰で終わりますから、弓場でお待ち下さい」
それを聞いたトンチャンの顔に、笑顔の花が満開に咲いた。
「はい!お待ちしております!」
今度こそ本当に部屋を後にしようとした彼の背に向かって、ヒャンユンは引き留めた。
「あの……二人でいるときは、今まで通りの話し方をして欲しいの…ですが」
「……いいのか?」
こくりとヒャンユンが小さく頷く。思いがけない望みに喜びを隠しきれなくなり、トンチャンは想い人を抱き締めた。
「わかったよ、ヒャンユン」
「トンチャン、愛してる」
「俺もだよ」
もっと近くに抱き寄せようとして肩に手を回した瞬間、ギョムが執務室に入室してきた。慌てて離れた二人は何事もなかったかのようにそっぽを向いたが、その口許は小さく甘い秘密に笑みを浮かべるのだった。
用事を全て片付け、トンチャンのためだけに選んだチマチョゴリに着替えたヒャンユンは弓場への道を急いだ。案の定、待ちくたびれたトンチャンは弓の手入れをしている。安心できる気配に気づいたトンチャンは、弓を置いて立ち上がって彼女の方に駆け寄ってきた。
「団長!」
「トンチャン……今までずっとここに?」
「ええ。あなたこそ、随分と早いじゃないですか」
「急いできたのよ。あなたに早く──」
「早く俺に逢いたくて?」
口許を緩めながら不敵に笑うトンチャンが憎らしくて、ヒャンユンはつい一言付け足した。
「……早く仕事を与えたくて」
それでもトンチャンは相変わらずの態度でヒャンユンに臨んだ。しかも今度は彼女の腰を抱き寄せて微笑みかけた。
「なっ……」
「お前が愛しくて堪らないよ。少し時間があるから、俺が弓でも教えてやるよ」
「結構です!……まぁ、共に射合うならいい……けど」
最初からこの答えを望んでいたと言わんばかりに笑うと、トンチャンはヒャンユンに弓を差し出した。
「じゃあ、お前のお手並み拝見と行くか」
「全く……どこまでもふてぶてしい人ね」
「そうじゃなきゃ禁断の恋なんて出来やしねぇよ」
トンチャンは冗談を溢しながらも、真剣な面持ちで弓を引いた。腕力では劣るヒャンユンが、これくらいは出来ると言いたげに矢を放つ。矢はまっすぐ飛び、ほぼ中心を貫いた。だがそのすぐ後を追うようにして放たれたトンチャンの矢の方が、遥かに正確さを極めているではないか。勝ち目はやはり無さそうだとすっかりしょげてしまったヒャンユンは、肩をすくめて恋人の方を見た。
「……尊敬するわ」
「お?俺の女が妥協していいのか?」
俺の女と言われて僅かに口許が綻んだヒャンユンだったが、すぐに小馬鹿にされていると気づいて口をへの字に曲げた。
「だって、あなたは弓矢にかけては天才よ。勝てるわけが──」
「だったら、俺が教えてやるよ」
その一言を言い終わるより前に、トンチャンの身体はヒャンユンのすぐ後ろにぴったりとくっついていた。驚きと恥じらいで呆然としている小さくて白い手に、大きくてたくましい自分の手を添えたトンチャンは、そのまま弓を共に引いた。耳許で囁きながら、彼はヒャンユンにコツを教えている。
「──力を抜いてみろ。そうだ、そのまま集中しろ」
この状況でどうやって集中しろと言うのか。ヒャンユンは幸福ともどかしさを同時に噛み締めながら、信じた位置で矢を射た。
矢は見事トンチャンのように中央を射抜いた。ヒャンユンは思わず飛び上がって後ろを向くと、一年前のように無邪気な姿で彼に抱きついた。
「やったぁ!出来たわ!みて!ほら!」
「だろ?やれば出来るんだよ」
とても嬉しそうなヒャンユンの姿を見て、トンチャンは不意に昔のことを思い出した。
「……お前にそうやってもう一度笑ってほしくて、俺はこちら側の人間になることを選んだんだ」
「トンチャン……」
ヒャンユンは思い人を見つめながら、その言葉の裏に隠された数々の傷と抱えきれない苦しみを感じ取った。そんなとき、ヒャンユンはいつもその痛みを感じようとしていた。すべてが終わるまで決して癒されることのない痛み。或いは終わっても癒しが来ることは永遠にないのかもしれない。それでもヒャンユンはトンチャンの背に頬を寄せ、目を閉じた。
「……あなたが私のせいで苦しむのは嫌。心が離れていくのも嫌。なのに同時に、傷ついてほしくないとも思ってる。私から離れるべきだとも思ってる」
ヒャンユンの頬を、涙が伝う。やっとのことで弱音を絞り出した彼女の感情は、もう止まらなかった。
「どうすればいいの?私は一体どうすれば?あなたともう離れたくない。一年前のように笑いたい。なのに……なのに……全てはもう戻らない気がしてならないの」
「ヒャンユン……」
大丈夫。必ず全部戻るから。そう言ってやりたいのに、何故か言葉が素直に出てこない。振り返ったトンチャンは、どうにもならない運命のせいで傷ついている愛する人を、ただ抱き締めてやることしかできない自分を責めた。
その様子を遠くから眺めていたカン・ソノは、苦々しい表情で拳を握りしめていた。出来ることなら今すぐチョン・ナンジョンやユン・ウォニョンの首を掻き切って、大罪に問われてでもヒャンユンを苦しみから解き放ってやりたかった。だが反ってそんな浅はかな計画は、負担になるだけだと彼自身もよくわかっていた。
だからこそ温めていた計画を実行するときが来た。トンチャンの腕の中で苦しみをぶつけるヒャンユンを見つめながら、ソノは決意を固めるのだった。
それが後に二人を窮地に追い込むとは知らず。
トンチャンと共に別邸に帰宅したヒャンユンを、チョヒは偶然にも目にした。親しげに笑い合い、冗談をいいながらも幸せそうに笑っているその人は間違いなくトンチャン──彼女の初恋の人だった。今までに一度も見せたことのない素顔を見せつけられ、無言の失恋をしたように感じて無意識のうちにチョヒは唇を噛み締めた。
「シン兄様……」
どうしようもなく辛くなって、チョヒは溢れそうな涙をやっとのことで押さえた。体探民の訓練が辛いときでも弱音を吐かなかったのに、どうして今日はこんなに弱いのだろうか。夕暮れ時に染まる空を見上げてチョヒは悟った。
まだ恋をしていたのだ、と。片時もあの人のことを忘れたことは無かったのだと。
「どうして……どうして……」
絶望が心を黒く塗りつぶした。ふと足元の池に映る自分を見て、彼女の絶望の色はますます深く染まった。
水面に映っていた自分は冴えない色の武術服を着ていて、トンチャンの愛する人は艶やかで誰もが羨む服を着ていた。髪もくくり上げ、手入れをしていない毛先はぼろぼろ。しかも久しぶりの再会も、男と間違えられたまま。自分が急に惨めに思えて、チョヒは泣いた。立ち尽くしたまま泣いた。
そんな彼女を見ていた人物が一人、門の柱に隠れてため息をついた。
「チョヒ……」
ソジンだった。手にはヒャンユンからの差し入れで貰った焼き肉が、一切手を付けていない状態で包まれている。彼は躊躇いながらも、少しだけ足を踏み出した。すぐにチョヒは気配に気づくと、慌てて涙を拭いて背後を振り返った。心の中には僅かにトンチャンではないかという希望が差していたが、すぐにそれは闇に閉ざされた。
「なんだ……ソジンだったのね」
「なんだ、って……いや、その……貰った差し入れを一緒に食べようと思ってさ」
別にいいと言おうとして、チョヒは焼き肉であることに匂いで察した。大好物に胃袋は逆らえず、彼女は首を小さく縦に振るのだった。
ものすごい勢いで焼き肉を平らげていくチョヒを眺めて腹を満たしてしまったソジンは、唖然としながらその食べっぷりを見ていた。不意に視線に気づき、チョヒは手を止めた。
「あ……」
「いや、全然気にしてないから。食べたいだけ食べたらいいよ」
またもや無言で頷くと、チョヒは食事を再開した。ソジンは微笑みながら彼女に尋ねた。
「美味しい?」
「うん。美味い」
「君らしい感想だよ、チョヒ」
その言葉に顔をあげたチョヒは、自信なさげにこう切り出した。
「……私、やっぱり女らしくないよね。食べ方も言葉遣いも、それに見た目も……」
「そんなことはない!」
言い終わる前に、慌ててソジンは否定した。不可解な空気がその場に流れる。
「チョヒは綺麗だよ。充分女性としての魅力があると思う。少なくとも、僕はそう思う」
無駄だとはわかっていたが、そう思うという部分にありったけの思慕を込めたソジンは満足げに笑いかけた。そんな彼を見て、ほんの僅かにチョヒも笑うのだった。
ヒャンユンはトンチャンが控える楼閣の縁側に並んで座っていた。小さな足とがっしりしたトンチャンの足が並んでいる様子を見て、不意に彼は昔のことを思い返した。
「覚えてるか?服を買ってやって、靴を履かせてやったこと」
「うん、覚えてる」
ヒャンユンは微笑むと、懐から蝶の髪飾りを取り出して眺めた。
「……挿さないのか?」
「だめ。今はまだ、何者でもないヒャンユンだから。あなたと共に時間を過ごした私じゃないから」
哀しげにそう言ったヒャンユンをしばらく見つめたトンチャンは、不意に彼女の手から髪飾りをとった。驚いたヒャンユンが顔をあげる。
「動くな。じっとしてろ」
そう言うと、トンチャンはヒャンユンがかつてしていたように彼女の頭に髪飾りを挿した。そして目を細めて笑った。
「うん、これでいい。少なくとも今は、俺と時間を共にして愛を捧げたお前になった」
「トンチャン……」
「お前が好きだよ。どんなお前でも、どんな運命になっても、お前が好きだ」
涙が込み上げてきそうになって、ヒャンユンは慌ててそっぽを向いた。それから少しして、小さな声で呟いた。
「……絵を、描きたい」
「いいんじゃないか?で、何を描くんだ?」
「────あなたの、絵。」
ヒャンユンはそう言うと、トンチャンの手を取って楼閣の床に座らせて向かい合った。どこからか持ってこさせた紙と筆が目の前に広げられ、二人の間の天の川となっている。
筆を執る前にヒャンユンは、今まで思い出すことでしか描くことのできなかった輪郭や頬を、もっとしっかり記憶に留めておきたいと思って指を添えた。ゆっくりと撫で降りていく感触に、トンチャンは息を呑んだ。男らしく頼もしい額、筋の通った綺麗な鼻、そして少しふっくらとした唇の順に触れていくと、今度は輪郭に両手で触れた。自分の鼓動が聞こえてしまいそうなくらいに跳ね上がっているトンチャンは、既に息を止めて視線を泳がせている。
「……動かないで」
「あ……はい」
口づけをしたい思いを必死で抑えて、トンチャンは耐えることしかできなかった。彼女の身体からは、昔と同じ良い香りがしていた。それだけが、既に大人の色香に包まれているヒャンユンがトンチャンの知る人として残した唯一の証だった。
気が済んだのか、トンチャンから離れて筆を執るとヒャンユンは迷いなく筆を走らせ始めた。緻密な細さで描き上がっていく自分の顔に感心したトンチャンは、その手慣れた筆さばきの中に空白の一年間を見た。
ヒャンユンは顔を上げて、目の前の愛する人を見つめた。今まで、見たくとも見ることができなかった人がそこに居た。これ以上に望むものはない。そんな想いが絵を埋めていった。
完成した絵をみて、トンチャンは描いている最中よりも大きなため息を漏らした。
「すごいなぁ……俺にそっくりだ」
「凡庸な顔が一番描きやすいのよ」
「凡庸?お前ってやつは……」
トンチャンは絵を置くと、照れ隠しに顔を背けているヒャンユンを捕まえた。背中から抱き締められた彼女は、泣きそうになるのを堪えて微笑んだ。
「ありがとう、ヒャンユン。お前が与えてくれたその全てが、俺の生きる意味だよ」
「トンチャン……この手を離さないと、約束してくれる?」
「当たり前だ。離すわけがない」
出来ない約束かもしれない。けれどトンチャンが言えば何故か、全てが実現する気がした。ヒャンユンは振り返って抱きつくと、彼を見上げて微笑んだ。
「大好き。トンチャン、あなたが大好き」
「俺もだよ、ヒャンユン。世界で一番、お前が好きだ」
ヒャンユンは満足げに立ち上がると、楼閣を降りてこう言った。
「ねぇ、私の護衛をしてくれる?」
「もちろん。何処に居ようとも守るぜ」
自信ありげなトンチャンが可笑しくて、ヒャンユンは笑った。声を上げて笑った。その笑い声は別邸中に響き、様子を見に来ていたイ・ジョンミョンとヨンフェにも届いていた。身分差のある者が妹に無礼な物の言い方をしているのを止めようとしているヨンフェを、ジョンミョンは片手で制した。
「父上!あの者は平民。しかも曰牌ですよ?」
「それでも構わん。あの子の幸せはどちらにせよ、こちら──両班の世界にはない」
「父上……」
「あの子の未来が不安でしかない。これから身分違いの恋に、どれ程傷つくことか……」
二人の恋人が見つめあい、微笑み合っている。たったそれだけで罪に問われる世の中に生きていることを、ジョンミョンは産まれて初めて息苦しいと思うのだった。
ヒャンユンは馬を持ち出してきて、トンチャンに遠乗りをしようとせがんでいた。困り果てたトンチャンは、ついに明け方には戻るという約束でヒャンユンを馬に乗せようとした。すると、彼女は先に乗るように促してきた。
「どうぞ。背中に掴まるわ」
「えぇ……?大丈夫か?」
「私を誰だと思ってるの?ヒャンユンよ」
ヒャンユンはチョングムの真似をしてみせると、笑顔でトンチャンを催促した。渋々先に鞍にまたがると、トンチャンは足をかけて無理矢理上ろうとするヒャンユンに無言で手を差し出した。少し考えてから、彼女は大きくてしっかりとした手を掴んで引き上げてもらうことにした。
「掴まってろよ」
「……わかってる」
馬の腹を蹴ると、トンチャンは背中にヒャンユンの感触を感じながら馬を走らせた。風をきって走り抜ける感覚に、ヒャンユンは目を閉じて身を委ねている。
トンチャンが選んだ場所は、都を見下ろす高台にある丘だった。ヒャンユンを降ろすと、二人は草の上に並んで腰かけた。
「あぁ、気持ちよかった。頬にあんな速さで風が過るなんて」
「普通、女の子は馬になんて乗らないもんな」
「じゃあ、今日のことは一生忘れない。あなたの背中にしがみついていられたことも、風で頬が冷えたこの感覚も。覚えておくわ」
視線を景色の方に戻したヒャンユンは、トンチャンの肩に頭をもたせかけた。少しずつ、夜が明けていく。
「なぁ、ヒャンユン」
「なぁに?」
「俺、お前の傍に居られて本当に良かったよ」
「何よ、急に。これからもずっと一緒よ」
「ああ。そうしたいよ」
何気ないこの会話に隠されたトンチャンの決意を知るのは、ヒャンユンにはまだ少し先の話である。ふと、二人が眺める夜明けの空を流れ星が横切った。
「あっ……流れ星!」
「馬鹿。願い事をするんだよ」
「速すぎるもん。無理よ」
ヒャンユンが膨れっ面をしていると、また一筋流れた。二人は慌てて目を閉じると、思い思いの願い事を星に込めた。
『──トンチャンが長生きすることができますように。そして出来ることなら、この人と一生涯添い遂げられますように』
『──ヒャンユンの人生に、今まで苦労した分だけ幸せが溢れますように。たとえそこに、俺が居なくとも』
二つの願いが空に吸い込まれていく。新しい一日が、もうすぐそこに来ていた。